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私の婚約破棄をおかんが赤飯で祝い始めた件

作者: 春凪とおる
掲載日:2026/05/25

「ごめん、真由」


 その一言で、だいたい全部わかった。

 テーブルの向こう。

 榊恒一は、今日もきれいだった。

 

 ネイビーのスーツ。

 控えめな腕時計。

 疲れているはずなのに、ちゃんと整った髪。

 

 こういうところが、好きだった。

 ちゃんとしている人。

 安心できる人。

 この人となら、穏やかに暮らせると思っていた。


「……うん」


 私は、カップを持ったまま答えた。

 まだ、ぬるい。


「君は悪くないんだ」


 出た。

 その言葉を聞いた瞬間、心のどこかが妙に冷えた。


「ただ……最近、考えてた」

「うん」


「結婚って、情だけじゃできないだろ」


 情。

 

 式場見学もした。

 両親への挨拶も終わった。

 新居の話もしていた。


 それを今さら“情”って呼ぶんだ。


「もっと自然体でいられる相手に、出会ってしまった」


 ああ。そういうことか。

 私は静かにカップを置いた。


「その人と、付き合ってるの?」


 恒一は少しだけ眉を寄せた。


「……そういう言い方は、したくない」


 この期に及んで、綺麗でいたいらしい。

 笑いそうになった。


「じゃあ、どういう言い方なら満足なの」

「責めないでほしい」


 責めないで。

 責めないで、か。


 胸の奥が、じわじわ熱くなる。

 泣くより先に、呆れた。


「真由?」


 その時だった。

 カフェの入口のドアが、勢いよく開いた。


「ごめんごめん、ちょっと遅れた!」


 聞き慣れた声。

 私は固まった。


「……お母さん?」


 そこに立っていたのは、うちの母――裕子だった。

 買い物帰りらしく、エコバッグを肩にかけている。


「あら、まだ終わってなかった?」


 終わってない。

 むしろ今から地獄だった。


「なんでいるの!?」

「駅前のスーパー寄ったら、あんたの好きなトマト安かったのよ」


 違う、そうじゃない。

 母は、私の向かいに座る恒一を見て、にっこり笑った。


「あら、榊さん。こんにちは」

「……どうも」


 恒一の顔が、明らかに引きつった。

 母はそのまま、自然な動作で椅子を引いた。


 座った。

 座るな。


「で?」


 母はバッグを膝に置いて、穏やかに言った。


「うちの娘を返品しに来たのは、どちらさん?」


 終わった。

 恒一が、完全に固まった。


「いえ、その……」

「ごめんなさいね、話が聞こえちゃって」


 絶対に聞こえてた。


「でも、“君は悪くない”って言いながら捨てるの、最近流行ってるんですか?」

「お母さん!」

「真由は黙ってて」


 静かだった。

 怒鳴っていない。

 

 なのに、怖い。

 恒一は咳払いをした。


「傷つけるつもりは、なかったんです」

「そう」


 母は頷いた。


「包丁で刺して、“殺すつもりはなかった”って言う人と、だいたい同じですね」

「……」


「榊さん」

 母はまっすぐに恒一を見た。


「あなた、悪い人じゃないんでしょうね」

 恒一が、少しだけ救われた顔をした。

 

 甘い。


「でもね」

 母は笑った。いつもの笑顔。


「悪人かどうかじゃないんです。うちの娘を泣かせた時点で、うちでは有罪なんです」


 沈黙。

 店内のBGMだけがやけに明るい。


「慰謝料、値切れると思ってませんよね?」

 私はむせた。


「お母さん!」

「だって大事でしょ」


 大事だけど。

 母は、ごく自然にスマホを取り出した。


「ちなみに。」

「式場のキャンセル料、家具の手付金、真由が仕事の合間に潰した時間、全部メモしてあります」

「……え?」

「あと、あなたのお母様には、私からご挨拶しておきます」


 恒一の顔色が変わった。

 あ、そこなんだ。


「それは……」

「嫌ですか?」

 にこり。


「私も嫌でしたよ。娘が泣いて帰ってきた時」


 静かだった。

 本当に、静かだった。


 だからこそ、逃げ場がなかった。

 恒一は、何か言おうとして、結局何も言えなかった。


 数秒後。


「……改めて、ご相談させてください」


 絞り出すように言った。

 母は頷く。


「最初からそうしてくれたら、トマト買うだけで済んだのに」

 

 それを言うなら、最初から来ないでほしかった。


 恒一は深く頭を下げて、店を出ていった。

 背中が、小さく見えた。


 私はしばらく、ぼんやりそのドアを見ていた。


「……終わった」

「終わったね」

「私、振られたんだよね」

「違うわ」


 母は即答した。


「あんた、事故物件を契約前に回避したの」


 思わず、笑ってしまった。

 泣きながら。


「ひどい顔」

「うるさい」


「よし」

 母は立ち上がった。


「今日は赤飯にしましょう」

「なんで!?」

「婚約破棄祝い」


 本気だった。


「クズ男との縁切りは、人生最高のギフトよ」

 そう言って、母は私の手を引いた。


「次はもっといい男を拾いなさい」

「道に落ちてるみたいに言わないで」


「最近は、マッチングアプリっていう拾い場があるらしいじゃない」

「やだ」


「じゃあお母さんが探す」

「もっとやだ!」


 店を出る。

 春の風が、少しだけ冷たかった。


 でも、不思議と呼吸はしやすい。失ったものより。

 これから、ちゃんと自分を大事にしようと思えたことの方が、大きかった。


 隣で母が言う。


「真由」

「なに?」

「次は、お母さんより先に、変だと思いなさい」

「努力します」


 たぶん、無理だけど。

 それでも。


 今度はちゃんと、自分の人生を選ぼうと思った。


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おかん 婚約破棄
― 新着の感想 ―
おかあさん、大好きだ!!!
おかん、ありがとう…!
凄く仲がいい母娘なんだね。 面白かったです。
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