第十死:崩壊
「嘘つき」
ああ
分かっている。
俺は卑怯で下司な嘘つきな野郎だ。
「助けてくれるって言ったのに」
ああ
でも俺は君を騙した。
もう何が望みで何がしたいのか分からない。
俺は・・・。
コンコン。
控えめなノックの音で遥は薄く瞳を開けた。
朝日が差し込む部屋で遥は虚ろに起き上がった。
「遥君?ああ、起きた?って大丈夫?顔色悪いけど」
「・・・え、ああ・・・大丈夫」
「大丈夫って・・・本当に?」
「あ、着替えてすぐ行くよ」
「あ・・・うん」
起き上がり、制服を手に取る遥を見て怪訝そうにした円だったが、すぐにドアを閉めた。
円の用意したハムエッグとトーストを無理やり喉に押し込む。
はっきり言って食欲は皆無だった。
何もかもがどうでもいいような虚無感。
「遥君?だ、大丈夫?」
「なにが?」
「・・・なにがって・・・」
鬱陶しかった。
円が。
何故円はいつまでも遥の傍にいるんだろうか?
もう、兄は戻らないと言うのに。
心が壊れるほどの闇が遥を苛む。
「円さん」
「え、何?」
何を言うつもりなのか自分でも分からなかった。
ただ、何故か遥は円が邪魔な存在とも思えた。
「もう、大丈夫だから」
「え・・・?」
「円さんは、円さんの人生を歩くべきだよ。兄貴もそう思うはずだよ」
「・・・え」
心配してもらえる権利は無い。
愛される価値も無い。
どうしようもない嫌悪感が遥の中に芽生えていた。
「な、に?どうしたの?遥・・くん?」
「いい加減家族ごっこはやめてくれ」
無意識にも思える言葉が吐いて出る。
最低だ。
俺は最低な人間だった。
「っ・・・」
この世の終わりと思われるほどに円は悲しそうな顔をした。
その表情が遥の心を抉る。
しかし今はその苦痛こそが遥にとっては心地良いほどだった。
「ど、うしたっていうの・・・遥・・・くん」
「いい加減にしようよ、円さん。こんなこと続けて何になる?意味なんて無い。もっと早く言うべきだった・・・俺は・・・一人でも大丈夫だから」
「私・・・私は―――」
円が反論する前に遥は口を開く。
最低でどうしようもないほどに下司な言葉を。
「それとも俺は兄貴の代わり?」
「―――――っ」
悲鳴にも似た反応がこの家を凍りつかせた。
もう、どうしようもないほど修復も出来ない関係だろう。
遥は円を傷つけた。
腐りきった自分の心が許せなかった。
円を傷つける必要など何処にも無かったはずなのに。
「・・・っ・・・」
声を凝らして泣いている円を見て遥は自分自身を殺してやりたくて仕方が無かった。
もう、円はコノ家にくることはないだろう。
遥は漠然にそう思う。
ゆっくりと席を立ち、円を振り向くことなく遥は声をかけた。
「さよなら、円さん」
遥は学校へと急ぐ、別段遅刻するとも思えない時間帯だが、一つ確認したいことがあったからだ。まだ人のまばらな校内で3階を目指した。
上級生がちらほらと廊下に出て話しているのを見つけ、遥は見知った顔を見つけ近づいた。
「緑先輩」
「ん?あら、遥くんどしたの?私に何か用なの?」
橘 緑
優しげな瞳に微笑みを絶やさない顔。
セミロングの髪は絹のように滑らかで少し栗色掛かっている。
おっとりとした人で、遥とは中学の頃からの知り合いだった。
出会いは雨の日だった。
彼女はその日傘もささないで人のいない校庭で立ち尽くしていた。
後から聞いた話ではその日好きな人に振られたのだそうだ。
遥は偶然とはいえ夜更かししたせいでホームルーム中に寝てしまい、とっくに下校時間を過ぎ去った時間に目を覚ました。
遥が急いで下駄箱に走ると、そこに校庭に立ち尽くす緑の姿を見つけた。
「何・・・してるの?」
不意にさしかけられた傘と遥の声に驚いて振り返った。
緑はびしょ濡れになった体を抱えるように切ない微笑みを浮かべた。
「傘・・・忘れちゃって」
遥は薄く笑って、一緒に帰ろうと言った。
その変な出会いから緑と遥は次第に話しかけだす間柄となり、緑が卒業するころには友人といえる間柄になっていた。
「緑先輩に聞きたいことあって」
「ん?うん、何?」
「3年生にさ、花斑 燕って人いる?」
「え?はなぶち・・・つばめ?さぁ・・・聞いたこと・・・ないなぁ。この学年なの?」
それで分かったとでも言いたげに遥は笑った。
「まぁ、ちょっと気になってただけ。ありがとう緑先輩」
「そう?役に立てなくてごめんね?」
遥は踵を返して教室に向う。
「遥くん、今度家においで、またケーキ焼いたげるからね」
遥の背中に緑の声がかかり、遥は顔だけ向けて微笑んで頷いた。
階段を下り教室に着くとまだ時間が早いらしく、教室内には一人しかいなかった。
「あ・・・高野君・・・は、はやいね」
「ん・・・おはよう、早瀬さん」
「お、おお、おはよう!」
どもりながら声を掛けてきたのは
早瀬 悠里
遥のクラスの委員長である。
薄い栗色の淡い髪は腰ほどまで伸びており、耳の上あたりを可愛らしくリボンで結んでいる。
幼い顔をしてはいるが、時折見せる大人びた微笑が男心を掴んで離さないほどの魅力の持ち主である。
特に仲良しというわけではないが、誕生日やバレンタインではプレゼントを貰ったことがある。それが、好意なのか義理なのかは遥には判別つかない。
「どうしたの?今日は早いんだね」
「ああ、ちょっと用事があってね」
適当に話をあわせるが、今の精神状態ではいつ人を傷つけてしまうか分からない。
どうせなら誰にも話しかけて欲しくは無かった。
しかし、遥は根暗でもなければ友好関係が無いわけではない。
ましてや友好関係のほうが幅広いのだ。
一日中話しかけられることはあっても、話しかけられないことはないだろう。
「え・・・と・・・あ、き、今日の数学の宿題出来た?」
「ん・・・あー・・・やってないな。すっかり忘れてたよ」
「も、もしよかったら・・・写す?当てられたら大変でしょ?」
「ああ、助かるなぁ・・・さんきゅっす」
話題を必死で探すような悠里に適当に合わせる会話。
遥にとって何よりも疲れる作業にほかならなかった。
甲斐甲斐しく悠里はノートを取り出してそのページを開いて遥の机まで持ってくる。
「はい、ここだよ。あ、間違ってたらごめんね?」
ぺろっと舌をだして言う悠里に曖昧に笑う。
正直どうでもいいことだった。
宿題を忘れ、教師に怒鳴られようと別段遥にとってどうでもいいことだったのだ。
ノートを写しながらぼうっと物思いに耽る。
遥の心を侵食しているのはやはり三咲の事件だった。
覚悟していたはずだった。
そのつもりだった。
兄を殺した犯人は許すつもりは無いし、殺してくれるなら喜んでそうしてもらう。
だが、あの少女は何の悪も行っていない。
それが遥の心をボロボロにしていく。
ただ、彼女は普通に歩きたかった。
ただ、彼女は普通に生きたかった。
ただ、それだけ。
どうして、彼女は死ななければならなかったなどと思うことはない。
それは運命だった。
仕方の無いことだった。
だが・・・遥は彼女に嘘を吐いた。
助けてやると。
生かしてやると。
そう言った。
そうしなければ彼女の魂は混濁していった。
だから嘘を吐いた。
そうしなければ彼女の魂を狩れないから。
だから嘘を吐いた。
許せないのは自分の浅ましさ。
「・・くん」
「・・のくん」
「高野君!」
いつから話しかけられていたのか分からないが随分呼びかけられていたらしい。
悠里は少し息を荒くしていた。
「わりぃ、ぼーっとしてた」
「あは、高野君?ノート全部写し終わってるのに今度は教科書の文字写してるんだもん」
「あー・・・ほんとだ。あ、ノートありがとう」
「ううん。お安い御用だよぅ」
ノートを受け取っても自分の席に戻ることなくどこかもじもじとした感じで、顔を赤らめている悠里に遥は嫌な予感を感じていた。
雰囲気を察しないわけじゃない。
まだ教室には遥と悠里以外は来てはいるものの教室内にはいない。
実質二人きりなのだ。
もし、悠里が遥に好意を持っているとしたら誘ってくるのは目に見える雰囲気だった。
「あ、あのぅ・・・えっと、こ、こんどの日曜ってい、忙しいかな・・・・?」
「ん・・・分からないかな」
「あ、あの!も、もし・・・もしも予定とかなかったら・・・あ、あの一緒に・・・遊園地・・・行きませんか?」
遥は正直しまったと思った。
忙しいと答えておけばわざわざ断る必要は無かっただろうにと。
悠里の性格上忙しいと聞けば、わざわざそれ以上の誘いをするはずはないだろう。
遥は溜息を吐いて答えた。
「ごめん、興味ない」
自分の口から出たとは思えないほど酷い台詞だった。
本当に今日はどうかしている。
遥は自分自身が分からなくなっていた。
「あ・・・・ご、ごめんなさいっわ、私の・・・っほうこそいきなり・・・こんなの・・・困るはずだよね・・・ご、ごめんなさい!」
遥はあえて悠里の顔を見ることはなかった。
だが、悠里が涙を堪えているのは十二分に分かった。
言い終わると同じく悠里は教室を走って出て行ってしまう。
入れ違いに入ってきた人影を見て遥はバツが悪そうに机に顔を伏せた。
「最低ですね。高野 遥・・・今日の貴方は最低です。何があったか知りませんし、知りたいとも思いませんが、どう考えても、今の断り方は最低だと思います」
「・・・盗み聞きか。いい趣味だな」
「本当に・・・貴方は」
遥の言葉に呆れ果てたとでも言うように溜息を漏らした。
それ以上何もいうことなく、響は自分の机に移動した。
遥はガンと机を一度殴りつけ席を立った。
「サボりですか」
背中にかかる響の声を無視するように遥は鞄をもって教室を出た。
せめて今日は悠里に顔をあわせるのは悠里にとっても自分にとっても良くないだろうと思った判断なのだが、響はそれを察したのだろう。
遥は人の波に逆らうように逆に歩き出す。
いそいそと学校へ急ぐ生徒達の脇を縫って繁華街へと繰り出した。
空の晴れ晴れさが嫌に目に付き遥は舌打ちをしながら歩いた。
行く先など決めていないし、決める必要も無かった。
遥は鞄を肩にもたれさせる様に持ってだらだらと行く先無く歩くのだった。