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第四章 パン

 天井近くのカーテンレールにてるてる坊主を吊るす。脚立から降りて吊るしたばかりのてるてる坊主を眺めると、もう五つ目になっていた。天井から垂れたてるてる坊主たちは、皆思い思いの方向を向いている。


 あの日から、娘は一日経つごとにてるてる坊主を一つ作って私の元に持ってきていた。


 私の腰ほどしかない背丈で天井付近のてるてる坊主を眺めると、娘は寂しそうに呟く。


 「あめ、やまないね」


 窓の向こうの空からは、今日も朝からずっと冷たい雨が降り続いていた。


 「そうだね」


 娘の鼻を啜る音が聞こえた。


 「ポンちゃん、にじのはしをわたらなくちゃいけないのに……。じゃないと、ポンちゃんがてんごくにいけないのに……」


 光の届かない家の中は、一層暗く沈んでいくような空気に包まれた。


 私は娘の艶めく髪を撫で、それから肩を抱き寄せる。


 「大丈夫だよ。こんなに気持ちを込めててるてる坊主を作ってくれたんだもん。きっと雨はもうすぐ止むし、雨上がりには絶対に虹が架かるよ」


 「ほんとう? ほんとうにそうおもう?」


 娘のすがるような目に、私は硬く頷いて見せた。


 しかし実際のところ、いつ雨が上がるかなんてしがないパン屋に分かるはずもない。ただ、遠くの空を眺めて「早く雨が上がりますように」と祈ることしかできないのだ。


 娘の隣で、私は空の彼方に強く念を飛ばし続けた。




 私たち家族は、愛するペットを五日前に亡くしたばかりだった。娘が生まれる前から家にいた、大きな犬だ。ポンちゃんという名は誰がどういう経緯で付けたのか、もう定かではないほどに長生きしてくれた。


 ポンちゃんは元々ヤンチャな犬であったが、娘が生まれると驚くほどにその性格は変わった。家の中でイタズラばかりすることを止め、生まれたばかりの娘に寄り添い、娘が泣けば一番に駆けつける良き兄となった。娘という小さな命をポンちゃんはよく理解して、そして守ろうとしてくれた。


 それから、ポンちゃんは家族で営むパン屋の看板犬でもあった。店の前で愛嬌を振り撒くポンちゃんは、行き交う人々の足をよく止めた。パン屋のドアを開かせることがポンちゃんの毎日の仕事であり、彼はとても優秀な職員でもあった。


 そんなポンちゃんが五日前に亡くなった時、娘は酷く悲しんだ。亡きポンちゃんの首輪を握り締めて何時間も泣き通し、身体中の水分が涙となって出てしまうのではないかと心配したほどだ。そんな娘を見かねて、彼女の父親(私の夫)は声をかけた。「ペットは亡くなったら虹の橋を渡って天国に行くんだよ」と。


 その言葉を聞いた娘は、すぐに空を見上げた。しかし、ポンちゃんが亡くなった日はあいにくの雨だった。窓に身を寄せて座り、娘はその日の夜まで雨が上がるのを待ち続けた。


 その夜に一つ目のてるてる坊主が作られ、今日でもう五日目になる。


 悲しみ疲れて眠ってしまった娘の寝顔には、今日も涙の跡が残っている。



 娘の部屋を出てリビングに戻ると、夫がテーブルの上にマグカップを二つ並べて置いてくれているところだった。


 「今日も客足が悪かったな。予算を下回るのは、ポンがいなくなってからずっとだ」


 ため息をつく夫の向かい側に腰を下ろす。マグカップを引き寄せて立ち上る湯気に鼻を寄せると、ハーブの爽やかな香りがした。


 「雨、だからかな。雨の日は足元が悪いから、お得意さん達は外に出てこないのかもしれないね」


 客足が遠のいたのはポンちゃんがいなくなったせいだなんて、嘘でも思いたくなかった。夫にだって、そんなことは言わせたくない。ポンちゃんのせいで私たちのパン屋が立ち行かなくなることがあれば、亡くなったポンちゃんがどんなに悲しむことだろう。


 夫は頬杖をつきながら小さく頷く。


 「そうだな。雨が上がったら、みんなパンを買いに来てくれるといいよな」


 小さく肩を丸める夫に「大丈夫、大丈夫」と声をかけるべきなのはわかっていた。いつもの私なら間違いなくそうしていたはずだけれど、今はほんの僅かばかりの気力が足りない。ぎこちなく目を伏せ、マグカップの取手をきつく握りしめて夫から目を逸らすことしかできなかった。


 ポンちゃんがいなくなったという事実は、娘だけではなく私の心にも大きな穴を開けた。喉に流し込んだハーブティーが、胸の真ん中にぽっかり空いた穴から体の外に流れ出ていくような錯覚に陥る。


 ポンちゃんがいなくなった今、この家の太陽はすっかり雨雲の後ろに隠れてしまったみたいだ。


 でもこんな姿の私たちを見たら、あの子はきっととても悲しむ。


 唇を噛み締め、伏せていた顔を上げた。


 「できることをコツコツ頑張ろう。私たち、いつだってそうやって乗り越えてきたじゃない。

 この雨が上がって空に虹がかかった時、今のままの私たちだったらポンちゃんが心配して天国にいけないよ。あの子、優しい子だったもの」


 顔を上げた夫は、「そうだな」と言ってマグカップをあおった。一気に中身を飲み干し、口からカップを離す。夫は潤んだ瞳で悲しそうに微笑んでいた。それから窓のある方に視線を向け、また頬杖をつく。夫の視線の先で、てるてる坊主たちが緩やかに回転を続けていた。




 翌日の朝も、どんよりとした雲が空を覆い尽くしていた。雨はパラパラとだが降り続き、アスファルトを濡らしている。


 ベッドから起き上がって身支度を整える。時計の針は朝の四時を回ったところだった。


 私の朝は、この家の中で一番早い。いつも部屋を出ると家の中はまだ夜の静けさを保っている。


 キッチンに向かって朝食を作っていると、ふと冷たい風が首筋を撫でた。背中側に目を向ける。パン屋の二階に設けた自室のキッチンには小窓が付いているものの、開けることはほとんどなかった。それなのに、小窓に取り付けたカフェカーテンが揺れている。カーテンをめくると、小窓はたった5センチメートルほど開いていた。夫は自分が寝る時には必ず家中の窓の鍵がしっかり施錠されているか確認しないと気が済まないタチなのに、珍しいこともあるものだ。


 歯磨きを済ませ、長く伸びた髪を頭の後ろで一つにくくる。洗いたての真っ白いエプロンに袖を通し、コック帽を頭に乗せた。今日を始める準備は整った。


 階下の工房に降りて準備を始めていると、しばらくして夫が姿を現した。これからオープンまでの時間、二人でパンを焼き続ける。娘が起きてくると私は手を止めて娘の保育園の準備を始めなければならないので、時間はいくらあっても足りない。忙しない毎日だけれど、パン生地の柔らかな感触と小麦の焼ける香りが、焦る気持ちにブレーキをかけてくれた。


 店を開けてからの時間は、日替わりで夫と私がレジに立つことにしている。私が接客を担当すれば夫は工房に籠りパンを焼き続ける係になった。夫が店番の日は逆に私が奥の工房でパン生地を捏ね続ける。今日はそういう担当の日だった。


 心配していた客足は、連日降り続く雨の影響なのか中々戻る気配がない。本来ならば売り切れになりそうなパンを追加で焼くのに忙しくしている時間でも、補充しなければならないパンはそれほど多くなかった。山型食パンを釜に入れ終えてしまうと、店には十分すぎるほどのパンが並んでいた。これ以上追加で作ってしまったら、食品ロスに繋がりかねない。ひいては店の存続にも関わってしまう。私はパンを捏ねる手を止めた。


 工房の窓から夫の様子を伺うと、夫はレジの前に立ったままで正面を見据えていた。夫の視線の先にはショーウインドウがあり、止まない雨は降り続いている。脳裏に娘の作ったてるてる坊主が浮かんだ。


 五つ並んだてるてる坊主。天井からぶら下がり、にっこりと微笑みながら空を見ていた。てるてる坊主は、娘の代わりに今もこの雨が止むように祈りを捧げてくれているのだろうか。試作用に残しておいたパン生地を手に取ると、手が作りたいものを知っているかのように自然と動いた。


 そしてパン生地を捏ねて焼き上がったのは、てるてる坊主の形をしたパンだった。雨が上がり、空に虹がかかることを願いながら焼き上げた。中には早朝に仕込んだ特製のカスタードクリームを詰めてある。てるてる坊主の顔をチョコペンで描いたら完成だ。


 試作品は後で夫と仕事終わりに食べることにしていた。そこに娘が加わることもしばしばある。閉店までの時間、作業台の上にずっと置いておくわけにもいかないので別の場所に移動しようとした。その時だった。


 トレイにのせた四つのうち、作業台に足をぶつけてフラついたせいで一つのパンが落下してしまった。「あっ」と声が出た時にはもう遅く、パンは裏側を見せて床に着地していた。


 しかし、なぜかパンはクッキングシートの上に落ちた。床にクッキングシートを落とした記憶はないのに。


 落ちたパンをクッキングシートごと拾い上げると、チョコペンで描いた顔が滲んでいた。目は垂れ下がり、微笑んでいたはずの口元も心なしか下向きに傾いている。まるで落ちたことを悲しんでいるかのような顔をしていた。


 「ごめん……、ごめんね」


 清潔にしている工房内ではあるけれど、衛生面を考えると落ちたものは食べられない。拾い上げたパンは捨てる他ない。工房の隅に置いた廃棄ボックスへ歩く途中、奇妙な声が聞こえてきた。


 「ちょっと、失礼。

 その美味しそうなパンですが、捨ててしまうのでしたらわたしにいただけないでしょうか?」


 「え?」


 夫が冗談でも言っているのかと、声のした方を振り返る。しかし、工房内には私の他に誰もいない。店頭を見ると夫は接客をしている最中だった。


 おかしな幻聴でも聞こえてしまったのだろうか。首を傾げつつ、もう一度廃棄ボックスまで歩き始める。


 「もしもし、そこの奥様。あなたが聞いた声の主はこちらですよ」


 また、先ほどと同じ声がした。囁くように小さいのに、耳の奥にしっかりと語りかけてくるような不思議な声だ。


 これはきっと、幻聴や気のせいなんかではない。私は工房の中を見回した。


 「こっちです。そう、もっと視線を下げて。

 手を振って差し上げましょう。わたしが見えますか?」


 工房の中のありとあらゆる場所に視線を動かした。ぐるぐると目が回りそうになる程に。


 そしてやっと見つけた不思議な声の主は、先ほど私が試作したてるてる坊主のパンをのせたトレイの側に佇んでいた。私の手の小指よりも小さい姿だった。


 「小人さん、なの……?」


 目を覗き込むと、小さなその子は娘と同じような無垢な輝きをその目に宿していた。


 「いいえ、小人ではなく、妖精です。空の色を作って塗ることが仕事の、妖精です。


 一仕事終えた後で、何日も風に身を委ねて流されてきたところなのです。ですから、力を使い果たしてしまって空腹です。どうか、そちらのパンをわたしに分け与えていただけないでしょうか?」


 「でも、このパンはさっき床の上に落としてしまって……、食べたらお腹を壊してしまうかもしれないわ」


 妖精は首を横に振る。


 「いいえ、そのパンは間一髪のところでクッキングシートの上に落ちたはずですよ。台の上に置いてあったシートをわたしが投げ飛ばしましたから」


 「あなたが? あの一瞬でパンの落下地点にシートを投げ飛ばしたの?」


 妖精は得意げに、しかし少し照れくさそうに口元を歪ませて頷いた。


 「ですから、食べても大丈夫です。


 どうか、その美しいパンを処分しないでいただきたい。処分してしまうくらいなら、わたしに力を貸してください。さあ、早く。鮮度の良いうちに。


 どうか、お願いします」


 妖精の懇願する瞳は今にも泣き出しそうで、そして空腹に耐えかねて倒れてしまいそうな感じさえ醸し出ていた。


 「わかったわ。どうぞ、お食べください」


 落ちたパンを少しだけ千切り、中のクリームを掬って妖精の前に差し出す。すると、妖精は自分の顔ほどの大きさになるそのパンの切れ端を上手に両手で抱えた。


 「ちょっと、失礼。いただきます」


 星屑のように小さなその口で少しずつ食べ進めると思われたパンは、瞬く間に妖精の手の中から消えてしまった。もぐもぐとパンを噛み締めるように妖精の口だけが動き、そのうちにゴクリと飲み干す音が聞こえた。


 「よろしければ、もう少しいただいても?」


 「ええ……、もちろんよ。好きなだけどうぞ」


 パンを小皿にのせてあげると、十秒も経たないうちにてるてる坊主の形をしたパンは妖精の小さなお腹に入ってしまった。目を疑うほどの早業だった。


 汚れた口元を妖精はどこからか取り出した白いナフキンで丁寧に拭いている。食事が終わると、妖精はやっとこちらに目を向けた。


 「ありがとうございます。黄色いキラキラの溢れた、実に美味しいパンでした。わたしの体中に黄色いキラキラの力がみなぎってくるようです」


 深々と頭を下げる妖精に合わせ、私もコック帽を少し上に上げて挨拶を返す。


 「黄色いキラキラって、カスタードクリームのことかしら。確かに艶々していて綺麗な色をしていますね。でもパンのことをそんな風に宝石みたいに言ってもらうのは、初めてのことです」


 妖精は顔を上げると、作業台の上に置いたままの残りのてるてる坊主のパンを見つめた。


 「いいえ。わたしの申しているキラキラは、そのまま『キラキラ』の意味です。太陽の光のような強い想いが、このパンたちからは滲み出ています。この強い輝きを使えば雨を晴らすことも難しくはないでしょう」


 「え……、雨を、晴らすことができるの? 妖精さんが?」


 そういえば、先ほどこの小さな妖精は「空の色を作って塗るのが仕事」だと言っていた。だとすると、今この空に雨雲を描いているのも、それを晴らすのも、この妖精の仕事なのだろうか。


 しかし、妖精はバツが悪そうに俯いてしまう。


 「そうですね……、可能かもしれませんが、この雨雲をどかすにはまだ少し力が足りないようです。

 少し前に雪雲に穴を開けた経験ならあるのですが、その時はわたしの力が及ばずにほんの小さな穴しか開けられませんでした。しかも、短時間でその穴は塞がってしまいましたから……。


 恐らく、雨雲を晴らすにはわたしの中にもっとたくさんの力を蓄える必要があるでしょう」


 「そうですか……。あの、妖精さんの力を蓄える為に私にお手伝いできることはありますか? パンを焼くことしかできませんけど、もしもそんなことでもよければお力になりたいです」


 「ありがたいお言葉です。しかし、どうしてそんなことを? 雨が上がらないと何か困ることでもあるのでしょうか?」


 「ええ、実は。うちのような町の小さなパン屋は雨の日にはどうしても客足が遠ざかってしまいます。わざわざ雨の中を歩いてパンを買いに行こうと思い立つ人はそうそういませんから。


 それに……」


 工房から窓の外を覗くと、まだ雨は降り続いていた。


 「それに?」


 妖精が小さな頭を横に倒している。


 「それに、雨が上がって空に虹がかかるのをずっと待っているんです。私と、夫と、それから幼い娘が」


 「虹、ですか」


 妖精はほんの少しだけ眉間に力を込めたみたいだった。


 「はい。うちのパン屋にはつい先日まで看板犬がいました。名前をポンと言います。そのポンが亡くなった日から、一日と休むことなく空からは雨が降り続いています。まるで、ポンが亡くなったことを空が悲しんでいるかのように……。


 ポンには、虹の橋を渡って天国へいってほしいと思います。これは、私たち家族全員の願いです。その為に、早く空を晴らしてほしいんです」


 「なるほど。よくわかりました。雨の降り注ぐ空をじっと眺めている家族がいることに気がつき、もしかするとこの雨がお好きなのかと思っていたのですが……。そのような事情があったのですね」


 「私たちのこと、ずっと見ていたのですか?」


 驚いて訊くと、妖精は恥ずかしそうに後頭部に手を添えて答えた。


 「お腹が空いていましたし、ここからいつも良い匂いが漂ってきていたものですから」


 頬をほんのりとピンク色に染めたまま、妖精は顔を上げる。胸を張ると小さな拳でポンと叩いた。


 「しかし、そういうことならわたしにお任せください。あなたのお力を貸していただけたのなら、きっと空に大きな虹を描いてご覧にいれましょう」


 「本当ですか?」


 妖精は力強く頷いた。


 「もちろんです。空をいつも見上げてくれていたあなたたちご家族の願い事は、叶えなければなりません。


 それに、美味しいクリームパンをご馳走していただいたお礼もありますから」


 「ありがとうございます」


 これでポンちゃんを天国に見送ってあげられる。安堵と感謝の気持ちから妖精に握手を求めると、自分の手があまりにも大きすぎることに気がついた。出した手をすぐに引っ込めるのは失礼な気がして戸惑っていると、妖精が作業台の上をトコトコと歩いて私の手に近づいてくる。


 妖精はその小さすぎる両手で私の小指の先を優しく握り返してくれた。


 「こちらこそ、ありがとうございます。一緒に素敵な虹を描きましょう」


 それから、私と妖精の不思議なパン作りが始まった。




 妖精が言うには、虹を描くためには材料を集める必要があるらしい。


 「一つの色のみで作ると単色の空の色が作れますが、様々な色のキラキラを調合すると複数の色を持つ空の色が出来上がります。その手法を応用して空に虹を描きましょう。


 その為に、七色のキラキラを集める必要があるのです」


 「色を集める必要があることはわかりました。


 ところで、そのキラキラというのは何のことでしょうか? 先ほど召し上がったクリームパンからもキラキラが滲み出ていると仰っていましたね」


 妖精はコクリと頷く。


 「妖精には、ヒトやモノの内に秘められた輝きを見る力があります。その輝きを『キラキラ』と呼んでいるわけですが、わたしたちはそのキラキラを力に変えて仕事をするのです」


 「そのキラキラは、どんなヒトやモノにも備わっているのでしょうか?」


 「いいえ。残念ながら、キラキラを持つものはこの世の全てではありません。そこに強い想いが存在しない限り、キラキラは生まれないのです」


 「クリームパンからは、その強い想いが溢れていた、と……?」


 「はい。黄色いキラキラが溢れていましたよ」


 無垢な微笑みにほだされ、クリームパンを作っていた時のことを思い出す。そういえばあの時、雨が上がって空に虹がかかることを強く願いながらパンを作っていた。


 「とにかく、」


 妖精はクリームパンの詰まったお腹をさすりながら言う。


 「黄色のキラキラはすでに手に入れました。虹の七色を構成するのに必要な残りの色は、赤、橙、緑、青、藍、紫の六色です。この六色のキラキラが溢れるパンをわたしにいただけたのなら、七色の虹を描く力がわたしの中に溢れるはずです」


 妖精のその言葉に、私は頬が緩むのを感じた。パン好きが高じて夫と二人三脚で始めたパン屋だ。キラキラ光るパンを作り出すという難題を前にして、この状況を楽しんでしまっている自分がいる。


 幸いなことに、朝から鳴き続ける閑古鳥のおかげで今も店に補充しなければならないパンはない。エプロンの袖をキツく捲り直し、キラキラのパン作りに早速取り掛かることにした。


 手始めに、妖精と一緒に工房の中をじっくりと見て回ることにする。すでにあるものの中にキラキラの溢れているものがあれば、それをパン作りに活かすことができると妖精からアドバイスをもらったからだ。妖精を肩の上に乗せ、ゆっくりと工房を回る。


 「あ」


 耳元で妖精の声がして足を止めた。妖精は短い腕を一生懸命に前に伸ばす。


 「あれ、あれは何でしょう?」


 妖精の指差す方向を目でなぞると、妖精は手作りのジャムを入れた瓶を指していた。


 「りんごのジャムに、ブルーベリーのジャム。それからミルクのジャムなんて言うのもありますよ」


 中身の詰まった瓶を棚から出して手前に引き寄せると、妖精は肩の上から降りたがった。手をエレベーター代わりにして妖精をジャム瓶の横に移動させる。


 「こちらの美しいジャムは? 一体何でできているのです?」


 妖精が真っ先に飛びついたのは、オレンジ色のジャムだった。


 「マーマレードですよ。うちでは農家さんから取り寄せた、無農薬の甘夏とレモンを使って作っています」


 私は瓶の蓋を開け、小さめのスプーンでジャムを掬った。それを妖精の顔の前に持って行く。妖精はジャムのついたスプーンと私の顔を交互に見た。私が手でどうぞの合図を出すと、妖精は顔を綻ばせてスプーンを舐める。


 「美味しいです。甘いのに、酸っぱくて……、口の中にねっとりとまとわりつくのに、香りはとても爽やかで……。

 そして何より、このジャムは作られるまでの間にキラキラをいくつも蓄えていたようです。ここに至るまでの間に少々熟成され、分かりづらくはありますが……」


 妖精は慈しむような目でマーマレードのジャムを見つめた。


 このジャムを使って、キラキラのパン作りはできないものか。私は工房の中をうろつき、考える。思考は「キラキラ」に引っ張られ、見た目までキラキラしそうなパンが思いついた。


 「よし、やってみましょう」


 頭の中で描いたレシピを、作業台の上で具現化させる作業に取り掛かる。


 まず初めに、ほんのりと甘い菓子パンの生地をめん棒で薄く伸ばす。長方形に伸ばしたパン生地の上に、クリームチーズと砂糖を混ぜたフィリングを塗り広げた。その上に瓶から取り出したジャムを塗り、さらにオレンジピールを全体に散らす。その生地を手前から奥に向かってくるくると巻き、ロールケーキのように等分に切り分けた。トレイに並べて二次発酵の後、トッピングシュガーを振りかけてオーブンに入れる。焼き上がると、甘酸っぱい香りが工房の中を満たした。


 「お待たせしました」


 粗熱の取れたパンを妖精に差し出す。たっぷりとかけたトッッピングシュガーがところどころに溶けてパンに艶を出していた。見た目にもキラリと光るものがあるオレンジとチーズのパンだ。妖精の反応は、どうだろう。


 妖精はしばらく黙ってパンを見つめた後、目を閉じて両手を合わせた。


 「ちょっと、失礼。いただきます」


 神社でお願いごとでもするかのように恭しく言い、妖精はパンに手を伸ばす。そしてまた、自分の体の何倍も大きなパンをあっという間に小さな体の中におさめてしまった。


 両手を後ろについて座る妖精のお腹が、心なしか丸く膨れ上がっている。小さく息を漏らし、妖精は満足そうにその丸いお腹をさすった。


 「とても、美味しいパンでした。できることならもう一つでも、二つでもいただきたいものです。

 しかし、わたしのことをまだ見ぬパンたちが待っています。ここはグッと堪えて我慢いたしましょう……」


 つらそうに眉尻を垂らす妖精の前に顔を寄せる。


 「ところで、妖精さん。このパンからはキラキラが吸収できましたか?」


 尋ねると、妖精は丸い顔を縦に動かした。


 「もちろんです。オレンジ色の、熟成されたキラキラでした。これで、橙色は集まりましたね」


 そう言うと妖精はすくっと立ち上がる。本当に、あの大きなパンがこの小さな体のどこに消えてしまったのだろう。立ち上がった妖精のお腹はすでに元通りのぺったんこになっていた。


 先ほどと同じように私の肩に乗ろうとする妖精のことを、私は手で優しく制した。


 「妖精さん。次に作るパンですが、私にちょっと考えがあるのでここで待っていてもらえますか?」


 妖精はほんの少し意外そうに驚いたあと、顔に微笑みを浮かべた。


 「はい、もちろん構いません。

 一体どんなパンをお考えなのか、楽しみにお待ちしております」


 ウキウキが体から漏れ出してしまった妖精は、その場で軽くステップを踏み出す。話し方や声の質は紳士的なのに、妖精の動きはとても幼く見えた。


 「目新しいパン、というわけではないのですが……。『色』のことを考えると、この二つのパンしか私には思いつかないものがあるんです。それを、今から心を込めてお作りしますね」


 一つは和風食材の餡子が特徴のパンで、もう一つはこの店の人気商品だ。店を覗くとちょうど店頭の籠からも在庫が少なくなってきていたので、作り足すのにちょうど良い。


 妖精の踊る作業台の上で、私は二つのパンを同時進行で作り始めた。


 実は、七色のパンを作ることになった時にこの二つのパンはすでに頭に浮かんでいた。だって、『緑色』のパンは一つしか考えられないし、『紫色』のパンも正直言ってアレくらいしか思い浮かばない。何日も時間をかけて捻り出せばもっと他に、新商品となるような面白い『緑色』と『紫色』のパンを作ることもできるのかもしれないけれど、そんな悠長にしていられる時間はなかった。


 私は小さめの鍋で紫色の餡を練り続け、側でクッキー生地とパン生地の両方を捏ねた。忙しなく立ち回る私の姿を見て、夫が時々妙な顔で首を傾げているのがわかる。それでもガラス越しに笑顔を見せれば、夫は工房に来ることもなく数少ない客の対応に精を出した。


 「よし、出来ました。


 本物のメロン果汁を使ったメロンパンに、紫芋の餡子を練り込んだねじりパンですよ。

 さあ、どうぞ。召し上がれ」


 今度は大きめのお皿に二つのパンを並べて妖精に差し出す。たちまち妖精の姿はパンの後ろに隠れて見えなくなった。けれど、妖精はすぐにパンの後ろから姿を現す。皿の周りをトコトコと歩き、先ほどと同じように出来上がったパンを眺めた。


 そしてじっくりと見て回ったところで作業台の上に膝を折り、両手を合わせる。


 「ちょっと、失礼。いただきます」


 最初は、メロンパンが風に吹かれて飛んでいくように皿の上から姿を消した。妖精の口からは、ザクザクとクッキー生地を噛む音が漏れ聞こえている。喉の奥にメロンパンを流し終えると、次は紫芋のねじりパンの番だ。黒胡麻をアクセントにのせたねじりパンは、ふわふわだけれど大きさのあるメロンパンよりも、一瞬で妖精の口の中に吸い込まれてしまった。


 頬に紫色の餡子をつけたまま、妖精がパンを咀嚼する。口の中でじっくりと味わった後で、妖精は口を開けた。


 「ご馳走様でした。実に美味しい、パンでした」


 美味しさには自信があるけれど、お客さん(?)に目の前で食べてもらうのは初めてのことだ。妖精に「美味しかった」と言われると、緊張の糸が切れたように肩から力が抜けていく。


 「よかったです。お口に合ったみたいで」


 一番小さなガラス製の軽量カップに水を入れて差し出すと、妖精はその水も一気に飲み干した。


 大きく口を開けてプハっと息を吐き出したあと、丁寧にカップを私の手元まで運んでくれる。妖精の深々としたお辞儀に私もお辞儀で返した。


 「大きくてフワフワで、表面だけザクザクのパンからは森に生い茂る草木のような緑色のキラキラが。


 そしてずっしりとした重みと甘さのバランスが絶妙なパンからは、上品で繊細な紫色のキラキラが滲み出ていました。


 今、わたしの体の奥深くで四つの色は混ざり合うことなく共存しております」


 妖精のその言葉に、私の頭の中には四色の金平糖が思い浮かんだ。黄色、オレンジ、緑、紫に彩られた金平糖が、妖精のお腹の中で仲良く手を取り合っている。『キラキラ』が金平糖みたいだなんて話したら、妖精に怒られてしまうのだろうか。


 七色のうち四色を難なくコンプリートできたことは、私に手応えとほんの少しの余裕をもたらした。少しの休憩も兼ねて、妖精に話しかける。


 「ずっと気になっていたことがあるんです。


 私の作るパンにキラキラが含まれているのだとすれば、このお店に並んでいるパンからキラキラを集めることができるのではないでしょうか? 虹の七色に使えるパンがあればお店からお持ちしたいのですが、いかがでしょう?」


 言いながら、私は妖精を手のひらに乗せてガラス窓に近づけた。時間は遅めのランチ時間に差し掛かっていたところで、店には数人の客がパンを物色しているところだった。追加を補充するほどでもないけれど、籠に並ぶパンにも隙間ができ始めている。トレイにのせられずにまだ籠の中に収まっているパンたちは、選ばれる瞬間を今か今かと待ち焦がれているように見えた。


 ガラス窓に手をつき、額を擦り付けるようにして店の中を眺めていた妖精がこちらを振り返る。その目は伏せがちになっていた。


 「残念ですが、あちらに並ぶパンたちからは『キラキラ』の輝きが感じられません」


 私は不思議に思い、思い立ったまま妖精に問いかける。


 「どうしてでしょう? あちらに並ぶパンも、私が今作り上げているパンも、同じように心を込めてお作りしています。もちろん、私の夫も同じです。何が違うのでしょうか?」


 「それは、『鮮度』の違いでしょう」


 妖精は端的に答えた。


 その単語は、確かてるてる坊主型のクリームパンを妖精にあげる時にも一度だけ聞いた言葉だった。


 「焼き立てのパンじゃないと、キラキラは溢れない。そういうことでしょうか?」


 「今の状況では、そういうことです。


 わたしに見えている『キラキラ』は、ある種の『湯気』のようなものだと思ってください。特に食品から発せられる『湯気』は、出来立て、作りたてのものから多く出ていますよね?


 『キラキラ』もその原理と似たようなところがあります。心を込めてパンをお作りしていることはもちろん心得ておりますが、恐らく、パンにその『心』を込められるのはお作りしている間だけのことでしょう。パンが焼き上がってしまえば、その『心』から発生した『キラキラ』も時間と共に冷めていってしまうのです。


 人生をかけて成し遂げたい強い願いや、あるいはその夢に敗れた時の悲しみといった『気持ち』のように、ヒトの内から強く永続的に燃え上がるものでない限り、『キラキラ』は刹那的なものに過ぎません」



 妖精は真面目な顔をして短い腕を胸の前で組んだ。さながら、厳しい体育教諭のような雰囲気を醸し出している。


 「わかりました。そういうことでしたら、残りのパン作りも進めてしまいましょう。

 日が暮れる前に、虹を描いて欲しいですから」


 もう一度作業台の前に戻ろうとすると、手のひらの妖精が声を出す。


 「ちょっと、失礼。先ほどから、あちらのパンも気になっていたのです。あの大きなパンはしばらくあそこに置いてあるようですが、お店には並ばないのでしょうか?」


 妖精が気にかけたのは、昼前に焼き上げた山型食パンのことだった。


 「あれは、あそこに置いてしっかりと熱を冷ましているところです。あのパンは夕方駆け込みでいらっしゃるお客様にも買われることが多いですから。明日の朝食用に、とかですかね。そういったお客様にお出しできるように、じっくり時間をかけて準備しているところなんです」


 「時間をかけて、熱を冷ます……。それが準備になるのですね。

 作られてから時間が経過しているにも関わらず、じんわりとですが輝きが増していっているように見えて仕方がなかったのです」


 「まあ、あの食パンからキラキラが出ているということですか?」


 「恐らく。もう少し、近くで見てもよろしいですか?」


 「ええ、もちろんです」


 妖精を手のひらに乗せたまま工房を歩く。黒いラックの中には1斤のずっしりとした山型食パンを何本ものせていた。妖精がじっくりとパンに目を凝らす。


 「ああ、静かに輝こうとしている気配を感じます。このパンには、中に何かが入っているのですか?」


 「いいえ、何も。中に何か入れるとしたら、食パンを切り分けた後ですかね。サンドイッチにして食べると、野菜や卵などの栄養も摂れてお勧めですよ。


 あ、そうか……」


 次に作るものに気がついてしまった私は、ラックの中から一本の山型食パンを手に取った。


 「甘いパンばかりが続いてしまいましたが、妖精さん、野菜はお好きですか?」


 作業台の上に移動させた妖精は、面白いものでも見るかのように食パンを切り分ける私の手元を覗き込んできた。


 「ええ、もちろん。新鮮な野菜なら尚更歓迎いたします」


 瞳を輝かせる妖精の目の前で、丸い野菜を薄く切る。切り終えた後には、まな板の上に赤い汁が垂れていた。


 業務用の冷蔵庫からハムとチーズも取り出し、レタスは洗って手で軽く千切った。挟む具材の準備ができたら、まずは耳を切り落とした食パンにマヨネーズとマスタードを薄く塗る。その上にレタス、チーズ、ハム、そして真っ赤な汁を輝かせたトマトを載せた。さらにレタスを載せてパンで閉じ、出来たサンドイッチをワックスペーパーで包む。少しの時間を置いて馴染ませてから三角になるように包丁を入れると、具沢山なサンドイッチの完成だ。


 サンドイッチの断面を見せたとき、妖精は感嘆の声を漏らした。


 「ああ……、美しい。


 新鮮なトマトと、食べ応えのありそうなハムと、それからじっくりと時間をかけて準備を整えてきた食パン。それらから、エネルギッシュな赤いキラキラが滲み出ています」


 妖精のだらしなく開いた口からは涎が垂れかかっている。そのことに気がついたのか、思い切り息を吸い込むと妖精は咳払いをして姿勢を正した。


 「鮮度の良いうちに、いただいてもよろしいですか?」


 あくまで紳士的な振る舞いにこだわる小さな妖精が可愛くて仕方がなかったのだが、本人は至って真剣なので笑うわけにはいかない。


 「もちろんです。どうぞ、お召し上がりください」


 妖精は改まってサンドイッチに手を合わせる。


 「ちょっと、失礼。いただきます」


 その言葉が聞こえてくると、またもやお皿の上に乗っていたサンドイッチは一瞬のうちに見えなくなった。皿の上に取り残されたワックスペーパーは、サンドイッチを包んでいた時とまるで変わらない形状のままだ。お皿の上にはパン屑さえも残されていない。


 妖精は食べる前と同じように手を合わせ、空っぽになった皿に深々とお辞儀をした。


 「ご馳走様でした。おかげさまで、わたしの体の中に五つ目となる赤いキラキラが蓄えられました。


 これほどの短時間で五色のキラキラを生み出してしまうとは、実に素晴らしい」


 妖精からの褒め言葉はとても嬉しいものではあったが、手放しで喜べない部分もあった。


 最後の二つの色。これが一番難しいとわかっていたからだ。


 「残るは青色と、藍色ですよね。ずっと考えてはいるのですが、なかなか良いアイディアが浮かばなくて……。

 そもそも、青い色の食べ物ってそんなに多くないものですから」


 妖精は深く頷いて答える。


 「わかりますよ。この世界で『青』は主に『海』とそして『空』の色ですからね。食べ物には不向きなのかもしれません」


 「名前に『青』の入っているブルーベリーなんかは青い食材の代表格かもしれませんが、旬の時期を過ぎているのでうちでは取り扱いがありません。


 他に良さそうな『青』を考えているのですが……」


 作業台を前にして文字通りに頭を抱えていると、後ろの方で工房のドアが開く音がした。


 「どうした、頭でも痛いのか?」


 振り返ると、店で接客をしていたはずの夫がドアの取手を掴んだまま突っ立っている。


 「大丈夫、なんでもない」


 心配をかけてしまったことが恥ずかしく、私はすぐに椅子から立ち上がってコック帽を被り直した。


 「大丈夫なら良かった。

 それで、ちょっとこっちに来てくれないか?」


 夫の言う「こっち」とは店のことだ。レジに待機列などが出来てしまった際にはパンを作る担当者も一度店に出て手伝いをすることはあるけれど、雨の降る今日にその必要はないとふんでいた。


 店の中に視線を走らせるも、やはりレジ前が混んでいるわけではなさそうだ。もしかすると、夫でも対応しきれないクレームなど、何か良くないことが起きてしまったのだろうか。一抹の不安が頭をよぎる。


 「どうしたの? 何かあった?」


 しかし、夫は「いいから、早く」としか言わない。そして工房から出る最後まで、作業台の上にチョコンと座る妖精の存在には気が付かないようだった。


 私は妖精に目配せをし、夫の後に続いて工房を出る。ドア一枚を隔てて工房と店はつながっていた。


 「お待たせいたしました」


 先を歩いていた夫が店の入り口付近で待つ老夫人に声をかける。何度も見たことがあるその老夫人は、近所に住む常連客の一人だ。


 近づいてみると、老夫人の手には杖と傘が握られていた。この夫人はいつも杖をついて歩いて来るので、今まで雨の日に店に来たことはなかったはずだ。


 「お足元の悪い中、来てくださったんですか?」


 声をかけると、老夫人は困ったように笑いながら言った。


 「いえね、本当はもっと早くに伺いたかったのよ。でも雨がなかなか止まなくて、結局止まないから小雨になった今日お出かけしてみることにしたの。


 ポンちゃんのこと、他の常連さんから聞いたものだから、どうしても早く伺いたくて……」


 老夫人はポンちゃんがいた店の前に視線を向けた。そこにポンちゃんはもういないというのに、夫も私も老夫人につられてポンちゃんの定位置だった軒下を見つめてしまう。


 「ご迷惑じゃなければ、花を手向けさせてほしいの。

 ポンちゃんに相応しく、愛らしい花ばかりで花束を作ってもらったのよ。どうかしら」


 老夫人は手を小刻みに振るわせながらゆっくりと持ち上げる。傘とビニール袋が擦れる音がした。夫がすかさず老夫人の手からビニール袋だけを受け取り、私にも見えるように袋の口を大きく開く。


 大きな花束だ。ピンクのチューリップと、オレンジのガーベラと、黄色のバラがそれぞれ4、5本ずつ使われているのが目に入る。それらを中心として、白い霞草と、青い勿忘草と、淡い紫色のライラック、それから黄緑色のラナンキュラスが脇を彩っていた。偶然にも、七色を使った花束。それはまさしく老夫人の言う通り、あの天真爛漫なポンちゃんにぴったりの花束だった。


 「ありがとうございます。お心遣い、感謝いたします」


 声にならない想いを噛み殺すのに必死な私の背中に手を添えながら、夫は老夫人に頭を下げた。それから花瓶の在処を私に問いかけてくる。私は花瓶を探しに一度家に戻ることができ、溢れそうになる涙を飲み込む時間をもらった。


 大きな花束が入るよう、一番大きな花瓶を手に持って店に戻った。夫の手には、いつの間にかポンちゃんの着けていた首輪が握られている。夫はその首輪と七色の花束を、ポンちゃんの定位置だった場所に並べて置いた。こちらから指示したわけではないのに、ポンちゃんはいつもこの場所にいた。保育園から帰ってきた娘と一緒に二階の家に上がるまで、晩年のポンちゃんはこの場所を動かなかった。


 ポンちゃんは、この軒下で何を見ていたのだろうか。行き交う人々の、どんな声を聞いていたのだろうか。


 ポンちゃんの着けていた首輪を見つめる。首輪は晴れた空のように美しい水色をしていたはずなのに、ポンちゃんが着けていた年月だけ黒ずんでしまっていた。昼と夜が交わるような、そんな青だった。


 老夫人は山型食パンを半斤だけ買い、杖をつきながら傘を差して帰って行く。頂いた花束は、ポンちゃんが生きて愛された証だ。その花束が私には眩いほどに輝いて見えた。


 工房に戻ると、妖精は作業台の上でお行儀良く正座していた。目が閉じられて動きがないので、本当にお人形なのではないかと錯覚してしまう。


 しかし、水道で手を洗った直後に妖精は大きな目を見開いた。


 「おかえりなさいませ」


 「妖精さん、動きがないからてっきり眠ってしまったかと思いました。ほら、たくさん食べた後は眠気が襲ってくるものですから」


 妖精はおどけたように笑う。


 「私は花の蕾の中でしか眠りません。あそこが一番安全な場所ですから」


 花の中が一番安全な場所だなんて、小さな世界はわからないものだ。


 「目を瞑って静かに動きを止めていたのは、余計な力を使わないようにするためです。体から陽気な力がみなぎってくるとはいえ、鼻歌まじりに踊ってしまえばわたしの中に蓄えたキラキラのパワーが溢れ出てしまいそうで、抑えていたのです」


 「そうでしたか。残りの二色も、急いだ方が良さそうですね」


 「そうしていただけると大変ありがたいのです。ですが、先ほどのお話では難しいということでしたよね?」


 妖精がほんの少しだけ不安そうに眉をひそめる。ポンちゃんもよく眉毛を動かして表情をコロコロと変える子だったので、妖精のその表情がポンちゃんの悲しそうな顔と重なって見えた。


 「大丈夫、心配しないでください」


 ポンちゃんにいつもそうしていたように、私は妖精の頭を撫でる。


 「ポンちゃんの首輪が私に教えてくれました。首輪に似たあの形のパンなら、きっとどんな色を使っても美しいものになるに違いありません。


 ちょっと、パンとは違うかもしれませんけれど。休日に家でよく手作りしていたものなんです。作っている時はいつだって良い匂いにつられて、娘とポンちゃんは体を重ねるようにしてキッチンを覗いていました。ポンちゃんには生前は食べさせてあげられなかったけれど、今ならとっておきのものを作ってあげられます。


 ちょっと、待っててくださいね」


 これを作るのは、ポンちゃんが亡くなってから初めてのことだ。いつもの通りに作れば良いだけなのに、なぜか心がざわついた。大きなボウルに小麦粉と卵、牛乳を入れて混ぜる間、私の後ろにはポンちゃんがいるような気がした。お行儀良くお座りし、モップみたいに大きな尻尾を床に擦り付けるようにして振っている。出来上がるのを今か、今かと待ち侘びているようだ。まるで、私がこれを作るのを最初からずっと待っていたみたいに。


 生地を丸い輪っか状に形作って油で揚げると、出来上がりはもうすぐそこだ。


 しかし生地を揚げただけでは当然残りの青色と藍色の二色を再現することはできない。そこで、デコレーションが必要だった。


 私が考えたデコレーションはチョコレートを使う方法だ。溶かしたホワイトチョコを色付け、青色と藍色の二色を作る。二色のチョコを揚げた生地にたっぷりとかけ、さらに銀色のアラザンと星のトッピングで飾り付けた。思い描いた通りに出来上がったそれは、星空の色に染まったドーナツだ。ポンちゃんの首輪から輪っか状のドーナツを思いつき、そして首輪の色から夜明け前の空を連想した。


 一日中パン屋を切り盛りしている私たち夫婦は、ポンちゃんと早朝や夜の散歩に出かけることが多かった。散歩している間だけは、パンのことも娘のことも気にすることなくポンちゃんと一人と一匹だけの時間を楽しむことができたように思う。静かな空気の中、ポンちゃんの爪がコンクリートの地面を蹴る音が響く。その時間が好きだった。ポンちゃんは、どうだったのだろう。


 出来上がったドーナツを妖精に差し出すと、妖精はにこやかに頷いた。


 「これは、パンに夜空を描いたのですね。まるで空の色を塗るわたしと同じことをなさったようです。とてもおもしろいのです」


 「そんな、まさか。私のはただのデコレーションで、言ってみれば塗り絵のようなものですよ。妖精さんのお仕事とは訳が違います」


 「パンに、塗り絵、ですか?」


 「ええ、そうです。揚げたドーナツにチョコレートで塗り絵をしたんです」


 「そうですか……、塗り絵、ですか」


 妖精は考えるように俯き、そして朗らかな顔を見せた。


 「良いことを教えてもらいました。わたしの仕事もきっと、空の塗り絵をすることです。ヒトの心から溢れ出るキラキラを使って、ヒトの心を見透かしたかのような空の色を塗る。それがわたしの仕事です。わたしの仕事は、ヒトが見上げたくなるように空の塗り絵をすることです」


 妖精は無邪気に笑い、それからお決まりのセリフを言った。


 「ちょっと、失礼。いただきます」


 私は窓の外に目を向ける。雨はまだ滴り落ちていたけれど、雲には切れ間が見えそうな気がした。


 空を見上げていると、不思議に思うことがあった。


 悲しいことがあって落ち込んでいるとき、ポンちゃんと散歩中に橋の上から見上げた夕空が悲しいほどに綺麗だったことがある。オレンジと黄色と、それから紫と水色にグラデーションする空を見つめていると、私の心の奥はギュッと締め付けられた。切ない色の空は私の気持ちと似ているところがあった。どうして私の心に寄り添ってくれるような空の色を眺めることができたのだろうと、その時は不思議に感じた。


 そうかと思えば、定休日に娘と夫とポンちゃんで出かけた散歩中に見上げた空は、どこまでも広がる青空だった。このまま宇宙の果てまでずっと青が続いているのではと錯覚してしまうほどに突き抜けるような『空色』だった。すっきりと晴れ渡る空は、家族と過ごす愛しい時間に満足している私の気持ちそのものだった。心と空の色が気持ち良いほどにピッタリと重なると、想像以上に嬉しくなった。


 そんな風に、いつだって空は私の心を表しているような色をしていた。今だって、そうだ。


 ポンちゃんが亡くなってからの五日間、私の心は塞ぎ込みたいくらいに荒んでいる。一日中泣いていたいほどの悲しみが全身を包んでいるようだ。空は、そんな私の心を映して泣いている。止まない雨は私の心そのもののように感じてきた。


 しかしそんなことはただの偶然で、思い上がりで、その時の気持ちによって空の色が時々に見えているだけだとわかっているつもりだった。空はいつだって誰の上にも平等にあるものだから。空はいつだって誰のものでもないのだから。


 しかし目の前に現れた妖精は、ヒトの心から溢れるキラキラを空の色に変えるらしい。私にはそのキラキラが見えないから、今のところただ妖精にパンを作って食べさせているだけなのだけれど。


 ぼんやりと思考を巡らせていたら、すでにドーナツを食べ終えていた妖精と目が合った。


 妖精は不思議そうにこちらを見つめている。私は急いで笑顔を作った。


 「ご馳走様でした。最後の二色も、無事に私の中に集まりました」


 妖精が笑う。窓の近くまで歩き出す妖精を追いかけると、外は雨の上がる気配がした。


 「仕上げに、虹を描くために色を調合したいのです。


 ちょっと、失礼。そちらの筆はお借りしてもよろしいでしょうか?」


 妖精が指差す方に、筆などはなかった。ここは厨房だから、絵を描くための道具なんか置いてあるはずがない。


 けれども、よく目を凝らしてみると筆として使えそうなものがあることがわかった。並べた調理器具の中に、フサフサの毛がついたものがある。それはパンの表面に卵液を塗るためのハケだった。


 「虹を描くためにはちょっと小さすぎる気もしますが、大丈夫でしょうか?」


 とりあえず妖精にそのハケを渡すと、妖精は何も問題はないという様子で頷く。


 「ありがとうございます。お借りします」


 そして窓際に立ち、ハケを持って静かにゆっくりと回り出した。木枯らしに吹かれた落ち葉のように円を描きながら、妖精は大きく前に進んでいく。そして高く飛び上がったかと思うと、妖精の体はすでに窓の外に飛び出していた。


 「ちょっと、失礼。行ってきます」


 空高く飛び上がる前にそう言った妖精は、虹色に光るハケを握りしめていた。


 額を窓に押し当てるようにして妖精の消えた空を見上げる。雨は小雨になり、空からは薄い光が差し込んできていた。私は工房の扉を開けて店に出る。そしてそのまま店のドアも開けて外に出た。


 「お、おい。急にどうしたんだよ」


 客のいない店をほっぽり出し、夫が私を追いかけてきた。二人でポンちゃんのいた軒先に並んで立つ。空ばかり見上げる私の横顔を、夫は空と交互に見つめているみたいだ。


 「雨が上がりそうなのよ。やっと。やっとポンちゃんが空に還れるかもしれない」


 夫は、何も言わずに私と一緒に空を見上げてくれた。


 行き交う人の中に傘を差す人はもういない。数日ぶりに見た太陽の光は、雲の切れ間から線のようになって地上に降り注いでいる。まだ空にはいくつも雲が浮かんでいたけれど、その雲に太陽の光を邪魔する力はもう残されていないみたいだ。どんどんと切れ間が大きく広がってゆく。


 「あ、あそこ」


 夫が腕を上げて人差し指を伸ばした。急いでその先に目を凝らす。去り行く雲のその手前、七色に光る虹が姿を現したところだった。


 「虹だ……。本当に、虹が出た」


 夫の声はほんの少しだけ震えて聞こえた。


 私と夫は虹が現れてから空の彼方に消えてしまうまで、ずっと並んで空を見上げ続けた。行き交う人々に変な視線を投げられはしたが、私たちのように足を止めて空を見上げる人はいなかった。まるでその虹が私たちにしか見えていないのではないかと疑うほどだ。でもそのおかげで、あの虹は私たちとそしてポンちゃんのために妖精が描いてくれたものだと自惚れることができた。


 雨の上がった夕方、私たちのパン屋に客が訪れ始める。夫は私を軒先に残してひと足先に客を店内へと招き入れた。私は一人、もう虹の見えない空を見上げる。


 それから店の中に入るために体を反転すると、足に何かがぶつかった。見ると、先ほどポンちゃんに手向けた花の花瓶に靴先が触れてしまったようだった。


 花瓶を倒してしまわなかったことに心を落ち着かせ、花瓶を持ち上げてもっと店の壁際まで移動させる。横に並べたポンちゃんの首輪もそちらへ移動させようとしたけれど、首輪がどこにも見当たらなかった。


 ポンちゃんの首輪が無くなったと知ったら、保育園から帰ってきた娘がきっと悲しむ。


 そう思っていたけれど、長靴を履いて水溜りで遊ぶ娘は空を見上げて言った。


 「ママ、きょうね、にじがみえたよ。

 ポンちゃん、やっとにじのはしをわたれたんだね」


 穏やかに微笑む娘に、私はポンちゃんが首輪を虹の向こうまで持っていってくれたような気がした。


 娘と手を繋ぎながらもう一度見上げた空は、美しいほどに晴れ渡っていた。


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