最期の時間
「ありがとうございました。またお会いできるの楽しみにしています」
「こちらこそ、ごちそうさまでした。こんなに美味しい紅茶を頂けるとは思わなかったですよ。ぜひまたあなたの淹れた紅茶を飲みに来ます」
私と同じくらいの歳だろう男性が、そう言って、とても素敵な笑顔で満足して帰っていかれた。
紅茶が好きで毎日飲んでいて、自分なりに合格と思ったカフェで飲んでいたけれど、知人にこの店のことを聞いて、わざわざ隣の県から車で来てくださった。
「良かった。喜んでもらえて。はぁ……今日はもう終わりかな」
もうすぐ夕方5時。
浄瑠璃寺の近くにポツンとある私のカフェ。
ハイキング目的の人や、この道を通る人達が訪れてくれる。だから街中のカフェのように人で溢れるということはない。
オープン当初は、誰も来ない日が普通にあり、なんならお客さんが来た日を言う方が早かったり…でも、徐々にここに来て、気に入ってくださったお客様が、わざわざ再訪してくれたり、口コミで紅茶と焼き菓子が美味しいし、雰囲気もいいと広げてくれ、ちゃんと暮らしていけるくらいまでになった。
お客様を見送って、そのまま景色を見る。
「あー、空気が美味しい」
木々の香りが胸いっぱいに広がり、心が洗われる。
今日はメジロの声がないな。
18年前、浄瑠璃寺から岩泉寺のハイキングを彼と歩いてから、徐々に体が元気になり、あんなに辛かったいくつかの症状がだいぶ和らいだ。
子供達や友人も綺麗な空気が、体の悪いのを洗い流してくれたんじゃないか、と言って喜んでくれた。
ただ一人親友には、あの日、あの彼、祥弥さんの事を話していた。
『きっと恋が効いたんじゃない?いつか会えるといいね。きっと来てくれるわよ』と。
その後、彼に背中を押してもらったカフェのことを本格的に考え経営は無理でも、どこか紅茶の美味しいお店で雇ってもらって、紅茶にかかわる仕事をしようと、一念発起して探し回った。でも歳のいった私になかなか採用を与えてはもらえなかった。
面接の帰りに、たまたま出会った宝くじ売り場、そこで十枚買った。
そしたら…まさかの当たり!
とは言っても、一等ではない。
5000万。これだけあれば、普通は老後に充てると考えるはずだった。彼との出会いがなければ……
これでカフェが開けると、なぜかリスクも考えず、お店を探し始めた。
でもなかなか希望額のお店は、中心街に見つかるはずもなく落ち込んで、会えるはずがないのに浄瑠璃寺に行ってしまった。
バスで向かう途中、窓からこの店を見つけた。
古い家でリノベーションが必要な物件だったけど、持ち主の方がどうせ売れない物件と諦めていたので、カフェを開いてくれるなら、この辺りにはないから嬉しいと喜んでくれ、カフェとして開ける諸費用込みで1500万と破格だった!
子供達は絶対潰れるし、そんな遠くに行ったら、何かあった時が怖いし、いつも会えないのは嫌だと嬉しいこと言ってくれた。
でも……わかってる。そんな小説や映画のような奇跡は起こらないと…わかってる。
それでも…いつか会えるかもしれない、ここなら。
彼が来ることができるかもしれない。私たちの出会った場所だから。
迎えに行きますと言った彼、祥弥さんは私の住所を知らない。
後で気づいたけれど、何故か私の名前を知っていた。なぜ…何か見たの?名前が書いてる何かを…
「ふふ、夢見る少女のようね。さあ、明日はあの子達が来てくれるから、何かケーキでも作っておこうかな」
考えても、事実を確かめようがない。妄想が始まるだけだ。
明日は娘と孫が来てくれる。
月に二回は必ず。ありがたいことだ。
息子は一人だから、多ければ週二回は来てくれる。もちろん、ちゃっかりご飯を食べて帰る。そして、時々元主人も連れてくる。彼はコーヒー派なのに、ここに来たら紅茶を飲んでる。
心のうちは分からないけれど、いつも美味しいと言ってくれる。……結婚してる時は、ほとんど言われなかったのに。
小さなメニュー板を折りたたみ、お店の中に入れる。窓やカーテンを閉める。
閉店支度をしていて、たまに来る人はいる。その時は1時間だけならと言って受け入れる。気持ちはわかるから 。
「キャロットケーキ好きだから作ってあげようか」
独り言も当たり前だ。
返事はなくとも当たり前だった。
はずなのに──
「僕も食べたいです」
「!」
声が返ってきたことに驚き、振り返ると信じられない……
「え……」
「……僕を忘れてしまいましたか紗和さん…」
「そ…んな……まさか…」
まさか…彼が…祥弥さんが……いる。
声には出せず…いや、そんなわけない。
何か妄想?見間違え?
頭がフル回転するけれど……
「お店素敵ですね。叶えられたんですね。僕も叶いました。…だから、迎えに来ました。約束覚えてますか?」「……約束…覚えてる」
「よかった!ずっと会いたかった……必ずあなたのところに、戻るために頑張ったんだ」
そう言って、私を抱きしめた。
「あ……」
信じられない。
もう会うことはないと…会える気はしていても、実際そんなこと起こるわけないと……なのに……心が嬉しがってる。ドキドキしてる。
でも…でも、そんな都合のいいこと起こるわけないから、夢を見てるのかな。
抱きしめられながら、自分の頬をつねる。
痛い。
彼がゆっくり抱擁を解いた。
「紅茶をいただけますか。スイーツも一緒に」
優しく、微笑んでいる彼はあの時のままで…
どうしてか聞くのが普通なのに、この現実が本当は違うかもしれない、聞いてしまったら終わってしまうような気がして、聞けなかった。
「はい…どうぞ座って…」
さっきまでの抱擁は…彼は外国育ちなのか。
どうして?何が?どういうつもり?
もう頭がパニックになってるけど、彼の落ち着きが私を冷静に導く。
キッチンに入っても、思考の忙しさは変わらずだったけれど、彼に美味しいと言ってもらいたい。紅茶に集中することにした。
「お待たせいたしました。オリジナルブレンドです。一杯目はストレートで、二杯目は茶葉がそのまま入っていて濃くなっているので、ミルクがオススメです。差し湯もありますから、遠慮なく申し付けくださいね」
初めてのお客様用のいつも通りの説明をしながら、カップに紅茶を注ぐ。
アッサムとセイロのブレンド。配合はアッサム8、セイロン2だ。私がアッサムを好きだからというだけだけど。
彼がゆっくり火傷をしないように、カップに口をつけ紅茶を含む。
「あー、おいしい。…鼻に抜ける感じも甘みがある。本当に美味しいですよ、紗和さん」
「良かったー甘みのある茶葉が好きで、そういうのを選んでるの」
彼に言ってもらって、すごく嬉しかった。
飲んで褒めて欲しい人だったから……
「このお菓子は?」
「これはスコーンっていうの。知らないかな?イギリスの定番の焼き菓子で、そこに添えてるクローデットクリームとジャムをつけて食べるの。えっと、こうやって半分に割って……」
スコーン知らないようだったから、実演しながらクリームとジャムをつけて渡した。
「うん…おいしい…!パサつくのかと思ったけど、全然そんなことない。うん!美味しい!このクリームもくどくない」
「よかった!このクリームは、生クリームとバターの間くらいなの。手作りなの」
「すごいね!紗和さん。ちゃんとやりたいことを叶えられて」
「偶然と奇跡がたくさん重なったの。それに祥弥さんが、あの時そう言ってくれたから頑張れたの。ありがとう…」
「僕はなにも。あなたが諦めないで、頑張っただけだ。次はミルクを入れるよ」
「あ、お入れします。お客様」
「はは。じゃあ、お願いします」
私達は微笑みあって、少しのティータイムを楽しんだ。
これまでどうしていたのかとか、聞きたいことはたくさんあった。でもなぜか聞かずに、このひとときを過ごす方が大切に思えた。
どれくらいたったのか、いつの間にか暗くなっていた。彼にサーブしたポットの中身も、スコーンもなくなった。
話したのは、このカフェの事と私の事…祥弥さんが聞いてくれたから。
……もうすぐ帰ると、彼は言うのだろう。
──必ずまた会いに来るという、彼の約束は果たされたから、これが最後。
やがて彼はひと息ついて、向かいに座る私を見た。
「紗和さん」
「……はい」
これから、お別れの言葉を聞くんだ。
切なすぎる。
思いを決して口に出さず、ここまでこの想いで、幸せにしてもらったことを感謝しなければ。
明日からは、今日のこの日を想い出しながら生きていける。愛おしい息子と娘と孫がいるから大丈夫。
「あの時の約束通り、一緒にいきましょう」
「えっ!?」
全く予想していなかった言葉。
理解するのに時間がかかった。
「まさか違えるとでも…?」
「あ、え…違…う。どういう?」
祥弥さんの声のトーンが下がった。
顔は優しい笑みを浮かべているけれど、声が…雰囲気が…
私は恥を覚悟で、意を決して聞いてみた。
「その言葉は、勘違いさせるってわかってる?一緒に行きましょうって…あなたと私はかなりの年の差で、こんなおばあさんに対してでも、その言い方は良くないわ」「前にも言ったけど、紗和さんは綺麗だ」
そう言って、私に鏡のようなものを見せてきた。あの時と同じように。
「えっ」
鏡に映る私はシワが取れて、たるみのない若い顔で、20代後半…ぐらい?頬もふっくらしている。
あの日と同じ、スマホのアプリのようなものかと思ったけれど、よく見ればスマホではない。じゃあ…この顔は……それに祥弥さんも、あの時とほとんど姿が変わっていない。
「これからは、少なくとも暫くは、この紅茶を僕のためだけに入れて欲しい。スコーンやケーキも…ダメかな?
いや、そうしてほしい。…またいつかカフェを開く時まで……それだけを望みに、紗和さんといられることを望みに、ずっと頑張ってきたんだ。
…いくと、僕と一緒にいくと言ってほしい」
立ち上がって私に差し出す、その手を見つめる。
今この手を取れば、私はこの人と一緒にいられる。
でもお店は?子供は?孫は?
この私を受け入れてくれたここの人達は?
ここのお店を気に入ってくださったお客様は…
ただ私が消えるということ……
この先、彼とずっとにいられる?
若い姿の私は何?
ついていくなんて、ありえない事。
無責任になってしまうこと。
愛する人達に迷惑をかけることだらけ……
それでも……行きたい、祥弥さんと。
この人と一緒に行っても、あとの事は大丈夫だなと、なぜか思えた。何故かはわからないけど。
残る想いは子供達。
いい?ごめんね?あなたたちは、もう支えてくれる人が傍にいる。
愛してる、これからも、今までも。
ありがとう、私のところに産まれてきてくれて。
祥弥さんを見ると、瞳が不安に揺らいでいた。
だから早く安心させたくて、言葉より先に彼の手に、私の手を乗せた。
「ありがとう、会えるはずはないだろうけど、ずっとあなたにいつか会えたらと思ってた」
少しひんやりしている彼の手は、あの日と同じ。
顔立ちもあの日のままで……
私の手を感じた彼は、ほっとした笑みを見せてくれた。
私たちは静かに微笑みあった。
そして、彼の顔が近づき、目を閉じていいのか迷っていたら、彼の唇が私のものに重ねられた。
だから──閉じた。
そうしたら───




