ないしょだよ
ぼくのうちでは、猫を飼っていた。青い目がきょろきょろしていて、やせていて、なんだか細長い。まっ白な毛なみは、雪のようにきらきらかがやく、という感じではなくて、画用紙みたいなべったりした感じでもなくて、もとは、黒とか茶色とか、ちゃんと色がついてたのに、洗いすぎて落ちてしまった、という感じ。気が変わったらすぐに別の色になってしまいそうな、そんな、ふわふわした白。
小学校にあがる前、おばあちゃんが死んだ。ぼくはぜんぜん覚えてないけど、葬式でお坊さんがお経をむにゃむにゃやっているとき、庭で、ニャーと鳴いたのが、その猫だ。はじめはみんな、知らないふりをしてたけど、お坊さんがお経を区切って、ひと息つくと、ニャー、またひと息ついて、ニャー。ねらったように絶妙のタイミングで、ニャーが聞こえてくるから、みんな、笑いをこらえるのが大変だったらしい。
葬式がひととおり終わっても、猫はまだ庭でうろうろしてた。お母さんが、
「きっと、おばあちゃんの生まれ変わりよ」
と言って、料理の残りをやった。それがはじまりで、猫は、うちで飼われることになってしまった。
お母さんに言わせると、ぼくはおばあちゃん子で、おばあちゃんが死んだとき、ミイラになるんじゃないかというくらい、わんわん泣いて、何日も泣くのをやめなかったそうだ。それはいくらなんでも大げさだと思うし、なにしろ、おばあちゃんの顔も覚えていないのに、おばあちゃん子だったというのも、本当かどうか分からない、と思っている。お父さんは猫にあまり興味がないらしく、食事のときに足もとで鳴いていても、テレビを見ていて膝の上にのっかってきても、ぜんぜん相手にしない。だから、餌をやったり、なでたり、ときには、
「いい子だ、いい子だ、まるちゃんは」
なんて話したりして、かわいがってるのは、お母さんだけだ。お母さんは、おばあちゃん子のぼくのためだということにして、野良猫を拾った言い訳にしていたんだと思う。
ぼくはといえば、まるちゃんという名前がいちおうあるのに、猫、猫、と呼んでいることからも分かるかもしれないが、まあ、お父さんと同じくらいなものだ。
先月死んでしまって、ミイラになるほどじゃなかったけど、思わず泣いてしまうくらいには、かなしかった。おばあちゃんの生まれ変わりだと信じてるわけでもないけど、たしかに、なんだか人間くさい、変な猫だった。ぼくたちの話を分かってるな、と思ったことは何度もあるし、くしゃみはハクションってちゃんと言うし、キャットフードをいつもまずそうに食べてた気がする。
一年生のとき、だと思う。まだ、うちのなかを猫がうろうろしているのが気になってたころだ。ぼくは、学校を休んで、ベッドで寝てた。実は、風邪をひいたりしてたわけでもない。体育で校庭を三周半する、月に一度のマラソンの日だった。ぼくはいつも途中で体力がなくなって、走るのをやめて歩いてしまう。だからいつも最下位だ。それがいやでいやでしょうがなかったので、朝、お父さんとお母さんが出かける直前に、おなかが痛いと言って、ずる休みをしたわけだ。仕事に遅刻するわけにはいかないから、このタイミングだったら、ちゃんと熱をはかったりせずに、すぐに学校に電話してくれるだろうと計算してた。いい作戦だと、自分でも思った。
寝ているのは、たいくつだった。おなかが痛いのを理由に休んでるけど、ところで、おなかはどうして痛くなるんだろう、と思った。ひまだから、どんどんそのことを考えていって、歯が痛くなるのは虫歯の菌のせいだと知ってたから、おなかが痛いのも菌のせいだろうという結論になった。紙とえんぴつを持ってきて、ベッドにうつぶせになって、そのおなかを痛くする菌を描きはじめた。モデルは虫歯の菌だけど、角をつけたり、歯をとがらせたり、それを黒くぬりつぶしていって、なんだか、だんだんこわくなってきた。
ぼくは、紙とえんぴつを投げだして、ふとんにもぐりこんだ。眠くないけど、目をかたく閉じる。しばらくして、かさかさ、音が聞こえてきた。そっとふとんのすきまからのぞくと、おなかの菌たちが紙のなかから出てきて、こっちに近づいてきてる。ぼくは、びっくりして、口を大きくあけた。声は出なかった。口からおなかの菌が入る、と思って、手でふさいだ。でも、そのままなにもできなかった。
そのとき、猫がぼくの部屋に入ってきた。のそのそ、ぼくがどんなにこわい思いをしてるかも知らないみたいに、ゆっくり歩いてる。いつのまにか、ぼくの目の前で、足をそろえてすわってた。そのまま、こっちに来るおなかの菌を、むしゃむしゃ、一匹ずつ食べてるみたいだった。最後の菌を食べ終わって、ちらりとぼくを振り返る。ありがとう、と言わなきゃいけなかっただろうけど、その前に、猫は入ってきたのと同じところを通って、ぼくの部屋をさっさと出ていってしまった。
それからぼくは、マラソンではあいかわらず最下位だったけど、途中で歩くことはしなくなった。
たぶん、その次の年。だから二年生のとき。漢字のテストが次の日にあって、漢字ドリル十ページぶんくらい、一日で覚えなきゃいけなかった。本当に風邪をひいてたのか、なにかほかのことだったのか、いまではよく分からないけど、その十ページは、ぜんぜん手をつけてなかった。あまりその日以外に、勉強をがんばったという記憶がない。よっぽどつらかったんだと思う。
半分より少し進んだところで、ああ、まだこんなにあるのか、といやになった。机につっぷして、このまま寝てしまえ、と思った。
たしかに、夢だった。ぼくには、ぼくの頭のてっぺんが見えたから。音のない映画みたいだ、と思っていると、猫がぼくの背中をつたって、机の上にやってきた。あの前足でどうやってるんだか、ぼくのメガネを鼻にのせて、えんぴつ二本をはしみたいに持った。そのはしで、ドリルから漢字をつまみあげる。ぼくの耳まで持ってきて、ぎゅっと押しこむ。うんうんうなずいて、また次の漢字にとりかかる。猫はたまにメガネをなおしたりしながら、どんどんぼくの耳に漢字をつめこんだ。
どんなふうに夢からさめたか、はっきりしないけど、テストは一〇〇点だった。
猫は、先月、動物病院でしずかに死んだ。涙でぐしゃぐしゃになったお母さんの目をぬすんで、猫は、口をにゅっとゆがませた。ぼくに笑いかけたようだった。
「ないしょだよ」
と聞こえた気がして、ぼくも、分かったよ、と笑ってうなずいた。