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きっかけ

漫画喫茶で、最後の1冊を譲った。

ただそれだけのことだったはずなのに――


その日の夜、画面の向こうで“あの子かもしれない誰か”と繋がった。


静かな店内だった。


空調の音と、キーボードを叩く音だけが、一定のリズムで流れている。


特にやることもない日。

結局、こういう場所に来る。


それが、今の自分の生活だった。


棚の前に立ち、背表紙を目で追う。


目当ての巻は決まっている。

昨日の続き。ちょうどいいところで止めていたやつだ。


……あった。


手を伸ばす。


その瞬間――


別の手が、同じ本に触れた。


ぴたり、と止まる。


一拍。


ゆっくり顔を上げると、女の子と目が合った。


「……あ」


同時に、同じ声が漏れる。


数秒の沈黙。


先に手を引いたのは、こっちだった。


「……どうぞ」


できるだけ自然に言ったつもりだった。


女の子は少し驚いた顔をしてから、


「え、いいんですか?」


と、遠慮がちに聞き返してくる。


「はい。俺、いつでも読めるんで」


本当は、今読みたかった。


でも、口から出たのは違う言葉だった。


女の子は少し迷ってから、


「……じゃあ、ありがとうございます」


小さく頭を下げて、本を取る。


そのまま、席の方へ歩いていった。


背中を、ほんの少しだけ目で追う。


……普通に可愛いな、と思った。


派手じゃない。

でも、なんとなく印象に残る。


すぐに視線を外す。


別に、関係ない。


そう思って、別の巻を手に取った。


席に戻る。


ページをめくる。


でも、頭に入ってこない。


……続き、気になるな。


さっき譲った巻のことばかり考えている。


少しだけ、自嘲気味に笑う。


何やってるんだ、俺。


しばらくして、席を立つ。


ドリンクを取りに行くために、通路を歩く。


その途中で、さっきの席の前を通る。


ほんの一瞬だけ、視界に入った。


机の上。

さっきの漫画。


開かれているページ。


……そこか。


思わず、心の中で呟く。


ちょうど、自分が好きなシーンだった。


あの表情。あのセリフ。


何度読んでも、いいと思えるところ。


少しだけ、笑いそうになる。


でもすぐに視線を逸らして、そのまま通り過ぎた。


ドリンクを持って、席に戻る。


なんとなく、スマホを取り出す。


いつものように、SNSを開く。


特に目的もなく、タイムラインを流す。


指が止まった。


「このシーン、やっぱり好き」


投稿された画像。


さっきの漫画。

そして、あのページ。


……え?


思わず、画面を見返す。


ユーザー名。


見覚えがあった。


よく見かけるアカウント。


同じ作品の感想を、よく投稿している人。


だから、なんとなく覚えていた。


さっきの出来事が、頭の中で繋がる。


最後の1冊。

あのタイミング。

そして、この投稿。


……まさか。


いや、でも。


確信はない。


ただの偶然かもしれない。


漫画喫茶で同じ巻を読む人なんて、いくらでもいる。


それでも――


指が止まる。


画面を見つめる。


……もし、そうだったら。


ほんの数分前まで、名前も知らなかった誰か。


話したのは、たった一言。


それでも、なぜか引っかかっている。


静かな店内。


時間だけが、ゆっくり流れる。


……やめとくか。


そう思いながらも。


親指は、少しだけ動いた。


(第2話へ続く)

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