6・「自分は死んじゃったんじゃないか」と思っている少女と、 イキイキした瞳の幽霊 の少女
夜の8時を回り、簡単な夕飯を済ませると、千冬は叔母さんに内緒で家を出ました。
日は沈んだと言うのに、温められた大地はムッとするような熱気を放ち、歩くだけでめまいがします。
一日に飲める水の量は限られていましたから、千冬はできるだけ喉が乾かないよう、あせる気持ちを抑えて、ゆっくりと歩きました。
博物館の窓の明かりは、すべて消え、人影はありません。
入口に続く石段を上ると、千冬は額ひたいの汗を手の甲でぬぐい、リュックを下ろして例の本を取り出しました。
ー あなたから何かをもらうことはできません。約束もできません。 千冬
と、記した手紙を四つに折って、間にはさみます。かがんで扉に本を立てかけると、急いで石段を下りようとしました。
ギイ……と扉のきしむ音がします。
足を止めました。
振り返って、扉に目をやります。
本を立てかけた重みで、扉の一枚が少し奥に押されています。
(へんだな)
今まで休みの日にも、訪れたことのある博物館です。鍵がかかっている時は、びくともしない扉なのです。
千冬は立てかけた本をもう一度、ゆっくりと手に取りました。
扉は静かに、元あった場所へと戻ります。
少し考えて、今度はその扉を、ぐっと強く押しました。
ーギイィィィ……
開きました。
扉の向こうは真っ暗闇。
いえ……、その暗闇の中に、ほの白い影が見えます。
恐ろしさに震えてもおかしくないのに、千冬の胸は高鳴りました。
目を凝らして、白い影を見つめます。
次第に輪郭がハッキリと形をおび、美しい瞳をした、一人の少女が現れました。
そして、パッと千冬の手をつかむと、「行こう!」と叫び、エントランスの奥まったところ、13星座のタペストリーへと走り出したのです。
闇の中を。
千冬は涙があふれそうになりました。
だって、嬉しかったから。
ずっと、千冬を迎えに来るはずの誰かが、もしかしたらエンマさまの手先かもしれないそのひとが、少なくともその瞬間の千冬にとって、誰より待ち望んだひとでした。
千冬は、ただただ嬉しくて、少女と一緒に闇の中を駆けました。
いつもならカラカラに乾いている喉は、不思議とうるおっていました。むせかえるような暑さも、闇の中では感じませんでした。
そして、おそらくは魚座のタペストリー目掛けて、共に、飛び込もうとしたその時……。
ードシンッ!
鈍い音と共に、激しい痛みが身体を襲いました。
「……いっ、たっ……」
千冬は肩から壁に体当たりした格好で、あおむけに転んでいました。
ぶつけた肩をさすりながら起き上がります。
少女が言いました。
「え! あなた、まだ入れないの?」
「……昼間は、入れそうな気がしたんだけど」
まるで言い訳するように、答える千冬。
「そうなんだ。困ったな。てっきり一緒にあっちに行けると思ったのに」
闇の中に、ほの白く立つ少女は、困ったように首をかしげます。
そして、ふわっと宙に浮かびあがると、タペストリーを点検し始めました。
その姿に、千冬はそっと目をやりました。
髪は明るい栗色で、瞳はイキイキと輝いています。ほおはポッと上気したように、薄桃色をしています。 そりゃあもう、愛らしい姿なのです。
にもかかわらず、少女の脚は、ぼやけてしっかりと見えません。闇にまぎれて判然としません。
「……あなた、幽霊なの?」
と、おそるおそる尋ねました。
少女は、「ん。まあね。たしかにそんな類ね」と返事をし、13星座のタペストリーをさすったり、つぶさに見入ったりしています。
「千冬も入れそうな場所を、探してるんだけど……」
言われて、邪魔をしてはいけないと、一歩、後ろに身を引きました。
ふと、大理石の柱に映った自分の姿が目に入ります。
やせたほお。生気のない瞳。髪は真っ黒で重く、青白い顔を覆い隠しています。
(どっちが幽霊なんだか、わかりゃしないわ)
千冬はため息をつきました。
その時、少女が自分の名を口にしたことに気がついて、顔をあげます。
「あなた、どうしてわたしの名前、知ってるの?」
「だって、ずっと待ってたもの」
答えにならないその答えを、なんとも嬉しく感じながら、「そうなんだ。ねえじゃあ、あなたの名前は?」と尋ねます。
「わたし? わたしは……」
少女は一瞬、手を止めて、しばらく黙っていましたが、千冬の方に振りかえると、「『ふゆ』。それがわたしの名前」と、答えました。
「ふゆ?」
きょとんとして、聞き返します。
千冬は心の中で「おかしな偶然……」とつぶやきました。
自分の名前の「冬」の字が、たまたま彼女の名であることを、いぶかしく思ったのです。
その時でした。
ギィィィ……と扉の開く音が聞こえます。
千冬は思わず、少女の方に身を寄せました。
「誰かいるの? 」
聞き覚えのある男の声。
(アイツだ。あの……名なき者だ!)
思わず、ふゆの手を強くにぎります。
ふゆもまた、「まずいわね。一か八か、牡羊座神話に飛び込もうかしら」とつぶやきました。
パッと、千冬の姿が白いライトに照らし出され、男がゆっくりと近づいてきます。
その瞬間、ふゆは、千冬の手首を強くにぎり返し、勢いよく飛び上がりました。
するとどうでしょう!
なんと千冬の体も、ふわりと宙に浮いたではありませんか!
「あっ!」
男が慌てて、こちらに駆け寄ります。
もっともその時には二人とも、牡羊座のタペストリーへ、共に飛び込んだ後でしたが……。
*
「ま、待って! 行くな!」
背後で男が、叫んだようでした。けれど、風を切る激しい音にかきけされました。
スパークする光り。
雲の上から真っ逆さまに、どこかに転落するような不安感。
出会ってすぐ、ふゆの手を取り、闇を駆け抜けた時には感じなかった強い恐れが、胸をしめつけます。
千冬は乱れる髪をおさえ、少女の横顔を盗み見ました。
少女は目を閉じ、向かい風にあおられながら、歯を食いしばって走っています。
(ついてきて、よかったんだろうか……)
初めてよぎる、小さな迷い。
「大丈夫。わたしを信じて」
その声に驚いて、もう一度少女の横顔を見直すと、いつの間にか瞳は大きく開かれ、何かに立ち向かうように前を見つめています。
千冬は、ぐっと少女の手をにぎり返しました。
(大丈夫。わたしたちは間違っていない)
心の中で、祈るよう唱えながら。