私の婚約破棄をおかんが赤飯で祝い始めた件
「ごめん、真由」
その一言で、だいたい全部わかった。
テーブルの向こう。
榊恒一は、今日もきれいだった。
ネイビーのスーツ。
控えめな腕時計。
疲れているはずなのに、ちゃんと整った髪。
こういうところが、好きだった。
ちゃんとしている人。
安心できる人。
この人となら、穏やかに暮らせると思っていた。
「……うん」
私は、カップを持ったまま答えた。
まだ、ぬるい。
「君は悪くないんだ」
出た。
その言葉を聞いた瞬間、心のどこかが妙に冷えた。
「ただ……最近、考えてた」
「うん」
「結婚って、情だけじゃできないだろ」
情。
式場見学もした。
両親への挨拶も終わった。
新居の話もしていた。
それを今さら“情”って呼ぶんだ。
「もっと自然体でいられる相手に、出会ってしまった」
ああ。そういうことか。
私は静かにカップを置いた。
「その人と、付き合ってるの?」
恒一は少しだけ眉を寄せた。
「……そういう言い方は、したくない」
この期に及んで、綺麗でいたいらしい。
笑いそうになった。
「じゃあ、どういう言い方なら満足なの」
「責めないでほしい」
責めないで。
責めないで、か。
胸の奥が、じわじわ熱くなる。
泣くより先に、呆れた。
「真由?」
その時だった。
カフェの入口のドアが、勢いよく開いた。
「ごめんごめん、ちょっと遅れた!」
聞き慣れた声。
私は固まった。
「……お母さん?」
そこに立っていたのは、うちの母――裕子だった。
買い物帰りらしく、エコバッグを肩にかけている。
「あら、まだ終わってなかった?」
終わってない。
むしろ今から地獄だった。
「なんでいるの!?」
「駅前のスーパー寄ったら、あんたの好きなトマト安かったのよ」
違う、そうじゃない。
母は、私の向かいに座る恒一を見て、にっこり笑った。
「あら、榊さん。こんにちは」
「……どうも」
恒一の顔が、明らかに引きつった。
母はそのまま、自然な動作で椅子を引いた。
座った。
座るな。
「で?」
母はバッグを膝に置いて、穏やかに言った。
「うちの娘を返品しに来たのは、どちらさん?」
終わった。
恒一が、完全に固まった。
「いえ、その……」
「ごめんなさいね、話が聞こえちゃって」
絶対に聞こえてた。
「でも、“君は悪くない”って言いながら捨てるの、最近流行ってるんですか?」
「お母さん!」
「真由は黙ってて」
静かだった。
怒鳴っていない。
なのに、怖い。
恒一は咳払いをした。
「傷つけるつもりは、なかったんです」
「そう」
母は頷いた。
「包丁で刺して、“殺すつもりはなかった”って言う人と、だいたい同じですね」
「……」
「榊さん」
母はまっすぐに恒一を見た。
「あなた、悪い人じゃないんでしょうね」
恒一が、少しだけ救われた顔をした。
甘い。
「でもね」
母は笑った。いつもの笑顔。
「悪人かどうかじゃないんです。うちの娘を泣かせた時点で、うちでは有罪なんです」
沈黙。
店内のBGMだけがやけに明るい。
「慰謝料、値切れると思ってませんよね?」
私はむせた。
「お母さん!」
「だって大事でしょ」
大事だけど。
母は、ごく自然にスマホを取り出した。
「ちなみに。」
「式場のキャンセル料、家具の手付金、真由が仕事の合間に潰した時間、全部メモしてあります」
「……え?」
「あと、あなたのお母様には、私からご挨拶しておきます」
恒一の顔色が変わった。
あ、そこなんだ。
「それは……」
「嫌ですか?」
にこり。
「私も嫌でしたよ。娘が泣いて帰ってきた時」
静かだった。
本当に、静かだった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
恒一は、何か言おうとして、結局何も言えなかった。
数秒後。
「……改めて、ご相談させてください」
絞り出すように言った。
母は頷く。
「最初からそうしてくれたら、トマト買うだけで済んだのに」
それを言うなら、最初から来ないでほしかった。
恒一は深く頭を下げて、店を出ていった。
背中が、小さく見えた。
私はしばらく、ぼんやりそのドアを見ていた。
「……終わった」
「終わったね」
「私、振られたんだよね」
「違うわ」
母は即答した。
「あんた、事故物件を契約前に回避したの」
思わず、笑ってしまった。
泣きながら。
「ひどい顔」
「うるさい」
「よし」
母は立ち上がった。
「今日は赤飯にしましょう」
「なんで!?」
「婚約破棄祝い」
本気だった。
「クズ男との縁切りは、人生最高のギフトよ」
そう言って、母は私の手を引いた。
「次はもっといい男を拾いなさい」
「道に落ちてるみたいに言わないで」
「最近は、マッチングアプリっていう拾い場があるらしいじゃない」
「やだ」
「じゃあお母さんが探す」
「もっとやだ!」
店を出る。
春の風が、少しだけ冷たかった。
でも、不思議と呼吸はしやすい。失ったものより。
これから、ちゃんと自分を大事にしようと思えたことの方が、大きかった。
隣で母が言う。
「真由」
「なに?」
「次は、お母さんより先に、変だと思いなさい」
「努力します」
たぶん、無理だけど。
それでも。
今度はちゃんと、自分の人生を選ぼうと思った。




