第2話
拝啓 高橋恭介様
頬を撫でる風が冷たさを増し少しずつラグナロクの季節が近づいてまいりました。
貴方の頼れる女神 セレスティアです。
まず最初に、直接私の言葉でお伝えすべきところ、このようにお手紙という形をとらざるを得なくなった非礼をお許しください。
さて早速ですが、高橋様の転生先である異世界フォルトゥナの人類圏共通語に関しましては、無事インストールが完了したことをここにご報告いたします。
懸念されておりました寿命の損耗につきましても、現時点では目に見えるほどの影響は確認できておりません。
本来であれば直接問診を行い、詳しく影響について確認すべきだったのでしょうが、高橋様はショックで一時的に意識を失っており、無理に起こして話をすることが躊躇われる状態でした。
また勝手な邪推やもしれませんが、独りになって自分の姿を見つめなおす時間も必要ではと考え、私の判断で交信は中止させていただきました。
高橋様の異世界での助けになれば、とささやかではありますが贈り物を枕元に置かせていただきましたので、気に入っていただければ幸いです。
それではまたいつかどこかでお会いできる日を願って、末筆ながら高橋様のご多幸をお祈り申し上げます。
敬具
追伸 水場の近くまで女神パワーで移動させておきました。私は何も見ておりませんのでごゆるりと身をお清めください。
「…………うん。気を遣ってくれたんだろうな」
意識を取り戻した僕は、贈り物の上にそっと添えられていた手紙を読み、女神の心遣いに感謝する。
正直、今この状態であのクソ女神と会話をする気力はないので、こうして手紙という形をとってくれたのは本当にありがたい。今この状態も、これから自分がすることも、ただ他人に認知されていると思うだけで死にたくなるほどだ。
贈り物とやらは色々あったが、今一番自分に必要なのはこの世界の衣装なのだろう頑丈そうな布の服と体を拭く布切れ、そして目の前を流れる川。
僕はこの清流を汚してしまうことに若干の罪悪感を覚えつつ、垂れ流した糞尿でぐちゃぐちゃになった服を脱ぎ捨て、冷たい川の中に入って身を清めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
忌まわしい記憶をこそぎ落とすように川で念入りに身体を洗いサッパリした僕は、新しい服を身に纏い改めて女神からの贈り物を確認した。
置かれていたのは今僕が着ている服の他にバックパックとその中に入った皮袋、小ぶりなナイフ、布のロープ、鉄片と尖った石の入った小さな箱、薄い毛布、布に包まれた銀貨が……五〇枚。銀貨は一枚当たりどれくらいの価値なんだろう? 箱は所謂、火口箱というやつだろうが、使い方が分からない。
後は鞘に納められた刃渡り七〇センチほどの両刃の剣。刃物の良し悪しなど分からないが、特別良くも悪くもない普通の品質のように見えた。
これらが僕に与えられた女神の贈り物の全て。冒険者初心者装備を絵に描いたような内容で、思わず『転生特典がないんだからせめてもう少しオマケしてくれればいいのに』との感想が胸に浮かぶが、すぐにかぶりを振って自分を窘めた。
ひのきのぼうとぬののふくで送り出される勇者よりはマシだと思うことにしよう──いや、勇者は一応どうのつるぎだったか?
それによく見れば今僕が着ている服は布地を要所要所革で補強されており、ただの布の服よりは防御力が高そうだ。なめした革を切り裂くには日本刀レベルの切れ味が必要なんて話をどこかの漫画で読んだ記憶があるし、案外悪くない装備かもしれない。
ともかく最低限の装備と金はもらえたし、チートはなくとも人間の集落を探して仕事を見つければ、最低限生きて行くことはできそうだ。うん、そういう風に考えれば何とかなりそうな気がしてきたぞう。
さあてそれじゃ──
「…………人里、どこさ?」
先ほど意識を失った場所と然程離れてはいないのだろう。目の前を流れる川を除けば、見渡す限り広がる何もない草原。人の気配や建物どころか街道のようなものもまるで見当たらない。一体どこへ向かえばいいのか……
どうせなら人里近くに移動させてくれればよかったのに──そんな文句を思い浮かべ、すぐに否定する。思っても詮無いことだし、あの状態を人に見られていたら恥ずかしくて死んでいたかもしれない。これはこれで正解だったのだ、と。
「普通に考えれば、集落って水場の近くにあるもんだよな」
人間が生きて行くためにはどんな世界であろうと水が不可欠。であれば川沿いに歩いて行けばそのうち何か見つかるだろう、と僕は安易な発想で川の下流に向かって歩き出した。
このままボーっとしていても仕方ないし、発想自体は決して的外れなものではなかったのだ、が──
「────あ」
『────ギィ』
歩き出して一時間ほど経った頃。
川沿いに大きな石や岩が転がるエリアにさしかかり、一休みしようと適当な場所を探してキョロキョロ辺りを見回していたタイミングで、僕は岩陰からヒョコリと顔を出した緑色の小人と不意の遭遇を果たした。
僕と彼は互いに突然の遭遇に面食らい、至近距離で見つめ合ったまましばし硬直する。
緑色の小人の正体はすぐに予想がついた。小学校中学年程度の身長に尖った耳と鼻、ザラザラで汚い肌に腰みの、錆びた小剣の蛮族スタイル──きっとゴブリンというやつだ。
後に振り返ればこの遭遇は偶然ではなく必然だった。水場には人間以外にも多くの生き物が集まる。川に沿って歩いていればこんな風に他の生き物に遭遇する可能性が高まるのは当然だろう。ウィルダネスエンカウント。エグイRPGならLV1でも低確率でドラゴンと遭遇するリスクがあるし、そうでなくてもヒグマあたりに出くわせば一般人の僕じゃ勝ち目がない。今更ではあるがファンタジー世界で町の外を歩くというのはそういうことだった。
うん、そう考えると初遭遇がゴブリンというのは、RPGでは当たり前のように描かれているが、実はもの凄く幸運なことなのかもしれない。
だってゴブリンは見るからに僕より小さくて弱そうで、しかも今は他のゴブリンの姿も無くて一匹だけ。僕も最低限武器は持ってるし負ける道理がない。
『ギ……ィ』
ほら、ゴブリンの顔を見てみなよ。異種族なので分かりにくいけど、まるで熊に遭遇した登山者みたいに硬直して固まってる。きっと彼からは僕がそういう風に見えてるんだ。
怯えなくていい。僕の方が強いんだから。落ち着いて。焦るな。武器を──
「──うぉっ!?」
『──ギヒャ!?』
ハッと互いに我に返り、同時に奇声をあげて後ろに大きく飛び退いて距離を取る。
そして慌てて腰に下げた剣を抜き、技も何もあったもんじゃない構えで威嚇するように刃を突きつけ合った。
「う、うぉ……お?」
おかしい。視界が小刻みにブレている。これはまさか僕が震えているのか?
いやいや怯えるな。怖がる必要はない。僕の方が体格でもリーチでも勝っているのだ。剣道とかやったことないし自分でもきっとみっともない構えをしているのだろうな、という自覚はあるが、目の前のゴブリンだって大概無様な構えだ。技術もきっと大差ないし、慌てず落ち着いて対処すれば絶対僕が勝つ。
『ギ……?』
「──っ!?」
僕の震えに反応して、ゴブリンが牽制するように小剣をその場で小刻みに振るう。攻撃ですらない、ただ刃物をチラつかせるだけの示威行為にも関わらず、僕の身体はその錆びた輝きに引きつり、硬さをいや増した。
当たり前の話だが、平和な現代日本で生まれて生きてきた僕はこれまで刃物を持った相手と向き合ったことなどない。展望台や橋で透明な床の上に立つと落ちることがないと分かっていても足が竦むのと同じ理屈。その刃が僕に届くことはないと頭では理解していても、刃物を前に僕の身体は完全に竦んでしまっていた。
『……ギィ?』
そんな僕の反応を見たゴブリンの瞳にほんの少し好戦的な光が宿る。異種族で言葉が通じなくても分かる。あれは『あれ、こいつひょっとして雑魚? やっちゃう? やっちゃいます?』な目だ。
マズイ。怯えるな。攻撃する意思を見せろ。ゴブリンを図に乗らせるな。
──ザッ
「~~っ!」
だが理性で咆え立て己を鼓舞しても怖いものは怖い。ゴブリンがほんの一歩足を動かしただけで、僕の膝はガクガクと音を立てて震えた。
よくファンタジーで戦いに巻き込まれた一般人がいきなり武器を持って戦う描写があるがあれは何の冗談だ? そいつら漏れなく精神病質者なのか? 少し考えりゃ分かるだろう。現代日本でも包丁持った暴漢と向き合って冷静に動ける奴がどれだけいるよ。
訓練も何もなしにいきなり殺し合いに適応できる精神性なんて、それ自体が一種のチートじゃないか。
怯える僕の姿に幾分余裕を取り戻したゴブリンが、警戒しつつも僕との距離を詰めてくる。このままジッとしていればあと五秒と経たずゴブリンの間合いに入り、あの錆びた刃が僕に襲い掛かってくることだろう。
その想像はただ動かず待っているより怖かった。
「う──うわぁぁぁぁぁぁっ!!?」
『ギヒュ!?』
より強い恐怖に背中を蹴飛ばされ、僕は錯乱したようにその場で剣を振り回し始めた。
その斬撃は技術や気合以前の問題。ただ滅茶苦茶にブンブン腕を振り回しているだけで、攻撃する相手を見てすらいない。
だがそんな無茶苦茶な攻撃でもゴブリンには効果があったらしい。
──ガキィン!
『ギィ!!?』
反射的にゴブリンがあわせた刃が僕の剣の勢いに負け、ゴブリンの手を離れて宙を舞う。
至近距離。間合いの中。ゴブリンは無手。驚いて硬直している。僕は剣を持っていて、これをそのままゴブリンに振り下ろせば多分倒せる。
「~~~~っ!!?」
──だが、それが出来ない。
目の前で怯えるゴブリンの瞳を直視してしまった。これまでの人生で僕は生き物を殺したことなんてほとんどない。精々子供の頃に虫を殺したぐらいで、生きた魚を捌いたことさえなかった。
目の前のゴブリンが殺すべき敵だと理解はしているが、今まで十九年間の人生で築き上げてきた倫理観、価値観が人型の生き物に暴力を振るい──殺すことを躊躇わせた。
『──ギィ!』
剣を振り上げた体勢のまま硬直していると、ゴブリンの身体が攻撃姿勢をとるように低く沈む。あるいはただ逃げようとしていたのかもしれないが、僕には区別がつかなかった。
反射的に剣を振り下ろそうとする──が、『倒せ』『止めろ』矛盾する二つの命令を同時に下された僕の身体は混乱した。
「うわぁぁぁぁぁぁつ!!?」
剣を振り下ろすと同時、バランスを崩してその場にズテンと転がってしまう。
──マズイ!!?
衝撃で目がチカチカして何も見えないが、そのことだけは理解できた。敵の目の前で、無様に仰向けになって地面に転がっている僕。それがどれだけ危険な状態であるかは、否応にも。
「ぁあああああああああああああああああっ!!!」
後から振り返れば、この時僕は地面を転がって直ぐに立ち上がるべきだったのだろう。
だが錯乱していた僕にそんな合理的な行動がとれるはずもなく──地面に転がったまま奇声を上げ、手に持った剣をそのままブンブン振り回した。
どう考えても正気の沙汰ではないし、そんなことしていてもゴブリンが剣の届かない下半身を攻撃したり、ちょっと大きめの石でも投げてきたらそれで終わっていた。
「ああああああああああ──っ!!」
ただ恐怖に駆られ、体力と呼吸の続く限り腕を振り回し叫び続ける。
その状態は体感たっぷり一分ほど──実際には呼吸が続かないのでその半分ほど──も続いただろうか。気が付いた時には僕は息が切れ、頭が真っ白になって動きを止めていた。
「……はぁ……はぁ」
荒い息を吐き、恐る恐る首を動かしあたりをうかがう──ゴブリンの姿は見当たらない。
逃げた。あるいは見逃された。いやもうどちらでもいい。とにかく僕は生き延びた。
安堵と、ファンタジーでは最弱の魔物とされるゴブリン一匹相手に無様を晒した情けなさを思い出し、全身の力が抜ける。
「う゛ぅ……神様、僕に……僕に勇気を下さい……!」
着替えたばかりの服の下半身が、ほんのり暖かく湿っていた。