③Y
まだ慣れない五月の神奈川で、向かいのホームに知った顔があった。
就職試験は結構な倍率だった。三年生の秋口からは、朝のホームルーム後に担任の先生が数名の生徒を呼ぶ。呼ばれた生徒は平常を保っているつもりでも、内心はバクバクしている。俺の高校は工業高校で、進学する者は片手で数えるくらいだ。あとの連中は全員が就職となる。早い奴は、夏休みが終わると直ぐに就職試験を受ける。秋を感じると就職試験はピークをむかえ、毎朝その合否が担任から伝えられる。ひとり呼ばれる事もあれば、三人とか五人とかの時もある。俺の名前が呼ばれたのは、秋も終わろうとしている頃だった。その日に名前を呼ばれたのは俺を含め六人で、先生は黒板の前で俺と他の五人を分けた。五人の中には、一度どこかの会社を落ちて違う会社を受けた奴も居て、なんだか五人とも笑顔だった。そうか、先生は気を遣って受かった奴らと落ちた俺を分けたんだなと、そう思った。五人は口々に「イエイ」「フゥ」「バリバリン」なんて言いながら楽しそうだ。やれやれ、次はどこを受けようかと思っているところへ先生が近付いて来て「おめでとう」と言った。
「え?」
俺は、おめでとうの意味が分からなかった。こんな時に使う言葉ではない筈。それから少しおいて事態を把握した。あの五人の中にはシゲオも居たけど、かける言葉が出てこなかった。
横浜の本社では新入社員総勢八十名が入社式に臨んだ。オーディオ機器を得意とする家電メーカーで、誰もが知っている社名だ。就職試験の倍率も五倍強で、此処に居る奴らはそれを突破してきたのかと思うと、なんで俺が居るのか変な感覚がする。それでも俺は選ばれたのだ、選ばれし者なのだと優越感が少しあって、その調子こいて伸びた天狗の鼻は、一週間後にあっさりと折られた。辞令が出て配属先が決まるとそこは、最寄りの駅からバスで七分程のところにある工場で、仕事は旋盤工だった。工業高校機械科卒業の俺にはそんなとこだろう。それから、工場と会社の寮との往復の日々が始まった。
旋盤と油は、それが一組みたいなもので、新人の俺がやる仕事といえば、金属を削った時に出るキリコの除去、床にこぼれた切削油の掃除などで、文字通り油に塗れた。仕事を終え、作業着から私服へと着替えても、身体中ベタついている感じだし、実際に髪や身体からは切削油の臭いがした。仕事にまだ慣れたとは言えないけど、相模原にある寮から工場までの通勤には何となくしっくりいくようになっていた。月は変わり、五月となった。
それは乗り換えの駅でのホームだった。帰宅時間帯のこの駅は、一際混雑する。電車を待っていると、向かいのホームにシンゴが居た。咄嗟に手を上げてみたけどシンゴは気付く様子もなく、それから直ぐに上り下りの電車が同時に滑り込んで来て視界を塞いだ。
横浜で三度目の五月を迎えた。一度だけシンゴを見かけた乗り換えの駅は、転寮したために利用しなくなっていた。ドイツ製のNC制御による旋盤の扱いにも慣れてきて、ちょっとした修理なら自分でやれるようになった。新入社員からは先輩と呼ばれ、日々の緊張感もいつの間にか何処かへ行ってしまっていた。
Yは、四つ上の先輩で、嫌な野郎だ。入社当時からネチネチと嫌味を言ってくるような奴で、新人教育の担当だった。極端に目つきが悪く、猫背で、両肩が上がっているというか、張っているというか、子供向けのアニメに出てくるロボットみたいなフォルムをしている。変な声で、変なパーマをあてていて、それをイケていると信じて疑わない。はっきり言って恥ずかしい。それなのに、休みの日の前日ともなると部屋までやってきて「今夜、ナンパに行こうぜ」なんて信じられない事を言ってくる。逆に恐ろしくなる。Yは、ナンパが成功するとでも思っているのか?お前と一緒では百パー相手にされない事は確実だ。毎回Yの誘いを断っていたのだけど、その日はなかなか諦めが悪く、「何聞いてんだよ?」なんて言って俺のヘッドフォンを引ったくって装着してしまった。直後に「なんだこれ?訳わかんね、ダサダサ」とか言いながらヘッドフォンを外した。
「ダサいよ、お前、こんなの聞いて、モテないぞ」
そう言うとようやく部屋から出て行った。俺が聞いていたのはパンクバンドで、その中でも一際スピードと絶叫に特化したハードコアパンクを大音量で聞いていた。
休み明けの月曜日、Yは新入社員を引き連れて旋盤加工の説明なんかをやりながら俺の機械のところまで来た。そこでYは、仕事とは関係のない事を喋り始めた。
「はい。この先輩、音楽の趣味が最低です。マネしないでね。ダサい音楽聞いて喜んでいるから」
ダサい?誰がや?ダサいのはお前やろが?なんなんだこいつは?は?いつもはそう思っても、自分の中で処理していた。
「ほらほら、手ぇ止まってるよ。あんなの聞いているから。ハハハハ」
そう言ってYは、新入社員の方へ振り返った。
工場の床は緑色で、所々に切削油がこぼれている。水色の作業着が油を吸って紺色に変色した箇所が増えていく。新入社員が四人、無言で立ち尽くす。向こうの通路からこっちに向かって走ってくる班長と数名がスローモーションに見える。血の混じった嘔吐物がYの口からはみ出ている。俺の安全靴は倒れこんだYの腹辺りに何度もめり込み、それを繰り返している。
Yは問題のある奴だった。俺に対してだけではなくて、前から度々騒動を起こしていたらしい。それは会社も把握していたみたいで、俺はクビとはならなかった。只、暴力を振るった事は事実で、Yの出方次第では事態が変わるかもと言われたけど、Yは何もしなかった。本人は知らないかもだけど、Yは今の主任止まりで、これ以上の出世は無いらしい。
「だから仕事で追い抜け」
課長は俺をそう鼓舞した。俺はその言葉を聞かずに退職を選んだ。もうあんな奴には金輪際関わりたくなかった。
会社を辞めるという事は、寮も出て行かなくてはいけない。退寮まで一週間の猶予があったけど、何もする気がなかった。出ていく前日になって、必要最少限のものだけをリュックへ詰め込んで、あとのものは棄てた。買い集めていたパンクのレコード類だけは手放したくなかったから、同期の奴に頭を下げ、そいつの部屋の片隅に置かせて貰った。
雨が降っていた。例年よりも四日ほど早く梅雨入りしたらしい。玄関脇の小窓から寮母さんに挨拶をして、普段出勤するような感じで寮を出た。敷地内を歩いていると、傘をさして突っ立っている人が見えた。気にせず歩くとそれが誰だかわかった。今日は平日で、もうとっくに就業時間を回っているのに、そこに立って居たのはYだった。あの顔、あの身体、あの声、あの嫌味、あの考え、あのパーマ、あの口癖、その全てを消し去りたかった。Yはじっと此方を見ている。俺は歩く速度を落とすことなくYの前を通り過ぎた。
寮の門扉まであと数メートルのところで後ろから奇声がした。さしていた傘は無く、こっちへ向かって走ってくる。Yだ。雨がさっきよりも強くなる。大声をあげ、手には棒状の何かを握りしめている。俺はゆっくりと傘をたたんだ。そして、もう寸前まで迫っていたYへ、それを突き出した。どこにヒットしたのかは分からないけど、Yは持っていた棒状のものを手放して、その場へ蹲った。
突然、忘れかけていた記憶が現れた。ババァの畑の端で、ポンダのビームサーベルがババァを貫いた映像が鮮明に蘇った。ポンダが言ったように、変な音と変な手応えが俺にはあった。Yは蹲ったまま動かない。その上に容赦なく雨が降りしきっている。俺はまた傘をさし、門扉を出て寮をあとにした。雨は止む気配を見せなかった。
JR中央線高円寺駅の改札を出て左へ。北口の路面は完全に乾いていて、そもそも雨が降った形跡が無い。駅を背にして信号待ちをしていると、視線を感じた。振り返ると北口交番があって、二人の警察官がこっちを見ている。信号が青に変わり、駅前広場を進む。視線の先に二人の警察官が歩いて来るのが見える。俺は前後を四人の警察官に抑えられてしまった。ババァのようにYも死んでしまったのだろうか。前から来た二人の警察官が意味有り気に会話をしながら近付いて来る。俺は目を逸らす。落とした目線に二人の歩みが見えてくる。それから、何事もなく俺とすれ違った。広場の端まで来た時に振り返ると、すれ違った警察官の一人と目が合ってしまった。
週末にパンクのレコードを買いに来る街で、友達と呼べる奴が一人だけ居る高円寺。北口から延びる商店街を歩く。阿呆か。感情が湧き上がる。阿呆やろ。なにが、警官が見てるだ、目が合っただ、雨がやまないだ。考えが暴走する。死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、ああああああああ。
「アーホーかぁボケぇ、死ぃぃねぇぇぇ」
庚申通り商店街に入ったところで絶叫した。さほど多くない買い物客は、年寄りが目立つ。煙草をふかしながらパチンコ屋から出て来た白髪で無精髭のアロハシャツがこっちを睨んでいる。手押し車の老婆は無表情で横を通り過ぎる。服を着た小型犬を散歩させていた上品そうなオバはんが愛犬を抱きかかえる。八百屋の店先で固まっていた中年夫婦が不自然に動き出す。正面から駆けてくる子供に追い付き、行く手を阻む祖父。そういうものを感じ取って収拾がつかなくなった。
シリアスな芝居じみた考えが頭にあった事を恥じ、叫んでしまって、こんな空気を醸し出した事に苛立ち、じゃ、次にどうすればいいのかも分からない。腰を曲げ、両膝へ手を置き、下を向いていた。高校野球のキャッチャーがホームベースの前へ出て、「しまっていこう」と叫んだ直後みたいな格好だ。目を開け、前を見ながらゆっくりと腰を伸ばす。視界に入ってきた商店街は、俺のことなんか全く気にしている様子もなく、実に普通だった。
「あっ」と、またポンダが現れた。わからないまま忘れていた事は、こういう事だったのかと。俺は就職先でYと出会い、知らず知らずのうちに怒りを蓄積していた。だから行動へ移すのに数年の猶予があったのだけど、ポンダにはそんな時間が無かった。振り返った時には、両手に鎌を持ったババァが其処まで迫っていた。工場で暴れた俺は、咄嗟の感情が爆発したものだと思っていたけど、それは無意識に積み重ねられたものだった。Yを傘で突いて、良く分かった。そのあと、さっきまでのしょうもない考えは、小学生のポンダが体験して、急変した時の感覚なのだろうか。今、ポンダはどうしているのだろう?未だにあの嫌な感情をずっと引きずっているのかもしれない。そんな事を考えながら歩を進めていると、商店街の端まできていて、目の前には早稲田通りがあった。早稲田通りを示す標識にはWaseda-dori Ave.と書いてあった。
「なんで、通りアベニューなん?早稲田通りなんやから早稲田アベニューでいいやんけ」
そんな疑問を標識に投げかけても、白と青で構成された横長のそいつは、「阿呆やな」って顔をしてシカトしている。俺は標識から目を逸らさずに近付いて、手にしていた傘をアスファルトから伸びるひょろっとした白い胴へ突き刺した。Yを確実に捉えた傘の先は、円柱形の表面に交わされ、俺は勢い余って歩道の植込みの中へ倒れこんだ。背の低い植木の小枝が、服から露出している腕や首なんかを傷つけた。ゆっくり上を見上げると、waseda-dori Ave.の野郎が吹き出していた。もうどうでも良くなって、植込みの中でじっとしていると、声を掛けてくるものがあった。
「ダイジョウブ?」
声のする方へ顔を向けると、女がこっちを見ていた。
「アナタ、ダイジョウブ?」
アジアンなデザインの白いワンピースを着たおばさんだった。ストレートの黒髪を後ろで一本に束ね、食料品の入ったレジ袋を手にしている。レジ袋の中で、じゃが芋や玉葱が透けて見える。持ち手のところに長葱がはみ出ていて、足元は涼しそうなサンダル履きだ。化粧っ気のない顔は特徴がなく、でもそれは悪い感じじゃなかった。
「はい、大丈夫」
そうは言っても、俺はまだ植込みの中で、植木たちに絡まれている最中だ。
「ヨカッタ、ジャ、サヨウナラ」
そう言うと、白いワンピースのおばさんは早稲田通りを阿佐ヶ谷方面へ歩いていった。なんとなく感じの良い人だったなぁと、ようやく身体を起こす。傘を拾い上げ、植込みから出と、すぐそこに横断歩道があって、タイミング良く信号が青へと変わった。
早稲田通りを渡りきると、その先は高円寺ではなく中野区大和町となる。狭い路地のいたるところは住宅街で、戸建、アパート、マンション、その他の建物で圧迫感がある。少し歩くと現れたちょっとした所は、公園という名目が示されている。これを公園とするのだろうか、ここで寛ぐ者など皆無と思える。視界に入った猫は目つきが悪い。大和町のクレームばかりが溢れながら大和町を進む。しみったれた角を右へ曲がると、そこに美容室デストロイがあった。建付けの悪い、観音開きの扉を開けて、とりあえず店に入る。
「こんちは」
「お、らっしゃい」
店主のアズミちゃんは、自分で作った不恰好でカラフルな椅子で雑誌を手にしていて、そう言った。美容室デストロイはアズミちゃんが一人で作り上げた店だ。恰幅の良いアズミちゃんはスキンヘッドで、派手なTシャツと派手なハーフパンツという成りで、今日も暇そうだ。歳は三十代半ばくらい。
「で、今日はどうする?」
俺は先月、パンクの友達がここで髪を切る時に付いていて、それで美容室デストロイを知った。その時も客は、俺らだけだった。
「初めてだっけ?」
「一度、友達と来て」
「はいはいはい、北村とな。あいつあれから金持ってこねぇんだけど、会ったら言っといてよ」
マジか、あの時あいつ、千円しか無いから明日残りの金持ってくるからなんて言って。
「で、今日どうすんの?」
アズミちゃんにそう言われたから、最初に言う事が言えなくなった。仕方なく、「金髪のモヒカンに」とオーダー。
「金髪のモヒカンな。ところで、オマエ金持ってんだろな?」
「それが」
「おいおい、ここはボランティアでやってんじゃねぇんだから。しょうがねぇなぁ」
「手持ちが三千円で」
「三千円でカットとカラーリングやるつもりか?」
「いやぁ出来れば夕飯代の五百円は残しておきたくて」
「お前らなぁ」
ため息をつきながらもアズミちゃんは立ち上がり、俺を手作りのドレッサーへ促した。ここへ来たなら先ずは値段の交渉をしろと、北村がそう言っていたから、それに習ったのだけど。
「仕事はいいのか?まぁ、俺んとこに来るような奴は碌なもんじゃないからな」
「会社辞めたばっかで」
「そう、で、どうするのよ?」
アズミちゃんは手慣れた感じで鋏を動かす。ザクザクと音をたてながら切られた髪が床へ落ちていく。
「今朝、寮を出てそのままここに来たからどうしようかと」
アズミちゃんの手が止まる。
「おいおいおいおい、いいのか?モヒカンなんかにして。仕事探すなら止めとくか?今ならまだ普通に出来るぞ」
アズミちゃんは、俺のこれからを心配している。アズミちゃんは、成りは悪いのに、実は社会性を持ち合わせている。このくすぐったい感覚。俺は懐かしいものが頭の変なところからボヤっと出てきたのを感じた。ああこの感じは、ホリゴのおばちゃんだ。
ホリゴは中学校の正門前に店を構える雑貨屋で、その立地上文房具屋と認識されがちだけど、ホリゴは雑貨屋で駄菓子屋の要素も兼ね備えていて、果物や日用品もあり、近所の住民にも重宝されていた。堀井五郎商店というのが正式な店の名前だけど、誰もがホリゴと呼んでいた。そのホリゴには休み時間ともなると、学校を抜け出して元気の良い生徒がお菓子やジュースを求めてやってくる。勿論そういう事は学校で禁止されているけど、そういう奴らはお構い無しだ。ホリゴにしても商売なのだから、そこは仕方がない。休み時間になる度に、何人かの者がホリゴでそんな事をやっていた。
俺が初めて学校を抜けてホリゴへ行ったのは、中学二年になってからだった。ホリゴのおばちゃんもそういう奴らの扱いには慣れていたけど、俺がガムを片手にしておばちゃんに金を渡そうとした時には困惑した表情を見せた。
「あんたは、こがん事したらいけんよ」
しっかりと金を受け取ってから、おばちゃんはそう言った。俺は何だかわからない情けをかけられたようで、くすぐったくなった。おばちゃんには俺が真面目な生徒に見えたのかもしれないけど、それからも俺は度々学校を抜け出してホリゴに通った。シンゴと一緒に行くようになると、もうおばちゃんも何も言わなくなった。アズミちゃんの言葉で、そんなホリゴを思い出した。
アズミちゃんが、俺の頭にあった手作りのそれを外した。パーマ屋なんかで、おばちゃん達の頭を覆っているヘルメットみたいなアレだ。鏡に映る俺は宇宙人みたいだ。バリカンで刈り込まれた側頭部から頭頂部付近までの頭皮は、熱を帯びて赤みがかっている。ブリーチ剤を塗られて、一纏まりで頭の上に横たわっている髪は、健康的な人が放出したバナナうんこみたいだ。直後に目がしみて、それは強烈な痛みへ変わった。
「目ぇ開けんなよ」
アズミちゃんの声は遅かった。
「痛ぇ」
「眉毛にも塗っただろが、目開けんなって」
熱で流れたブリーチ剤が、俺の目を激しく刺激した。
ドライヤーの音が止まってアズミちゃんが軽く肩を叩いた。ドレッサーを降り、もう一度鏡を見る。少し前の自分とは全く違う奴がそこに居て、ちょっと後悔した。アズミちゃんへ三千円を渡すと、アズミちゃんはそれをレジに入れて、それから律儀に五百円を返してくれた。
「ちゃんと仕事探して、で、次は普通に金払えよ。今日のだっていくらなんでも五千円コースだからな」
アズミちゃんへ礼を言って、デストロイの扉を開けると、大和町がオレンジで満たされていた。小学生時分に行ったポンダんちの玄関がスッと現れた。そして消えた。結局、雨は降らなかった。大和町は、来た時よりも幾分か俺に歩み寄っている気がした。
つづく