10
「誇り高き妖精王の名に誓って、互いの約束は守ること。では、勝負を始めましょう!」
次の瞬間、私の視界はまばゆい光に包まれた。
思わず目を閉じる。
鋭敏になった聴覚には、ぱちぱちと何かが爆ぜる音が聞こえてきた。
顔を照らす熱に、知らずのうちに背筋を汗が流れていった。
熱い。なのに、体はがたがたと震えだす。
これは――まさか。
そろりと目を開く。
「っ……!」
言葉も出なかった。
十年前と、つい先ほど見た光景が再び目の前に広がっていた。
火の壁はごうごうと音を鳴らし、視界を焼き尽くすような明滅を繰り返す。
鼻をつく不快な臭いに、吐き気がこみあげてきて胸元を抑えた。
息が上手くできない。
喉の奥が痛くて、吸っても吸っても、苦しくて。また熱風に体の内を焦がされていく。
ただ、さっきと一つだけ違うのは、
『これは夢だから……あなたが熱くないと思えば、この炎は熱くない。消えてほしいと願えば、この炎は消える』
ユーリの言葉がはっきりと思い出せた。
頭の中で繰り返すと、川を流れる水のように穏やかに心に染みわたる。
「うん、熱くない」
目の前の炎は煌々と燃え、消えることは無い。でも、少し冷静さを取り戻すことができた。
改めて周囲の様子を探る。
百貨店のおもちゃ売り場は、記憶のままの姿でそこに広がっていた。
棚に並ぶおもちゃの色も、形も並びも、スケッチに残したものを再現したかのように、寸分違わなかった。
ネロはどうやら、この悪夢の中に身を隠したのだろう。その気配は周到に隠され、とらえきれない。
人の嫌がるポイントを的確についてくるとは、なんて悪趣味な。
もう一段階、感覚を研ぎ澄ます。
いつものように糸を張り巡らせ……細く、鋭く。
どうしても周りの炎に気を向けそうになってしまう。そんな自分に気づいて、おまじないのように口の中でつぶやく。
「これは夢だ」
神経の糸がわずかに揺れた。
視線を向ける。
ごうごうと燃える壁紙や棚の木材。ゆらめく赤色を見ていると、寒くもないのに体がガタガタと震えた。
火は嫌い。大嫌い。
たとえ幻だとしても、あの日私の全てを奪っていたそいつを目にすると、逃げ出したくなってしまう。
しかし、糸の揺れた先はこの炎の向こうにある。
「熱くない。これは夢、夢だから……」
目をぎゅっとつむり、目の前の炎に飛び込んだ。
熱くない。熱くない……!
言い聞かせながら駆け抜ける。
……気がつくと、炎の壁は背後になっていた。
服も髪も、燃えていない。その事実が、私の心を鎮めた。
ネロの気配は先ほどよりも近くなっていた。
一度息を吐き、私は手を伸ばした。
「見つけた」
壁に据え付けられた大きな棚。
そこに並べられていたテディベアの一体へ。
瑠璃色のガラス玉の瞳と、茶色のつやつやとした毛並み。
思い出の中で私が父にねだった物と寸分違わないそれは、炎の明かりを瞳に写しキラキラと煌めいていた。
「あなたの目が好きだったんだよね……」
私の大切な友達と同じ色だったから。
心の中でそう付け足すと――――
「ノエル!」
体の右側からドン、と衝撃が襲い掛かってきた。
不意打ちによろけながらも、私は彼女の体を受け止めた。
「私なら大丈夫だって思ってたんじゃないの?」
「それはそれ。心配な物は心配なのよ」
「行かせたのはそっちでしょ……」
ユーリの背を撫でながら、周りの景色を見る。
元の白と水色の空間がそこには広がっていた。
眠っているカレンにも変わった様子はない。
どうやら私は、ネロとのゲームに勝つことができたようだ。
「これで夢の世界から出られるんだよね?」
「ええ。妖精は約束を破らない……そうよね、ネロ?」
ユーリが問いかける。
鈴のような可愛らしい笑い声が一瞬だけ耳に届いた。
さっきまでの不快な音とは違う。これが本来のネロなのだろうか。
「……出口を作ってくれるって。カレンも、ほら」
ユーリが耳打ちする。
視界の隅で、ちょうどカレンが身を起こしたところだった。
「支えてあげて」
「うん」
ユーリの指し示す方向には、人が潜り抜けられそうなくらいの穴が開いていた。
向こう側には私たちの寮の部屋が見える。
状況が飲み込めず、目を白黒させているカレンの体を支え、そこに足を踏み入れた。
「ユーリも早く――」
振り返る。
すぐ後ろだと思っていた彼女の姿は、想像よりも遥かに遠くにあった。
手を伸ばしても届かない距離。
目をこらすと、ネロと何かを話している風に見えた。
その瞬間、体が穴の中へと引きずり込まれる。
「待って……」
私だけ先に行くわけにはいかない。
そんな意志を無視して、体はどんどん穴の中へ沈んでいく。
踏みとどまろうと足に力を入れても無駄だった。ぬかるみの上のように、足が滑るだけだ。
「ユーリ!」
手を伸ばす。届かない……!
だんだんと視界が真っ白に染まって――一瞬だけ、ユーリが振り返るのが見えた。
◇
ノエルがカレンを支えながら穴の方へと歩いていくのが横目で見えた。
向こう側には見慣れた自分たちの部屋がある。
どうやら無事に帰れそうだ。
ひとまず胸をなでおろし、私はネロの方へと向き直った。
「ねえ、あなたを操った人の姿、覚えてる?」
ネロは首を横に振り、小さな女の子の声で答えた。
『あんまり。でも妖精じゃないわ、気配が違ったもの』
「人間?」
『顔はよく見てない……気がついたら、ロウソクの中に閉じ込められていたから』
「最初からロウソクに宿っていたわけじゃないの?」
『うん。他の仲間は知らないけど、私は自然の中に住んでいたわ』
ネロを操った人物が無理やり閉じ込めたのだろうか。
……いずれにせよ、ネロから聞けそうなのはこのくらいか。
「ありがとう、助かったわ。……それじゃあ、私も元の世界に戻るわ」
ノエルに心配かけてもいけないし、ちゃんと帰らないと。
踵を返す。すると、
『私も聞いていい?』
ネロの声が追いかけてきて、もう一度振り返った。
「なに?」
『あなたは人間?』
「ええ、人間よ。今のところはね」
『じゃあ、あの子は?』
不意打ちの質問に言葉が出てこなかった。
そんなことを聞かれたのはこの十年で初めてのことだったから。
「…………人間よ。正真正銘の、人間」
できるだけ平静を装って答える。
ネロはしばらくの間、ゆらゆらと考えこむようにその気配を揺らしていたが、
『そう、分かった』
一言残して、姿を消した。
人間。そう、あの子は人間だ。
たとえその身が一度尽きていたとしても――。




