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第一章 涙

 鼻の頭に乗ってしまうくらい小さな妖精の口から聞こえてきたのは、「ちょっと、失礼」というなんとも紳士的な言葉だった。


 「ちょっと、失礼。あなたのその涙、この小瓶にいただきます」


 驚いた私はトボトボと歩いていた足を止め、寄り目をするみたいにして自分の鼻の頭を見つめて立ち尽くす。


 小さな妖精は慌てた様子で口を尖らせた。


 「ああ、涙を止めないで。さあ、思う存分泣いてください。流れた涙は、この小瓶の中にいただきますから」


 そんなことを言われても、先ほどまで自然とこぼれ落ちてきた涙はすでに鼻の奥に引っ込んでしまった。それなのに妖精は小瓶にしがみつき、真剣な眼差しで私の目を見つめてくる。泣けと言われると余計に涙は乾いてしまうというのに。期待に応えたい気持ちで必死に唇を噛み締めるけれど、どうしても涙を流せそうになかった。


 「困りましたね。これでは材料が足りません」


 妖精は小瓶に溜まった数ミリにも満たない私の涙を見つめ、ため息をついた。


 「涙がたくさん必要なの?」


 私の質問に答える前に、妖精は私の鼻の頭から降りて小瓶にコルクの蓋を閉める。


 「涙だけではありません。空の色を作るのにたくさんのものが必要なのです。

 わたしは空の色を作る職人なものですから」


 「空の色を作る? あなたが?」


 妖精は小瓶に紐を引っ掛けて背中に括り付けると、小さな胸をポンと叩いた。


 「ええ、そうです。この世界に存在する妖精たちは皆なにかしらの仕事をもっているものですが、わたしはその中でも空の色を作って塗ることを専門としているのです」


 「じゃあ、今のこの空の色もあなたが作ったの?」


 どんより雲に覆われた空を指差しながら聞くと、妖精は呆れたように首を横に振る。


 「わたしが毎日、毎秒、空の色を作っているわけではありません。わたしたち妖精はとても気まぐれな生き物ですから。気が向いた時にだけ仕事をするのです。


 ですが、今回は特別な事情がありまして。わたしはどうしても空の色を作らなくてはならないのです」


 困った、困った、と小さな声で呟きながら妖精は俯いた。


 妖精が困っているのはおそらく私の涙が足りなかったせいなのだろう。責任を感じる必要があるのかどうかもわからなかったけれど、目の前で困ったままの妖精を放っておくわけにはいかない気がした。


 「どんな事情があるの?」


 聞くと、妖精はチラリとこちらを見る。


 「実は、空の神様からお言葉を授かっているのです。

 

『最近人々は手元ばかりを見つめていて、空を見上げることが少なくなった。とても悲しいことである。だから、人々が見上げたくなるような空の色を作って塗りなさい』


 と」


 「見上げたくなるような空の色……。それを作るために涙が必要だったの?」


 「その通りですよ、お嬢さん」


 妖精はまた得意気に胸を張った。


 「妖精はヒトやモノの内に秘められたものがキラキラと輝いて見えた時、その輝きに惹かれて仕事をします。そしてその輝きを力に変えることで、わたしたちは仕事を全うすることができるのです。


 わたしの場合は空の色を作って塗ることが仕事ですから。あなたの輝きが詰まった涙をいただいて、空の色に調合したかったのですよ」


 そこまで言うと、妖精はまた小さな眉毛をハの字に曲げた。


 「それなのに、お嬢さんの涙はこれだけしか集まらなかった。困ったことです。ああ、本当に困りました。神様の言いつけを守らなくてはならないのに。どうしたらよいのでしょう……」


 「あの、私にも何か手伝えることって……」


 言いかけると、妖精は私の言葉に被せるようにして声をあげた。


 「本当ですか? お嬢さん。手伝っていただけますか?」


 妖精のつぶらな瞳が輝いている。


 「私ができることで、よければ……」


 すると妖精は私の人差し指を両手で掴み、ブンブンと上下に揺らした。小さい体のどこにそんな力があるのかと疑うほど、妖精は力強く私の人差し指を揺らし続ける。


 「ありがとうございます。感謝いたします」




 それから落ち着きを取り戻すと、妖精は「さてと」と言って咳払いを一つした。


 「これからキラキラの輝きを集めに行かなければならないわけですが、その前にやらなければならないことがあるのです」


 「やらなければならないことって、何?」


 「実は……、わたし……」


 妖精はなぜか恥ずかしそうに小さな体をくねらせる。


 「お腹が空いてしまいまして」


 「へ?」


 妖精は顔を赤らめた。


 「キラキラを探してずっと動き回っていたものですから、食事もまともにとれなかったのです。

 しかしようやくキラキラの持ち主であるあなたに出会えたことで、少し気が抜けてしまいました。急に腹の虫が鳴り出して、このままではもう一歩も動けそうにありません」


 耳を澄ませると、妖精のお腹から小さな空腹音が鳴っているのが聞こえた。


 「妖精さんは何を食べるの?」


 珍しい花とか、山奥の湧き水とか、そんな類のものを言われたらとてもじゃないけれど手に入れることはできないだろう。できれば簡単に見つかるような食べ物が良い。


 心配してあれこれと考えを巡らせていると、妖精は力の抜けた声で答える。


 「あなた方ヒトが食べるものなら、なんでも食べられます。

 ですが、できればキラキラの溢れるものだとありがたいのです」


 突然ぐったりと倒れ込んでしまう妖精を手のひらにのせ、私は急いで家に帰ることにした。




 A4サイズのスケッチブックを入れたトートバッグを部屋の机の上に置き、妖精と一緒にキッチンへ向かう。ひとまず妖精をダイニングテーブルの上にのせ、買い置きのお菓子を詰めた籠を妖精の前に持ってきた。スケッチブックに向かって絵を描きつけている間、お腹が空くといつもここから糖分を摂取する。つい先日までコンを詰めて作業していたせいか、籠の中はスカスカだった。それでもあられ煎餅の小袋や、レーズンの入ったパウンドケーキなんかは残っている。


 「これはどう? こっちもあるよ」


 籠の中からお菓子を取り出して妖精に見せるけれど、お腹がペコペコなはずの妖精は食べたい素ぶりを見せなかった。


 「やっぱり、お菓子は食べられない?」


 きっとヒトとは味覚が違うのだろう。けれど、妖精は静かに首を横に振った。


 「すみません。こちらのお菓子からは、キラキラの輝きが感じられないものですから……。食べることはできますが、食べてもあまり力が湧いてこないと思うのです……」


 妖精はぐったりとしたまま、目を閉じてしまった。


 私は妖精に差し出したお菓子を眺めてみる。確かに、あられ煎餅もパウンドケーキもキラキラとはしていなかった。あられ煎餅の表面はゴツゴツと尖っているし、パウンドケーキはパサパサだ。


 私は部屋に戻って財布の入ったポーチを肩からかけた。妖精を手のひらにのせ、もう一度玄関のドアを開ける。


 「待っててね、妖精さん。キラキラした食べ物を見つけるからね」


 早歩きで道を進む私の手のひらで、妖精は目を瞑ったまま僅かに微笑んだ。



 キラキラした食べ物を考えてみると、一つだけ頭に思い浮かぶものがあった。それは、たまに自分へのご褒美のつもりで買う大好きな和菓子。家の近所には老舗の和菓子屋があり、絵を描き終えると大抵そこにお団子を買いに行くことにしていた。


 重いドアを引いて中に入ると、顔見知りのおじいちゃんとおばあちゃんがカウンターの向こうに並んで立っていた。


 「いらっしゃいませ」


 二人にシワクチャの笑顔で出迎えられ、私はショーケースの中のお団子を指差す。


 「みたらし団子を一本ください」


 いつもは三本くらい一気に買い込んでしまうのだけれど、今日はどうしても自分の為に大好きなお団子を買う気にはなれなかった。妖精のためだけにお団子を買う。一本だけというのもいかがなものかという気もしたが、小さな妖精のためのお団子だ。おそらく一本でも余りあるだろう。


 おばあちゃんに伝えられた金額を支払うとき、「いつもありがとうね」と声をかけられた。顔見知りではあるのだけれど、こうしておばあちゃんと目を合わせて話をすることは初めてだ。おばあちゃんは目の端にシワを寄せ、終始笑顔でこちらを見ていた。なんだか気恥ずかしくて、こんなことならもっとお団子を買えば良かったと後悔にかられる。


 おばあちゃんの隣ではおじいちゃんがお団子を透明なパックに包んでいて、小さなビニール袋に入れてショーケースの上から渡してくれた。

 受け取った袋を開き、中のお団子を確認する。


 「あれ? これ、お団子が二本入っちゃっています……」


 おじいちゃんから受け取ったパックの中にはみたらし団子が二本入っていた。けれども、私がおばあちゃんに渡したのは一本分のお金だけだ。一本減らしてもらおうとお団子の入ったパックをおじいちゃんに差し出すけれど、おじいちゃんは首を横に振って受け取ってくれない。


 「うちの団子は一本じゃ足りないからね」


 そう言って、おじいちゃんはイタズラに笑った。隣のおばあちゃんを見ると、おばあちゃんも笑顔で頷いていた。


 「またいらしてね」


 優しい声でそう背中を押され、私は戸惑いながらも「ありがとうございます」と言ってその店を後にした。



 「おまけとは、一体どういうことですか? どうして一本分のお金で二本のお団子が手に入ったのでしょう?」


 近くのベンチに座ってパックを開けると、肩の上にいた妖精が不思議そうに呟いた。


 「私がいつもは三本セットで買うからかな? それとも、常連の私が孫みたいに見えて可愛かったから、とか……。なんちゃって」


 冗談でそんなことを言うと、妖精はゆっくりと私の肩から飛び降りて真正面からこちらを見た。


 「なるほど……!」


 妖精は目を見開いて、納得したように大きく頷く。


 「嫌だな、冗談のつもりだったのに……」


 恥ずかしさに顔をそむけると、妖精は先ほどまでぐったりとしていたとは思えないほどの素早い動きで私の鼻の頭に飛び乗った。


 「こんなに瞼が腫れていて、おまけに鼻も真っ赤です。お嬢さんのその顔を見れば、泣いていたことが一目瞭然です。

 ですから、あのご老人はあなたにお団子を一本分けてくださったのですね。あなたへの心遣いとして。なんて美しいのでしょう」


 私の鼻の頭から降りた妖精は、頬を膨らませる私のことなど振り向きもせずにパックの中のお団子を見つめた。


 「キラキラ輝いていて、本当に美しい。こちらも空の色を調合するのにぴったりです」


 妖精は私の涙が入ったものとは別の小瓶をどこからか取り出し、パックの縁からみたらし団子のタレを掬い取った。それを器用に小瓶に移し替えると、一本の串をヒョイと持ち上げベンチに座る。


 「ちょっと、失礼。いただきます」


 両手を顔の前で合わせた後で、妖精は一本のみたらし団子を簡単に平らげてしまった。


 「ご馳走様でした。実に良い食事でした。空の色を作る材料もいただけて、とても満足です」

 妖精は顔中にお団子のタレをくっつけていた。


 「それは……良かったね。

 じゃあ、これでもうおしまい? 空の色を作る材料は揃ったの?」


 妖精は歩道の脇に生えていた草で顔に付いたタレを拭くと、私に向き直る。


 「いいえ、できればもう少し材料を集めたいのです。いろんな色を調合したいものですから」


 「そっか。それなら次はどこに行こうか?」


 「そうですね……。どこか、人がたくさん集まる場所に連れて行っていただきたいのです。ヒトやモノが溢れていないと、キラキラも見つけにくいものですから」


 妖精にそう言われて、私は人がたくさん集まりそうな場所を思い浮かべてみる。駅、デパート、学校、公園。思いつくものは騒がしい場所ばかりで、今の私にとってはあまり行きたい場所とは言えなかった。涙が引いているとはいえ、気持ちは沈んだままなのだ。喧騒の中を彷徨い歩く気力はない。


 それに、小さな妖精を連れて行くならあまり騒がしすぎないところが良いだろう。人が縦横無尽に行き交う場所では、小さな妖精などすぐにどこかへ飛んでいってしまいそうだ。


 人がたくさん集まる場所で、できればみんなが静かに座っているようなところが良い。映画館、プラネタリウム、どちらも探し物をするには不向きかもしれない。


 一生懸命に頭を捻らせていると、一つだけ思い当たる場所があった。


 「そうだ、図書館へ行ってみよう」


 ここからそう遠くないところに、小さい頃から通い詰めている図書館がある。上機嫌で鼻歌を歌う妖精を肩に乗せ、私は図書館までの道を歩いた。




 図書館はいつもと変わらずに厳かな空気をまとっていた。シンと静まり返っているものの、入ってくる人々を決して拒まない。図書館のエントランスに入るといつの間にか妖精は鼻歌を歌うのをやめていて、静けさに耳をそば立てている。人差し指を立てて唇に押し当て、私の顔を覗き込んできた。私も妖精と同じように唇の前で人差し指を立て、二人で頷き合ってから中に入る。


 三階建ての図書館は、一番上の階段から下のフロアを見渡せるような造りになっていた。私はその一番上まで階段を上り、妖精に図書館の全体を見せる。


 机と椅子が並ぶ二階のフロアは、空いた席が見つからないほどに人で埋まっていた。本棚の周囲にポツンと置かれた椅子にまで人が座っている。どこにいる人も皆難しい顔をして本やパソコン、ノートと向き合っていた。

妖精は肩の上から図書館を見渡し、感心したような声を上げる。


 「人がたくさん集まっているのに、こんなに静かな場所があるものなのですね」


 妖精の声は小さすぎておそらく私にしか届いていなかった。


 「どうかな? キラキラしたもの、ありそう?」


 私はほとんど息だけで妖精に問いかけた。


 「ちょっと、光の差す窓際まで歩いて行っていただけませんか?」


 妖精が階段の向かい側にある明るい窓を指差すので、私はぐるりと大回りするようにしてその窓を目指す。

妖精が気にしていたのは、本棚に囲まれた窓だ。丸い形をしていて、そこから光が差し込むのでまるで小さな太陽のようにも見える。


 控えめに「うわぁ」と声を漏らした妖精を見ると、妖精は目を輝かせて微笑んでいた。


 「ありました、キラキラしたもの。実に美しい」


 妖精が見つめた先に目を凝らすと、そこには窓際で舞う埃が太陽光に照らされてキラキラと輝いて見えていた。

そんなまさかとは思ったけれど、妖精の見つめる先には本も無ければ人もいない。本当に、妖精はこの埃のことを美しいと言っているのだろうか。


 「ねえ、妖精さんにはここに何かあるように見えているの? 私には、空気以外何も無いように見えるんだけど……」


 妖精は輝いたままの目を私に向けた。


 「その通りですよ、お嬢さん。

 わたしの目にも、ここの空気がキラキラと輝いて見えているのです」


 「え? それって、本当に埃のことを言っているの?

 確かに綺麗に見えるかもしれないけれど、これを空の色に使ったらなんだか空がどんより曇ってしまいそうだよ」


 私が囁くと、妖精は顔の前に立てた人差し指を大袈裟に横に振った。


 「違いますよ、お嬢さん。わたしが見ているのは、あなたの目に映っている埃などではありません。

 言うなれば、『誇り』なのですよ」


 私の肩から飛び下りるようにジャンプすると、妖精は窓のサッシの上に立つ。



 「入った瞬間はどうも建物全体が薄暗くてわかりにくかったのですが、太陽の光のおかげでようやく見えてきました。

 わたしには今、この図書館全体の空気が美しい星空のようにキラキラと輝いて見えています。


 あっちでは勉強に勤しむ若者が、こっちでは探求熱心なご老人が、そして向こうでは純粋な心で本を楽しむ子供がいて、皆それぞれに熱い心で本と向き合っています。


 そしてそんな彼らに選ばれて手を伸ばしてもらえる日を、この図書館の本たちはずっと待ち侘びているのです。


 本は、その一冊に作者の人生とも呼べるほどの重みを背負っています。


 本は、作者自身の誇りを背負ってこの図書館に鎮座しているのです。


 そんなそれぞれの想いがキンキンに尖った輝きとなって、この図書館全体のキラキラの空気を作り出しているようです。少しピリつくような空気で満たされているのは、そういう理由だったのです」



 妖精の言葉に、私は図書館を見渡して深く息を吸い込んでみる。この独特の空気を昔から『かっこいい』と思っていた私にとって、妖精の言葉はすんなりと胸に落ちた。


 「ちょっと、失礼。

 お嬢さん、ハンカチをお持ちでしたら少しの間貸していただけますか?」


 窓の向こうからの光を背中に浴びて、妖精は私に手のひらを見せる。


 私はポケットからお気に入りのハンカチを取り出し、小石程度の妖精の手のひらに慎重にのせた。


 「ありがとうございます。お借りします。

 それから、この小瓶を手にのせていてください。そう、それで結構です」


 妖精の小瓶を手のひらにのせて身動きを止めると、妖精は頷いた。


 「今からわたしがここの空気を集めて小瓶に詰め込みます。それが終わるまで、しばらくそのままでお待ちください」


 言い終えると、妖精は何かを始める前の挨拶程度にお辞儀をした。そしてハンカチの端を自分の足に結び始める。四角のうち、隣同士の二つの角が妖精の足に結ばれた。そして残った二つの角を妖精は右手と左手にそれぞれ握りしめる。


 「ちょっと、失礼。いただきます」


 妖精が窓の縁から飛び降りると、ハンカチは風船のように膨らんで妖精の体ごとふわりと浮かび上がった。

ハンカチと妖精はほんの少し上昇した後で、ゆっくりと下降を始める。桜の花びらのように右に左に揺れながら、妖精はハンカチと共に私の手のひらの上に着地した。


 それから目に見えないほどの速さで妖精の足と手からハンカチが解かれる。妖精が四角をキツく握りしめたままなので、ハンカチは膨らんだままの形を保っていた。


 妖精はハンカチを握りしめたまま、私の手のひらで踊るようにくるくると回り出す。小瓶を中心にして数周回り終えると、妖精はハンカチを開いた。その瞬間、キンキンに尖ったダイヤのような、星のような形をしたものが小瓶の中に流れ込む。夜空色の尖った石たちが、小瓶の中に詰め込まれた。


 「これが、図書館にあったキラキラ?」


 小瓶にコルクの蓋が閉められた後で、私は妖精に尋ねた。


 「その通りですよ、お嬢さん」


 妖精は私の手のひらの上に座り込み、肩で息をしながらにこやかに笑った。


 どうやらこれは妖精の力で図書館の空気を具現化したものらしい。妖精はそんな魔法のような力を使ったので、激しく体力を消耗したとのことだった。


 「この図書館を出たら、花の咲く場所へ連れて行っていただきたいのです。

 そこで、どうか少し休ませてください」


 妖精には立ち上がる気力も残されていないらしい。へたり込んだままの妖精を手のひらに乗せ、私は図書館を出た。




 少し歩いた先に、海を見渡すことのできる公園がある。そこは四季折々の花々を鑑賞することのできる造園でもあった。噴水を取り囲むように色とりどりの花々が咲く、とても綺麗な場所だ。私はそこへ向かって歩くことにする。


 花の咲く公園にたどり着くと、手のひらの妖精はフラフラと体を起こした。


 「わたしを花の近くへ寄せてください。どんな花でも構いません」


 か細い声で妖精がそう言うので、私は公園に咲く花々を見渡した。とびきり綺麗に咲くガーベラと目が合い、妖精をのせた手をそのガーベラに近づける。ガーベラは真上を向くように咲いていて、妖精にはぴったりのベッドとなりそうだ。


 しかし、妖精は私の手のひらから飛び降りたかと思うとガーベラのベッドには乗らなかった。その隣にあるバラの蕾へとよじ登り、中心から蕾の中へするりと入って行ってしまう。


 「ちょっと、失礼」


 バラは妖精を迎え入れると、そよ風に静かに揺れた。それから何の変化もないまま、しばらくの時が流れる。私は妖精の入って行った蕾から目が離せないまま、時計の短い針は3から4へ移動しようとしていた。



 しばらくすると、バラの蕾が僅かに左右に揺れ始める。風もないのに揺れるバラは、まるで体を揺らして笑っているみたいだ。くすぐったそうにその身を揺らし、徐々に花弁が開いてゆく。ゆっくり、ゆっくりと花は開いた。美しいバラが咲き誇ると、その中心にはまだ眠たそうな目で両腕を思い切り空に伸ばしている妖精がいた。


 「おはようございます、お嬢さん」


 あくびの後でそう言うと、妖精はバラのベッドから飛び降りた。地面に着地し、乱れた衣服を整えている。


 「実に良い眠りでした」


 妖精はたった今咲いたばかりのバラに丁寧に頭を下げた。妖精を包み込んでいたバラは風に吹かれ、もう一度その身を揺らす。私はとても美しい会話を見た気がした。


 「それでは行きましょうか、お嬢さん」


 妖精は公園の花壇を左手にして歩き始める。あまりにも小さい妖精の一歩は、私にしてみれば止まっているのとさほど変わりはなかった。


 「妖精さん、私の肩にどうぞ」


 そう言ってみるけれど、妖精は右の手のひらを私に突き出す。


 「いいえ、それには及びません。

 少し歩いてここの花々をじっくりと見たいものですから」


 「この花壇の中からキラキラしたお花を探す、ってこと?」


 妖精は両手を後ろに組んで頷いた。


 「花はそもそも強い輝きを放っているものですが、その中でもとりわけ強いキラキラを抱いているものがあるかもしれません。それをわたしは見定めたいのです。

 あ、ほら、あんな風に」


 言い終わると同時に、妖精はピョンと飛び跳ねるようにして前に進む。少し歩いた先にある花壇を目指しているようだ。私も妖精の後を追いかける。


 妖精は花壇の隅に咲く、一輪の花を見つめていた。


 「タンポポだね。茎が折れてしまっている」


 私が言うと、妖精はそのタンポポの折れた茎にそっと触れた。


 「この子はここに植えられた他の花々とは違い、自ら種として飛んできて、この場に命を咲かせたようです。種になったり、花を咲かせたりをこの場で何度も繰り返してきたのですね。今も実に可愛らしい花を咲かせています」


 妖精の言う通り、そのタンポポは茎こそ折れてしまっているものの、花自体は可憐な黄色を保っていた。


 「タンポポと言えば、子供に好かれる花ですよ。その身に宿した綿毛で遊ばせることで子供を喜ばし、たくさんの子供達を笑顔にしてきたに違いありません。


 ですが、今度ばかりは綿毛を作ることができないかもしれませんね。茎が折れてしまっては、この子はいずれ綿毛を作れずに元気をなくしてしまうでしょう」


 妖精はタンポポの茎から手を離し、今度は花びらを優しく撫でた。恋人の髪をすくような仕草だ。地面に倒れ込んでしまったタンポポの花びらを一枚一枚丁寧に撫でている。


 しばらく花を撫でた後で、妖精はタンポポに耳打ちでもするように囁いた。


 「ちょっと、失礼。いただきます」


 そうして小瓶をどこからか取り出し、タンポポの花びらをむしり取る。妖精はタンポポの花びらを五枚だけ取って小瓶に詰めた。


 小瓶にコルクの蓋が閉められると、妖精の背中には小瓶が四つも連なった。小瓶同士はぶつかり合い、時折カチカチと綺麗な音を立てている。


 「材料は揃いました。あとはこれらを調合するだけです」


 妖精は背中の小瓶を揺らしながら言った。


「調合するのには、やっぱりお鍋とか、すり鉢とかが必要なのかな?」


 私は魔女が薬を調合するのに必要そうなものを頭に思い浮かべていたけれど、妖精は首を横に振るばかりだった。


「特別なものは必要ありません。

 ただ静かな場所で、大きな葉っぱが一枚あれば良いのです」


 私たちは公園の中で大きな葉っぱを一枚探し、それを持って木々を通りぬけた先にある人気のない場所へ移動した。




 芝生の上に大きな葉を一枚置く。その葉の周りには妖精の背中から下ろされた小瓶が四つ並べられた。妖精は小瓶の真ん中に立ち、大きな葉を見つめる。それからふと空を見上げた。


 「どんより曇り空、といったところでしょうか」


 妖精が呟く。


 「そうだね」


 こういう曇った空の日は、私の心も曇りがちになるものだ。


 そんな私の心を見透かしたかのように、妖精は微笑む。


 「この空が晴れれば、お嬢さんの心も晴れるでしょうか」


 私はもう一度空を見上げた。


 「そうだね。私はもうずっと長い間待っているのかもしれない。

 私の作品が選ばれて、私の心が本当に晴れてくれるのを」


 流れていく雲を見つめながら、独り言のようにボソリと呟いていた。


 しばらく妖精からの視線を感じていたけれど、私の顔を見飽きたのか、妖精は芝生の上を歩いて小瓶に手を添える。


 「大丈夫ですよ、お嬢さん。これからわたしが、『見上げたくなる色』にこの空を塗って差し上げますからね」


 妖精の鋭い眼差しに、私は曖昧に頷いて答えた。



 それから四つ並んだ小瓶をもう一度見つめた。

 小瓶の中にはみたらし団子のタレと、図書館の空気と、タンポポの花びら、そしてほんの少しの私の涙がそれぞれ入っている。


 「やっぱり、空の色を作るのに必要な材料には見えないね」


 妖精は小瓶の周りをぐるぐると回っている。小瓶の中を見つめる妖精の目は、大事なものを慈しむように湿っぽかった。


 「いいですか、お嬢さん。空の色を作るのに必要なのは、クレヨンでも絵の具でも、色えんぴつでもありません。

 ヒトやモノの内に秘められたキラキラの輝き、それが必要なのです。小瓶におさめたこれらのキラキラが美しい空の色を作り出すと、今から証明してご覧に入れましょう」


 そして妖精は、ゆっくりと一つ目の小瓶のコルクを引き抜いた。


 「これは、わたしが頂いたみたらし団子のタレです。

 お嬢さんを元気付けたいと願う和菓子屋の主人たちの想いが込められたものでした。その甘いタレと同じように、コッテリとしたオレンジ色のキラキラが溢れてきております。

 このお団子のおかげで、わたしのお腹も心も満たすことができました」


 妖精はみたらし団子のタレを葉っぱの上にタラリと垂らす。艶やかなオレンジ色のタレが葉の上にのっかった。



 私の視線の先で、妖精が二つ目の小瓶を開ける。


 「次は、図書館に溢れていた『空気』です。

 たくさんの人々が真剣に本と向き合い、そしてそれぞれの本に込められた『誇り』から生まれた空気。それは夜空のように静かでありながら、夜明けを待つような情熱に満ち溢れておりました。

 キンキンに尖ったキラキラが、図書館を満たす空気に含まれていたのです」


 妖精が小瓶を逆さまにすると、夜空色に輝く宝石のような石がパラパラと葉の上に落ちた。



 そうして次に、妖精は黄色い花びらの詰まった小瓶を持ち上げる。


 「それから次は、公園に咲いていたタンポポです。

 この子は茎が折れてしまっても、それでもまだ美しい花を咲かせていました。この綺麗な黄色い花も、ふわふわの綿毛も、公園に訪れた子供たちの目にとまって彼らに幾度となく元気を与えていたに違いありません。

 この可憐なタンポポからは、元気一杯の黄色いキラキラが溢れておりました」


 小瓶から出たタンポポの花びらが、ふわりと葉の上に落ちる。これで大きな葉の上には、みたらし団子のタレと、夜空色の石と、タンポポの花びらがのっかった。



 それから最後に妖精が手に持ったのは、私の涙が入った小瓶だった。


 「やっぱり、それも使うの?」


 気恥ずかしさを紛らわすために問いかけると、妖精は思い切りよく頭を上下に振る。


 「当然です。これがなければ空の色は作れません」


 「でも、私が泣いていた理由ってそんなに良いものじゃないっていうか……。本当に情けない涙だと思うんだけど……」


 言葉に出すと、余計に自分自身が情けなく、どうしようもなく思えてきた。絵本作家を夢見て作品を描いているけれど、落選の知らせを受けて流した涙だ。厚い雲に覆われた心で流した涙などで空を彩ったら、きっと見るに耐えない色になる。


 「あのね、妖精さん」


 妖精は大事そうに小瓶を抱えたまま、こちらを見ていた。


 「私はね、本当にどうしようもない人間なんだよ。

 箸にも棒にもかからない作品を描くことに時間を削って今まで生きてきたの。


 本当は私が描いた絵本で多くの子どもたちに夢や希望を与えることのできる人間になりたいと願っているのに、どうしてもそんな風になれないの。出版社の賞に何度応募してみても、結果はいつもダメ。誰の心にも届かない作品ばかりを描き続けている、本当にダメで落ちこぼれた人間なんだよ、私は」


 そこまで言ってしまうとまた悔しさが込み上げてきて、目の端から涙が溢れてしまった。


 指先で拭おうと手を顔に近づけると、何かが視界に入る。いつの間にか私の指先に乗っていた妖精が小瓶の蓋を開け、私の涙をいただこうと必死の形相になっているところだった。


 その妖精の顔に思わず吹き出し、私の涙はまた止まる。


 「失礼。あまりにもキラキラと輝いているので、どうしても涙をいただきたくて……」


 妖精はバツが悪そうに顔を伏せた。


 悲しいはずなのに、この可笑しな状況に涙はまた喉の奥に引っ込んでしまう。


 「妖精さんて、涙を拭うのが上手なんだね」


 冗談まじりに言うと、妖精は体をくねらせて頬を染めた。


 「お世辞でもなんでもなく、本当にお嬢さんの涙は美しいのですよ。

 頑張っている人の姿は美しく、また、流す涙も輝いているものです。

 ですから、わたしはお嬢さんの流した涙にひどく惹きつけられました。美しい、あまりにも美しすぎる涙でしたから」


 小さな妖精からの歯の浮くようなセリフに、なぜか私は笑ってしまった。


 ひとしきり笑った後で空を見上げると、雲に切れ間が見えてきていた。雲の切れ間からは夕方に向かう柔らかい日差しが降り注いできている。


 妖精を見ると、私の小瓶を抱えたまま体をウズウズと動かしていた。


 「ありがとう、妖精さん。私の涙、どうか使ってください」


 妖精は満面の笑みで小瓶の蓋を勢いよく開ける。踊るように舞った妖精の持つ小瓶から、私の涙が葉の上にポタリ、ポタリと滴り落ちた。



 四つの小瓶の中が全て空っぽになってしまうと、妖精は芝生の上に落ちていた葉付きの小枝を拾い上げる。そしてそれを絵筆に見立てて葉の上をくるくるとかき混ぜ始めた。みたらし団子のタレと、夜空色の小石と、タンポポの花びらと、私の涙が混ざり合う。


 「いいですか、お嬢さん」


 妖精は言った。


 「今からわたしがこの空に塗る色は、お嬢さんのために作った色です」


 「え? 神様にお願いされて塗る空の色ではなかったの?」


 妖精は葉の上をくるくるとかき回し続けながら首を横に振る。


 「それはもちろんありますが、あなた一人だけでも空を見上げたいと思ってくださればそれで良いのです。神様の願いも叶うというもの。


 『お嬢さんが見上げたくなるような空の色』、これを今から塗って差し上げましょう」


 「そんな……。私、空が綺麗な色をしているのは自分が見上げるためだとか、そんな風には思えないよ」


 妖精はフッと小さく息を吹いて笑った。


 「お嬢さんの言うことは正しい。空は誰のものでもない。全ての人の上に平等にあるもの、ですからね」


 妖精の言葉に私は頷く。


 「ですが、気にせずとも良いのです。


 挫けそうになった時、雨上がりに虹がかかっていたのなら、それは自分が見上げるためにかかった虹だとたまには自惚れてみてください。案外、それは間違っていないかもしれません。


 そして、わたしがこれから塗る空の色もそういう類のものと同じです。涙を流したいくらいに悲しいことがあったのなら、少し立ち止まって空を見上げてみてください。わたしがあなたの涙を少しだけいただいて、見上げたくなる空の色に塗って差し上げますから。


 そうして上を向いて歩くあなたが、夢や希望を抱ける空の色でありたいと願っています。


 いいですか、約束ですよ」


 そう言うと、妖精は持っていた小枝ごと葉の上に乗った。



 風が吹く。妖精を乗せた大きな葉はゆっくりと風にのって浮かび始めた。


 「ちょっと、失礼。行ってきます」


 風が通り抜けると、葉は円を描くようにして上空へと高く昇っていった。あっという間に、音もなく空の彼方へと昇ってゆく妖精と葉を視線だけで追いかける。葉が空の中の点になり、完全に見えなくなってしまう頃、キラキラとした雫が空に舞い散った気がした。その雫は雨のように地上に降り注ぐことはなく、空の中に吸い込まれていったようだった。


 それからしばらくすると、私の足元には大きな葉と小枝だけが空から舞い落ちてきた。そこに妖精の姿はない。さっきまで妖精がいたはずの空を見上げる。空を覆っていた雲はすでに綿雲へと姿を変えた。柔らかな夕焼けの光に辺り一体が包まれる。


 空は、妖精が塗ってくれた色に徐々に染まってきているようだ。西の空は沈みゆく太陽を先頭にし、南に向けて見事なグラデーションを描いている。一番太陽に近い場所は太陽と同じくオレンジ色に染まり、視線を上げるに連れて黄色から青へと徐々に移り変わっていった。東に目を向ければすでに迫り来る夜の色に染まっていて、空の中に最も明るい色と最も暗い色が共存していた。明度の高い黄色から落ち着いた紫色までのグラデーションは、まるで魔法のように美しい。切ない、けれど目を離すことができない色だ。その美しさに視線だけではなく心ごと奪われる。


 「こんな風に心が動かされてしまうと、やっぱり魔法にかけられたような気分になるな」


 心から湧き上がるような感動は、私にとってはいつだって『魔法』みたいなものだった。


 そんな風に思うのは、私が幼い頃に読んだ絵本が影響している。



 幼い頃の私にとって、絵本は誰かが描いたものだという認識はほぼ無いに等しかった。本屋さんや図書館に無数に置いてあり、お母さんが読み聞かせしてくれるもの、ただそれだけの存在だったように思う。


 けれど、そんな私の認識を覆す出来事があった。私にお気に入りの絵本ができた頃の話だ。とても可愛いくまが主人公の、魔法を題材にした物語。その絵本は私に、世界はキラキラするほど眩しくて、楽しい不思議に満ち溢れているのだと教えてくれた。家でも幼稚園でも同じように絵を描いて過ごす単調な日々はいつしか終わりを告げ、絵本の中の世界のようにワクワクした冒険に出かける日がきっとくる。そんな希望を抱かせてくれるものだった。


 そして毎日のようにその絵本を開く私を、お母さんは絵本作家のサイン会に連れ出した。


 大好きな絵本を描いた人の顔を見て、その作家さんにサインとくまのイラストを目の前で描いてもらい、私は初めて気が付いた。私が毎日のように目を奪われ、その物語に心を躍らせた絵本を作り上げた人がこの世界には実在するということを。そしてその人は私にとってどこの誰とも知らない人で、それは作家さんにとっても同じことだったのだと。


 顔も知らない、声も聞こえない、どこにいるのかもわからない。そんな私の心を、目の前にいる作家さんは絵本を描くことで動かしてしまった。絵本から得る心の動きというものは、いつも側にいて私のことをきちんと見てくれているお母さんから与えられるものとはまるで違うもののように感じていた。それはもう、幼い私にとって時空を超えた力、すなわち『魔法』でしかなかった。


 そしてそんな魔法にかけられた私は、いつしか自分もそんな魔法を使えるようになりたいと強く願うようになった。


 私もどこかの誰かの心に届くような絵本を描いてみたい。私がそうしてもらったように、どんなに悲しくてもその絵本を開くだけでワクワクする気持ちや、ドキドキするような心を取り戻せるような、そんな魔法をかけてみたい。


 そんなことをずっと思い描いてきた。


 けれどもうまくいかない日々は続き、私にはそんな魔法みたいな力は使えないのだと何度も思い知らされてきた。報われない努力などないと信じたかったけれど、努力が報われるまで挑戦を続けていく自信をどんどんと失っていった。


 そんな気持ちで大好きな絵本を開いてみても、私の心はピクリとも動かされなくなった。可愛いくまの絵を見ても、私の沈んだ心は癒されない。もしかすると、そもそもこの世界に『魔法』など存在しなかったのかもしれない。そんな風に思うことが増えていった。


 しかし、今、目の前に広がる空の色はどうだろう。


 まるでシャボン玉の中のようにいくつもの色が重なり合い、それらが全てぶつかることなく美しいグラデーションを描いた空。こんなに綺麗な空を見上げたのは久しぶりだ。心が大きく震えているのがわかる。この感動はやっぱり、『魔法』以外に表現のしようがない。もう一度、私は魔法にかけられた。


 これほど心が動くのは、空の色が何でできているか今の私にはわかるからなのかもしれなかった。


 「夕日の側のオレンジ色は、お団子のタレかも。おじいちゃんとおばあちゃんの優しさが伝わってくるような、温かい色だ。


 その少し上あたり、黄色く見えているところはタンポポの花びらかな。明るくて、元気がもらえる色。


 もっと上の、夕日から離れた青いところは図書館の空気かも。これから夜になっていく静かな色。


 それから、私の涙はどこだろう。隠し味程度の量だったけど……」



 温かな優しさに触れ、花の強かさを知り、他人の静かな情熱に触れた。そのおかげで私の世界は広がり、こんなにも空が美しく見えているのかもしれない。


 そして何より、もしも私の涙がこの美しい空を彩っているのだとしたら、私の流した涙にも意味があったのかもしれない。この空を見上げて私と同じように心を動かされている人がどこかにいるのだとしたら、私の涙もこの美しい世界を構成する一部になるだろう。


 気が付くと、私はずっと空を見上げていた。泣きたいような気もしたけれど、上を向いているおかげで涙は溢れてこなかった。


 明日はきっと、良い日になる。妖精が塗ってくれた空の色は、そんな希望を胸に抱かせてくれる美しい夕焼け空だった。



 その景色をしっかりと目に焼き付けるように、夜が深まるまでずっと空を見上げ続けた。


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