腐ってる
「ああ、だめだ、これ腐ってる。」
作業机でPOPを書いていた私は、一本のマーカーペンのキャップを閉めた。
…紫色のペンはこれ一本しかないのにな。
商品を彩り、購買意欲を高めるために必要なもの、それはPOP。
商品の魅力を文字とイラストを駆使してお客様に伝える手法。
商品を売るために、実に有用なテクニックである。
私は絵を描くのも煽り文句を考えるのも大好きなので、日々進んでPOPを作成しているのですよ。
時には、一枚の紙に収まりきらず立体化したり。
時には、お客様に挑戦的な謎かけを投げかけてみたり。
時には、目を引く手法で商品に着目させてみたり。
いかに目立たない商品を目立たせるか。
いかに売れてる商品にブーストをかけるか。
いかにこの店のPOPはなんか面白いぞと思わせるか。
私の手腕に、この店に並ぶ商品価値がかかっている、かかりまくっているのだ。
そんな私の相棒は、カラフルなマーカーペンである。
耐水性の、太い文字が裏移りすることなく書けるすばらしき着色描画器具なのであるが、実に厄介な問題を抱えていた。
…すぐに腐るのである。
マーカーペンとしての機能は腐り落ちたりなどしない。
カラフルなペン本体のややマットな手触りは腐ってヌル付くことはない。
しかし!!
インクがですね、すぐに腐ってしまうのですよ!!!
ペンのキャップを取ると、強烈に不快な香りが漂うのだ。
インクが劣化するのだろうか、新品を下ろして使い始めてしばらくすると明らかにおかしな刺激臭が発せられるようになってしまうのである。
「めったに使わない色だからなあ…しまった、油断してた。」
ぶどう収穫祭のPOPを描いた時に下ろした紫色のマーカーペンは、ずいぶん活躍の機会がないまま放置され続けていた。
このたびブルーベリー祭りのPOPを描くべく、実に半年振りに、そのキャップを取る運びとなり…腐っていることが判明したのである。
使用頻度の低い色に、買い置きは用意されて…いなかった。
買いに行こうにも、このペンは専門店でしか販売されていないため近隣で購入することは不可能。
今日ネットで注文しても、届くのは明後日以降になる。
…POPは明日必要なのですよ。
この、腐った一本で。
就業中に一枚のPOPを書き上げねばならない。
「うう、致し方あるまい。」
私は、さっきしまったばかりの腐ってしまった紫色のマーカーペンをペン立てからつまみ上げ、キャップを取り…手際よくPOPを描き始めた。
ペンを動かすたびにふわりと香る、腐敗臭。
…これはいったい何が腐っているんだろう。
インクって腐るものなのだろうか?
誰かがこのペンに腐敗物質を注入したとでも言うのだろうか。
もしやうちの店の大人気のPOPに嫉妬した隣の雑貨屋の敏腕社員が何らかの罠を仕掛けたんじゃあるまいか。
腐っているマーカーペンは何を思ったのか分からないが、ずいぶんがんばって働いている。
先週下ろした赤いマーカーペンなど、もう掠れ始めたというのに。
腐るまで放置されたから、これ幸いと張り切っているのか。
腐っていてもこんなにがんばれるよと見せ付けるために、これ幸いと張り切っているのか。
なんと健気にインクを伸ばし続けるペンなのか。
…何という志の高いマーカーペン!
紫色のマーカーペンは、腐っていながらも、きっちり役目をこなした。
描いている時はずいぶん私を翻弄した腐敗臭だけど、乾いてしまえばただのすばらしいPOPだ。
この紫色のイラストは、文字は、腐ったマーカーペンなくしては描けなかった一品である。
…このまま、捨て置いていいはずがない。
…この実に働き者で自らの職務に直向な紫色のメーカーペンに敬意を示さなければならない。
私は、紫色のメーカーペンの軸部分に、「腐ってる」と記入した。
腐っていることを明記しておけば、このマーカーペンの実態を知らないスタッフも多少は状況を理解してくれるはずだ。
腐っていることを明記しておけば、このマーカーペンから発せられる腐敗臭に慄き即座に廃棄する事も無いはずだ。
腐っていることを明記しておけば、このマーカーペンを使うのは私一人になるはずだ、たぶん。
腐っているペンは、腐ったまま、ずいぶん活躍を続けることとなった。
新しい紫色のペンを下ろしたところで、またすぐに腐ってしまうだろう、だったら腐ったペンを使ったらいいんじゃないか。
腐ってはいるけれど、ちゃんと綺麗な紫色を塗れているから大丈夫。
ちょっと刺激臭を伴うという難点はあるけれども、使えているから、捨てないで欲しい。
「ねえ、この腐ってるって、何。」
店長がやや困惑した表情で、しかし緩む口元を隠しきれない様子で私を問いただした。
「腐ってるんです、でも使えるんです。」
「腐ってるなら捨てればいいのに…。」
使えるものを捨てろと?
困ったときに活躍してくれたこのマーカーペンを捨てろと?
こんなにもマーカーペンとしての任務に向き合い、マーカーペンとして最後まで存在し続けようとしているのに…マーカーペンのマーカーペンたるマーカーペン体内に残るインクが枯渇する前に、マーカーペンとしての存在を一方的に拒否し廃棄しこの世から排除するなんてとんでもない!!!
「唯一無二の逸材ですよ、控えおろう。」
「はいはい。」
…この職場はかなりいい空気の漂う職場なんですよ。
多少の腐敗臭など気にならないほどにね!
かくして、腐っている、「腐ってる」と記入されたマーカーペンは私が退社するまで、作業台のペン立てに鎮座していたのである。
久しぶりに、かつて勤めていた雑貨店に立ち寄った私は、作業台のペン立ての中に…紫色のマーカーペンを見つけた。
軸に「腐ってる」の文字はない。
…このマーカーペンは、腐っていないのだ。
「腐ってるペンはもう居ないんですね…。」
センチメンタルにひたる私に、店長が口元を緩めながら答える。
「紫のペン、ふたとってみて。」
紫色のマーカーペンのキャップを取ると。
「…腐ってる!」
あの頃確かに私が愛用した、腐っているマーカーペンと同じ臭いがあたりに漂った。
「多分、そのペンはそういう仕様なんだね。」
「じゃあ、きちんと書いておかないと!」
私は無銘の紫色のマーカーペンの軸に、「腐ってる」としっかり記入した。
名誉と栄誉を軸に受けた紫色のマーカーペン。
この店では、腐っているペンが大活躍していくのだ。
この店には、腐っているペンがなくてはならないのだ。
私は、腐っているマーカーペンの前途が明るいことに安堵した。
「せっかくだから、腐ってるペンで何か描いてくよ!」
「え、良いの?じゃあサツマイモキャンペーンのPOP書いて!」
私は久しぶりにPOPを一枚、書き上げた。
…うん、腕は鈍ってないな。
…このマーカーペンは実に私と相性がよろしくてよ。
私はずいぶん満足して…かつての職場をあとにした。