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第三章 雪

 手紙はポストに届くばかりではないと知ったのは、雪の降る寒い冬のことだった。


 その日、私は降り積もった雪で何をして遊ぼうかとずっと思案していた。先生が黒板に掛け算の式を板書していても、友達が式の答えを導き出せずに困っていても、私の目は窓の外に見える雪景色に奪われたままだった。こんなに雪が積もっているのだから、かまくらを作るのも夢じゃないと期待に胸を膨らませていた。早く外に出たい衝動を抑えるので精一杯だった。


 やっと授業が終わって家路に着くと、私は防寒用の手袋をはめて庭に飛び出した。手始めに小さな雪玉を作り、家の壁や木の幹に向かって投げつけた。雪が当たった箇所は弾丸で撃ち抜いた跡みたいに印が付くので面白かった。何度も全力で投げ続け、いつの間にか家の壁は雪玉の跡でいっぱいになった。


 投げることに飽きると、私は次に雪だるまを作り始めた。小さな雪玉の上にさらに雪を押し付け、丸く太らせていった。雪を押し付ける量を間違えるとそこだけぽっこりと膨らんでしまい、雪玉はたんこぶができたみたいな形になった。綺麗な丸を作るのがこんなに難しいことだとは思いもよらなかった。


 不恰好な雪だるまを三体ほど作り終えてしまうと、最後にはかまくらを作った。雪かきに使うスコップで雪を一箇所にかき集め、固く半円形に整えてから中をくり抜く。一人で作業したためか思ったより小さくなってしまったけれど、初めて作ったかまくらはいつまでも入っていられるくらい居心地の良いものだった。私は家の中から膝掛けと本などを引っ張り出し、そこで読書を始めた。かまくらの中は意外にも暖かく、静かな秘密基地となった。


 「こんなところで何しているの?」


 開いた穴の方から声がして、本から目を上げるとそこには近所に住む幼馴染のお姉さんがいた。中学校の制服を着たお姉さんが、寒そうに鼻の頭を赤く染めていた。


 「一緒に入っても良い?」


 私はもちろん「良い」と答えたかったのだが、一人で入っても狭いと感じるかまくらだった。お姉さんが中に入りたいのなら私が一旦外に出た方が良いだろう。そう思って腰を浮かせると、私が動く間もなくお姉さんはかまくらの入り口を塞いだ。気づいたら、すでにかまくらは私とお姉さんでギュウギュウに詰まっていた。


 「あはは、ちょっと、二人で入るのには狭すぎたね」


 腕や足を密着させながら、お姉さんは笑った。私は手に持っていた本を開くこともできず、ただ置かれた状況に鼓動を速めた。


 「雪ってさ、顕微鏡で覗くと綺麗な六角形に見えるんだって。知ってた?」


 かまくらの壁面を細い指先でなぞりながらお姉さんは言った。


 「知ってるよ、そんなこと」


 いくら年下だからと言っても、侮ってなど欲しくはなかった。


 「じゃあさ、その雪の結晶って、『天からの手紙』って言われているんだって。これは、知ってた?」


 どんな質問にも「知ってた」と答えたかったのだが、私の願いは叶わなかった。口ごもってしまうと、お姉さんはしたり顔で笑った。


 「この雪たちには、どんな手紙が書かれていたんだろうね?」


 その日から、私の心は雪の結晶に書かれた手紙を読み解くことに夢中になってしまった。




 顕微鏡から目を離す。乾いた眼球を潤すために目を瞬かせてから眼鏡をかけた。壁に掛かっている時計に焦点を合わせると、時刻はすでに午後四時を回ろうとしていた。今日の朝に雪が降り出してからずっと顕微鏡と睨めっこをしていたら、いつの間にかこんな時間になってしまっていたらしい。腹の虫が鳴ったことで、昼食もとり忘れていたことに気が付いた。


 「先生、天からの手紙は読み終わりましたか?」


 研究室に残っていた後輩が私に声をかけてきた。


 「ああ……」


 食事も水分も摂らずに没頭していたためか、喉がカラカラで掠れた声しか出なかった。咳払いを一つして、もう一度声を絞り出す。


 「重い低気圧の元で作られた雪の結晶だったと思われる。君も、早く家に帰った方が良いだろう。他のみんなはすでに家路に着いたのだろう? 天気予報の通り、今夜の積雪量は甘く見ない方が良さそうだ。電車もバスも動いているうちに帰りたまえ」


 「うひゃあ、先生がそう言うなら間違いないや。


 それじゃ、お先に失礼しますね。先生も歩いて帰る距離とはいえ、早めに帰ってくださいよ。奥さんが心配して待っているでしょうから」


 余計なことばかり言い連ねて帰る後輩の背中を見送ってから、私はまた顕微鏡に目を向けた。


 雪の結晶は一つとして同じものが無いと言われている。結晶が作られる時の大気の状態によって、形成される形がさまざまであるためだ。今朝降ってきた雪の結晶は、昨日降った雪の結晶とは明らかに違う形をしていた。自然が作りだす『個』はいつだってその瞬間にしか出会えないものばかりだから、何年経っても見飽きることがない。


 それでも、何百種類の雪の結晶と対峙していれば「似通っている」ものは目にしてきた。私は以前に大雪が降った時に観測した雪の結晶の写真を棚から引っ張り出し、顕微鏡の横に置いた。顕微鏡の中の結晶と、大雪の日の結晶を見比べる。やはり、思った通りだ。二つの結晶は構造に似ている箇所がいくつも見てとれた。


 雪の結晶が似ているということは、雪の結晶が作られた時の雲の構造や低気圧の特徴が似ていたのではないかと推測することができる。


 つまり、窓の外で今も降り続いている雪は恐らくこのまま降り続け、かつての大雪の日と同じくらい降雪量が増すばかりであると予測されるのだ。


 机の上の写真を見つめれば、あの大雪の日のことが脳裏を掠める。飛行機も、船も、電車も、バスも含め、あらゆる交通機関が麻痺していた。除雪が間に合わずに道路も封鎖され、自家用車ですら走らせることはできなかった。


 降り続ける雪に、「家が押しつぶされちゃったらどうしよう」と妻は嘆いた。私は雪に埋もれた妻と私を夢想し、「あの日のかまくらみたいだね」と囁いたのだが、妻は何と答えたのだっただろうか。



 私は顕微鏡の中の雪の結晶を写真に収め、観測記録をパソコンでまとめた。大雪の日の写真と同じファイルに今日の雪の写真も収めて棚に戻す。


 コートを着て身支度を整えてから、机の上に忘れ物がないかをチェックした。携帯電話や財布などを忘れたとて、大雪の中ではここに取りに戻ることもできなくなる。机の上の物をくまなくチェックしていると、卓上カレンダーがふと目に留まった。


 「なぜ、今日の日付に丸印が付いているんだ?」


 研究室関連の予定はどんな小さなものであれ何かと印をつけたりメモを書き込んだりして忘れないようにしているのだが、今日という日には特別に赤いインクを使って丸が書かれていた。もちろん、ここに丸を書いたのも私自身であるはずなのだが、どうにも書いた理由が思い出せない。


 「妻の誕生日は今日ではないし、むろん私の誕生日でもない……」


 すると、私たちに残された記念日は一つしかなかった。


 「そうだ、今日は結婚記念日ではないか!」


 今朝、雪の降る光景を目にする前までは確実に覚えていたはずだった。昨日の夜、ベッドの中で眠りにつく前には「明日はケーキと花を買って帰るから」などと妻にも約束をした気がする。


 それなのに、玄関を開けて舞い落ちる雪が目に入った途端に私の頭の中は結晶のことでいっぱいになってしまっていた。


 「また、やってしまった……」


 いつも、私という奴はこうも情けない奴なのだ。去年の妻の誕生日にもケーキを買って帰ることを忘れ、妻に見つからないようにと研究室に隠しておいた妻へのプレゼントさえも持ち帰ることを忘れて帰宅した。


 「また、天からの手紙を読むことに夢中になっていたの?」


 妻は頬を膨らませ、玄関先で仁王立ちしていた。その日は帰ったばかりの家を飛び出し、夜遅くまでやっているケーキ屋を探すために町中を走り回った。結局、家の近所のケーキ屋はどこも閉まっていて、私は街の中央にある駅のデパ地下までケーキを買いに行く羽目になったのだった。


 そしてまた、窓の外に目を向ける。


 「この大雪の中、営業しているケーキ屋などあるのだろうか……」


 私は早々に近所のケーキ屋をあきらめ、中央駅まで走るバスの時刻表を確認することにした。


 バスの運行状況をネットで調べると、まだかろうじて運行しているものの研究室からほど近いバス停からはあと数本程度しか走らないと案内があった。次のバスが出発するのは、今から5分後だ。私は急いで研究室の扉を施錠して外に出た。


 雪は、明らかに朝方よりも積雪量を増していた。シンシンと降り積もる雪に長靴が埋まる。足取りは重いまま、バス停を目指して懸命に太ももを高く上げて前に進んだ。



 中央駅に着くと、タクシーを待つ人々が長蛇の列をなしていた。誰も彼もが手元の携帯電話を操作するために重い頭を下げている。降り積もる雪に心を躍らせている者など一人もいない。下ばかり向いている人々の横を通り過ぎ、私は駅構内へ入った。


 しばらく歩いていると、駅構内にいる人の数が少ないことに気がついた。いつもはもっと人で溢れかえるほどの大きな駅だ。まるで人々が全て駅の外に追い出されてしまったかのようだ。改札の前を通り過ぎると駅はすでに機能を停止させていたらしく、運行休止の案内が改札を封鎖していた。


 そして、私は間抜けにも反対側の駅の出口に着いてから気が付くのだった。改札を出てすぐにあるはずのデパートへの入り口に、全てシャッターが下ろされていたことに。


 駅の中に戻って改札まで走る。向かい側のシャッターに貼り付けられた紙には、電車の運行休止と共にデパートも営業を終了させる旨の案内が記されていた。従業員の安全を最優先に確保するために仕方のないことだったらしい。


 少し考えればわかりそうなものだったのだが、そんなことにも考えが至らない自分の頭に私は少なからず失望した。


 それから私は帰りのバスへ乗るための列に並ぶ。列の最後尾はどこまでも長く伸びていて、一体どこへ向かうバスの列なのかわからなくなるほどだった。果たして自分が並んだ列は自宅の最寄りまで向かうもので合っているのかどうか、不安は拭えないまま前に並ぶ人の背中を見据える。


 空からは絶えず雪が降り続いていた。真っ白で、柔らかくて、すぐに風に煽られてしまう小さな雪の粒子だ。間違ってアスファルトなどに着地してしまった雪は形をとどめておくことができず、すぐに水へと姿を変えてしまった。


 雪が、雪のまま地上に降り立つことは実はそう容易いことではないのだ。いくつかの気象条件が揃って初めて、雪は雪のまま私たちの前に姿を現してくれる。


 ふと気が付くと、風に舞って飛んできた雪が私のコートにひっそりと付着していた。私のコートは流行りの温かいダウンものではない。防寒性には若干の不安を抱える毛羽立つタイプのものであるがゆえに、コートの上の雪は繊維に張り付くようにしてしばらくそのままの姿を保つことができていた。


 雪が、またコートに付着する。私は息を殺してその雪を眺める。目を凝らして小さな結晶を眺めつつ、進まないバスの順番を待った。




 結局、私は手ぶらのまま帰宅することができずに研究室の前のバス停で降りた。私が研究室を出た時に開けた足跡の穴は、すでに新しい雪で塞がりつつある。その隣に新しい足跡をつけながら深雪を踏み締めて研究室の扉を開けた。


 ケーキも花束も買うことができなかった私に残されたのは、この研究室の中にあるものだけだった。ここで今からケーキを作ることなどできるわけもないが、花なら用意できるのではと思い立ったのだ。それも、恐らくは世界で一番儚い花だ。触れてしまえばすぐに消えてなくなってしまう。そんな、雪の花。別名を六花と呼ばれることに気がついた、私なりに機転を効かせた結果だった。


 今朝降った雪の結晶は、明日以降も観測を続けようと余りあるほどに採取していた。特別な冷凍庫の中で保管しておいたから、それらを束ねて花束にしたい。なかなか根気のいる作業であることに間違いはないが、私は意を決して保管庫のドアを開けた。


 その瞬間、中から何かが転がり出てくる。


 カラコロ、カラ。


 音を立てて転がったものを目で追うと、小瓶のようなものが保管庫から飛び出してきていた。親指程度の大きさしかない、ごく小さなガラス瓶だ。そしてその小瓶は、目を閉じて安らかに眠る表情の小人に大事そうに抱えられていた。


 「なんだ、このマスコットは?」


 他の研究部員が間違えて保管庫に入れてしまったのだろうか。一度保管庫のドアを閉じ、転がり出てきたマスコットごと小瓶を拾う。目の高さまで掲げて見ると、小瓶の中には青白く輝く雪の結晶が詰められていた。キラキラと優しく輝き、踊るように舞っている。しばらくその美しさに見惚れていると、雪の結晶は私の手の熱で溶けたのか、その姿を水に変えてしまった。


 「まるで本物の雪の結晶みたいじゃないか。どんな物質で作られた物なのだろう?」


 研究者としての本能とでも言うべきか、私の中の童心が疼く。温度変化によって小瓶の中の物質が形を変えるのならば、もっと温めてみたらどうなるのか見てみたくなった。私は研究室にある足元用ヒーターの電源を入れた。ジリジリと熱がこもり始める。小瓶を抱えて眠る小人のマスコットごとヒーターに近づけていると、手の中で何かがモゾモゾと動き始めた。


 「ふわぁ、なんと暖かい。もう春が訪れたのでしょうか?」


 それは、手の内のマスコットから発せられた音声であるらしかった。


 「なんと、これは……。温めると小瓶の中の物質ではなく、マスコットの方に変化が現れる仕掛けだったのか。

 しかも、小さな目で瞬きまでしているではないか。一体、どんな仕組みなのだろう?」


 「ちょっと、失礼。そんなに近くで見つめられては困ります。あなたの吐く息でわたしは今にも飛んでいってしまいそうなのです」


 「やや、これは失敬」


 あまりにも自然なマスコットの言動に、つい人間と対峙しているかのような口ぶりになってしまった。相手はおもちゃか、AIが組み込まれた精密な機械であると言うのに。


 気を取り直して、もう一度マスコットを眺めてみる。


 マスコットは私の目の前で大きく伸びをし、それから小さな口を大きく開けてあくびを一つした。あくびの後には潤んだ瞳を爪楊枝ほどの細さしかない指先で拭っている。まつ毛の一本一本まで細かく再現されており、首の動きも手の動きも驚くほどに滑らかだった。


 「マスコットをこれほどまで精巧に作り上げる技術……、どこの誰が保有しているというのだろう……」


 感心に唸り声を上げると、手の内のマスコットと目が合った。


 「先ほどから、何を仰っているのです? マスコットとは、もしやわたしのことを仰っているのでしょうか?」


 何やら少しご立腹の様子で、マスコットは私の目を覗き込んできた。


 「あ、ああ、すまない。君の精密な造りに感動してしまってね。

 一体、どこの誰が君を作ったのか教えてもらうことはできるかな?」


 「わたしを作った者を知るということは、この宇宙が、そして地球が、どのようにして造られたかを知ることと同じくらい難しい問題なのですよ」


 「随分と壮大な話だなあ……」


 「もちろんです。わたしはこの世界に住む妖精なのですから。難しくて、壮大で、かつ神秘的でなければなりません」


 「妖精? 君が?」


 「ええ、そうです。わたしは空の色を作って塗る妖精です」


 「空の色を作る? 君が?


 では、もしや君が空から降る雪の結晶を作るということもあるのだろうか?」


 「いえいえ、それは専門外です。同じ空に関わる仕事を持つ妖精たちは確かに他にもたくさんいますが、わたしが専門としているのは『空の色を作って塗る』。たったそれだけです。


 しかも、近頃は空の神様から言付けをいただいてしまったところなのです。『人々が見上げたくなる空の色を作って塗りなさい』と。ですから今まで以上に仕事に励み、こうしてあなた方ヒトに見つかってしまう機会が増えたということなのです。妖精として、ヒトに姿を見られることはあまり好ましくないことですが……。これも仕事のためです。致し方ありません」


 独り言を言うように、妖精はボソボソと呟いていた。


 「あの……、もう一つ質問したいことがあるのだが、構わないだろうか?」


 俯きかけていた頭を上げ、妖精は私を見て微笑んだ。


 「なんなりと」


 「君は、先ほど『空の神様から言付けをいただいた』と言っていたね。

 それは、神は空におられるという意味なのだろうか?」


 これもまた、宇宙の創造がどうやらとか、きっと上手くはぐらかされてしまうのだろうと予感はしていた。


 そして妖精は思った通り、首を横に振る。


 「それは、わたしにもわかりません」


 想像通りの返答だった。

 しかし、妖精は言葉を続けた。


 「わたしは手紙をいただいただけですから」


 「手紙? 神から?」


 「ええ。神様は手紙でやりとりするのがお好きなようですからね。神様から送られてくる言付けは、いつも風に舞ってわたしの元まで届けられるのです」


 「神からの手紙か……そうか」


 頬が勝手に緩んでしまうが、口元を隠そうにも両手にはまだ妖精が乗っていた。私はニヤついた顔を少し下に向けることでしか喜びを隠せなかった。


 「何やら大変嬉しそうなお顔をしておられますが、どうかしたのでしょうか? 神様が手紙好きでいらっしゃることが、あなたをそれほどまで喜ばせているのですか?」


 「い、いや、なんと言って良いのかわからないんだが……。

 その、神からの手紙と、空に仕える君と、そのようなものが存在していたということ自体が嬉しくてたまらないんだ。

 私はいつも、『空から舞い落ちてくる手紙』を解読することに精を出しているものだから」


 「空からの手紙? もしやあなたも神様から手紙をいただいている、ということでしょうか?」


 私は首を素早く横に振る。


 「いや、違うんだ。そうじゃない。

 『空から舞い落ちてくる手紙』というのはね、『雪』のことなのだよ。

 偉大な研究者が、そういう言葉を残しているんだ。『雪は天からの手紙』だって。


 私はね、雪の結晶に書かれた手紙を読み解くために、毎日雪の結晶を見つめ続けている。『今度の手紙には何が書かれているのだろう』と、日々心を躍らせながらね。


 だから空の中に雪の結晶以外にも手紙が存在していると知って、酷く感動している、のかもしれない」


 「そうですか。あなたを喜ばせることができたのなら、何よりです」


 「ところで、君の持っていた瓶の中身についてもいくつか尋ねたいことがあるのだが」


 妖精は何かに気がついたように、そしてどこからともなく、雪の結晶が入っていた小瓶を取り出した。


 「はい、こちらのことでしょうか?」


 小瓶の中身はやはり溶けたまま、水のような液体が青白く輝いている。


 「そうだ、それだ。その小瓶の中に入っていた雪の結晶について聞きたい。日々雪の結晶と対峙している私でさえ、見たことのない形、そして色をした結晶だった。私が触れてしまったためか、すぐに溶けてしまったのだが。


 そもそもそれは、一体なんだ? 雪の結晶としての特徴を持っているにも関わらず、それにしてはいささか大きいような気もするのだが」


 妖精は大事な話でも始める前の大学教授の如く、片方の握り拳を背中に回し、もう一方の手を口元に添えて咳払いを一つした。


 「これは、空の色を作るための材料なのですよ。ヒトの想いが込められた雪の結晶です。わたしが少し力を加えたので、もはや雪の結晶そのものとは言い切れませんが」


 「つまり、元は雪の結晶そのものだった、というわけだろうか?」


 「はい、その通りです。わたしが空の色を作るために、ほんの少しいただいたところでした」


 「ヒトの想いが込められている、ということは、空から降ってきたばかりの雪の結晶というわけではない、ということで間違いはないかな?」


 「はい、そうです。いくら雪が綺麗でも、内から輝きを放つには少々時間がかかるものです。時間がかかれば、雪はいずれ解けるでしょう。結晶のまま姿を保つことは難しいはずです。


 その点、この結晶たちは元の姿のままに輝きを放っていました。希少な雪です。このようなものに出会うことができるなんて、わたしも少しはしゃぎ過ぎてしまったかもしれません。


 周囲の凍えるような寒さに気が付くこともできずに、キラキラの雪の結晶集めに没頭してしまいました。おかげで、あなたに出会うまで寒さのあまりに行動不能になっていたところでした」


 「その、つかぬことを聞くが。君はあの保管庫の中で眠っていたね。小瓶の中身はあの保管庫の中で手に入れたのだろうか?」


 「まさしく、その通りです。扉が開いた瞬間に忍び込みました」


 その答えを聞き、何やら嫌な予感がした。手の中にいた妖精を静かに研究机の上に置いてから、急いで保管庫のドアをもう一度開ける。


 「ない、ない……。保管していた全ての結晶が……、なくなっている」


 今朝採取した雪の中から時間をかけて形の綺麗な結晶を選別し、取っておいたはずだった。しかし、その全てが跡形もなく消えている。


 「あの……。断りもなくいただいてしまい、申し訳ございません。わたしもどなたかに尋ねてから結晶をいただきたかったのですが、あいにく扉が硬く閉まっていて開けることができなかったものですから……」


 振り返ると、妖精はその小さな姿を余計に小さくさせていた。


 「返してもらおうにも、その小瓶の中身はすでに私が溶かしてしまった。もうどうにもすることはできないようだ」


 「大変、大事なものだったのでしょうか……」


 「いや、なに。普段ならまたこの降り続いている雪を採取してくれば事は足りるのだけれどね。


 今日に限っては、少し時間がないものだから。今から雪を採取して、顕微鏡で形の良い結晶を選別して。それらを慎重に寄せ集めて花束に見せかけるとなると、今からやったら作業を終える頃には日をまたいでしまうだろう」


 「それでは間に合わない、ということなのでしょうか?」


 「ああ、残念ながら。


 私は妻の元へ手ぶらで帰るしかないようだ。結婚してから二十五年の月日が経った、今日という愛すべき記念日にね」


 妖精の顔が、徐々に青ざめていくのがわかった。それは寒さで眠ってしまった時よりも一層具合の悪そうな顔色だった。


 「少しいじめ過ぎてしまったようだ。


 なに、君が気にすることはない。元を辿れば、私の不手際のせいなのだ。私がもっと早くにこの惨劇を回避するべきだった。


 妻には正直に謝ろう。ケーキも、花束も用意できなかったけれど、明日にでもかまくらを作ってみれば、きっと妻も笑顔を見せてくれるだろうから」


 「それは、本当にすみません……。わたしにもケーキや花束を用意することは難しそうです……。わたしは空の色を作って塗る妖精ですから。美味しいケーキや綺麗な花々を作ることとは無縁なのです……」


 妖精はその小さな瞳から涙をこぼしてしまうのではないかと思われるほどに落胆した様子で俯いた。


 己の過ちを認め、挽回しようともがこうにもどうすることもできない状況は私も同じだ。己の非力さに嫌気がさし、妖精と共に明日に絶望したくなる。


 しかし、妖精にはまだ仕事が残っているはずだった。神から授かった指令を全うするために、きっと落ち込んでいる場合ではないだろう。


 「君は、その雪の結晶だったものを使って空の色を作らなければならないのだろう?」


 聞くと、妖精はほんのわずかに頭を上げた。


 「はい。集めたものは、必ず空の色に調合します。見上げたくなる空の色を作って塗る、それがわたしの役目ですから」


 小瓶を見つめる妖精は寂しそうな目をしていたけれど、その目が急に大きく見開かれた。


 「そうです!」


 立ち上がっても座っていた時とさほど変わらない背丈のまま、妖精はくるりとこちらを向く。


 「もしよろしければ、あなたの奥様の好きな色を教えていただけませんか?


 わたしがこれからすぐに、あなたと奥様が見上げたくなる空の色に塗って差し上げます。わたしができることはこれしかありませんから。せめてもの償いをさせてください」


 「いや、それは有難い申し出なのだが……。


 しかし、私も空に関わる研究者の端くれだ。今降っている雪はこれから夜にかけて激しく降り続くということはわかるのだよ。


 いくら君が空の色を美しく塗ってくれたとしても、それがこの分厚い雪雲の向こうにある空では私たちの目には届かない。空を見るためには飛行機でこの雪雲を割って遥か上空へ行くしかないが、この大雪では飛行機も飛ばないだろう」


 諦めることも時には肝心なのだと、半世紀近く生き続けていればわかることもある。


 しかし、妖精はそのようなこと理解したくないとでも言うように、首を思い切り横に振った。


 「ご心配には及びません。雪雲くらい、わたしの力でなんとかしてみせます」


 「無茶はいけない。先ほど君は言ったばかりじゃないか。雪に関することは君の専門外だと。作ることが専門外なら、雪雲を空の上から消滅させることも専門外のはずだろう?


 君の仕事は『空の色を作って塗る』。たったそれだけなのだから」


 「確かに、仰る通りです。雪も、雲も、わたしには作ることも壊すこともできません。妖精は専門外の仕事に手を出すことができないようになっていますから。


 けれど、わたしは風を上手く用いることが得意なのです。これまでも風に乗って遠くから旅を続けてきました。風は、いつでもわたしの味方なのです。


 ですから、風を利用して雪雲を晴らしてみせましょう」


 「それは、可能なのか? わかっているだろうが、雪雲の高さは上空数千メートルにも及ぶ。そんな分厚い雲を一瞬でも晴らす風など、君の小さな体で巻き起こすことができるとでも言うのかね?」


 「やってみせましょう」


 妖精の頷いた顔には、覚悟のようなものが滲んで見えた。


 「ただし、あなたの仰る通り、雪雲を晴らすことは容易なことではありません。晴れたとしてもほんの一瞬か、あるいは針の穴程度の隙間しか空けられない可能性もあります。


 ですから、あなたと奥様にはその一瞬を見逃して欲しくないのです。


 良いですか? 約束していただけますね?」


 「わかった。約束しよう」


 頷くと、妖精は小石ほどもない手のひらを私に向かって突き出した。そのあまりにも小さすぎる手に、私は小指の先を当てがう。妖精は私の小指の先を手のひらで握り、私たちは握手を交わした。



 「では、もう一度お伺いします。奥様の好きな色は何色でしょうか?」


 「桃色だ。花屋が開いていれば桃色のバラの花束を妻にプレゼントしようと心に決めていた」


 「承知しました。

 それでは、これから空の色を調合したいと思います。ここにある器具を少しお借りしてもよろしいですか?」


 「ああ、何を使ってくれても構わない」


 妖精は私の研究机の上をチョコチョコと歩き、空っぽのシャーレーを持ち出した。


 それから辺りを見回し、私の後ろ側にある観葉植物を見つめて指を差す。


 「そちらの植物ですが、土のところに小枝が落ちていますね。それを拾っていただいてもよろしいでしょうか?」


 「ああ」


 何に使うのかもわからないが、なんとなく小枝に付着していた土を払う。小枝の先は二股に分かれ、まだ生命の色を宿した葉を一枚だけ残していた。妖精の目の前にその小枝を置く。


 「ありがとうございます。これで、準備が整いました」


 「これだけで、良いのか? 何か……、その、色を塗るのだから桃色に近しいものとかが必要になるのではないだろうか?」


 「いいえ、これだけあれば十分です。


 こちらの雪の結晶には、あなたの奥様に対する想いがたくさん込められています。雪の結晶は天からの手紙と仰っておりましたが、わたしから見れば、この結晶はあなたから奥様への手紙です。結晶から溢れ出るキラキラは、あなたの心そのもの。まさに桃色そのものに輝いておりますよ」


 妖精は真面目な顔でそう言ってから、小瓶の蓋に手をかけた。


 「いいですか。空の色は移り変わりの早いものです。雲が同じ形を留めておけないのと同じように、空の色もずっとその色のままいることはできません。しかも、今日は分厚い雪雲を割るという困難まで待ち受けています。上手く割れたとしても、雪雲がその空いた穴を塞ぐのにそう時間はかからないでしょう。


 これからご覧に入れる空の色は、あなたと、あなたの奥様のためのものです。


 どうか、必ず二人で見上げてください。

 いいですね、約束ですよ」


 妖精の強い眼差しに、私は硬く頷く。


 妖精は小瓶の蓋をとり、自分の体ほどもある大きさの小瓶を器用にひっくり返して中身をシャーレーに注いだ。シャーレーの中は青白く輝く液体で満たされる。妖精が、それを小枝でかき混ぜる。踊るように、舞うように、妖精は風にのって液体をグルグルとかき混ぜた。次第に液体は色を変え、雪の結晶が現れ始める。桃色に染まった液体と、雪の結晶の形をしたものが小枝に吸い付いていくようだ。妖精は踊り続け、グルグルと回る小枝には輝く液体と雪の結晶がまとわりついていく。


 そして全ての液体がシャーレーの中から小枝に移り終わった頃、妖精は動きを止めた。穏やかに閉じていた目を開け、ゆっくりと頭を下げる。


 「ちょっと、失礼。行ってきます」


 そう言ったかと思うと、突然、研究室の窓が大きな音を立てた。鍵を閉め忘れていた窓が突風で開いてしまったようだ。強烈な風が研究室内に流れ込み、外を白く染める雪までもが室内に舞いこんでくる。窓に歩み寄ると、今度は風が逆方向に流れ始めた。体が引っ張られる。その瞬間、何かが私の横を通り過ぎた。窓の外に飛び出していくそれを視線だけで追いかける。光る小枝が、風にのって上空へ舞い上がっていくところが見えた。小枝はぐんぐんと高く昇り、空の彼方へ消えていく。そのまま小枝の消えた空の先を見続けていると、再び風が強烈に吹き始めた。


 強い風は吹雪となり、地表付近の雪を舞い上げていく。突然の上昇気流はまるで上り龍のように、空の一点を目掛けて突き進んでいく。


 耳元で風の唸る音が止むと、私は空に目を凝らした。驚いたことに、雪雲には穴が開いていた。まるで台風の目のような小さな穴は、やがて少しずつ口を大きく開き始める。


 それを見て、私は急いで研究室から飛び出した。外は降り続いた雪が止み、長靴の上まですっぽり埋まってしまうほど雪が地面を覆い尽くしていた。私は飛ぶように足を高く上げ、泳ぐように懸命に前に進む。息を切らして家までの道を急いだ。


 その間にも、雪雲の中にできた穴は少しずつ形を変えていく。穴から見える空の色はまだ何色にも染まっていなかった。雪雲の一部が欠け、穴の中央に流れ始める。それがせっかく空いた穴を塞いでしまうようで、私は一層帰り路を急いだ。


 こんなに雪が降り積もり、辺りは白一色だというのに。目に見える雪を全て溶かしてしまえると思うほど私の体は中心からポカポカに熱せられていた。この季節に不釣り合いな汗までもが額から流れ始める。ぜー、はー、と息を切らして空を見上げると、穴を塞ごうとしていた雲の形が再び変わり始めていた。


 上部が二股に分かれ、下部は逆さ富士のように尖ってゆく。それはまるで、世界に一つしかない愛の形のようだった。


 そして、そのハート型をした雲だけが徐々に色付いていく。怪しく光る紫にその身を浸したかと思うと、またすぐに色を変えた。空の中でただ一つ、ハートの形をした雲だけが桃色に染まって見えた。去り行く夕陽に照らされたかのような、優しい色だ。穏やかで、全てを包み込む深い桃色。


 空の中の雲を見据えたまま懸命に走り続け、やっとの思いで家の扉を開けた。


 「た、ただ……いま……」


 パタパタと忙しなく動くスリッパの音が、玄関先で長靴を履いたままの私の元に近づいてくる。膝に手をつき息を整えているところに妻の声がした。


 「お帰りなさい。こんなに雪が降っているのに帰りが遅いから、心配していたのよ」


 額の汗を拭って顔を上げると、妻はギョッとして私を見た。


 「どうしたの、そんなに慌てちゃって」


 「ちょっと……ね……。それより、すぐに一緒に外に出て……、ほしいんだ」


 「ええ? 大雪が降っているっていうのに?」


 「いや……、雪は降っていないよ。今だけ止んでいるから」


 「そんな、まさかあ……」


 「ほら、早く……。コートを取っておいで。お願いだよ、早くしないと……」


 そこまで言うと、妻は何かを察したらしく急いでコートを取りに戻った。


 待っているうちに呼吸を整え終えた私は、妻が長靴を履く間に手を握って体を支える。二人で玄関の扉を開けると、空の中の空洞はまだそこにあった。


 けれども、空洞の中の雲はもうハートの形ではなくなってしまっていた。尖った下部は丸みを帯び、二股に分かれていたはずの上部もギザギザの頭に姿を変えてしまっている。それはもう、雲の穴に姿を現した桃色の奇妙な形をしたただの綿雲にしか見えなくなっていた。


 「わあ、綺麗な空」


 妻が、私の隣で感嘆の声を漏らす。綿雲の元の形を知らない妻にとって、雪雲の穴から覗いた綿雲が桃色に染まっていることは、それだけで奇跡に近い光景に違いないようだ。


 それでも、私がもっと速く走っていれば。妻に桃色雲のハートを贈ることができたかもしれないと思うと後悔が押し寄せた。


 見上げた空から視線を下ろし、降り積もった雪を眺める。


 ふと、新雪の上に黒い何かが落ちているのが目に入った。すぐ側に落ちていたそれを数歩歩いて拾い上げる。周囲をだだっ広い空間に囲まれた雪の上に落ちていたのは、一枚の葉がついた小枝だった。


 「どうしてこれが、こんなところに……?」


 私はまた空を見上げる。拾い上げた小枝は、空の色を作ってくれた妖精が使っていたものだった。私はそれを、空にかざす。桃色の綿雲目掛けて腕を伸ばすと、妻が横から顔を覗かせた。


 「あら。ちょっと、それ。すごくオシャレね」


 妻はクスクスと恥ずかしそうに笑い出す。


 コートのポケットから携帯電話を取り出し、腕を伸ばしたままの私を被写体にしてパシャリと写真を撮った。


 「ほら、見て」


 妻の差し出した携帯電話の画面に映し出されていたのは、そこに存在しないはずの一輪の桃色の花だった。


 桃色の綿雲が花弁となり、葉のついた小枝が光の届かない暗い色をした茎になっている。そしてその一輪の花を、私の手が掴んでいた。


 「そうだった。私は君に、花を贈りたかったのだ」


 長靴を履いたままで片方の膝を折り、小枝を顔より上に掲げて持つ。私の目の前には二十五年の月日を共に過ごした妻と、桃色に染まる綿雲があった。


 受け取った小枝を頬に寄せて微笑む妻と並び、桃色の雲を眺める。世界にたった一つだけしか咲かない花が雪雲に飲み込まれてしまうまで、私たちはずっと空を見上げていた。


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