第三話
死罪になるとわかっていても、手紙を魔法で跡形もなく燃やしてしまいたかった。
が、そんなことをしても結局は同じだ。もう王命は下されてしまったのだから。
ヘザー様は今にも泣きそうな顔でリチャードを見ていて、リチャードは静かに瞑目している。
その悲痛な光景に俺の胸が悲鳴を上げた。
「リチャードさん、あたしが王太子様の奥さん……ええと、王太子妃になるなんて嘘ですよね? これは国王様のご冗談ですよね? だ、だって、あたしなんかが未来の王妃様できるわけないし。だよね、デュアンさん?」
震える声で問いかけるヘザー様に、俺は優しい答えを返すことができない。
ヘザー様に王太子との婚約を命ずるという短いその一文はしかし、恐ろしく無慈悲な命令だ。
今から逃げることもできなくはないが、どこまでも忠実な騎士であるリチャードがそんな暴挙をするわけがない。
彼はこれで、己の初恋を自覚すらことなく身を引くのだ。やるせない怒りで全身が震え、唇を血が出そうなほどに噛み締めた。
「聖女様、おめでとうございます。きっと皆が王太子殿下と聖女様とのご婚約を祝福なさるでしょう。もちろん、私も」
この国の騎士の最高峰に与えられる称号である聖騎士に相応しい彼は、恭しく頭を下げた。
その内心を少しも悟らせることはない。まるで最初から何もなかったかのように振る舞う彼に苛立ちを覚えつつも、俺はもはやどうにもできないのだ。
「リチャードさん……」
悲しそうに瞳を揺らすヘザー様に、ぎゅっと心を掴まれたのに、手を差し伸べられないのが堪らなく悔しかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
数日後、聖女ヘザー様と王太子の顔合わせが行われることになった。
場所は城の庭園。芳しい薔薇に囲まれた机に二人は向かい合って座り、俺とリチャードは離れた場所から常に周りに目を光らせて警護にあたるよう言い付けられている。
「初めまして。あたし……じゃなかった、わたくし、聖女のヘザーです。違う、聖女のヘザーと申しますわ。えっと、これから婚約者になるのですよね。よろしくお願いします」
言い慣れない貴族令嬢言葉を使っているせいで辿々しくはあったものの、それでもどうにかヘザー様は挨拶することができていた。
いつもの溌剌とした笑みとはまるで違う、沈んだ表情ではあったが。
王太子は彼女を見て何を思うだろう。
礼儀がなっていない? 田舎くさい? それとも全く反対に可愛くて仕方ないように思うだろうか。
そんな風に考えながら俺が眺めていると、王太子は静かに微笑んで言った。
「僕はデルロイ・リー・ユーバンク。これからよろしく頼む。僕のことは名前じゃなく、殿下やら王太子殿下やら、当たり障りのないもので呼んでくれ。色々と困るのでね」
「はい、わかりました……わ、殿下」
何が困るのか、王太子側の事情はよくわからなかったが、おそらく元婚約者の侯爵令嬢に対して堅苦しい思いをしていたからではないかと俺は考える。
デルロイ王太子の元婚約者は完璧令嬢と有名で、美貌も礼儀作法も社交も外交も、なんでもこなせる令嬢。だから狭苦しい思いをしていたのかも知れない。……あくまで根拠のない憶測でしかないが。
ともかく初顔合わせは穏やかに進んでいった。
まず王太子の口からこうして婚約に至った経緯が語られ、互いの好きなものなどを話し合った後、二人はお茶を飲み、別れていた。
王太子がヘザー様を見て表情を大きく変えることはなかったが、少なくとも悪印象は持たれなかったはずである。
――それが良いことなのかどうか、わからなかったけれど。
それより俺は、初顔合わせの様子を見せつけられていたリチャードの心境が不安でならない。
騎士の宿舎に戻った後、俺はリチャードに一人で会いに行くことにした。
「リチャード、大丈夫かよ」
リチャードは布団にくるまって眠っていた。
……いや、すぐにモゾモゾ動き出したところを見るに目を閉じてはいたものの眠れずにいたのだろうか。すぐに警戒するように周囲を見回した彼は俺の姿を見つけ、問うた。
「何か有事でもあったか。もしかして聖女様が――」
「そういうことじゃない。ただ俺はお前と話がしたいだけだ。ヘザー様はきっと今頃眠ってるだろうよ」
もしかすると枕を濡らして泣いているかも知れないと思ったが、口にはしなかった。
「話とは何だ。聖女様とユージン王太子殿下とのご婚約についてか? 本当にめでたいことだと思っているし、聖女様ならきちんと王太子妃を務められるようになるだろう。教育はさらに厳しくなるだろうがそれはきちんとお支えして」
「なあリチャード。本当に、これでいいと思ってるのか?」
リチャードは表情を変えない。何を言い出すんだと言いたげに、俺を見上げる。
普段は身長差がすごいので――リチャードは俺より頭二つ分ほど背が高い――こうして見上げられる機会など少ないな、とふと思った。上から見ても憎たらしいほどに端正な顔をしていた。
「――あれほど誰がどう見ても両想いだったろ。そりゃ政略もあるさ。しきたりもあるさ。でも、こんなところで終わらせていいと思ってんのか? ヘザー様の気持ちを無下にしていいのかよ」
思わず言葉に力がこもる。
リチャードの行動が正しい。もしも彼女を想っていたとしても身を引くべきだ。そもそもヘザー様と王太子殿下の婚約は王命。彼女が聖女になった時点で予想はついていたことだった。
だが、言わずにはいられない。
「不安で怖がるお姫様を、ぎゅっと抱きしめてさ。優しく抱えて、連れて行くんだ。それが騎士ってもんだろ?
なのにお前はどこまでも正しく忠実なだけでつまらない」
「聖女様は、王太子殿下と結ばれるのが幸せだろう。それは祝うべきことであって、邪魔するなどもってのほかだ」
リチャードはこともなく言い切った。
「この気持ちがたとえ忠誠ではなく恋だとして、色恋に浮かれ、王国に剣を向けることなどできない」
「でもっ」
「話はそれだけか? もう遅い。明日も聖女様の警護があるのだから、早く寝ておかなくてはならないだろう」
俺の反論を遮ったリチャードには、もはや取り付く島もない。
俺は諦めて部屋を去るしかなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「王太子殿下に頼めば婚約解消してくださるだろうか……」
それから毎日―― 二人が婚約してから数週間が経ち、もうじき婚約発表パーティーが開かれるという頃になっても、俺は馬鹿なことばかり考えてしまっていた。
ズバリ、いかにしてヘザー様と王太子を別れさせようかについて。往生際が悪いといえばそこまでだが、まだ諦め切れていなかった。
なんなら俺がヘザー様を攫ってしまおうか。
この国から連れ出して、隣国へでも。そうすればヘザー様は王妃などという重い責を負わずに済む。
けれどきっとヘザー様が攫われたい相手はリチャードだ。決して、俺ではないだろう。
――俺は、ヘザー様に天真爛漫な少女のままでいてほしいと思っていた。
王太子妃、そして王妃になれば、腹黒な貴族連中に付け狙われ続けることになる。
いくら教育を受けているとはいえ、今までの聖女は偶然貴族令嬢の中から生まれていたから良かっただけの話で、平民出のヘザー様には無理だ。
ヘザー様からは、日に日に無邪気な笑顔が薄れていっていた。
顔色が悪く、今にも倒れそうに思ってしまう。「これくらい平気ですよ」と笑うのが強がりにしか見えなくて、焦燥感が増す。
陛下に直接進言しようか。ヘザー様は王妃に相応しい方ではないと。
しかし所詮護衛騎士でしかない俺が言ったところでどうなる。どうにもならない未来は見えている。
「デュアンさん、どうなさったのです、最近ぼぅっとばかりして。具合でも悪いんですか」
「……ヘザー様」
最近はすっかり砕けた話し方をしなくなったヘザー様が、俺を気遣わしげに見つめてくる。
首を振り、「なんでもない」と答えたが、彼女はまだ少し疑わしげな顔をしていた。けれどもそれ以上言及することなく、話題を変える。
「あ、そうそう。殿下が、デュアンさんに話したいことがあるっておっしゃっていました。殿下の執務室へ行ってくださいませんか」
「デルロイ殿下が?」
俺は眉を顰めた。
王太子から話されることなど、何も心当たりがない。
いや、一つだけある。最近俺は何をしても上の空だったから、ヘザー様の警護がしっかりできていなかったのかも知れない。それを叱られるのだろうか?
わからないが、頷いておいた。
「わかりました。じゃ、行ってきますんでヘザー様はリチャードと二人でいてください」
「リチャードさんと、ですか。最近あの方、こちらの目を見ようともしてくださらないんですよ。距離もずいぶん遠くなった気がしますわ。…………もしかしてあたしのこと、嫌いになったのかな」
最後の呟きの声は震えていて、王太子と婚約し、淑女になりきったヘザー様から久々に聞く心からの言葉である気がした。
振り向いてはいけない。わかっているのに、俺はたまらなくなって声を出してしまう。
「嫌いになってるわけないじゃないですか」
こんなに可愛い少女を嫌いになれる男がどこにいようか。
けれど、ヘザー様の瞳は揺れていた。
「ならどうして、あたしを避けるの? なんで、おとぎ話に出てくる騎士様みたいに連れ去ってくれないの?
あたし、孤児でさ。愛された経験なんてなかった。特別な力を持ってたせいで羨ましがられてあたしはずーっと嫌われ者だったんです。孤児院の大人たちはみんな叩いてきたりしたし、子供たちとも仲良くなれないし。独り立ちすることを夢見て、ただただ必死に生きてました。
だから聖女に選ばれて、デュアンさんもだけど、リチャードさんに優しくしてもらえたのが嬉しかったの。リチャードさんって一見なんだか冷たそうに見えるのにあたしのことすごく大切にしてくれてるってわかる瞬間があって、愛されてるんだなって、お姫様みたいに大切にしてもらえてるんだなぁって思えた。そんなの惚れないわけがなくて、気づいたら好きになってて……なのに」
その先、彼女は何も言わなかった。言えなかったのかも知れない。
俺もあまりのことに声が出せなかった。
孤児だとか、愛されてなかっただとか、そんな話は全て初耳だった。
天真爛漫で、いつも笑ってばかりいたから、きっと悩みなんてない人生を送ってきたんだろうなと勝手に想像していたのだ。けれどそんなことはなかった。どうしてそんなことも俺は知らなかったのだろう。
その心を傷を埋めたのがリチャードだったとしたら――。
ヘザー様にとって彼はそれほどに大切な存在だったのだと思い知らされ、唇を強く噛み締める。
どんな言葉をかけていいのかわからない。わからないままにヘザー様は謝った。
「ごめんなさい。聖女に選ばれた以上、こんな弱音を吐くなんて許されませんよね。もっとしっかりしなくちゃ」
ニコッと笑って、彼女は俺の背中を物理的に軽く押す。
「デュアンさん、殿下のところへ行ってきてください。――あ、もちろん今の話は内緒ですよ?」