第五話 桜の心、雪の事情
創世宮から月の宮に帰って、二日後。桜花様から文が届いた。先日会ったばかりなのに、何かあったのだろうかと、書面を見ると、そこには震えるような筆跡で、不規則な大きさの文字が並んでいた。私は内容を読む前に、大きく深呼吸した。
〜大切な友人の真那へ〜
つい先日会ったばかりだけど、月華様とは仲良くしているかしら。あなたは気づいていたと思うけれど、私、雪花様のことを特別に想っていたの。あなたたちが帰った後、浮かれていたみたいで、ついそのことを雪花様にお伝えしてしまったのよ。
優しいあの方は、「気持ちは嬉しく思う」と言ってくださった。でも困った顔をなさっていたの。嬉しそうではなかった。
私、困らせるつもりではなかったのに、どうしたらいいのかしら。この想いをすぐに消すことはできないのかしら。
しばらく雪花様にはお会いしないつもりだけど、何もしないのはつらい。そう思ってあなたに手紙を書いているけど、文字を思い出すとあの方のことも思い出してしまって、つらいの。
私はどうしたらいいと思うか、あなたの意見を聞かせてちょうだい。
〜桜花より〜
私は月華様の元へ走り、桜花様と雪花様の間に起こったことを説明しようとした。けれど、文を見せた方がきっと伝わると思って、月華様に読んでいただくよう、お願いした。月華様は一読すると、手紙を私に返して、こうおっしゃった。
「まったく、手のかかることだ」
ぶっきらぼうな言葉なのに、声音が優しくて、ほっとする。そう、このままではお二人の想いがすれ違ってしまう。折角お互いが育んでいる、大切な想いが。
「返事はもちろん書くつもりですが、月華様のお許しがいただけるなら、桜の宮に参じようかと思いまして」
月華様は少し驚いてこちらを見た。
「恐らくあちらでは、お前と俺に関して、心ない噂が飛び交っているぞ」
わかっている。十分に。それでも私は、今回初めて「真那へ」と書いて手紙をくださった桜花様のところへ行きたいのだ。
「俺は許さん」
「そんな…!」
まさか許してくださらないとは思っていなかったので、どうすれば、と視線を落とすと。
「早合点するな。桜花に会いに行くよりも、雪花に会いに行く方がいいと言っている」
「雪花様に?」
それは、考えもしなかったことだ。確かに、雪花様は桜花様に対しても、ご自分の気持ちに対しても、素直になれていない。その理由や事情を知るためにも、話を聞く必要があるのかもしれない。
「では、また文を出しますか?」
雪の宮に文を出して、返事を待って出かけるのかと思って尋ねると、月華様は「いや」と頭を振って、立ち上がった。
「今から雪の宮に行く。あちらはもう寒いはずだ。何か羽織る物を取ってこい」
私は言われるまま二人分の羽織を取りに行き、その合間に桜花様に短い文を出した。必ず、なんとかするから待っていてほしいと。信じてほしいと。そう願いを込めて。
月の宮から雪の宮に直接に行くのは難しい。それほど王の力の及ぶ場所というのは守られた領域なのだ。だから、一度創世宮の端まで行き、そこから『万華橋』という橋を渡る。万華橋はあらゆる宮にかかっている橋で、その橋の下は奈落とされている。落ちれば二度と這い上がることのできない地獄だと。
「こちらで合っていますか?」
渡る万華橋を間違えれば、他の宮へ通じてしまう。いくつもある橋を一つ一つ、ゆっくり王である月華様に見ていただき、指示を仰ぐ。なにせ、従者である私には区別がつかないのだ。
「合っている。今日は急な訪問だ。説明などはお前に任せる」
王は、王の許可がなければ万華橋を渡り切ることができない。だからこそ私が先に行かなければならなかった。月華様の従者になってから、こんなに従者らしい仕事をするのは初めてかもしれない。しかも、他の宮へのお使いなんて。
「不安か?」
月華様が私の顔をじっと見た。
「少し。でも、大丈夫です」
月華様は「そうか」と言った。それから私の左手を握り、月色の指輪を撫でた。
「何かあれば、これで俺に伝わる。安心して行ってこい」
そうだった。普段は指に馴染んでいて存在を忘れそうになることもあるけど、私は婚姻の証を持っているのだった。これについて例の書庫で少し調べたところ、婚姻の指輪は月華様の身が滅ぶまで私を守ってくれるらしい。何よりのお守りだった。
「行ってきます」
そう言って月華様から離れ、手を振った時には、不安は小さくなっていた。
万華橋を真っ直ぐに歩いていくと、気温がどんどん下がるのがわかった。持ってきた羽織を途中で身につけ、少しだけ急ぐ。風が吹いた、と思ったらそこが雪の宮だった。白亜の塔のような建物が少し先にそびえ、仕事をしている従者がちらほら見えた。
「ようこそ、別の宮の方」
随分近くで声がしたと思ったら、私とそう背の変わらない少年がこちらを向いていた。
「お名前とご用件をお聞かせください」
少年ははっきりとした調子で私に言うので、私も背筋を伸ばした。
「失礼します。私は月華様より遣わされました真那と申します。雪花様にお取り継ぎ願えますか」
少し緊張して硬くなりながら言うと、少年はまるで疑う素振りもなく、淡々と「しばしお待ちください」と言い置いて、どこかへ駆けて行ってしまった。
しばらくその場で、月の宮とは違う空の様子など見ながら待っていると、雪花様が見えた。先ほどの少年も連れていらっしゃる。
「待たせたな」
元々落ち着いた方ではあるが、その声にいつもの張りはなく、姿勢も悪いわけではないのに、どこか頼りなく感じられた。やはり桜花様とのことを気にしておいでなのだ、と私が確信するには十分だった。
「急な訪問だったが、驚いてはいないようだな」
月華様の声がして後ろを振り向くと、万華橋を渡り切るところだった。
「こちらにも用があった。来てくれたことに感謝したいくらいだ」
月華様の前で弱気なところは見せられないのか、先程よりしゃんとして雪花様はおっしゃった。
「場所を用意してある。こちらだ」
そう言って、雪花様が歩き出すので、私は従者らしく月華様のやや後ろに付いた。先程、仕事をしているように見えた雪の宮の従者たちは皆、雪花様を敬って頭を下げていた。
通されたのは暖かな室内で、大きな四角い机を挟んで席につくと、少年がお茶を運んできた。
「こちらの用を先に済ませていいだろうか」
雪花様がおっしゃると、少年が盆を持って雪花様の隣りに立った。
「ああ、かまわん」
月華様が言うと、雪花様が頭を下げて、少年を見た。少年は自然な様子で、落ち着いて話し出した。
「わたしの名は千寿。特技は暗記や計算など。苦手なことは裁縫や調理などにございます」
いきなり、自己紹介を始めて、私が面食らっているのを知ってか知らずか、千寿は続けた。
「わたしはこちらの宮で十三年、お世話になりましたが、雪花様の力が強まる冬になるたび、体を壊して皆に迷惑をかけてしまっています」
はて、と不思議に思った。雪花様の加護の下に顕現しているはずなのに、雪花様の力が強まる冬に限って体調を崩してしまうというのは、どういうことだろう、と。
「なるほど、加護が外れかけているようだな」
月華様が言って、雪花様が頷かれた。
「それで、お前たちさえ良ければだが、千寿を引き取ってくれないだろうか」
雪花様の申し出を聞いて、月華様は千寿を見た。千寿は変わらない様子で月華様を見る。
「千寿、雪花に加護を付け直してもらうより、俺たちと来たい理由があるのか」
私は月華様の言葉で、確かにその通りだと思った。加護を付け直してもらうのは、容易いことではないけど、ここに変わらずいたいならば、雪花様に願い出るはずだった。けれど、千寿は眉を八の字にして、月華様にこう伝えてきた。
「わたしは冬より秋が好きです。四季の中で秋が一番好きでなのです。それに、わたしはこの宮の者たちが苦手です」
そう語る千寿の眼を見ると、胸が痛んだ。自分の生まれた宮を好きになれないのは、つらい。他の季節に惹かれるのは、後ろめたい。その気持ちが伝わってきて、私はこの子を引き取れないだろうかと考えた。
「わかった。俺たちで面倒を見よう」
私が考えていることが月華様にはわかったようで、「いいな、真那」と言われた。私はしっかりと頷いて、千寿にこう言った。
「月の宮が君にとって過ごしやすい場所になるように、私も手伝うからね」
千寿は、にこりとこの時初めて笑った。雪花様も「助かる」とおっしゃって、この話は終わった。問題はここからだ。
「じゃあ、身支度をしておいで。月の宮はここより少し暖かいから」
私が言うと、千寿は何か察したように、さっと無駄のない動きで部屋を出ていく。
「待ち合わせは万華橋に一時間後ね」
千寿が私の言葉に頷き、部屋から出たのを見て、私は雪花様に向き直った。
「桜花様から文をいただきました」
雪花様はその一言を聞くと、眉をひそめられた。この方が苦悶の表情を浮かべるとは、私は思ってもみなかった。
「あの子は、日に日に強く美しくなる」
雪花様の言葉には、切なさが滲んでいた。
「けれど子どもだ」
私には、雪花様の心がわからなかった。確かに、桜花様は十五にもなっていない。子供と言えばその通りだけど、その強さや美しさを知っているなら、想いはもう雪花様の中にあるはずだ。
「あと三年ほど待てないのか」
月華様の言葉に雪花様は目を覆ってしまった。その様子に、月華様が考える仕草をする。私がどういう状況か飲み込めないでいると、月華様がそれに気づいて苦笑いした。
「触れたくなる、ということだ。それが許される相手ではないから、どうしたものかと」
意味がやっとわかって、私はカーッと赤くなってしまった。そうか、桜花様相手に抱擁したり、口付けたりするのは、確かにしてはいけないことだ。それを成人するまで雪花様は待てないということか。
「でも、二人きりにならなければ、ある程度気持ちを抑えられるのでは?」
私が言い繕うと、雪花様がじろりと見た。
「だから創世宮でお互いの従者を付けて会うようにしていたんだ」
「じゃあ、これからもそうすれば…」
「真那」
月華様に止められて、私が言うのをやめると。
「王の一声は従者にとって絶対だな」
あ、と私は自分の言動の矛盾に気づいた。月華様と夫婦になった私ですら、長年の刷り込みで咄嗟に発言をやめてしまうのに、他の従者が王の命令を無視できるわけがない。
「桜花が想いを認めてしまった以上、雪花が断らなければ、従者たちはどう思い、考えるだろうな?」
確かに、王同士の逢瀬を邪魔するなど野暮だと思うだろう。そして、雪花様のように出来た方が、桜花様に対して過ちを犯すなど、あるはずがないと考えるのではないか。
「雪花様、私の考えが及ばず、失礼を申し上げました」
しゅんとする私の頭を、月華様がよしよしと撫でる。
「しかし、どう手を打ったものか」
月華様がまた考える。私も考えるけど、いい案は浮かばない。
「このままにしておく、ということも難しいだろうか」
雪花様が不意に問われたので、私は思った通りのことを伝えることにした。
「桜花様は想いを断ち切ってしまうかもしれません。それは由々しきことです。今の桜花様は雪花様を想ってらっしゃるから、変な虫が寄ってきても気づきもしませんが」
「そうだな、恋の痛手を利用しようとする輩は多いだろう。お前が付いてやっているのが安全というものだ」
私と月華様は同じ意見だったようで、雪花様は目を丸くした。
「あんな幼い子の心を弄び、あまつさえ手を出そうとする輩がいると?」
私は心の中で呟いた。雪花様、世間知らず過ぎます、と。あと幼い子だと言うが、目に見えて綺麗になる花に惹かれぬ者がいるだろうか。
「桜花に護身術か何か習わせるのはどうだ?」
月華様の提案に、私は反対する。
「少々の手習いで雪花様を凌ぐことは難しいと思います。桜花様は華奢でいらっしゃいますし」
それを聞いていた雪花様がピンと何か思いつかれたように顔を上げた。
「桜花に守札を持たせるのはどうだろうか」
守札。それは、護身のために王が贈る特別な札で、持っている者をあらゆる災厄から守ってくれると聞く。
「お前の守札では、お前からは桜花を守れんぞ」
守札は、王の力をそのまま反映するので、確かに雪花様が贈ったのでは意味がない。それに、神力が強い方が効力もあると何かで読んだ気がする。
「光華様の守札ならばどうだ?」
「!」
先日お会いした月華様のお父上。確かに、あの方は神力が強いという噂がある。
「んー…」
月華様が渋るのはなぜだろうかと思っていると、雪花様が声をひそめて尋ねた。
「もしや、お前の方が神力が強いのか?」
うぐっと月華様が詰まる。
「その…ちょっと腕試しにと一度、光華殿に挑んだことがあってだな」
ごにょごにょと言い淀む月華様は可愛い。けど、今それは横に置いて、これが解決の糸口で間違いないだろう。
「月華の守札を桜花に持たせるのは少々引っかかるものがあるが、それでもそれが最善だというなら甘んじよう」
雪花様はもう腹を決めたようなことをおっしゃっている。月華様も「そうだな…」と相槌を打った。
「では、あとは月華様が守札を桜花様にお渡しして、雪花様が桜花様に想いを伝えるだけですね」
私が朗らかに言うと、雪花様が「んっ?」と固まる。
「これで想いを伝える手筈が整いましたので、雪花様、男を見せますよね?」
雪花様は尚も「いや、だがしかし」と言い訳しようとしているので、私は最後の詰めだと、言い募った。
「桜花様は傷ついておいでです。自分の想いをすぐにも消してしまいたいと。雪花様を困らせてしまったからと」
雪花様は桜花様がそこまで思いつめているとは考えていなかったようで、驚いた顔をなさった。
「桜花様に想いを告げて、お心を癒してくださいますね?」
雪花様はとうとう「わかった」と答えたので、私がほーっと胸を撫で下ろすと、月華様は隣りで感心したように私を見ていた。
「お前の伴侶は本当に、逞しいな」
雪花様がなぜ疲れたようにそんなことを言うのか、私はわからなかったけど。
「うむ。いい女だろう?」
月華様がふふんと得意げに笑ったので、私は胸を張ったのだった。
いかがでしたでしょうか?
『万華橋』は前回の投稿時に書いた活動報告で考えた設定をそのまま持ってきました。
次回が最終話の予定ですので、どうか最後までお付き合いいただければ幸いです。
では、また次の物語でお会いいたしましょう。