4・名なき者を知る男
その日も千冬は、照りつける太陽の下、叔母さんの家に向かって歩いていました。
そしてまた、ふらりと博物館へ立ち寄ったのです。
百日紅の枝葉が作るわずかな木陰の下で、また池くんがロッキングチェアに揺られています。
千冬はいつものように、少年の顔を覗き込みましたが、やはり、静かな寝息が聞こえるばかりです。
受付の女性が、「あと30分で閉館ですよ」と、声をかけてきました。
千冬はうつむき、「展示会場には入りません」と答えます。そのまま広々としたエントランスを歩いて、大理石の柱に寄りかかりました。
ー黄道13星座のギリシャ神話
そんなタイトルのくせに、12しかない星座神話の絵柄を、ぼーっと眺めます。
かび臭い、ひんやりとした空気が、汗で張りついたシャツを少しずつ乾かしていきました。
ふと、魚座神話に目をやりました。
尾っぽがリボンでつながれた、美しい2匹の魚。たしかギリシャ神話では、一匹が女神で、一匹がその息子だったはずです。
川べりで催された神々の宴。そこに現れた怪物デュポーンから逃れようと、親子は魚に化けて水の中へ飛び込みます。そうして、互いにはぐれぬよう、尾っぽをリボンで結んだのです。
その魚座の絵柄を見つめるうち、千冬は不思議な感覚にとらわれていきました。
(川に飛び込むのは、わたしであるはずなのに……)
唐突 に、そんなことを思ったのです。
思っただけでなく、千冬は一歩、魚座の絵柄に近づきました。
今にもそこに描かれた、たゆたう水の刺繍が、本物の水に変化するような気がしたのです。
ードボン……
と、飛び込もうとしたその時、誰かが、千冬の腕をつかみました。
あまりに強い衝動を、止められたことが苦しくて、千冬は思わず、にらみつけるように振り返ります。
そこには黒いハンチングの男が、しっかりと千冬の腕をつかみ、立っていました。
エントランスは薄暗く、男の顔はよく見えません。
「……誰ですか?」
おびえるように、尋ねました。
その様子に、しまったと思ったのでしょう。男はつかんだ手をゆるめると、「いや。飛び込んだら、戻れなくなると思って」と、申し訳なさそうに言いました。
天井が高いせいでしょうか。おだやかなのに、妙に印象深く、男の声が響きます。
その柔らかな声音を聞くうち、千冬の気持ちは次第に落ち着いて、やがて、怒りがこみ上げてきました。
男の手を振り払い、「変なこと言わないでください。これ、ただのタペストリーですよ?」と、今にも魚座の絵柄に飛び込もうとしていたことは隠して、声を荒らげます。
「そっか。そうだよね。ごめん。ここに入ったら、ちょっとやっかいなものだから。って、へんなこと言ってるね。気にしないで……」
(この人、本当にこのタペストリーに飛び込めると思ってるんだ)
千冬はあきれて、男の顔をよく見ようと目を凝らしました。
うつむき加減の瞳は、印象がわかりません。おそらくは、5つか6つ年上でしょうか。少なくとも学生には見えません。
それよりも、何だか不思議な雰囲気の男です。
服は全身黒っぽくて、パッとしません。逆光のせいか、顔だちもはっきりとしません。
いや、もしかしたら逆光のせいではなく……。
「……名なき者」
と、口の中でつぶやいた瞬間、千冬はぎょっとしました。
なんと同時に、男もまた、同じ言葉を口にしたではありませんか!
「あ、知っているんだね。名なき者のことを。それなら話が早いや」
男はうなずいて、「君は彼らを呼び寄せる。いつも月が泣いているから。気をつけた方がいい」
そう言うと、黒いカバンから一冊の本を取り出しました。
「これ、あげる。ぼくが書いたものなんだ。もしかしたら君の役に立つかもしれない」
ー『モッくまくんの星のレッスン』
さっと、タイトルに目を走らせます。
表紙には、とぼけたくまの顔が描かれ、つぶらな円い瞳が千冬を見上げています。
閉館の終了を告げる、呼び鈴が鳴りました。
男がぐっと、千冬の手に本をにぎらせます。
そしてそのまま、きびすを返し、受付へ向かうと思ったのに、スッと千冬の肩越しを
通り過ぎたのです。そう、まるでタペストリーに向かって、歩を進めるかのように。
驚いて、振り返ります。
誰もいません。
辺りを見回しても、人の影すら見当たりません。
「もう閉館の時間ですよー!」
受付の女性が声を張り上げ、手を振っています。
扉の向こうに続く、真昼の庭が白く輝いて、千冬は思わず目を細めました。
いつの間にか池くんも、暑さを避さけて帰ったのでしょう。主を失ったロッキングチェアが、光りの中でゆれていました。