5・約束を交わしていはいけない
(あの人こそ、名なき者かもしれない)
千冬はカレーを食べながら、今日の出来事を思い出していました。
たしか、叔母さんは言っていました。名なき者同士は仲間だから、互いにつながりを持ってるって。
(あの人は彼らについて、くわしいように見えた。きっと仲間だ)
そこまで考えて、千冬は男からもらった本のことを思い出し、リュックから取り出しました。
ー『モッくまくんの星のレッスン』
あらためて、タイトルに目をやります。
表紙には、愛らしいくまの絵。なんとなしに、こちらに微笑みかけているような、ほのぼのとした表情です。
(モッくまくん? あの人の名前かしら? )
無造作に本をめくると、紙の重さでパタンと最後のページが開きます。
そこに記された詩に、目を走らせました。
自分の星を使ってごらん
世界に色彩が生まれるから
そのまま星を使い続けて
そしたら君だけの夢に出会うよ
そのまま星を使ってごらん
そしたらきっと夢が叶うさ
そして時々、星を読まず
ただ冒険してごらん
星も、人も、動物たちも、木も花も
アクシデントもラッキーも
すべてが君を、君の夢を応援している
そんな愛に気づくだろう
(自分の星を使う、か)
何かの比喩でしょうか?
首をかしげ、今度は両手で本を開いて、1ページずつめくっていきます。
するとしばらくして、牡羊座ざから魚座まで順に並んだ、見覚えのある円形図が出てきました。
(これ、星占いの本なのかしら)
にわかに興味をそそられて、最初のページを開こうとし、手を止めます。
――名なき者は約束が好きなんだ。
彼らと約束をすると、一見、幸せになるように見えて、かえって苦しみが増しちまう。
いつだったか聞いた、叔母さんの言葉が頭をよぎります。
(ちょっと待って。わたし、あの人と約束をしたかしら? )
思わず、本を取り落としました。
(たしかあの人は『これ、あげる。ぼくが書いたものなんだ』そう言った。
その前に、なにかしゃべったはずだけど…。
あんまり驚いたものだから、すっぽり抜けちゃってる。
だめだ、思い出せない)
ただ一つ、鮮明に覚えていること。男はなにかしゃべった後、この本をしっかりと千冬の手に、にぎらせたのでした。
「あの時、約束をしたかしら?」
千冬は、だんだん恐ろしくなってきました。男の言葉を思い出せないのも気がかりです。
たしか叔母さんは言っていました。
「世の中の人はね。いつかどこかで名なき者と、いろんな約束をする。
けれど、たいてい、そいつを覚えちゃいない。
約束はまず、名なき者が人の願いを叶えることから始まる。そうして病気が治ったり、恋人を得たり。時にはお金持ちになったり、地位や名誉を得たりね。まずはそんな、人が強烈に欲したものを、叶えてやるんだ。
そして今度は、人が名なき者にお返しをする。
このお返しが、ちょっとやっかいでね。奴らはとんでもないものを、時に求めてくるのさ。
突然の破綻とか。理由のわからない、深い深い絶望感とか。
ところが人は、名なき者と約束したことすら覚えていないから、『なぜ、こんな不遇な目に逢うんだろう』そう嘆くのさ」
そもそも千冬は、叔母さんの言葉を話半分に聞いていました。
だって、もし病気なら誰だって治って欲しいと強く願うし、お金だって、たくさんある方がいいに決まっています。それを叶えた人たちは皆、名なき者と約束を交わしたと言うのでしょうか? そんなの妙な話です。
そう尋ねると、叔母さんは、「ふん。まあね。たしかに名なき者との約束なしに、自力で願
いを叶える人もたくさんいる」と、答えました。
「へんなの。それってどういう違いなの? 」
「恐れから願ったか。それとも喜びから願ったか。ただそれだけの違いさ」
と、叔母さんは言うのでした。
けれど正直に言って、千冬にはその意味がよくわかりませんでした。
だからそれ以上、問うこともなかったし、以来、思い出すことすらも、ほとんどなかったのです。
あの黒いハンチングの男に出会うまでは。
(約束を交わしたことを、人は忘れている……)
身震いしました。
万一、あの男……、名なき者と約束を交わしてしまったのなら、どうにかして白紙に戻さなければなりません。
窓の外に目をやります。
時間は正午を回ったばかりで、輝く太陽が大地を熱くこがしていました。
(夜になったら博物館へ行って、この本を置いてこよう。受け取ったものを返せば、きっと約束は反故になる)
千冬はそう考えて、床に落とした本を拾い上げました。
気のせいか、笑っているはずの表紙のくまが、少しさびしそうに見えました。