先生たちは悩み又、恋をする
「――私、先生のこと好きなんです」
誰もいない教室で、頬を赤らめながらその生徒は想いを告げた。勇気を振り絞ったのだろう、体はかすかに震えていた。
それは藤塚紗雪が生まれて初めて受けた告白だった。
本来ならば多少は舞い上がってもおかしくない状況に、しかし紗雪はただただ困惑するばかりだった。
何故私に? 何故先生に? 何故同じ女性なのに?
告白を断った後も紗雪の頭から疑問が消えることはなかったが、それ以上に紗雪の苦しめたのは女子生徒が去り際に見せた涙を堪えたつらそうな表情であった。
あんな顔を見ることになるのならば告白なんて二度と受けたくないと、紗雪は思った。
紗雪が高校の教員になって三年。これまでも色々と大変なことはあったが、どれも昨日起きたことに比べればたいしたことではない。それほどに紗雪のなかでは重大事件だった。
小テストの採点を済ませて一息ついた紗雪に、隣の机の琴平愛希が声を掛けてきた。愛希は紗雪のひとつ上の先輩教員で、歳が近く話しやすい貴重な同僚だ。
「藤塚先生、なんだかお疲れですね。大丈夫ですか?」
「あぁすみません琴平先生。体調は大丈夫です。ちょっと、まぁ、ありまして」
「精神的なやつですか? やっぱり若いと生徒に舐められやすいですよね。たまにはがつんと言い返した方がいいですよ。あんまりひどいようなら録音して証拠を残すとか」
「そういうことではないので心配しないでください」
愛希の物騒な発言に紗雪は苦笑して返した。実際生徒たちからは先生というよりは年上の友達のような感覚で話しかけられているが、紗雪はそれが嫌ではなかった。むしろ距離が近しいからこそ勉強やそれ以外でも相談に乗れるはずだと好意的に捉えていた。
(私の接し方が間違ってたからあぁなっちゃったのかな)
ひとりで後悔をしていた紗雪に、愛希が提案をする。
「よかったら今日の帰りどこかに寄っていきます?」
さらに愛希がひそひそ声で付け加えた。
「ここじゃ話しにくいこともあるでしょうから」
愛希の気遣いが紗雪の心に染み渡る。
正直なところひとりで抱え込むには重すぎる問題だった。この際意見を聞いて今後どうしていくべきか相談するのもいいのではないか。紗雪は愛希にお礼を述べてからどのお店にしようかを話し合った。
「なるほど、昨日生徒に告白をされた、と」
「はい。それでちょっと悩んでいまして」
居酒屋の個室で紗雪は昨日の経緯を愛希に話した。茶化すことも好奇の目を向けることもない愛希の態度に紗雪は相談して間違いじゃなかったと思った。
「まさか女子生徒からそのようなことを言われるとは思いもよらなかったんです。もしかして私の日頃の接し方がよくなかったのでは、と考えたのですが私ひとりでは判断が難しくて……。琴平先生から見て私ってどうですか? 生徒との距離感おかしくないですか?」
「別に問題ないと思いますよ。生徒と仲が良い方だとは思いますが、常識の範囲内でしょう。むしろ休み時間にも生徒が会いに来るような先生というのは優秀な部類じゃないですか」
その休み時間に会いに来てくれる生徒のひとりから告白をされたことは愛希には言わなかった。さすがに生徒のプライバシーくらいは守りたい。
愛希がビールのジョッキを片手に続ける。
「ちなみに、藤塚先生がその女生徒と付き合うっていう選択肢はなかったんですか?」
「――は?」
あまりに突飛な質問に紗雪は枝豆を落としてしまった。
「いやいや選択肢もなにも先生と生徒だし、なにより相手は女の子ですよ? 付き合うなんてありえません」
動揺する紗雪とは対極的に愛希は悠々とつまみに手を伸ばす。
「先生と生徒の結婚なんてよくあることですし、いまどき同性カップルも珍しくないでしょう? 私、半年くらいアメリカに留学したことあるんですけど、むこうじゃ結構オープンにしてる人もいて色んな付き合い方があるんだなって勉強になりましたよ」
「そりゃあ日本と欧米とを比べれば価値観だって変わりますし、付き合い方も千差万別でしょう。でもここは日本です。私の周りではそんなことはありません」
「それは藤塚先生が気付いてないだけ。うちの学校、結構女の子同士のカップルいますよ」
「……嘘ですよね?」
「本当です。この前だって空き教室で行為に及んでいる子たち見ましたし」
「こ、こ、こ、こ――」
衝撃的な単語に紗雪は言葉に詰まる。まさか神聖な学び舎でそのようなことを、しかも女の子同士が。
「あぁ行為っていうのは性行為のことですよ。といってもキスや愛撫だけのペッティン――」
「具体的な内容は結構です! それで、琴平先生はその生徒達に注意したんですよね?」
「そりゃ勿論しませんよ」
「あぁ良かったやっぱり教師として見過ごせないですもんね――ってしてないんかいっ!!」
「藤塚先生テンション高いですね。もう酔ってます?」
「まだ一杯目です……」
紗雪は疲労感に打ちひしがれながらジョッキを持ち上げた。いっそ酔った方がいいかもしれないと残りを一気に飲み干して勢いを付ける。
「琴平先生! なんで何も言わなかったんですか! 生徒達の非行を止めるのも教師の務めでしょう!」
「校則では恋愛は禁止されてないはずですけど。あ、次頼みます?」
「校内で風紀を乱すような行いは禁止です!」
渡された電子パネルで飲み物を追加しながら紗雪は憤慨した。その反応を見て愛希が楽しそうに笑う。
「藤塚先生って真面目ですねぇ。彼氏とかいないんですか?」
「い、いませんけど」
「最後に付き合ったのは?」
「そ、そんなの今は関係ないでしょう! 校内がそれほど乱れているなら職員会議で対策を練るべきです。明日の朝にでも提案しましょう」
「そういうところがまだまだ先生として甘いんですよ、藤塚先生」
「……どこが甘いんですか」
「生徒達はそんなこと望んでないんです。彼女達はただ恋人とじゃれあいたいだけ。その欲求が強すぎて周りが見えていない部分があるから、教師としてはその部分を指導していくべきじゃないです?」
「だから見逃せと」
「見逃さないにしてもやり方はあると思いますよ。まぁ女の子同士の場合は私は黙認することにしてますけど」
「何故女の子同士だけなんですか」
「だって子供出来る心配ないですし」
「――っ、げほっ、げほ」
おつまみでむせこんだ紗雪に「大丈夫ですか?」と愛希が声を掛けた。紗雪がおしぼりで口を塞いで落ち着くのを待っている間に愛希が思いついたように付け加える。
「あ、でも男の子同士だと後始末が大変だからそれはそれで止めますね」
「そういう問題ではなくっ!」
お待たせしましたー、と注文していた飲み物が到着した。紗雪はさっそく喉に流し込んで息を整える。
「どうも琴平先生とは根本から認識が違うようで……。これ以上意見を交わしてもお互い無益ですしもうやめにしましょう」
「あらら、それは残念。では最後に一点だけ」
「……何ですか」
愛希が顎の下で手を組んで、肘をついたまま紗雪を見つめる。
「私が思うに、藤塚先生に足りないものって『経験に伴う知識』なんですよ。誰かと付き合ったことがないから恋愛中の彼女達の気持ちが分からない。分からないから拒絶しようとする」
「っ、付き合ったことがなくたって分かります!」
「いやいや、それが結構分からないものなんですよ。私もそうでしたし。ほら、車の免許を取って初めて歩行者や自転車の恐さに気付く、みたいな。スポーツにしろ楽器にしろ、自分自身でやろうとしてみてその難しさが分かることはよくあります。恋愛も同じです」
「…………」
紗雪は以前生徒から恋愛相談を受けたときのことを思い出していた。あのときはドラマやマンガの知識を使って適当に誤魔化した。それを考えると愛希の理論は一応すじが通っているようには聞こえる。
「では具体的にはどうすればいいんですか。まさか私に誰かと付き合ってみろ、なんて言わないですよね」
「そんなまさかの大当たり~」
「なっ――」
声を荒げようとした紗雪を愛希がさえぎる。
「ただ付き合えってことじゃないですよ。藤塚先生の話を聞いてる限り、どうも告白をしてきたのが女子だったから話がややこしくなっている気がするんです」
「そんなことは」
と紗雪は言いかけて言葉を止める。もしもあれが男子生徒だったら、自分は愛希に相談していただろうか。思春期の男子が年上の女性に憧れることなど珍しいことではないと早々に納得をしていたのではないだろうか。
視線を落とす紗雪を見て、愛希が異論なしと判断をして続ける。
「だから今の藤塚先生に必要なのはずばり『女性との交際経験』。そうすれば件の女生徒の気持ちも理解出来るし、今後の接し方だって自ずと見えてくるはず」
「……冗談だと言うのならここが最後のチャンスですよ」
「至って本気なんですねーこれが」
おどける愛希に対して紗雪はまだ固い態度を崩さない。
「馬鹿馬鹿しい。そもそも人から強要されて誰かと付き合うなんていう考えがナンセンスです。恋愛感情というものは縁と偶然がもたらして自然と湧き起こるものです。ご心配いただかなくてもそのうち恋愛くらいしてみせますから。琴平先生が羨ましがるくらいの相手と結ばれて見せびらかしてあげます」
愛希がすっと小さく手を挙げた。
「じゃあ、私自身がその相手になるっていうのは?」
「…………?」
きょとん、と紗雪が目を丸くする。愛希の言葉の代名詞が何に掛かっているのかを頭のなかで辿り、ようやく理解が及んだ。しかし理解できたとしても受け入れられるかどうかは別問題だ。
紗雪の口から乾いた笑いが出る。
「――は、はは。お、面白いジョークですね。まさか琴平先生がそんなこと言うなんて思わなかったですよ。あ、もしかして酔ってます? ダメですよ? アルコールごときで自分を見失っては」
愛希が残ったジョッキの中身を見せるように持ち上げた。
「残念。まだ一杯目なんです」
ジョッキを置いてから愛希が立ち上がった。そのまま紗雪の隣に移動して腰を降ろす。
「あ、あの、琴平先生……?」
「初めて会ったときから藤塚先生のこといいなって思ってたんです。誠実で真面目で生徒たちにも親身に接して慕われてて……何よりも見た目がすっっっごくタイプで!」
ぐいぐい身を寄せてくる愛希の迫力に押されて紗雪は横へ追いやられる。ここにきて愛希が留学時に何を勉強していたのかを紗雪は思い知った。
(アメリカで自分の性的指向を学んでくるんじゃない!!)
どんどん離れていく紗雪を見て愛希がしゅんと肩を落とす。
「やっぱり気持ち悪いですか? 女性が女性に言い寄るなんて」
悲観をあらわにする愛希の姿に紗雪の良心が痛んだ。
「そんな、気持ち悪いなんて思ってません。ただその、いきなりで驚いただけで」
「どうせそんなの口先だけで、本当は近くに寄りたくもない、一緒の職場で働きたくもない、って思ってるに決まってます」
「思ってません! 琴平先生は私にとって良い同僚であり友人です」
「……本当ですか?」
「本当です」
「じゃあ横に来てくださいよ」
愛希が座布団をぽんぽんと叩いた。紗雪は一瞬尻込みしたものに、すぐに愛希の隣に近づいて座り直した。
「これでいいですか」
「はい。ありがとうございます」
愛希が嬉しそうに笑うのを見て紗雪は安堵した。自分が原因で誰かを悲しませることはしたくなかった。これは紗雪の抱いている教師としての信念にも通じている。より多くの生徒たちが楽しく学べるように、健やかに生活を送れるように尽力してきた紗雪の人生は言わば他者の幸福を目指す為のものだった。自分以外の彼ら・彼女らの笑顔こそが紗雪にとっての何よりの報酬であり生きがいであった。だからこそ昨日の女生徒の涙が堪えたし、こうやって友人が悲しんでいるのを前にすれば冷酷になりきれない。
紗雪はいったん気持ちを落ち着かせてから愛希に向き直った。
「琴平先生の気持ちはとてもありがたいですが、やはりお受けするわけにはいきません」
「何でですか? 同じ女性だから?」
「それは……私にそういう気持ちがないからです。たとえ琴平先生が男性だったとしてもお断りしてます」
「気持ちがない、というのは私のことを好きじゃないってことですか?」
「友人としては好意を抱いていますよ。でも恋愛感情かと言われれば、違うと思います」
「好きじゃないから付き合わないっていうのはもったいないですよ」
愛希は拳を握って力説する。
「お互いに両思いで付き合い始めるのは確かに理想です。でも世の中そんなにうまいこと出来てない。告白されたときには何とも思っていなくても、距離が縮まることでだんだんと好きになっていったりもするんです」
「まぁそういう事例もあるのは知ってますが」
「だったら! 試しで付き合うっていうのはどうですか!? 一カ月、いや一週間でいいんです。お試しで付き合ってみて、それで無理ならすっぱりと別れますから!」
「交際はあまり軽々しくするべきではないかと……」
「その考えは古いですよ。恋愛は服と同じです。実際に着てみて気に入らなければ戻す。そうやって何着も試着をして自分にベストマッチするものを見つけるんです」
「服、ですか」
「そうです。今まで藤塚先生はずっと一緒の服を着てきました。それでは周りの世界もずっと変わりません。そろそろ新しい服を試して外へ踏み出してみるのもいいとは思いませんか?」
「それは……」
「お願いします! 一週間、一週間だけでいいですから!!」
土下座をしてまで頼み込む愛希に紗雪は根負けした。情に絆されたわけでも熱意に打たれたわけでもなく、愛希の言い分にもある程度共感できる部分があったからだ。
(まぁ仲の良い友人と恋人になったからって急に何かが変わるわけでもないし、これで多少なりともあの子の気持ちが理解できるならアリ、なのかな)
などと考えていた紗雪は二時間後に後悔することになった。
「紗雪、なに飲む?」
冷蔵庫を開けながら愛希が紗雪に尋ねた。
「あまり強くなければ何でもいいです」
紗雪はきょろきょろと部屋を見回しながら返答した。
今紗雪がいるのは愛希の部屋だ。飲み直すことにして愛希のマンションへ場所を移動したのだが、夜に友人宅に訪問したことのない紗雪は落ち着きなくそわそわしてしまう。
「はい、缶チューハイ。おつまみはお菓子くらいしかないけど」
「あ、ありがとうございます」
缶を受け取って紗雪が会釈をすると、愛希が苦笑した。
「恋人なんだからもうちょっとざっくばらんでいいんだよ」
「そ、そうは言っても急には難しいですよ。琴平先生の方が先輩だし」
紗雪にとってはむしろ愛希が何故そんなに自然体でいられるかの方が不思議だった。
「じゃあせめて呼び方くらいは変えて欲しいな」
「えっと、あ、愛希、さん」
「さんはいらない」
「……愛希」
「ん~~~、かわいいっ!!」
満面の笑みで缶を傾けながら愛希が紗雪の肩を抱いた。たまらず紗雪は進言する。
「あ、あの、近すぎじゃないですか」
「恋人だったら普通の距離でしょ」
「そうかもしれませんけど私たちはまだ――」
「紗雪」
愛希が缶を紗雪のほっぺたに当てて言葉を止める。
「恋愛のことを知るには恋人の気持ちを知る必要があると思うの。だからいちいちこれは違うこれは合わないなんて考えてちゃ恋愛のことなんて何も分からないよ。もっと理解をしようとしなきゃ。――というわけで問題です。私は何故こんなに紗雪にくっついているでしょう?」
「……触りたいからじゃないんですか」
「半分正解」
「なら、愛を確かめ合いたいとか絆を深めたいとか」
「もちろんそういう気持ちもあるけど、もっと根本的なこと」
「…………」
紗雪は考えてみたがそれらしい答えはまったく浮かんでこなかった。頭を振って降参する。
「分からないです。教えてください」
「紗雪がキスしてくれたら教えてあげる」
「じゃあいいです」
「ウソウソ、ちゃんと教えてあげるから~」
逃げようとした紗雪を愛希がすかさず捕まえる。がっちりと横から紗雪を抱き締めたまま愛希が答えを口にする。
「答えは、自分が相手にとっての特別な存在だと確認するため」
「恋人っていう時点ですでに特別な存在だと思うんですが」
「そうなんだけど、肩書だけじゃ人間は不安になっちゃうからね。こうやって他人が踏み込めないパーソナルスペースを自分のものにすることで、あぁ私はこの人にとって特別なんだ、って実感してるの」
愛希の言っていることはごく普通のことではあった。
相手の肌に触れるほどパーソナルスペースを侵しても許されるのは確かに家族か恋人くらいのものだ。他人では踏み入ることのできない場所に自分だけがいるという優越感、誰にも邪魔されないという安堵感、さらには他者を占有していることで支配欲を満たす。それは結果として恋人同士の絆を深めることにもなるだろう。
(あの子も私とこういう風に触れ合いたかったのかな)
紗雪は告白してきた女生徒のことを思い出していた。もしもあのとき女生徒から試しで付き合って欲しいと言われたら自分はどうしていただろうか。それでもやはり告白を断っていただろうな、と紗雪は思った。たとえどういう状況であっても先生と生徒の枠組みを越えることは出来ない。
(せめてこうやって琴平先生と付き合うことで、あの子の気持ちに寄り添えたら……)
それが無意味なことは紗雪にも分かっていた。結局はただの自己満足でしかない。いくら気持ちに寄り添ったところで応えることなど出来ないのだから。
「続けてもう一問」
愛希が紗雪の耳元で呟く。
「それでは自分が特別な存在だと確認する為のもっとも効果的な行為とはなんでしょうか?」
触れ合うことよりももっと効果的な行為。
深く考えるまでもなく紗雪はすぐに思い当たった。それは同時に嫌な予感となって紗雪に襲いかかる。
背中に冷や汗が滲むのを感じながら紗雪は首を回して愛希に微笑んだ。微笑むときの頬の筋肉が明らかに引きつっていた。
「いやぁ、ちょっと分からないですね」
「じゃあヒント出してあげる。その行為のひとつはさっき私が紗雪にしてってお願いしたことだよ」
「すみません覚えてないですー」
完全に嘘だった。紗雪は当然覚えていたし、これから自分の身に降りかかるであろうことも予想がついていた。
紗雪は部屋の時計を見てわざとらしく声をあげる。
「あ、終電前には帰らないと。明日も学校ありますもんね」
さわやかに愛希に語りかけながら、紗雪は抱き締められた腕から抜け出しにかかった。だが回された腕は固くて外れない。
愛希も同様ににこやかな笑顔を返した。
「藤塚先生、何事も経験ですよ?」
「こ、琴平先生、とりあえずそれは後日改めて議題にあげるということでどうでしょう……?」
「通りません。夜に恋人の家に来るということはそういうことです」
「そんなの聞いてない――」
「これでひとつ勉強になりましたね」
力比べでも言い合いでも紗雪の劣勢だった。愛希の先生口調が嫌な圧力をかけてくる。だがまだ紗雪は諦めない。
「き、着替えとか持ってきてないし」
「新品の下着に歯ブラシまで用意済み。サイズも合ってるのがあったはず」
「……驚きを通り越して恐いんですけど」
「べ、別にいいじゃない。女の子が来たとき用に準備しとくくらい」
「へぇぇぇぇ、そんなにこの部屋に女の子が泊まりに来るんですか」
「さて、ここで紗雪に女の子同士カップルの何がいいかを教えてあげよう!」
「あ、ごまかした」
紗雪の冷たい目に負けずに愛希が語り出す。
「まずなんといっても一緒に暮らしていて気兼ねしない。肌の手入れや化粧に対してお互いに理解してるし、生理とかの体調不良もつらさを知ってるからこそケアし合える」
男性には解りづらい部分で感覚を共有しあえることは確かなメリットになる。
「次に、買い物に時間が掛かっても退屈しない。ほら、服とか見ててもお互いに使えるかもしれないし、二人で意見出し合いながら買えるでしょ?」
興味のある分野が似ているからこそ時間を持て余したりしない。
「最後、これが一番大事なんだけど」
愛希がもったいぶるように一度区切った。紗雪の耳をくすぐるような声で愛希がさえずる。
「女の子同士だからこそ、どこが気持ちいいかをよく知ってるの」
紗雪はその言葉で顔が真っ赤になってしまった。経験がないゆえに余計に想像が膨らみ、体が緊張で固まっていく。
「私、紗雪のこと本気で大事にするから」
愛希は紗雪の目をまっすぐ見て想いを伝えた。生徒から告白されたときは困惑するだけだったが、こうして愛希と触れ合いながら言われた今は不思議なあたたかいものが胸に灯るのを感じていた。
それが嬉しいという感情だと気が付いたとき、紗雪は愛希に小さく頷いた。
翌日、紗雪はまともに愛希を見られなかった。愛希の顔や体の一部が視界に入るたびに昨夜の出来事を思い出してしまう。あの唇が、あの指が自分の体をどのようにしたか。顔を紅潮させている紗雪と違い、愛希は何事もなかったかのようにいつも通りだった。
「朝はパンでいいよね?」
台所で普通に朝食の準備をし始めた愛希の横顔を紗雪はうらめしく睨むが、すぐに恥ずかしくなって視線を床に落としてしまう。それを何度も繰り返しているとその様子を横目で見ていた愛希がくすくすと笑って言った。
「表情がころころ変わって可愛い」
「っ、誰のせいだと思ってるんですか」
「まぁ何回もしてればすぐ慣れるから」
「――な、ななな、なん」
愛希の発言に驚きわななく紗雪。その反応を見て愛希はまた面白そうに笑った。
「可愛い恋人が出来たら、人は隙あらばいちゃいちゃしたくなるものなの」
「せ、せめて相手の了承をとってからにするべきです!」
「平気平気。イヤよイヤよもなんとやらってね」
「私は本当にイヤがってます!」
愛希が焼けたパンとベーコンエッグの乗った皿を運んでくる。
「ま、その辺はまた帰ってきてから話し合うということで」
「……なんでここに私も帰ってくること前提なんですか」
「じゃあ紗雪の家に行こうか?」
「……ここの家でいいです」
「はい決まりね」
上機嫌に食べ始める愛希を見ながら紗雪はため息を吐いた。せめてお泊まりセットくらいは取りに帰らないといけない。少しずつ受け入れ始めている自分がいることに、紗雪はまた息を吐く。
「こらこら、恋人との優雅な朝食を前にため息ばっかり吐かないの」
「愛希は楽しそうでいいですね……」
「そりゃあね。家に帰ってくればまた紗雪といちゃいちゃ出来るって思えば、今日もお勤め頑張ろうって気になってくるから」
楽しみがあるからこそ、その楽しみの為に仕事や生活を頑張ろうとする。恋愛に限った話ではないが、そういったメリハリが人生を明るく楽しくしていくのだと愛希は語った。
(ひとをだしにして頑張ろうとする是非は置いておいて、まぁ悪い気はしないかな)
誰かに必要とされるのはそれだけで嬉しい。先生という職業が人から必要とされることを望む職業であるだけに紗雪はなおさら喜びを感じる。
恋人とはどういうものか理解はまだ追いつかないけれど、その根本にある部分に触れることは出来た気がする。
(もう一週間は恋人でいてあげよう)
約束した期限まで何度も驚かされたり怒ったりすることがあるはずだ。それは不安であると同時にどこか楽しみでもある。楽しみが人生を明るくするのであれば、これからの自分の人生も変わっていくのだろうか。
ふいに笑顔が零れそうになったのを誤魔化す為に、紗雪はトーストにかじりついた。
二週間後、紗雪は放課後に廊下の掲示板のプリントを張り替えていた。
するとどこからかくぐもったうめき声が聞こえてきた。音量を抑えようとして抑えられない、鼻にかかった甘い声。その声に紗雪は心当たりがあった。
足音を殺して声の出所を探し、紗雪は空き教室でそれを見つけた。
二人の女子生徒が体を寄せ合いキスをしていた。一方の手が相手の制服の中をまさぐるたびに、無人の教室に嬌声が響く。
これが愛希の言っていたことか、と紗雪が呆れ交じりに息を吐いたとき、女子生徒の顔が目に入った。
(え、あの子まさか――)
紗雪は驚愕とともに女子生徒を見つめた。その生徒こそ二週間前に紗雪に告白をしてきた女子生徒に間違いなかった。
(私に振られた後に付き合い始めた? もしかして自暴自棄になって誰彼かまわず体を許してるんじゃ?)
しかし紗雪は女子生徒の表情を見てそれが杞憂であることを悟った。恥ずかしそうにしながらも嫌がる様子もなく、幸せそうに頬を緩ませた表情。経緯はどうであれ、彼女は本心から相手との逢瀬を喜んでいる。今の紗雪には彼女の気持ちがよく分かる。
(よかった……)
涙を見せた女子生徒の姿はもうない。彼女も新しい恋とともにこれからの人生を明るく楽しく歩んでいくのだろう。
紗雪は覗くのをやめてドアの横の壁にもたれかかった。ずっと胸の奥に引っ掛かっていたつかえがとれたかのようにすっきりとしている。
さて、と紗雪は息を吸い込んだ。
「用事が無い人は暗くなる前に帰りなさいよー」
それはそれ、これはこれ。先生として、校内での淫行を見逃すわけにはいかない。
教室の中から机や椅子が慌ただしくガタガタと鳴るのを聞きながら、紗雪は背を向けて歩きだした。
家に帰ったらまっさきに愛希にこの話をしてやろう、なんて考えつつ。
終