────日々の終わり、それは開幕────
家に着く前に紫闇は研究所に行くことにした。父に春華のことを知らせるためだ。
透明のガラス張りの自動ドアを潜り、受付で父を呼ぶこと五分。白衣の姿で現れた。
「何の用だ」
完結に一言のみだった。
「バイトのことで、言いたいことが出来たから呼んだ」
「ほぅ、それで」
「春華のこと覚えているか? 幼馴染みのことだけど」
沈黙、父庵時は目を瞑り思考を馳せた。
「水無月のところの娘か?」
「そうだよ。でな、今日春華と遊んだんだが、そのときに春華がバイトしたいって言って、親父の研究を手伝いたいってさ」
「ふむ、お前同様、被験者に志願するということか?」
「あぁ、そういうことだ」
「危険だ。お前ならいざ知らず、他の人間には勤まるとは思えん」
「何でだよ、別に寝てるだけじゃねーか。だいたい、危険なんかあるのを息子にやらせていたっていうのか、あんたは」
「そうだ。別にお前が死のうがかまわん、身内だからな。だが、他人だと色々と面倒なことになる」
「あぁそうかよ。ふん、じゃあな」
背を向け出口に向かう。その時、
「待て紫闇。水無月の娘は、如月の娘のことを知っているか?」
「如月……?」
「……あぁ。昔隣に住んでいただろう」
結論は過去への流転、思い出す。それは、
「風音のことか?」
「あぁそんな名前だったか」
「何であんたがその名前を口にする。この実験と何か関係が有るっているのか」
「────その質問に答える義理はない、私の質問に答えないならこのまま帰れ」
紫闇は苦悶の表情を浮かべる。
「あぁ、春華は“識っている”」
そう、会ったことは無いが知識として知っている。
「そうか、ならば次の実験のときに連れて来い」
「何だオーケーってことなのか?」
「今のところはな。私も忙しい、結論は出したんだ。帰れ」
「ふん、言われなくても帰る。じゃあな」
家に着き、自らの部屋に移動した。
ベッドの上に腰掛けると、疲れたのかふぅと口から音にならない息を漏らした。
ふと窓から月が見えたので重い腰を上げて、窓を開け、月を眺めることにした。すると風が頬を撫でて気持ちよかった。
見上げる月は満月で、夜空に一つ大きな存在を誇示している。だが、紫闇の視界には何故か揺れて見えた。理由としては涙が溢れていたから。
どうして涙が出たのかは知らなかった。
今日は色々なことがあった。春華の涙、父から出た風音の名前。如月風音、昔隣に住んでいたもう一人の幼馴染み。紫闇の初恋。
思い出すのは遊んだ記憶、ただただ懐かしい。悪いことも沢山した。楽しいことも、それがいつの間にか出来なくなった。
約束があった。学校が終わったら公園に集合という些細なもの。それでもお互い反故にすることは無かった。
しかし、その日は初めて約束は果たされなかった。十九時を過ぎても姿を現さない風音。
心配になった紫闇は家を尋ねるが、呼び鈴は鳴るのだが家屋からの反応は無い。
十分ほどその肯定を繰り返すが、それでも何も起こらなかった。そして、諦めて帰ることにした。
────それから、風音はいなくなった。
後に父から、如月の家は引越ししたと聞いた。
嘘だと思いたかった。風音はそんなことを言っていなかったのだから。前触れも無くそんなことが起こるものかと、そう思った。
思考が深く、過去に向かう。そして気づく。あぁ、涙の原因は今日に限って聞いた風音の名前と、あの日見上げた夜と同じ満月の夜が印象的だったからなんだと合点した。
夜も十二時を過ぎた。春華に連絡するのは明日にすることに決め、今日は寝ることにした。
§
翌日の放課後。携帯の画面を操作し水無月春華の画面を出し通話ボタンを押すと、暫くのコール音のあと春華が出た。
「もしもし春華か?」
「うん、どうしたの? バイトのこと分ったの?」
「そういうことだ、今日の実験来れるか?」
「今日? うん大丈夫だよ」
「そっか、今学校か?」
「うん、待ち合わせする?」
「そうだな、校門で良いか? ちなみに俺は今校門のところにいたりする」
「わかった。すぐ行くよ」
それから五分ほど経つと春華が玄関から歩いてくるのが見えた。
「お待たせ、じゃあ行こうか」
「あぁ」
昨日のことがあったが、春華も紫闇も何も言わなかったし、それは聞くことじゃないのも理解していた。
「実験してる場所ってあたし知らないけどどの辺?」
「俺の家から十分程度かな、まぁ学校から行ったほうが早い」
「へぇ、でも久しぶりだよね、紫闇のお父さんに会うの。相変わらず?」
「あぁ、堅物だ」
「ふふ、紫闇もおじさんのことを話すと眉間に皺寄るよね。やっぱり苦手なんだ」
「苦手というか、相容ないというか。まぁ反りは合わないな」
「そっか、でも研究熱心なのは良いことじゃない。あたしが会ってからずっと続けてるんだよね」
「そうだな、俺が生まれた頃からやってるみたいだけど、十年前くらいから更に熱が上がった気がする」
「十年前か、あたしと紫闇が出会ったころだね」
「そうだな。────丁度その頃だ。ほれ着いたぞ」
あぁそうか、ちょうど母さんがいなくなったころと春華と出会ったのは同じだったんだな。そう、ふと思った。
「思ったより小さいね」
外観は白いビルの一階建てだ。
「まぁな、実験は地下でやってるんだ。さぁ入るぞ」
「あ、待ってよ」
受付の人に説明して春華を通してもらうと、地下へと続くエレベーターに乗る。駆動音と共に移動を開始。後に──地下五階です──、とエレベーターが報告してくる。
ドアが開くとそこは紫闇にとってのいつもの実験室。春華にとっては初めての未知の空間が広がった。
「来たか。……彼女が?」
ドアの開閉音で気づいた庵時が確認を込めて紫闇に問いを投げかけた。
「あぁ、春華だよ」
「よ、よろしくお願いします」
目を合わせた瞬間、威圧に負けそうになった。
「そうか、どれ、春華君その椅子に座ってくれ。そして、この棒を両手で握って目を瞑れ」
直径三十センチほどの白い筒のような物を持たされ、丸いパイプ椅子に座る春華。指示されるがままに動く。
「計測開始」
研究員に庵時が声をかけ、表示されている計器が一斉に動き始める。
「一時間はかかる。そのまま動かないでくれ」
そう春華に言うと、紫闇には、
「何をしている、さっさと寝ていろ」
命令を飛ばす。
返事もせず、紫闇は言われたとおり所定の白いベッドに横になる。すると、映る視界は閉ざされいつも通り暗く落ちて行く。
一時間たった後、春華は解放された。紫闇は機械の中で眠っている。
「合格だ、君も紫闇の隣のベッドに横になってくれ」
「あ、はい。こうですか」
指示されるがままに動いた春華。でもなんだか緊張してしまって、呼吸が辛かった。
「あぁそれでいい。あとはリラックスして寝てくれればいい」
それに気づいた庵時は、紫闇には絶対に言わないであろう相手を慮る言葉を掛けた。
「分りました」
目を閉じてリラックスするように心がけると、暫くしたら呼吸も落ち着いてきて楽になってきたみたいだった。すると、何故か今まで眠くなかったのに急に眠気が襲ってきた。それに抗うことは出来ず深い眠りに落ちていく。
外が騒がしいと思うのだが、それすら気持ちよく感じて、ふわふわと浮遊していく……、意識が落ちた。
理解は否定を、それでも識っていくこれは────
「パルス逆流! 反転していきます!」
「何だと!」
研究員の一人が警告画面を見て声を荒げ、それに反応した庵時は画面に食い入るように見つめた。
「拒絶反応です。パターン青これは──」
「っく、実験中止、生存最優先!」
焦りはらしくないと自分でも思った庵時だが、それでもこのような情況は今までなく心が制御できなかった。心音が脈打ち興奮している気がするのだ。おかしな話だが、研究に進歩があまりなく、正直春華の投入は賭けであったから。それがまさかの反応を見せてくれている。
歓喜の心が溢れていた。
「グラフ逆流、回路が接続されていきます」
そして、予想をはるかに凌駕し、
「む、波形パターンを計測。……遂に扉が開かれたというのか、くくく」
庵時の口元には歪な笑みが灯っていた。
そして紫闇と春華の世界は反転した。
浮遊感、喪失感、一体感。混沌と思える知らないモノへと誘われる。暗く黒い視界。映し出されるものは新たなハジマリの世界。