1話 タイムスリップでしょうか
セルヴィアは病床の中、自身の命が終わりかけている事を悟った。傍らにはお堅い顔の使用人達のみで、愛する両親の姿はない。嫁ぎ先の公爵家が知らせなかったのか、あまりに突然で知らせが間に合わなかったのか。そう、昨日まではセルヴィアはいつも通り生活できていたのだ。慢性的な気だるさはあれど、嫁いでから五年、ストレスのせいかずっと不調だったので大して気にもとめなかった。朝早く仕事に出かける夫を見送り自室に戻る途中の階段で突然目眩がした。階段の上から倒れたためセルヴィアのか細い体は勢いよく転がっていった。何度も反転する視界と鈍い痛みを耐え階下に伏していると、若いメイドの悲鳴を聞きつけた執事がセルヴィアを抱きかかえベットに運んだ。ぼんやりとした意識の中、急ぎ呼ばれた医者の言葉がやけに大きく聞こえた。
「申し訳ありませんが、奥様はもう手の施しようがありません。階段からの転落によるものではなく、もうずっと前から病に侵されていたのでしょう。全身が衰弱しきっています」
どうして誰も気づかなかったのですか、と続く医者の言葉は執事やメイド達、そしてここにはいない夫に向けられているのだろう。でもしょうがないのだ。誰も責められらない。もともと痩せていたし、常に青白い顔の公爵夫人に皆驚きはすれど、それは嫁いでからずっとだったため、ただ気味の悪い夫人として片付けられていた。セルヴィアも長年の不調をストレスのせいと片付け我慢していたのが悪かったのだ。
高熱と全身の痛みで苦しむセルヴィアは、意識ももう途切れ途切れだった。ただ何度も夫が帰ってきていないか確認した。名前を呼んだ。しかし責任感の強い夫が仕事を投げ出して見舞いに来てくれるはずもないのだ。
「ローレンス……」
何度目かの呟きを最後に、セルヴィアは伏してから半日ともたずにそのまま短い生涯を閉じてしまった。齢二十一歳だった。
がやがやと、やけに騒がしい音で目が覚めた。
「お嬢様!起きて下さいませ!今日はローレンス様がいらっしゃる日ですよ」
寝ぼけまなこの目を擦り、ぼやける視界に捉えたのは実家のメイド長のハンナの姿だった。セルヴィアが産まれる前から仕えている、両親よりも歳上の頼れる第二の母のような人だ。恰幅のいい彼女はこの状況に混乱するセルヴィアを抱え起こすと、暖かいタオルで顔を拭いてくれる。
「ハンナ、ねぇ、ちょっと待ってくれるかしら」
たった今嫁ぎ先で死んだはずの自分が実家のベッドで寝ていたのだ。混乱して当然だ。しかしハンナは待ってはくれなかった。
「まぁまぁ、おっとりとしたお嬢様の時間に合わせて動いていたら、日が暮れてしまいますよ。今日だけは特別急いでくださらないと。他のメイドがもう何度も声をかけたのに起きないからと、わざわざ私が呼ばれたのですからね。ローレンス様は時間に厳しい方ですからお待たせする訳にはいきません。さあ、早く用意しますよ」
「えぇと…とりあえず分かったわ」
ハンナの迫力に負けて結局セルヴィアは何も言えなかった。元来人に何か意見を伝えるのは苦手なのだ。考えて話すまでにひどく時間がかかるから相手は焦れてしまうし、話し始める前に相手が話し出してタイミングを失うのなんてしょっちゅうだ。普段のハンナならいつまでも待ってくれるが、今日は焦っている様子だった。だから流されるままに、夫のローレンスが来るから急いで準備をするというハンナの言葉に頷き支度を始めたのだ。
「さぁさぁ、できましたよ。妖精のように可愛らしいこと。さすがは自慢のお嬢様です。これならいくら堅物のローレンス様でもお嬢様に見蕩れることでしょう」
「堅物?」
「あら失礼しました。でも厳しいお方と評判ですからね、のんびり屋さんのお嬢様では苦労するかもしれません。だから思い切って相手をお嬢様の愛らしさで悩殺させて、言うことを聞かせないと。こういうのは最初が肝心なのです。我が夫しかり」
「まぁ、でも五年も経ってるし今更じゃないかしら」
「五年?もしや前にお会いした事がおありでしたか。ならばいっそう、お美しく成長されたお嬢様のお姿を見せないと」
「でもあの方は私を好いてはくれないわ」
「まぁまぁ、弱気なことで。あいかわらずですね。ならばハンナが殿方を魅了する極意を伝授してさしあげます。いいですか、うっかりと見せかけてスキンシップを図るのです。肩に軽く触れたり、転びそうなフリして腕に縋りついたり」
「それってはしたないのではないかしら?」
「一般的にはそうでしょうが、王命で結婚する事はもう確定しているのです。結婚が決まった男女なら多少は世間も目を瞑るものです」
「そう、でも」
結婚も済ました身でスキンシップなど今更だと言いかけたところで、はたとハンナの言葉に違和感を覚えた。
「ねぇ、ハンナ。あの、聞きたい事があるのだけど」
「ああ!大変!私とした事がお嬢様に急がせといてのんびりお話をしてしまいました!さぁさぁ、行きましょう。旦那様と奥様がお待ちです」
「まぁ」
広間に着けば、もう二度と会えないと思っていた父と母がそこにいた。嫁いでからの五年、ほとんど里帰りを許されずなかなか会えていなかった。そのまま死に別れたはずだったのに。
「お父様!お母様!お会いしたかった」
思わず駆け寄って抱きつけば、二人は驚いたようだった。
「おお、どうしたんだ急に、私の可愛い娘は。嫁ぐのが決まり寂しくなったのか?実はこの父もなのだよ」
髭面の強面の顔を盛大に崩して、デレデレと父が微笑む。
「まぁ、あまり甘やかしてはいけませんよ、貴方。私達の可愛いリトルレディはもう公爵夫人になるのですから」
そう言いながらも母も優しく娘の背を撫でている。
「ローレンス様がもういらっしゃるから緊張してるのかしら。でも大丈夫よ。あなたはどこに出しても恥ずかしくない淑女ですもの」
「旦那様、奥様、お嬢様。そのローレンス様の馬車がお着きになったそうです」
ハンナの夫で、執事長のヒンスが後ろからそっと声をかけてくる。ハンナと違いヒンスは小柄で背も低いが、落ち着きと品がある。彼も長年実家を支えてくれている使用人の一人だ。
「あら大変。お出迎えしなくてはね」
大きな玄関の扉が開き、眩い光と共にローレンスは入ってきた。撫でつけた銀色の髪に、翠色の瞳と、美しい色彩をまといながらも鋭い眼光に一文字に固く結ばれ微笑みもしない口元は、男の気難しさを物語っていた。
「エルランド伯爵に、エルランド伯爵夫人、この度はお招き頂き感謝致します」
ローレンスは礼儀正しく、腰を曲げ会釈した。顔を上げると鋭い眼光は父と母を通り抜けセルヴィアを捉える。セルヴィアは思わず身を硬くした。
「セルヴィア令嬢もこの度はお目通りを許して下さりありがとうございます」
「い、いえ」
そのまま淑女の礼をとる。令嬢と夫がセルヴィアを呼んだ。未婚の娘にのみ使う敬称で妻を呼んだ。なんてことだ。
「ローレンス君、よく来てくれたね。わざわざ我が家に呼びつけてすまなかったが、歓迎の用意はできている。ゆっくりしてくれたまえ」
「ローレンス様、朝食会場までご案内致します」
執事長のヒンスが恭しく頭を下げ、ローレンスを案内する。その様子を見ていたセルヴィアは頭がくらくらとした。この光景に既視感がある。いや、ハンナや父や母、みんなの言葉の端々、そして今のこの状況、全てに違和感という名のヒントがあったのだ。今日という日は五年前、王命により夫との婚約が決まった直後の初顔見せの日だ。鈍いセルヴィアは今更ながら気がついた。死んだはずの自分がどういう訳か蘇り、夫との結婚前に時が巻き戻っていることに。