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「今は、ご主人とはどうですか」
「……2年前に別れました。別れなくてもよかったのかもしれないけれど、性格的にはっきりさせたくて…スッキリしたくて。わがままですよね、でも後悔してません」
「そうですか」
「あ、落ち込んだりはないですよ。やりたかったことできる範囲で、今こなしていくのに忙しくて充実してます」
「やりたかったこと?例えば?今日のこのハイキングもですか?」
「ええ…いつかまた来たいと思ってたから…やっと思い切ってこれたんです」
「そうですか。あなたには勇気がいる事で、頑張れたんですね」
「そうなの…ありがとう。そんな風に言ってくれて」
「本当にそう思っているので。他には?」
「紅茶の美味しいカフェ巡りや、テレビや雑誌で見たいと思った美術展や建物巡り。月に1、2回のペースでね、ノルマにはしたくないので、行けたら行こうというスタンスでやってるの。2年前から始めて、今のところ大きな問題も起こらず、出来てるわ」
「目的が果たせたら、自信にも繋がりますね。それにやっとの思いで行けたところなら、しっかりその場を味わおうと、集中の仕方も他の人とは違うだろうし」
「そうなの!一度途中で体調が変わって、怖かった時があって、またそうなったらって怖くなったりするんだけど、大丈夫な時の、ちゃんと楽しく過ごせた時があんなにもあるから、大丈夫っていう記憶が安心にもなったの」
「…楽しいんですね」
「ええ、どうして?」
「あなたの嬉しそうな顔が、幸せなんだと伝わるので」「…本当にそう思える?」
「ええ、本当にそう思いますよ」
行けたことが嬉しいと、幸せだと自分ではそう感じていても、本当に私自身がそうなのか分からなかった。
ただ惨めな自分を認めたくなくて、そう思うようにしているだけかも…とか。
でも彼が私を見て、そう言ってくれたなら信じられた。そして、とても嬉しかった。彼にそう言ってもらえたことが、惨めな自分にうつっていないという証だから。
「ありがとう、その言葉が何より嬉しいわ」
「こちらこそ、あなたの笑顔が力になります」
「そんな……そこまでは、大げさよ」
急に恥ずかしくなった。
まっすぐに私を見つめてくれる、その顔がとても優くて。
「他には?」
「他は…紅茶のお店をやってみたかったかな。」
大きすぎる希望を話すのはやっぱり気が引ける。
でも思うことは自由だし、彼なら笑ったり、その体で?みたいなことは思わないと、確信があったからこそ言えた。
「働くじゃなく、お店を?」
「そう、お店を。自分好みの内装で、紅茶が大好きなお客様に気に入ってもらえるような、自分がこうして欲しかったと思うことを取り入れたお店をね。
とは言っても、お金もないからほんと自分の中で、空想で楽しんでいるんだけど」
「素敵ですね。あなたにとても似合っていると思います」
「ええ?ふふ。本当に?…ありがとう…本当に…お世辞でもとても嬉しいわ」
「そんなんじゃなく…本当に、あなたが店主ならぜひ飲みに行きたい」
「ええ…是非。…話せてとても嬉しかったし、楽しかったです。一緒に歩いてくださってありがとうございました。一生の大切な思い出です」
いつの間にかハイキングは終わっていて、バス停に来ていた。とは言っても、バス停のあるこの場所も整備された道ではあるけれど、周りは山と川が見えるだけ。
音は、川の流れる音と風の優しい音。時々メジロの透き通る澄んだ鳴き声。
交通手段は、バスで帰るか車しかない。
彼がどちらかわからないのに、なぜかここでお別れな気がして、お別れの言葉を言った。
「僕の方こそありがとうございました。貴重で大切な時間を頂きました」
そう言いながら、私をベンチに座らせるようエスコートしてくれた。
「え…?」
それでお別れと思ったら、彼は地面にしゃがみ、片膝をついて私の手を取り、私の顔をまっすぐ見つめてきた。 あまりに予想外のことにどうしていいかわからず、焦ってしまった様子の私に、少し苦笑いを見せてくれた。
けれど、また真面目な顔に戻った。
「紗和さん…あなたに会いに行きます、今はまだ無理ですが、必ずあなたを迎えに行きます。待っていてもらえますか?」
「えっ…」
会いに?
それはまだわからなくはない。でも迎えにとは…彼はどういうつもりで?
混乱した。
勝手に、都合のいいように取ってしまわずにはいられない言葉。細心の自惚れ禁止の注意を払っても、この言葉は勘違いさせる。
「あの…ちょっと言い方がおかしいかな…またどこかで会いましょうってことね?」
いや絶対そんな意味合いには、なるはずのない言葉だけど、凄い遠回しなそういうことかもと、脳がフル回転して答えを探してくれた感じ。
「いえ、必ずあなたの元に」
まっすぐな瞳に射抜かれる。
少しの間があり、聞こえてたはずの鳥の鳴き声、風で木々の揺れる音や心が洗われる空気が遮断された。
……冗談ではないと感じる。
それなら、私の出す答えは…
「……待っています。いつかまた、あなたに会いたいです」
若い頃の自分に、戻ったかのような気持ちだった。
別れが切なくて寂しくて、でもまた会える、会いたい。
その日まで心をときめかせたり、疼かせたりしながら彼を待って……
そんな来ないだろう日を思いながら、でもひと時の淡い幸せな時間を過ごせた想い出を胸に、私は生きていけると思えた。
「よかった。…紗和さん、僕は祥弥と言います。
あなたの紅茶を飲みに行きます。必ず紅茶を飲みに」
「ああ…!そういう…ふっ…来てください。祥弥さん…待っています。その時までに、うんと美味しく淹れられるよう腕を上げて、紅茶に合うスイーツも用意しておきます」
なるほど、そういう意味か。
それはそうだ…彼と私じゃ、親子ほどの年齢差。
全く…恋愛小説の読み過ぎだわ。
自笑気味に、彼の顔を忘れないように、もう一度しっかり見つめた。彼も私と同じく、ずっと見つめてくれていた。
恋をした。認める。
告げることのない想い。
バスがやってきた――
別れの時が来た。
バスからすぐ彼に視線を戻した。
「忘れないで、紗和さん。他の男の所に行ってはダメですよ」
「え…?」
バスの扉が開き、乗るように促された。
「好きだ…紗和さん」
扉が閉まる音でその声はかき消されてしまった。
バスの中にはいり、彼を見る事ができる席にすぐ座って、顔を窓から出し彼の姿をもう一度見て、どんな表情か確かめたかった。
もう二度と会えない人だから。──彼の住所も携帯番号も交換していない
なのに、そこにはもう彼の姿はなかった。




