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ポンダ  作者: 後藤章倫
4/4

④北村

 「行ってくるわ」

そんな声が聞こえたような気がした。北村は、毎日同じ時間に部屋を出ていく。とりあえず俺は、北村の部屋で居候をやるしかなかった。

「おっ、どうしたの急に」

そう言いながらも、北村は俺を受け入れてくれた。北村も一日やそこらだと思っていたに違いない。今日で七日目である。そろそろ、北村が集めたパンクのレア盤を聞いて過ごす日々にも飽きてきた。

  まるっきり金が無いわけじゃなかった。会社では寮暮らしだったわけだし、少ない給料でもある程度は通帳の数字が増えていた。ところが、会社を辞めて一人暮らしとなると、寮生活しかやったことの無い俺は戸惑った。北村の、こんなアパートですら、いったいどんな手順を踏んで自分の部屋とするのか全く見当がつかなかった。チャランポランタンな北村が、こうして立派に一人暮らしをしている。いや、最早チャランポランなのは自分だ。

「この部屋借りるのに幾らくらいかかった?」

調理油の匂いを見に纏い、バイト先の定食屋から帰ってきた北村に聞いてみた。

「どうしたの急に?幾らだったかな。敷金礼金がイチイチで、前家賃と手数料で二十五、六万くらいだったか」

「え?」

俺は軽い驚きを覚えた。なぜなら俺の通帳には二百万円くらいが入ってた。

「奢るからちょっと呑みに行かん?」

「どうしたの急に?金あんの?」


 高円寺駅の高架下に連なるお世辞にも綺麗とは言えないこじんまりとした居酒屋へ入った。

「イラッシャイ」

その声を前に聞いた気がした。

「アイテルセキ二ドーゾ」

あの人だ。エプロン姿で、あの時よりも目鼻立ちがしっかりしている。俺と北村は二人掛けのテーブル席についた。

「で、どうしたの急に」

俺がいつも急なのかも知れないけど、北村が口を開くと、大体最初の言葉は、「どうしたの急に」だ。

「ノミモノナニ?」

居候している事の礼を北村へ言おうとした時に、特徴のあるイントネーションで注文を促された。早稲田通りの植え込みの中で聞いたトーンで。

「生ふたつ」

北村はそう頼むのが決まりみたいに言った。俺は少し照れくさかったけど、北村へ礼を言った。

「ええと、まぁ、アレなんだけど、ありがとな」

「なに、どうしたの急に」

「いや、突然来て、部屋に泊めてもらって」

「いいって、行くとこ無いんならしょうがないじゃんか」

「で、いつまでも居るわけにもいかないだろうから、俺もアパート借りようかと」

「金、大丈夫なの?」

「ハイ、ナマフタツ。コレ、オトオシネ」

あの人がビールを運んできた。化粧のせいかも知れないけど、あの時よりも若々しくお姉さんみたいな雰囲気になっていた。モヒカンといっても髪を立てているわけではないけど、金髪だし側頭部の髪は無いし、そもそも一回だけ少しだけ話しただけの俺に気付くわけもない。

「アトナニニスル?アラ、アナタ、カミキッタネ」

「え?」

「なに?知り合いなの?」北村が驚いて聞いてきたけど、俺の方がびっくりした。

「いや、アズミちゃんとこに行く途中でちょっと」

俺が北村へそう言った時にはもう、あの人はカウンターの中だった。

 おまかせ焼き鳥、奴、エイヒレ、梅キュウ、つくね団子玉子のせ、ホッケ、しめ鯖、唐揚げ盛り、栃尾の油揚げ、お新香、ポテトサラダ、どんどんとつまみを追加しながら、俺の借りるアパートについて北村と話しているうちに訳が分からなくなっていった。もうその頃になると、ビールから始まった何気ない飲み会はハイボールを経由し日本酒をやりながら、二人とも呂律が変だった。散々、間取りや家賃、場所なんかを言い合っているうちに酒が進んでいた。おすすめのメニューが書いてあるホワイトボードがグニャリと歪んだような気がして大分酔ってきた事を自覚したのに、なんだか普通の考えが浮かんできて、それを北村へ伝えた。

「そもそもなんやけど、部屋って、何処で、どうやって借りるん?」

「どこってぇ、どこ?はああい、あああ」

北村は意味不明な事を言いながら、頭が徐々に下がっていき、テーブルの上に落ち着いた。

「アラアラ、ノミスギ、モウオシマイ」

あの人が来て、勘定の書いてある伝票を置いた。そして、不思議な事を言った。

「ヘヤヲサガシテルノ?キコエタヨ。ジャ、ウチクル?」

「へ?」

「コウノサンニキイテミルカラ、アシタ、マタキテ」

レジで会計している時に、あの人はそんな事を言っていた。ような気がする。


 目が覚めると北村は居なかった。どうやら仕事に行ったみたいだ。あんなピンクの髪にしているのに根は真面目な奴だ。ゆっくりと身体を起こすと、まだ周りが揺れていた。少しずつ昨日の記憶を辿るけど、どうやって北村の部屋へ帰ってきたのか分からない。とりあえずもう一度身体を横たえると、また眠ってしまった。ようやく起きると午後二時を回っていて、急に腹が減っていると実感した。こんな時間では、大手のチェーン店以外はランチの営業を終えていて、夕方からの開店に備え、休憩や仕込みに入っている筈だけど、北村のバイト先の定食屋ヤグチは通しでやっている。なんだか無性にヤグチのチキンカツカレーが食いたくなった。

 ヤグチへ行くとカウンターの端で北村が賄いを食べていた。店の中には二人の客がいて、一人はヤグチ特製ラーメンを、もう一人は、なんかの定食を平らげたらしく、空になった食器を前に週刊紙を広げていた。北村が俺に気付いて振り向いたけど、俺と分かると食事を続けた。

「すんません」と北村を呼ぶと渋々寄ってきた。頭が重そうだ。

「チキンカツカレー」

「よくそんなの食えるな」

「なんかこの店員さん感じ悪いな」

北村は、「はいはいはい」なんて言いながら厨房に居るマスターへ、「チキンカツのカレーひとつっす」と伝え、またカウンターの賄いへと戻った。


 北村と出会ったのはヤグチだった。毎週末、横浜の寮から高円寺にあるレコード屋まで来るようになっていた。自主制作盤、所謂インディーズのレコード、それもパンクのを手に入れるには、俺の中では高円寺だと思っていた。中央線沿いにあるそのレコード屋は不思議な造りの建物だった。線路沿いの道に手書きの立て看板が突っ立っていて、その看板が示す矢印の先には、二階へ伸びる狭い階段があった。一階部分も当然あるのだけど、入り口みたいなところは見当たらなかった。二階の店舗でレコードを物色している時間は至福の時だ。平積みのものから順に見ていく。毎回のように見ているラックも全て探す。その中から二枚の七インチと一枚のアルバムを手に会計へ。店に居たのは、その筋では有名な女の人で、パンクの雑誌なんかで名前は知っていたけど、こんなに綺麗な人だとは思っていなかった。少しの会話に緊張した。それから店の階段を降りると、さっきまで浸っていたパンクの世界が嘘みたいに消えて、急に現実側に引っ張られたような気がして滅入ってしまう。そして空腹も感じた。時刻は午後二時を回っていて、開いている店は、ちょっと先に見えるヤグチと書かれた黄色い看板の店だけじゃないかと錯覚するような、そんな時間だった。

 店に入ると、カウンターの隅でオレンジ色の髪をした長身の男が背を丸めて丼ぶりをかきこんでいた。俺は店内を一旦見渡したあとにメニューを眺めたのだけど、実はさっき壁に貼ってある色あせした紙を見た時に決めていたチキンカツカレーを頼もうと、声を張った。「すみません」としか言ってないのに、そのオレンジ色は厨房へ向かって大声を出した。

「チキンのカツカレーひとつっす」

すみませんしか言ってないのに、何なんだこいつは。当たっているけど、何なんだこいつは。店には小さな本棚があって、週刊紙や漫画の単行本なんかに紛れて、普通こんな定食屋では絶対目にしないパンクロックに特化した月刊誌が数冊あった。カレーを待つ間、それを席で捲っていると、付箋がはみ出している頁を見つけた。バンドのメンバーを募集するコーナーで、その中の一文に赤線が引いてあり、その頁に貼ってある付箋に〖店員北村まで〗と、ふにゃふにゃの字で書いてあった。赤線が引かれているところには、初期パンやりたし 当方ヴォーカル 全パート募集 とあった。

「チキンカツカレーお待ち」

オレンジ色の髪をした店員がカレーをテーブルへ置いた。そして、俺が開いている頁に気付くと、なれなれしく話しかけてきた。

「お兄ちゃん、バンドやってんの?」

「いや、聞くのは好きだけど」

「どんなの好きなの?」

俺は早くチキンカツカレーが食いたかった。

「ハードコア…パンク」

「ハードコアかぁ」

そう言ってオレンジ色はカウンターへと戻っていった。こいつが店員北村で間違いないと思いながら食ったチキンカツカレーは凄く旨かった。それから高円寺へレコードを漁りに行く度にヤグチでチキンカツカレーを食べて、店員北村とも顔見知りとなっていった。


 チキンカツカレーを食ってヤグチを出た。北村は食器を片付け、テーブルを拭いている。今日も北村はちゃんと働いている。まだ昨日の酒が残っているようで表情は冴えないけど、ピンクの髪で今日もヤグチで働いている。

 こうして高円寺に居ると、横浜から毎週末のように通っていたレコード屋から足が遠ざかる。いつでも行けるっていう余裕なのかは分からないけど、ここに来て十日近くになると、何というか、ホーム感が出てきた。駅から直ぐの氷川神社で缶コーヒーをやりながら一服、そのあと何故かまたヤグチへ行き、窓ガラス越しに北村を確認。そのまま高架下を阿佐ヶ谷方面へ歩く。阿佐ヶ谷駅の手前でUターンし高円寺へ。そこいらの居酒屋が、ゆったりと開店し始める。喉が渇いていた。昨夜の店まで来ると、まだ準備中の札が入口に出ていた。

「アラッ」

入口の引き戸が、予告も無しにスライドして、俺を見たあの人の声が漏れた。

「いいっすか?」

店の中を指差して言うと、あの人は含み笑いのような表情で頷いた。まだ誰も居ない店内で、カウンター越しにあの人と向き合った。

「ナニニスル?」

「ビールを、生を」

出されたジョッキは一気に飲み干した。

「くぅぅぅ、うまっ」

「ウチニキテイイッテ、コウノサンガ」

不意に要点を示され、考えが追い付かなかった。

「そのコウノさんて誰?すか?」

「アト、アナタシゴトナイデショ。ココデハタライテネ」

「え?マジっすか?」

「ジャ、キョウカラネ」

「え?」


 「はい、生三つお待ち。注文決まったら呼んでください」

俺は、慣れない文言を発しながら、厨房と客席を動き回った。平日の夜なのに、カウンターもテーブル席もいっぱいだった。

 閉店間際になって初老の男が入ってきた。店には二組の客が残っているだけで、その二組も帰り支度を始めている時だった。俺はどうしていいのか分からなくて、あの人の気配を背中に感じながら入ってきた男に、「あのう」と情けない声で話しかけると、「ダイジョウブヨ」と後ろから声がした。男は無言でカウンターへ座り、あの人は直ぐにコップ酒を差し出した。男がそれをゴクリとやると、あの人が俺に言った。

「オツカレサマ。サァ、カエリマスヨ」

俺は北村の部屋へ帰るのか、この人と一緒に帰るのか、妙な感覚になった。カウンターの男が酒を飲み干し、席を立つと、厨房で後片付けをしている人にあの人が何かを告げてから俺の背中をそっと押した。俺はそのまま自然な流れで店の出口へと歩を進めた。そして、中央線の高架下を三人で歩き始めた。

「ジュン、こいつだな」

何度か上を電車が行き来したあと、男が口を開いた。

「ソウ、ダイジョウブデショ?」

男は、あの人の事をジュンと呼んだ。あの人は、俺の事を大丈夫だと言った。この人がコウノさんか。いったい何者なんだろう、何か気まずい。

「あのう、はじめまして」と言ってみたものの、後が続かなかった。

 高円寺と阿佐ヶ谷の丁度中間あたりの高架下を右へ曲がると、少し歩いた先に古いアパートが見えた。コウノさんとジュンさんは何の躊躇も無しに、雨風で劣化したであろう辛うじて〔北斗荘〕と読める門扉を入っていき、手慣れた感じで大きな引き戸を開け、中へ行った。古い木造の、学生寮みたいなアパートだ。玄関には多くの靴が散乱していて、そのサイズや形も区々だけど、その殆どが男物みたいだ。広い廊下の中程に階段があって、二人は其処を上がっていった。二階の、その部屋だけ他の部屋とは違う造りとなっているみたいで、そこがコウノさんとジュンさんのとこだった。部屋は細かく区切られていたものの広くて、古い木造の建物だけど、居心地が良さそうだと思った。

 八畳程の和室にある座椅子へコウノさんは腰を下ろした。ジュンさんは台所へ行ってしまい、俺はコウノさんを見下ろす感じで突っ立っていた。コウノさんは目を閉じていて動かない。台所で陶器が細かく擦れる音がして、お茶の用意をしたジュンさんが部屋へ戻ってきた。

「スワッテ」

ジュンさんに促され、俺はぎこちなく畳に正座した。ジュンさんが湯呑みにお茶を注ぎ始めると、そこでコウノさんは目を開けた。

「今夜からここに住むといい。家賃は無い」

コウノさんにそう言われても、俺には実感がなかった。

「あと、仕事をして貰う」

「あの店の仕事っすよね?」

ジュンさんがお茶で満たされた湯呑みを静かにテーブルへと並べた。

「店と、あと」

コウノさんはそこまで言ってお茶を啜った。ジュンさんもそれに続く。俺も湯呑みを唇のそばまで持ってきたけど、猫舌の自分にはとても飲める温度ではない事を感じ取り、一滴も飲まないまま再びテーブルへ戻した。

 翌朝早く、北村の部屋へ戻り、寝起きの北村へ簡単に事の経緯と感謝を言ってから、少しばかりの家財道具が一切合切詰まったリュックを背負って、あそこへ、北斗荘へと向かった。一夜を過ごしたあの部屋の前まで来て、入っていいものか躊躇したけど、昨日からはもう此処が俺の根城に成ったのだからと、そう自分にいいきかせて引き戸を開け、中へ入った。とりあえずあの和室へ入った。コウノさんとジュンさんはまだ寝ているのか、家全体がしんとしていた。

 歯ブラシを咥えてリビングをうろついたり、新聞を読んだり、もっと他の事をする行為は、テレビや映画の中のワンシーンでのみの事だと思っていた。俺の家族は、父も母も弟も、歯を磨く時は洗面台に腰を曲げて、ボウルと睨めっこをやりながら磨いていた。そうしないと歯磨き中には口から歯磨き粉、涎、その他の訳の分からない汁が垂れてくるからだ。なので、テレビや映画で登場人物が歯ブラシを咥えてリビングをうろついたり、新聞を読んだり、その他の事をやったりするシーンは不思議でならない。あの朝の描写は何かのか、あんな事をしたら口からダラダラと歯磨き粉や涎、その他の訳の分からない汁を垂らしながら、リビングをうろついたり、新聞を読んだり、その他の事をやる事になる筈。八畳間の襖が開いてジュンさんが入ってきた。口の中には歯ブラシが咥えられていて、信じられない事に、「オハヨウ」と言葉まで発した。

「おはよう、ございます」

俺は、目の前をうろつくジュンさんを凝視した。口元からは何も垂れていない。ジュンさんは自然な動きで、何かを手に取り部屋を移動していった。奥の部屋から物音がして、暫くしたらコウノさんが現れた。黒っぽいラフなスーツを着ていて、ネクタイはしていない。昨夜の印象よりも若々しい。

「おはようございます」

俺が挨拶をするとコウノさんは変な事を言った。

「今日から〖オニツカボンジ〗と名乗ってくれ、あとお前の部屋は、そこ使って良いから」

コウノさんが指差す先にジュンさんがいて、その部屋を開けてくれた。そんな事よりも。

「あの、ちょっと」

「鬼を束ねるで鬼束、梵字の梵に次ぐで鬼束梵次」

「ちょっと待って、名前とかどういう事っすか?」

「仕事」

「仕事?源氏名とかそういう?」

「まぁ、そんなとこだ。入ったら知らせるけん」

けん?語尾に懐かしい違和感を覚え、俺は住むところを与えられ、そして、なんかモヤモヤしたまま新しい生活が始まった。みたいだ。コウノさんはそのまま部屋を出ていった。俺は特に何もする事もなく、昼過ぎにヤグチへ飯を食いに行った。気怠そうにはしているけど、今日も北村はちゃんと働いている。ヤグチのチャンポンを平らげ、レジで北村へ千円札を支払う。おつりの二百五十円は、レジスターから北村のジーンズのポケットへと吸い込まれた。

「おい」

突っ込みを入れると、北村は飄々とした顔をして言った。

「お客様、うちの宿泊代がですね」

「はいはいはい。わかったよ。ごっそうさん」



つづく

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