①ババァの畑
ババァんちの裏は畑になっていて、その四角い土地の広さは二百坪くらいある。ババァはそこで数種類の野菜を作ってはいるものの、野菜が植わっているのはせいぜい畑の四分の一程度で、他は雑草が生い茂っている。俺の家の裏庭はババァの畑と接していて、裏庭といっても矢張り雑草が茂っていて、ババァの畑との境は分からない。ババァの畑の向かいを仕切るのは高さ二メートル程の金網柵で、金網の先は俺らが通っている小学校の校庭だ。畑の南面にはブロック塀があって、そのブロック塀の奥はシンゴんちだから、俺がシンゴんちへ行く時の最短距離は、裏庭からババァの畑を突っ切って、そのブロック塀をよじ登ればいいのだけど、そうはいかない。ババァは自分の畑へ他人の侵入を決して許さない。ババァのそういう事が分かったのは割りと最近の事で、俺んちからシンゴんちまで歩いて三分もかからないから、そもそも裏庭へ出てババァの畑を突っ切るなんて考えたことも無かった。
それまでは何とも思っていなかったババァの存在が強烈に現れたのは偶然だった。学校の帰りにシンゴんちへ寄って、狭い庭でキャッチボールをしている時、シンゴの投げたボールは俺の頭上を遥かに超えて、ブロック塀の向こうへ飛んでいった。
「ちょい、どこ投げとん?」
俺はブロック塀に手をかける。
「メンゴメンゴ」
ふざけた謝罪のシンゴの声を背中で受けると、雑草が茂る畑の中に蛍光ピンクのゴムボールを見つけた。塀を乗り越え、トスンという音をたてて畑に着地する。ボールの許へ行きゴム製のボールを掴むと、小走りに向かってくる老婆が見えた。その表情は俺に向いていて、目は怒りに満ち溢れているようだ。片手には草刈り鎌を握っている。咄嗟にボールをシンゴんちへ投げ入れて、急いでブロック塀をよじ登った。
「なんやあの婆さん?」
シンゴに聞いても初めて見たような顔をしている。老婆はブロック塀の向こうから暫くこっちを見ていたけど、畑の奥へと帰っていった。
そんな事があったものだから、俺とシンゴがババァに興味を抱かない訳が無かった。次の日、シンゴんちの庭からババァの畑へ石を投げ入れてみた。何の反応も無い。なんでババァは、あの時あんなに必死になって俺に向かってきたのだろうか。手に鎌まで持って。
「今度はお前が入ってみ」
俺がシンゴに言うと、シンゴは躊躇しているみたいだった。
「実験やけん、行ってみ」
俺が駄目を押すと、シンゴの目がいたずらになって歩き始めた。シンゴは先ず、ブロック塀の上に座って辺りを見渡す。ババァの姿は無い。俺はシンゴに後ろから小声で「行け、行け」と言いながら、ババァの畑を指さす。意を決したシンゴがブロック塀の上からババァの畑へ飛ぶ。トスン、という音をたてて無事に着地。それから直ぐにキョロキョロと首を振って周りを確認する。その時、ブロック塀の上に居た俺は、ババァんちの裏口のトタンが擦れる音を聞いた。シンゴはまだそこで同じ動作を繰り返している。
「シンゴ戻ってこい」
俺の顔を見たシンゴは、半信半疑の表情をしている。
「来た」
俺はババァんちを指さす。振り返ったシンゴの目線の向こうから、両手に鎌を持ったババァが小走りに近付いて来るのが見えた。シンゴは「うわっ」という弱々しい悲鳴みたいな声を出したと同時に動き出して、ブロック塀をよじ登った。俺たちは互いの顔を見ながら「何なん?」と言いあった。ババァはまたブロック塀の傍まで来てこっちを見ている。何を言うわけでもないけど、その顔は怒りで充満していた。
やられるだけなんて納得がいかなかった。畑に入っただけで鎌を持って追いかけてくるってどういう事よ?確かに他人の土地へ無断で立ち入る事がいけない事くらい小学生の俺らにも理解出来るけど、いきなり鎌を持って追いかけて来るっていうのは犯罪者の匂いがするというか、山姥感満載というか、兎に角納得出来なかった。そこで俺とシンゴは考えた。考えて一個のアイデアが浮かんで、それは画期的な事に思えて笑いが止まらなかった。
翌日、ブロック塀の上にビール瓶やコーラの瓶、ラムネの瓶なんかを七本並べた。そこにロケット花火を各々差し込む。花火なのだけど、夜では近所からのクレームや親に見つかってしまうし、そもそもが本来の花火とは目的が違うのだから、放課後のまだ陽が高い頃に決行する。ロケット花火はババァんちの裏口へ向けられていて、俺もシンゴも花火に火をつける前から笑いが止まらない。シンゴが家から持ち出したチャッカマンで端から点火する。ピューンと音がして最初のロケット花火がビール瓶から勢いよく飛び出す。次の花火も発射。二発のロケットはババァんち手前で畑に突っ込んでしまった。方向を微調整して三発目が発射、四発目と五発目も続く。タン・タン・タンと、それらはリズミカルにババァんちのトタンの壁をノックした。俺とシンゴは馬鹿笑いをしていた。するとババァんちの裏口の戸が開きババァが出てきた。ババァは此方を確認すると一目散に真っ直ぐ向かってきた。当然、両手に鎌を握りしめて。俺は狙いを定めた。そしてシンゴが点火した。心なしかさっきよりもデカい音を出してロケット花火は飛び出していった。狙いを定めすぎたのか二発のロケットはババァのかなり手前で畑にめり込んでしまった。ババァの突進は止まらない。それでも俺たちはブロック塀のこっち側に居るという安心感があった。
事態が変わったのはそれから数秒後だった。ブロック塀の手前、数メートルのところまで来て、またババァは止まった。ババァは鬼の形相で俺たち二人を睨んでいた。それから野球のピッチャーみたいに振りかぶって右手に持った鎌を投げつけてきた。鎌はグオングオン回りまがら俺たちに迫ってきて、ブロック塀に当たって落ちた。
「危なっ」
俺もシンゴも小声を漏らしたけど、ババァには関係のない事だった。ババァは今度はサウスポースタイルで振りかぶり、鎌を投げさくってきた。鎌はさっきよりも勢い良く回り、さっきよりも早い速度で迫ってきた。それが俺とシンゴの間を掠めて、縁側の手前まで飛んで、ようやく勢いを無くして落ちた。
「危なかろが」
俺はババァに強く抗議した。シンゴは庭に落ちた鎌を拾ってきてババァへ投げ返した。シンゴはそもそもババァに命中させるつもりはないから、投げた鎌はババァの手前で土にめり込んだ。ババァと俺たちは暫く睨みあっていたけど、ババァの口元が少し動いたあとに、ゆっくりとした動作でで二つの鎌を拾い上げた事で、その緊迫感は無くなった。そしてババァは帰っていった。その後ろ姿目掛けてロケット花火を打ち込んでやりたかった。
こうなったら意地でもババァの畑に侵入してやる。俺は学校が終わるとそのままシンゴんちへ通うのが日課となった。俺たちが考え出した作戦は、あのブロック塀をシンゴんち側から穴を掘り、ブロック塀の下を掘り進めてババァの畑に侵入するというものだった。庭のブロック塀際に直径ニメートル程の穴を、俺たちはスコップだけを使って毎日掘り続けた。シンゴの母ちゃんに見つからないように、穴の手前に古タイヤや自転車、木の枝なんかを置いてカモフラージュした。毎日、シンゴの母ちゃんが帰宅する前に作業を終えて、その場所は秘密基地を作っているという事にしている。
最初、庭の表面は石なんかが踏み固められていて、スコップの扱いに慣れていない俺たちはなかなか作業が進まなかったけど、穴の深さも五十センチを越えたあたりから土質が劇的に変わった。あの硬い地面は何だったのだろう?と思うくらいスコップがサクサクと土へ入っていく。でも良いことばかりでもない。掘り易くなった分、運び出す土の量も増えて、その土の置き場に頭を悩ませた。何の計画も無しに積み上げた土砂は、もう限界だった。俺たちは一旦掘る作業を中止して、積み上げた土砂を庭の隅から順に盛るように移動させた。この頃になると道具もスコップだけではなくて、バケツや一輪車、ロープなんかも駆使していた。そしてもう一つ、俺たちには敵がいた。雨だ。雨は容赦なく折角掘った穴へと侵入してくる。その雨水のせいで積み上げていた土砂が穴へ流れ込んできたり、壁面を崩したりして、もう穴を掘るのを止めてしまおうかと何度も思った。
穴の深さも二メートルに達して、そろそろ横穴を掘り始めようとしていた。掘り出した土の置き場も、庭の隅から順に盛ってくるとまだまだ余裕があるし、雨の問題も、穴の縁を地面より高く盛り、そこへ木材を並べて上からブルーシートを被せる事でほぼ解決した。天気の良い土曜日だった。土曜日だから午後は丸々作業に充てられる。昼ごはんを食べ終わると直ぐにシンゴんちへと向かう。シンゴんちの玄関前を通って庭へ出ると、変なことになっていた。
穴のところにシンゴと、この時間にはまだ居る筈のないシンゴの母ちゃんが居て、シンゴに何か言っているところだった。庭へ出たところでそれを見た俺は足を止める。シンゴが俺に気付いてこっちを見ると、シンゴの母ちゃんも顔を向けた。仕方なく俺も穴のところへ行った。
「なんばしよるかと思ったら、こがん事ばして」
シンゴの母ちゃんは、怒ったような呆れたような、そんな声で俺たちに言った。
「中に居って崩れたらどがんすっとか?だいたい何の穴や?」
俺たちは二週間くらいかけて掘った穴を埋める羽目になった。掘る時はあんなに苦労したのに埋める作業は早かった。翌日、日曜日の午前中には庭は元通りというか、整地も兼ねた形となったから前よりもすっきりと綺麗になった。こうして、ババァの畑へ地下から侵入する作戦は失敗へと終わった。
ポンダんちは、シンゴんちの左斜め向かいにある本多サイクルだ。ポンダは俺らの一級下で四年生。人気者で、同級生からはもちろんのこと、下級生からも上級生からも好かれていた。当たり前に女子にもモテた。ポンダは愛想が良くて明るい。背はそんなに高くはないけど、目鼻立ちはしっかりとしていて凛々しい。ユーモアセンスに溢れているポンダの周りには常に人が居て、笑い声に囲まれていた。
その日の放課後、俺は帰宅途中シンゴんちに寄って、いつものように他愛もない話なんかして、そんな時間を過ごしていた。シンゴんちの庭からは学校の校庭で遊ぶ生徒たちも見えた。
「待てええ」と言いながら五、六人の男子が一人を追いかけていた。逃げている奴の右手にはビームサーベルが握られている。追っている奴らの手にも各々物騒な武器が握りしめられている。追われていたのはポンダだった。ポンダは校庭の隅まで走ってきて金網に手をかけた。
「ずるかぞ、そこば超えたら学校の外やろが」
追って来た連合軍の兵士たちは、手に持った段ボール製のバズーカ砲やライフル銃を抱えた下級生みたいだった。ポンダは笑顔で、竹の三分の二程をピンクに塗ったビームサーベルを金網の向こうへ投げ入れてから自分も金網を越えた。ビームサーベルを拾い上げたポンダは、声高々に宣言した。
「わっはっはっは、連合軍の諸君さらばだ」
俺とシンゴは思いっきり叫んだ。
「ポンダ逃げろ」
俺たちの声に振り返ったポンダの顔が引き吊った。両手に鎌を持ったババァが、直ぐ傍まで迫っていたからだ。ババァの目は殺気立っていて、冗談で鎌を握っているようには見えない。焦ったポンダは慌てて手にしていたビームサーベルを前に突き出した。ビームサーベルがババァのどこにヒットしたのかは分からなかったけど、ババァは持っていた鎌を手放して蹲った。その隙にポンダは猛ダッシュでババァの畑を駆け抜けて行った。一部始終を金網の向こうから見ていた連合軍の兵士たちは、泣き出しそうな顔をして校内へと走って行った。ババァは畑で蹲ったまま動かない。
それから四日後、学校から帰って来ると、うちの前まで路上駐車の車があった。車は結構な台数で、ババァの家の右隣高梨さんちの、そのまた右隣の青木さんちから俺んちの前まで伸びていて、うちの向かいにあるゲートボール場にも三台停まっている。朝から鴉がババァんちへ集っていて、それは不気味な程だった。家の前に見知らぬ誰かの車を停められても、こういう時は誰も文句を言わない。
「今朝、カラス鳴きが悪かったけんな」
ババァんちの前に近所の人が四人居て、隣に住んでいる高梨さんの言葉に、他の三人も同意するように頷いていた。カラス鳴きが悪いとは、ここいらの人がよく使うキーワードで、数羽の鴉が朝方にその家に屯して鳴いていると、そこの家で不幸があるという迷信だ。
「ババァ、死んだて」
俺がシンゴに言うと、シンゴも知っていた。死因は、餅を喉に詰まらせた事による窒息死らしかったけど、俺たちは違うと思った。ババァは基本的には一人暮らしだったみたいだけど、偶に五十代くらいの息子と娘が様子を見に来ていた。布団に横になって、ババァは餅を喉に詰まらせて亡くなっていたいたらしい。
「横んなって飯ば食うくらいに痛かったんやろか」
シンゴの言う事に、俺もそう思った。
ポンダのビームサーベルはババァのどこを貫いたのだろうか。俺らは本多サイクルまで歩いて行ったけど、店の前で本多のおっちゃんがいつものツナギを着て自転車のパンク修理をしているだけで、特に変わった事はなかった。おっちゃんと目が合った俺とシンゴは会釈した。
「あそこの婆ちゃん死んだってな」
本多のおっちゃんは吞気にそんな事を口にした。
「ポンダがやったとよ」つい、そう言いそうになった。「ポンダは元気ですか?」と訊ねてみると、チューブをタイヤの中に詰めながら本多のおっちゃんは言った。
「四、五日前からちょっと元気の無かようやけど、学校で何かあったとね?」
何かあったどころではない。ポンダはババァをビームサーベルで突き刺したのだ。そして、ババァは死んでしまった。
つづく