10
ナイフは目と鼻の先で静止していた。驚愕の表情を浮かべるソニアの腕を掴んでいるのは――見慣れない、けどよく知っている青年。
思わず名前を口に出しかけると、彼は人差し指を唇の前に立てる。
……そうだ。この姿はトップシークレットだ。
「ホントに?」
代わりに尋ねると、ユーリは察したようにうなずいた。
「うん、僕だよ。こんな姿だけど」
「そのコートは初めて見た……どこに隠してたの? クローゼット?」
「……それ今聞くこと? 後でもいい?」
ユーリは呆れたように言いながら、ソニアの手からナイフをはたき落とす。そのまま後ろ手に彼女の腕を縛り上げた。
普段の少女の姿からは想像できないような一連の動作に、今は本当に男性なんだ、と、こんな状況なのに実感した。
普段、こういう荒事は私の役回りなんだけどね……。
ユーリは周囲にさっと目を配った後、私の前へとやって来た。柔らかい――けど、骨ばった感触が、私の馴染みのない指が頬を撫でる。
「傷がある」
「かすり傷だから平気。間違ってもリライトしようなんて思わないで」
先にぴしゃりと言ってやると押し黙った。……こいつ、本気でやるつもりだったな。
国宝級のユーリの顔ならともかく、私の顔ごときに貴重なギフト使うんじゃない! 全く!
「他に怪我は?」
「……足、捻った」
「何したの、君」
「拘束されたまま応戦した。ナイフ蹴り飛ばしたりして」
今度は特大のため息を吐かれてしまった。いや、だってあれは不可抗力でしょ。
「まあノエルが遅れをとることはないと思っていたけどさ……ひとまず元気そうで安心したよ」
「信用してくれてなにより」
ユーリはナイフで私の手をつないでいた縄を切ってくれた。手を借りて立ち上がる。
「さて、後は」
次に視線を向けたのは、項垂れているソニアだった。
彼女はユーリの視線に気が付いたのか、恐る恐るといった様子で顔を上げた。
少し考えこんだ後、ユーリは口を開く。
「……僕は、機関から派遣された妖精使いだ」
そんな話は聞いたことがない。と思ったが、口を噤んでおく。私が下手に口を出したらボロが出そうだ。
ユーリは怯え切った様子のソニアにため息をつくと、
「残念だけど、今の光芒の盃には何の力もない。これは妖精王自ら認めていることだ」
容赦なくそう言い放った。
「確かに製作当時は膨大な力が込められていて、伝説通りの効果もあったらしい。が、年を経るごとにその力は弱まっていった」
「つまり……今じゃ、ただの古い盃ってこと?」
「せめて、歴史的価値がある、と言いなよ……まあ、そういうこと」
今回機関が盃を引き取りに来たのは単純に遺物として研究を進めたいからだ、とユーリは付け足した。
「それじゃ、私の今までやってきたことは、無駄だったってこと……?」
ソニアは膝から崩れ落ちた。その肩が震えている。
「何年も何年も、ありもしない伝説に縋りついて。結局何も手に入れられなくて。本当に……馬鹿みたい」
「いや、決して無駄じゃない」
彼女を見下ろしていたユーリが、その肩に触れる。
その表情は私からは見えなかったが、声音にはどこか同情するような響きがあった。
「君は悪いことをした。妖精たちの力を悪用した……その事実は変わらない。でも、妖精を使役する力と、そのために君が蓄えた知識。それは貴重な財産だ」
ソニアは顔を上げる。瞳の中の不安はぬぐい切れていなかった。
「得た力を正しく使って妖精使いとして貢献すれば、妖精王に謁見できる機会がくる。……その時に、自分の望みを申し出ればいい」
ユーリはそこで言葉を切る。彼と私の視線が交わる。
なぜそこで私を見る。
しかしそれも一瞬のこと。私が口を開くよりも早く、ユーリは視線を外してしまった。
「きっと妖精王は君の願いを叶えてくれるはずだ」
ふと、私はこんなことを考えた。
彼はもしかして、妖精王に願ったことがあるんじゃないだろうか。人の力では叶えられない願いを。
だからこそ、彼の言葉はこんなにも真実味を帯びて聞こえるんじゃないだろうか。
ずっと、ユーリと一緒にいた。
でも私はまだ、彼のことを少しも――本当の意味で知らない。
……いつか言ってくれる日が来るのだろうか。
思考が感傷に浸りかけたが、首を振って追い払う。
「そんなの……長すぎる。何年かかるか、分からない……!」
ユーリの言葉に、ソニアはそう叫んだ。子供のように泣きじゃくっていた。
「これからも、独りぼっちなんて……嫌……!」
ずっと彼女は寂しかったのだろう。
学校で友達に囲まれているときも、笑っているときも、本当は独りで泣いていた。
私と違って、ひとりぼっちで……。
「……ソニアは、一人じゃないよ」
私が差し出した手を、ソニアは茫然と見上げていた。
安っぽい同情かもしれない。でも、彼女に手を差し伸べられずにはいられなかった。
私にユーリがいたように、ソニアにも一緒にいてくれる誰かがいたっていいじゃないか。
「困ったことがあったら私たちが助ける。寂しくなったら、いつでも遊びに来てよ。……そうだよね?」
視線を向けると、ユーリは呆れたような表情を浮かべていた。
でも、その口元が緩んでいるのを私は見逃していない。
「ソニアは私たちの可愛い後輩だもん」
今度こそ、ソニアは手を取った。
その目から溢れる涙は、温かかった。




