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今更、人の生は惜しくない。
妖精になろうが何だろうが、この世に存在しているのだからそれでいい。
何よりも恐ろしいのはあの子を失うことだ――。
再び静寂に包まれた部屋の中。クローゼットのドアを開け、ミッドナイトブルーのコートを取り出した。
十五歳の誕生日に両親に贈られたものの、結局一度も袖を通したことは無い。
深夜に正装が必要になる機会なんて、そうそうない……当然だ。
女の体に男物のコートは大きすぎる。
不格好だが、あと数時間、数分の我慢だ。
護身用の短剣もベルトに仕込み、自室のドアをそっと開く。
廊下に生徒の姿は一つもなかった。みんな機関の指示を守って、大人しくしているみたいだ。
これ幸い、と『空飛ぶ箱』に乗り込む。
「ダウン――三階へ」
箱はカタカタと音を鳴らしながら、目的のフロアへと私を連れて行った。
この階も静かなものだ。
廊下の突き当りまでまっすぐ進むと、ドアの前に人影が立ちはだかっているのが見えた。
白いローブ――トールが呼び寄せた機関の職員だ。
相手もこちらに気づいたようだ。
明灯球をこちらに向けて私の格好を上から下まで眺めたのち、
「……ネメシア伯爵令嬢ですか。どのようなご用件で」
訝し気に問う。……さすがに顔はバレてたか。
答える代わりに、私は素早く彼との距離を詰めた。
再び口を開かれるよりも早く、懐疑の視線を向ける瞳を覗き込み――
「リライト」
力を放つ。
「あなたは何も見ていない。聞いていない。今晩、ここには誰も来なかった……いいわね?」
こくん、と彼は一つうなずいた。その目は虚空を見つめていて、明らかに正気ではない。
人の記憶をリライト――書き換える。
できるとは知っていたけど、実際にやるのは初めてだ。
とりあえず上手くいったのは良かったけど……そう何回もできそうにはない。
人の精神に干渉するのは、モノを直すのとはワケが違う。
先ほど授かった加護がなければ、今頃ぶっ倒れていただろう。
「……感謝します、妖精王」
小さく祈りを捧げ、息を吐く。
職員の様子を横目で窺いつつ、ドアに手をかける。
とがめられることは無い。まだギフトの影響で正気にもどっていないのだろう。
今のうちに――
部屋に入ると、彼女は窓際の椅子に腰かけていた。視線は窓の外の月へと向いている。
「ノエル」
ゆっくりと彼女はこちらを振り返った。
上から下まで私の姿を眺め、口を開く。
「……変わった格好だね」
「日付が変われば普通になるよ」
わざと口調を変えて言うと、彼女は「日付……?」と首を傾げた。
この反応――。
ずっと彼女に抱いてきたちぐはぐな印象。
予感は、確信に変わった。
「君は誰だ?」
「どうしたの? 突然」
「答えろ。君は、誰だ?」
「……私は、ノエル・ローゼン」
「違う」
「何を言っているの、どこからどう見ても――」
「君は……ノエルじゃない」
言いながら、自分の体が『書き換わっていく』のが分かった。
視線が高くなり、体の重さが変わる。
余っていたコートの袖も、もてあましていたパンツの裾も、誂えられたようにぴったりになった。
息を吐いて様子を窺えば、彼女は小さく目を見開いていた。
「本物のノエルなら、この状況でそんな顔はしない」
低くなった声で告げる。
少女は一瞬の後、
「っ……ふふっ……なるほど、なるほど。そういうカラクリなのね……妖精姫、いえ今は『妖精王子』かしら?」
肩を震わせ笑い声をあげた。
次いで、彼女の姿がぐらりと揺れる。
月明かりに溶けるように輪郭が薄くなっていき――やがて、目の前には見知らぬ少女の姿があった。
細い糸のような銀髪。水晶のように透き通った瞳。
人間離れした、異様とも言える美しさ。
――妖精だ。それも、かなり高位の。
「幻の妖精・パーシアか」
「ご名答よ、呪いにかけられた妖精姫。よく分かったわね」
「……虚構を見せる、という点において、あなたは夢の妖精によく似ている。でも、ここは夢の中ではない。現実世界に精巧な幻を生み出すことができるのは、あなたの特性だ」
答えると、パーシアはパチパチと手を鳴らすフリをした。
パーシアの力は日常そう目にすることはない。
彼女の力の主な役割は、「まもなく死を迎える人々に『幸せな幻』を見せる」ことだ。
その幻は、生前の思い出だったり、大切な人間だったりする。
死という未知の旅路に出る人々から少しでも恐怖を取り除き、穏やかな終わりへと誘うためだ。
つまり、彼女たちが人間の前に現れるのは、死に直面している人間がいる瞬間のみ。
なのに「ここ」にいる――。
「どうして……」
と、口を開きかけて最悪の事態に気づいてしまう。
「誰も死んではいないわ」
こちらを見透かしたかのように、パーシアが言った。
……よかった。
「私はここに呼ばれただけ。自分の意思とは関係なく、ね」
「……闇の妖精使いに、操られているんだな?」
答える代わりに、彼女は自身の首元を指で示した。
細い首をぐるりと一周するように、木炭で描いたような黒い鎖が連なっていた。
「この鬱陶しい鎖でね。まったく……油断したわ。ま、エリアルみたいに完全に意思までは奪わせなかったけど」
これでも最上級の妖精なのよね、あたし。とパーシアは得意げに言うと、
「そこそこ楽しめたし、まあ満足だったわ」
そうつぶやく。次の瞬間――鎖は跡形もなく消えていた。
「……闇の妖精使いは、何に付け込んだんだ」
「退屈、よ」
思ったよりもあっさりとパーシアが答えた。
「死んでいく人に幻を見せて、見送って。また幻を見せて……毎日毎日、同じことの繰り返し。たまには別の形で人間と関わってみたいって、思っちゃったのよね」
「……あなたの仕事は立派だ」
「ええ、当然。言っておくけど、私は誇りを捨てたわけじゃない。ただ……あるでしょ? 美味しい物を食べ続けていると、だんだん麻痺して、飽きてくるみたいなこと」
「いや、分かりますけど……そんな軽いノリでこんな大騒動引き起こされても困ります」
「だーかーら、こんなことさせたのは私じゃなくてあの妖精使い! ……とはいえ、妖精姫の想い人を巻き込んだのは悪かったわ」
想い人、って……僕、何も言ってないんだけど。まあいいや……。
「お詫びに、あなたに道を示してあげる。聞きたいことはあるかしら?」
「……なぜ、闇の妖精使いはこんな回りくどいことをしたんだ」
一連の事件が始まってから、ずっと疑問に思っていた。
価値あるものを手に入れたい。そう思う者が現れること自体は何ら不思議なことではない。
それが妖精王の至宝であるなら、なおのことだろう。
でも、『それだけ』のことに、今の状況を生み出すだろうか。
「盃を盗み出すだけであれば、ノエルを騙る理由がない」
「ええ、そうね。あの子に罪を着せるだけなら、ここまでしなかった」
成り代わって盃を盗み出した後、本物のノエルがその場に居たとしたら、だ。
彼女は絶対に「身に覚えがない」と主張する。
それは都合が悪い。だから、本物をどこかへ失踪させた。
……これはまだ、理解できる。
「そのまま盃と共に失踪させておくのが自然なはずなんだ。アリバイもロクにないのに、わざわざ現場に残る犯人は普通、いない」
これじゃまるで、わざと捕まることを狙っていたみたいに――
「っ!」
ようやくパズルの全体像が見えた。
単純なことだった。
「時間稼ぎか……機関の捜索範囲を広げさせないための!」
犯人がその場にいるのに、犯人の捜索に人を裂く必要はない。
本物の盃も闇雲に捜索する必要はなくなる……犯人が情報を吐けば、それに基づいて調べれば良いのだから。――仮に、犯人が偽の情報を吐いたとしても、気づく術はない。
パーシアが正解を示すように、手を叩いた。
「さすがは妖精王のお気に入り。では最後にもう一つ――あの子は聖堂にいるわ。早く行かないと、全部持って行かれちゃうわよ」
そして、月明かりに溶けるように少女の姿は消えていった。
「全部、持って行かれる……?」
何に? 最後の彼女の言葉を頭の中で反芻する。
きっとこれこそが、こんな回りくどい窃盗劇を企てた闇の妖精使いの、真の動機につながるのだろう。
今朝から今までのことを片っ端から振り返り――気づいた。
反射的に部屋を飛び出す。ちょうど停まっていた『箱』に飛び乗り、下へと向かう。
夜の学園を駆けだし、向かうは聖堂。
このままでは、ノエルの身が――!




