8・消えてしまった光流の魂
あの日の夜、翔は焦って車を飛ばしていました。
博物館に古いタペストリーを搬入し、エントランスの壁に展示をすれば、今日のバイトは終わり。仲間が熱を出して休んだことから、このすべてを一人で済ませなければなりません。
本当は翔だって、一刻も早く帰りたかったのです。
なぜなら、子どもの頃からずっと可愛わいがってきた愛犬のちょびが、連日の猛暑で泡を吹いて倒れたと、家から知らせがあったのです。
ボトルに残ったわずかな水で、口の中を湿らせ、またボトルに戻します。
そうやって、乾いた喉をだましだまし癒いやしながら、翔は車を走らせました。
早く仕事を終え、ちょびの元へ帰りたい一心で。
もしかしたら、意識がわずかに、朦朧としていたのかもしれません。
気持ちが焦り、視野がせばまっていたのかもしれません。
道を左に曲がろうとした瞬間、翔は、車道に走り出てきた自転車を見誤ってしまったのです。
すぐにハンドルを切りました。けれど、間に合いませんでした。
車は電柱に激突し、自転車に乗った少女もまた、ポーンと跳ねるように飛ばされたのです。
意識を失った二人は、道行く人の通報で、すぐに病院へ運ばれました。
翔はろっ骨を折り、軽いむち打ちが残りましたが、命に別状はありませんでした。
少女はと言うと、落ちた場所がツツジの植え込みだったせいでしょうか。奇跡的に、かすり傷だけで、体に異状は見られませんでした。
にもかかわらず、意識を失ったまま、こんこんと眠り続けたのです。
少女の名は、光流と言いました。
以来、光流は目を覚ましません。
*
(あの時、彼女は13星座の神話の中に、入ってしまったんだ……)
事故で気を失った瞬間。翔は、車に積んだ13星座のタペストリーと、自分の意識が溶け合って行くのを感じていました。
これはさして、変わったことではありませんでした。
かねてから、誰かが心を込めて作ったもの、とりわけ絵画や物語に、幾度も吸い込まれそうになったことがあるのです。そのたびに、意志を固くし、自分に戻る努力をしました。
とくに古い作品には、作者そのものの月だけでなく、その作品に心揺さぶられた幾万の人々の月が、まるで残り香のようにしみついているのです。
(中でも、あの13星座のタペストリーは特別だった)
上手く言えませんが、あのタペストリーは、今まで見たあらゆる美術品とはまた別の、不思議な重厚感がありました。
幾万の人々の月の残影。その量が桁外れで、もうそれそのものが一つの生き物のようなのです。
初めてあのタペストリーを見た時から、「これはオレの手に負えない。間違って入り込まないようにしないと……」翔はそんな風に思ったのでした。
にもかかわらず、あんな事故が起きてしまった。
そして翔も光流も、13星座のタペストリーの、だだっぴろい世界へと放り出されてしまったのです。
それから、翔は、目覚めてこの世界に戻り、少女は一人、あのタペストリーのただ中に残されてしまったのでした。
うすらいでいく意識の中で、翔は少女の白い影を見ました。
13星座のタペストリーの世界へ、消えていった光流の魂。
そして……。
(あの場所には、もう一人いた)
あの時、翔は、生まれて初めて名なき者と、正面から向き合ったのです。
それまでは、人々の痛んだ月の周りをうごめいている、黒いモヤモヤにすぎませんでした。
けれども事故を起こしたあの晩は、ハッキリと彼の存在を感じたのです。
*
翔は、強い恐れにとらわれていました。
肉体の痛みへの恐れ。
死ぬことへの恐れ。
誰かをひいてしまったことへの恐れ。
その感情に、恐れにのまれた翔の月に、一人の名なき者が近づいたのです。
黒い衣の間から、差し出された真っ白な手は、氷のように凍てついて見えました。垂たれた髪は片方の目を隠し、あらわになった左目は、ゾッとするような美しさで、赤く光っています。
名なき者は、翔に向かって優しく語りかけました。
「お前は罪を犯してしまった。
この娘は二度と目覚めない。かわいそうに。
命が尽きて、肉体がチリとなれば、やがて家族も娘を忘れるだろう。その忘却が、いずれ、お前をゆるすだろう。
けれど肉体は滅ばないのだ。意識だけが戻らない。
家族は、娘が目を覚ますことを、毎日のように祈るだろう。
その期待。お前への隠れた憤り。恨うらみ。
それがこの娘の命ある限り続くのだ。お前には耐えられるかい? 」
翔の月は、もう自分ではどうすることもできないほどに、わなないていました。
それは耐えがたい感情でした。
この感情のただ中に居続けるなら、どこでもいいから逃げてしまいたい、そう思いました。
「どうすればいい」
と、うわずった声で尋ねます。
名なき者は、ふふっと笑い、翔に告げました。
「簡単なことだ。わたしと共に、ここを去ればいい。
我々が行くところには誰かの無言の責めもない。お前は自由だ。
ほら、お前をずっと待っていた、この者も一緒だ」
見ると、そこには翔の友、愛犬のちょびが、黒目勝ちな可愛い瞳でこちらを見上げているではありませんか!
翔は思わずよろよろと、ちょびに近づきました。
「そうだ。おいで。罪深き者よ。ちょうどこの犬もお前と共に、冥府へと向かうさなかだ。
我々は共にあり、この地球で罪に苦しむ者たちを、肉体というしばりから自由にする、尊い仕事をしようじゃないか!」
そう言って名なき者は、労わるように、翔の背に触れようとしました。
翔は思い出していました。
いつだったか、大きな国の外務大臣の傍にいた、名なき者のことを。
いえ、当時はそれが名なき者と言うことも、翔は知りませんでした。彼の姿はぼんやりとして薄黒く、判然としなかったのです。
けれど、今ここで翔を説き伏せようとする彼こそ、あの時、大臣の傍にいた名なき者でした。
冷たく白い肌を持ち、吸い込まれるような赤い目を持ったこのひと。
「おや、思い出したか。
当時、わたしは時空を超えて、ヤツの演説に耳を傾ける、世界中の聴衆を品定めしていた。
よく覚えている。多くの聴衆のなかでも、お前は特別なにおいがした……」
『特別』と言う言葉に、惹かれる自分がまだいたことを、翔は驚いていました。
でも、そんな自分の弱さも悲しさも、もうどうでもいいのでした。
翔はちょびと共に、すべてから自由になりたいと思いました。
水を求め続けるカラカラに|乾《かわ《いた肉体からも。人々の、終わりのない月の嘆なげきからも。崩れ行く、この地球からも。
翔は自由になりたいと思いました。
そうして、自分に伸びた冷たい手に力なく触れようとした時。
「ちょび! 行け!」
と、少女の叫ぶ声が聞こえたのです。
瞬間、足元でしっぽを振っていたちょびが、パーンと弾け、消えました。
そして、勇敢な目をした本物のちょびが、まっしぐらに駆けてきたのです。
ちょびは飛び上がり、ぬめりを帯びた名なき者の手に、勢いよくかぶりつきました。
闇をつんざく悲鳴。
我に返る翔。
名なき者は舌打ちをして、振り返ります。
そして、彼方に立っている少女を、恐ろしい目つきでにらみすえると、彼女に向かって猛スピードで走り出しました。
「ちょび! おいで!」
と、少女が声を張り上げます。
その声に応じるように、ちょびはすぐさまUターンをし、走り出しました。
翔は何か起きたのか、わかりません。
ただ一つわかったのは、白っぽい少女の影の向こうに、例のタペストリーの世界が広がっていることでした。
怒り狂う名なき者を追い越し、ちょびが少女の元へ駆け戻ります。
そして二人は、名なき者から逃れるように、13星座の神話の海へと飛び込んだのです。
ゆっくりまぶたを開くと、古ぼけた病院の天井が、広がっていました。
翔が事故を起こした、翌朝のことでした。