9
ユーリは安心したように笑うと、握っていた手を離した。
周りを見渡す。なにもない空間だった。
足元は白。頭上は青と薄水色のグラデーション。地平の果ては見えない。
絵画に描かれる空の上。まるでそんな風に思った。
「ノエル、あれ」
袖をつい、と引っ張られ、ユーリの視線の先を追う。
女の子が倒れていた。
「うちの制服だ」
「行ってみましょう」
ユーリの言葉に揃ってそちらに足を向ける。
倒れている女の子。それは先ほど眠っている姿を見かけたカレンだった。
「大丈夫!?」
声をかけても反応が無い。
ユーリは傍に膝をつくと、口元に耳を近づけた。
「……眠っているだけみたい」
眉根を寄せ、苦しげな表情をしてはいるが胸の上下がこちらからも確認できた。とりあえず一安心かな。
ユーリはカレンを地面に優しく横たえると、ぐるりとあたりを見回した。
「おそらく私たちが呼びこまれたのは、夢の世界ね」
「夢……って、寝ているときに見る夢、だよね」
「ええ。夢の妖精は知っている?」
首を横に振る。聞いたことがなかった。
「まあ……そうよね。あなたは健康そのものだし」
どういうこと?
首をかしげると、ユーリが付け足した。
「夢の妖精は私たちが眠っている間に、夢を見せる力を持っているの。幸せな気持ちにさせて、心を安らげる役割を果たしてくれる」
その力は不眠症の患者さんや、精神的に参っている人を助ける道具として使われているらしい。それは私には縁が無い話のはずだ。
でも……。
「心を、安らげる……?」
どうにもちぐはぐだった。少なくとも私の見た夢は、『幸せな夢』とは程遠い。
同じ思いなのか、ユーリも複雑そうな表情を浮かべた。
「……まあ、『妖精は罪を裁く審判である』って言葉もあるくらいだし、人間への罰として不幸な夢を見せることもあるけれど、あまり聞かないわね」
ユーリは人差し指を立て、続ける。
「もう一つ考えられるのは、エリアルの時と同じことが起きている、ということね」
エリアル……クラブハウスで遭遇した妖精の名前だったはず。
あの時は確か、本来温厚な性格のエリアルが大暴れしたんだっけ。
「そんなに頻繁に起こるの? こういうこと」
「そういうわけじゃないけど……実はこの前、聞いたのよ。妖精の持つ本来の性質を歪める力が存在するという話を」
「つまり、夢の妖精は『幸せな夢』を見せる性質が歪んだ結果、『悪い夢』を見せているってことだよね」
「ええ」
「理解はしたけど……」
どこでそんな情報、知ったんだろう……。
思わずじーっとユーリの顔を見ていると、つい、と目をそらされた。
あ、話す気はないな。
仕方なく私は会話を先に進めることにした。
「正体は分かったけど……具体的にどうしよう? エリアルの時みたいに、性質が歪んでしまった原因がわからないわけだし」
私の指摘にユーリは困ったように頬に片手を添えた。
「直接話を聞ければ――っ!」
ユーリのセリフが不自然に途切れる。
その瞬間、私も感じ取っていた。
ぞわり。
背筋を鋭い刃が撫でていく。
そんな気配。
半ば反射で振り返る。
やはり姿は見えない。
ということは――。
「夢の妖精・ネロ!」
ユーリがその名を呼ぶと、クスクス……と笑い声が耳に届いた。
小さな女の子のような高い声で、しわがれた老人の声のようで……つかみどころのない、幻のようなそれは、今まで耳にしたどんな音よりも耳障りに思えた。
「声が聞こえるのって珍しい……」
普段は妖精の姿は当然のこと、気配すらも捕えるのは容易ではないというのに。
「ええ。ただの人間にも察せられるくらいに、大きな力を解放しているってことね」
ユーリは一つ息を吐くと、夢の妖精――ネロの方を見据えた。
「なぜこんなことを。あなたの本質は人間の助けとなること……隣人に害為すことではないはずよ」
何が不満なの。
ユーリはそうはっきりと付け足した。長引かせるつもりはないのだろう。
耳障りな笑い声がぴたりと止まった。
そのまましん、と静まり返った時間が過ぎた……ように私には感じた。
しかし、ユーリは目を見開いた。
「どういうことなの……?」
ネロが何か答えたらしい。私の耳には届かないってことは、少し暴走は落ち着いたのだろうか。
それにしてもユーリがこんな顔をするなんて珍しい。
一体何を……。
もどかしく思っていると、ユーリが耳元に口を寄せてきた。
「分からない、って」
「……え?」
いや、どういうこと……?
「『どうして悪い夢を見せているのかは分からない。でも、楽しい』……って」
「自分の意志でやってるわけじゃない、ってことなの?」
「……たぶん、これが操られてる状態ってわけね。『本来の性質を歪める力』ってものに」
ユーリは少し考えこむと、再びネロに話しかけた。
「ねえ、どうすればもっとあなたに楽しんでもらえるのかしら?」
ユーリはどうやら、ネロを楽しませ満足させる方向に持って行こうとしているようだ。
ロクな要求をされそうにはないが、ユーリにも何か考えがあるのだろう。
話に入り込めない私は、黙って対話の様子を見ているしかなかった。
「……遊ぶ? 私たちと?」
「遊ぶって……ずっと悪夢を見たりするのはごめんだよ?」
「それは私も。んー……それなら、ゲームをするのはどう?」
ネロの気配が揺れた。
お、興味を惹くことに成功。でも、ゲームって?
ユーリは細い指を一本立てた。
「プレイヤーはノエル」
「私!?」
勝手に何を!
「妖精が見えないのに一緒に遊ぶとか、どんな無茶振りよ」
「だからいいのよ」
「……??」
いや、まって。本当に意味が分からない……。
胡乱な目で見ている私を気にする風もなく、ユーリは説明を続けた。
「ルールは簡単よ。まず、ネロがどこかに身を隠す。それをノエルが探し出す……これだけ」
「見えないモノ相手にかくれんぼをしろと?」
「大丈夫大丈夫、ノエルならできるわよ」
その根拠のない大丈夫はどこから来るのだろうか……。それだけ信頼してくれてる、ってことなのかなぁ。
さらにユーリは、
「もしノエルが勝ったら、私たちを元の世界に戻してちょうだい。あなたが勝ったら……そうね、ずっとこの夢の世界で一緒に遊んであげるわ」
あろうことか、そんな風に付け足したのだ。
「な、なんてこと言ってるの!?」
「大丈夫大丈夫、ノエルなら勝てるわよ」
「だからなんでそんな自信にあふれてるの⁉」
こちらはすごいプレッシャーなんですけど。
なにせ自分の運命だけではなく、ユーリとカレンの運命も背負っているのだ。
「……どう、ネロ? やってみる?」
ユーリが問いかけると、クスクスと笑い声が耳に届いた。
これは……承諾ってことでいいのだろうか。
「ノエルもいいわね?」
「異論しかないけど、いいよ……」
ここまで来たら腹を括ろう。
自分の力すべてをかけて、勝ってやろうじゃないの……!
ユーリは一度私の頭をぽん、と軽くたたいて、にこりと笑って宣言した。
「誇り高き妖精王の名に誓って、互いの約束は守ること。では、勝負を始めましょう!」




