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────日常があった高校生活最後の年────

 窓の外から小鳥の囀りが聞こえてきた。朝陽が目蓋を照らしてきて、眠い思考を強制的に覚醒状態に持っていった。

 重い目蓋を擦りながら辺りを見渡せば、いつも通りの自分の部屋。薄型液晶テレビとデスクトップパソコン、そして丸い壁掛け時計。時刻を確認すると、午前八時。

 どうやら携帯のアラームを知らぬうちに止めてしまったらしかった。


「まずいなぁ……」


 利き腕の右手で頭をボリボリ掻きながら、今から起こるであろう未来の現実について感想が漏れた。


「朝飯抜きで、速攻制服。さらにダッシュか……。やれやれ朝からハードだねぇ」


 けだるそうに独白と言える言葉を吐き、目の前の箪笥から制服を引っ張り出して早々と着替えを開始した。時計を覗うと先程より長針の針が動いていた。

 ここは二階なので、階段を駆け降りて洗面台を目指さなくてはならなかった。

 ドタドタと足音を鳴らしながら目的地に到着し、鏡を見て寝癖を確認した。


「……タイムロスか」


 ボンバーヘッドだった。その自己確認に一瞬時が止まったように思えたが、数瞬の沈黙で現状を改めて認識し、次の行動を開始することにした。

 頭を水で盛大に濡らし、タオルで勢いよく拭く。そして軽くドライヤーで乾かすといった工程だ。そうすると漸く本来の姿になった。

 百七十前半の身長と、多少濡れてはいるがサラリとした黒髪、細身の部類に入る身体、これでいつも通り。

 玄関へと走りだし、その勢いのまま学校まで行くことになった。そうしないと遅刻してしまうから。


「はぁ、はぁ……っはぁ」


 いつもはのんびり歩く道なのだが、今日は普段の三倍の速度を出している。そのせいで流れる景色が早送りの映像みたいだった。

 直線距離ラストの十字路。信号は青、迷うことなく突っ込んだ。

 さて、十字路と言うことは自分の走る直線の他に横にも直線が在るという訳であり、つまりは同じような行動をする人間が他にもいる可能性が……。

 ──ゴツ───っと、まさに擬音が炸裂した。気づかない二人、それは衝突。

 感じたのは視界が唐突に動いたのと、ふと優しい香りがした事実。一呼吸おいて、前頭葉が痛みだした。


「いたた……って、春華?」


 そうして相手に気づいた。


「いったぁ~、その声、紫闇? 何で走ってるんだよ。バカぁ!」


 ぶつかったのは【神無月 紫闇(カンナヅキ シアン)】の幼馴染みの【水無月 春華(ミナヅキ ハルカ)

 ショートカットの髪を薄茶色で彩っている。身長は百六十に届くかと言う程で、なにより目が奪われるのは、たわわと実った柔らかそうな胸だ。

 ちなみに残念ながら食パンは咥えていない……。


「バカとか言うなよ。仕方ないだろ昨日遅くまでゲームやってて、寝るの遅かったんだから」


 胸に奪われていた視線を春華の目線に合わせ、抗議を申し入れてみた。


「はぁ、まさにバカじゃんか。 あたしなんか家に財布忘れて、取りに戻っただけなんだからね」


 春華も呆れながら自らの失態を語った。結局のところ、両者共に自業自得と言うことだった。

 そんなやり取りの間にも時間は流れる訳であり、遅刻者を容赦なく学校のスピーカーは予鈴でつまみ出そうとしていた。

 当然二人の耳にも予鈴は届いたので、改めて顔を見合わせ「……マズイ」と、言葉がハモったのだった。

 行動は、見合わせたように学校へと駆けて行くことになった。




         §




 午前の惰眠を貪る授業が昼休みのチャイムで終わりを告げた。


「ふわぁぁ……さぁて、飯でも食うかね」


 椅子から立ち上がり、伸びをしながら一人ごちた。

 窓の外を見れば、ぽかぽかと暖かい陽気で眠気を再び誘ってくるが、空腹には勝てない。

 そして左足のポケットに手を入れる。本来そこにあるはずの物を出すためだ。

 もぞもぞと何度も手を差し伸べるけれど、何かおかしい。気づくのに数瞬の時間を要した。


「………………無い、だ、と」


 ぞわっと、鳥肌が脳天から足の爪先まで走った。

 朝焦っていたせいなのか、それともぶつかったせいなのだろうか、そこにいつも入っている財布が入っていなかった。家に有ることを願うが、最悪の想像もしてしまう。

 嫌な空気が自分の周りに纏わりついている気がする、これはやばいと思った。

 意図しない間に時が進み、気づけば周囲のクラスメートが紫闇の方を見ていた。呆然と突っ立っているのだから、変に思わないわけがない。


「はぁ……」


 考えた末、溜息が漏れた。つまり、


「昼飯抜きかぁ」


 落胆して発した言葉の意味の通りだ。

 よろよろと席に着き、腕を組んでふて寝しようとしたとき、引き戸の開く音が聞こえた。

 問答無用で無視しようと決め込んでいたが、それはできなかった。


「紫闇! これ、紫闇の財布じゃない?」


 この声、反応する。雷の如く。ふて寝などするものかと。


「サンキュー春華! いやぁ助かった」


 立ち上がり扉にいる春華に近づき、


「持つべき物は幼馴染みって訳だ」


 言葉を並べながら右手を差し出すが、財布は帰ってくる気配が無い。何故だろう非常に嫌な予感がした。


「……どういうつもりだ、春華」

「まっさっか、タダで返せって言う訳じゃないよね? せっかく下駄箱に落ちてるの拾ったのに」


 勝ち誇った笑みを浮かべられ、選択肢は無いようだった。

 春華が拾ったから良かったものの、もし柄の悪い連中が拾っていたら帰って来たとしても、財布の中身は空だったのかもしれない。そう思うと、紫闇はぞっとした。


「────はぁ。分かったよ。何食いたいんだ?」


 だからこそ、折れるしかなかった。


「やった! ありがと。う~んじゃあ、学食行こうよ。久しぶりにさ」

「……あいよ」


 肯定の言葉とともに廊下に出て先頭を行くと、あわてて春華もついてきた。


「にしても、ほんと久しぶりだな。俺たち最近会ってなかっただろ」

「────うん。そうだね。お互い色々忙しかったからね。しょうがないんじゃないかな? それに、いつまでも一緒に居る訳にはいかないでしょ……子どもじゃないんだからさ」


 春華の表情に一瞬の翳りを見た気がしたが、すぐにいつも通りに戻った。紫闇の勘違いだったのだろうか。


「まぁな。確かに、ゲームとかで忙しかったなぁ」

「遊んでるだけじゃんか……相変わらずだね、紫闇は」


 嘲りを含んでいるが皮肉にもならず、ただの睦まじい会話になっている。

 そんな日常のやり取りを続けていると、目的の場所に到着していた。


「っと。学食着いたな」

「うわぁ……混んでるよ~」


 春華が背伸びをしながら給仕の方を眺めていると、紫闇が壁を見つめながら「げげ……」と思わず声が漏れてしまった。


「今日はカレー半額デーじゃんか」

「あっ、なるほど、だからか。金欠の人には救いだよね。ただでさえ安いカレーが半額なんだもん」

「学食に誘ったってことは、こういうイベントがあったからってわけじゃなかったのか?」

「ううん、あたしはいつもお弁当だから知らないよ……ぁ」


 言って、しまったと思った。

つまり今日も弁当が有るはずではないのだろうか、にも関わらず今こうしているのは何故なのか。


「……なぁ、じゃあ今日も弁当有るんじゃないのか?」


 この質問は必然的に生まれてしまった。


「まぁね。……在ったよ」


 過去の言葉。“在った”と。


「どういうことだ?」

「つ~ま~り、今朝紫闇とぶつかった時に落として蓋がはずれたの!」


 何だか春華は恥ずかしそうに頬を染めていた。

 だがその言葉のおかげで合点がいき、ならば仕方ないなと自分の非を認めた。


「ふぅ……そうか。なら良いぜ? 好きなもの奢ってやるよ。何で最初から言わないんだよ。それ言われたら、別に財布云々なくても奢ったのにさ。まぁ強いて言うなら、財布が無いと無理なんだがな」

「その、あたしだって朝は悪かったし。結局は同じ結果になるから、い、い、の!」

「そうかい。まぁいいけど。────さて、どうする? カレーの列に並ぶか?」

「う~ん」


 春華が胸の下で腕を組み思考する。胸が強調されている。そんなことをされれば健全な男子諸君の視線は当然そちらに向くわけで……。


「は!?」

「え? どうしたの?」

「いやぁ何でもない。はっはっは」


 胡散臭い苦笑いで誤魔化した。


「ん~? まぁ良いや。じゃあ、購買のパンにして外で食べようよ」


 購買────それは戦場。男女を含め戦うバトルフィールドだ。


「つまりだ……俺に地獄に行き、生還してこいと?」

「簡単に言うと、そ~ゆ~こと」


 満開の笑顔で伝えられる。


「はぁ。仕方ないか、了解。じゃあ中庭で場所取りよろしく。戦死しないことを祈っといてくれ」

「うん。ちなみに骨は拾わないからね。あぁ、でもあたしのパンは忘れないでよ」

「ふぅ、あいよ……一応聞く。何が食いたい?」

「焼きそばパン」


 即答。


「無理だ」


 こちらも間髪入れず返す。


「何で?」

「競争率ナンバーワンを舐めるなよ?」

「そんなのあたしは知らないよ~。さぁ、行ってらっしゃ~い」


 手を振り笑顔で送られた。

 しかし、そうと決まればのろのろとしていても意味がないわけで、即座にギアを上げ、回転数をトップに走り出した。購買まで走って一分、歩いて三分、学食の真裏だ。

 廊下は走ってはならないのだけれど、走らなければ間に合わないほどの競争率だ。

 着いてみればそこはすでに戦場で、沢山の人間が怒号とともに金銭を渡し、入れ替わり立ち代わりにフィールドを駆け巡っている。

 態度の悪い連中ほど中へと掻き分け進んでいく力がある。


「気合い入れますか」


 自らに言い聞かせ、バトルフィールドに突貫した。


「うぉおおおお!」


 紫闇は戦地へと旅立ったのだった。




         §




 春の日差しが暖かい。桜は散り、梅も散る。新しい出会いの時、高校三年生の出来事である。


「早く来ないかなぁ」


 期待に胸を膨らます春華は、ベンチに座りながら想いを馳せていた。

 久しぶりの二人の時間。いつ以来かと考え、思考を過去に向かわせると、思い出したのは“あの日”のこと────

 日常であったけれど違った日。それは、変わらぬ想いを理解した時だ。


「まぁ、今日は退屈な授業がちょっと面白かったし、お昼ご飯もきっと美味しいよね」


 半年前の昼休み。昼食について考えながら独白を漏らし、鞄に入っている弁当に手をかけ、何処で食べようか思案していると声をかけられた。


「水無月さん!」

「ん、霜月さん、どうしたの?」

「お昼一緒にどうかなと思って」

「……うん? いいよ」


 珍しい人間、【霜月 鏡(シモツキ キョウ)】からの申し出だった。

 身長は百五十に届くかというところ、色素の薄い茶色っぽいセミロングの髪の毛を後ろで束ね、黒縁目鏡を掛け大人しい印象を受ける。

 クラスメートではあるがあまり話したことは無く、春華とは仲良し派閥が違うため接点が殆ど無かった。


「それで、急に今日はどうかしたの?」


 申し出が唐突だったので、この問い掛けはどうしても生まれてしまった。


「えっと……、やっぱり解っちゃうかな?」

「まぁね。だって、いつもあたしとは食べないもんね」

「あはは、ばれてたか」

「なぁに、相談事? あたし、頭悪いから何にも良い答え出せないと思うよ?」

「うん。…………実はね、私、神無月くんのことが好きなの。……それで、水無月さんが神無月くんと幼馴染みだって聞いて、取り持ってもらえたら嬉しいなぁって」


(あぁ、そういうことか。でも、あんなへたれ虫の何処が良いんだろう? いつまでも初恋を引きずってるような奴なのに。────まぁ、趣味は人それぞれか……あたしも含めて、ね)


「いいよ。あぁ、でも最近紫闇と会ってないな。家に行けばいると思うけど。行ってみる?」

「えぇえええええええええ! そんな、急に無理だよ!」


 あまりの勢いの後退に、鏡の足元から砂埃が出ている。


「あいつ、押しに弱いと思うし、きっと大丈夫だよ。ね?」

「そう、かな……」

「うん。と、言うことで善は急げ。今日の放課後一緒に行こうか」


 半ば強引に連れて行くことに決めた。春華は春華で、紫闇の驚きに歪んだ不思議な顔を拝んでやろうと決めたからだ。

 時は進んで放課後になり、身支度を整えた鏡と春華は早々と学校を抜け出した。この時点で紫闇が学校に来ていないのは五時限目の休み時間に確認しに行っていて、案の定今日もずる休みだった。こんなんで紫闇が卒業できるのか不安だった。


「さぁ、霜月さん行こう」

「……うん」


 歩きながら隣の鏡を気にする春華。

 心臓は早鐘を打っているんだろうなと予想をたてながら、ふと気になったことを尋ねてみることにした。


「ねぇ、紫闇のどこが良いの? 学校も割とサボるしさ大体クラスも違うし、あんまり接点無いんじゃない?」

「まぁ、そうなんだけどね…………結構前、雨の日に風邪引いちゃって、早退したんだけど。いつもの折り畳み傘を忘れてて、お店の軒下で困ってたんだよ。そのときに傘を貸してくれて。それから意識しちゃって、どんどん想いが募っていったの」


 語りながら過去を回想して鏡の頬は徐々に染まっていった。それを見ていると何処か想いを馳せて幸せそうだ。


(はぁ、相変わらず。変なところで他人に優しいんだね紫闇……)


「なるほどねぇ、それで紫闇のことが好きになっちゃったと」

「────うん」


 そんな他愛も無い話を続けていると、目的の場所へ辿り着いていた。

 表札には神無月と書いてある。


「着いたよ?」

「ここ?」


 鏡は家を見上げながら不安そうで、どこかもじもじしている。この神無月邸に驚いているのもあるのだろうが。


「そうだよ。結構な家だよねぇ。この住宅街の中で一番大きいし、セキュリティーも当然の如くきついし。まぁ、あんまり関係ないんだけどね。じゃあ呼ぶねぇ」


 言葉と共にインターホンに手を触れると、ピンポーンと豪奢な家の割に一般家屋に在るような音が響いた。

 暫くの後、スピーカーからどこか眠気を含んだ気だるそうな声が聞こえてきた。


「……はい?」

「あ、あたし。判るよね?」


 その問い掛けに空白の間が存在して、誰? と一蹴された。言葉に反応した春華の身体は前方へズルッと転びそうになった。


(ちょっと待て! ずっこけるところだったじゃんか)


 呆れながら自らの名前を名乗ることにした。


「……あたし、春華」

「ふぅ、何の用だよ?」


 当人の紫闇は分りきっていて面倒くさいからあしらおうとしたのだろう、そんな息を一つ漏らした。


「今日は、あたしじゃなくて、クラスの子が紫闇に言いたいことがあるんだって」

「……は?」


 その一言は紫闇の予想を超えていたようで、疑問の声が上がった。


「いいから出てきてよ」

「しょうがないなぁ……待ってろ」


 そう言うと音声がぷつっと切れた。渋々だが来てくれるようだ。

 

「霜月さん、がんばってね」


 踏ん切りと、励ましを込めて背中を叩いてみたが、


「うぅ、やっぱりまた今度……」


 脚が震え、未だに心が臆病になっているみたいだった。


「もう、そんなんじゃ、いつまで経っても想いを叶えることなんか出来ないよ。────たとえ失敗しても、それは経験になって、霜月さんにとって良いものになるはずだから。ね、がんばって」

「…………うん。私、がんばってみる」


 励ましは成功したかのように見える。

 春華は、客観的に見る自分が不思議と冷めているような気がしていた。

 他人が行うことが何かを変えるなら、それもまた善い行いなのだろう。変らぬモノに世界は付いて来ず、捕らわれの囚人は外の世界を知ることが出来ないのだから。


「お待たせ、で?」


 頭を掻きながら紫闇が玄関から出てきた。寝癖があるが、本人は気づいていないようだ。


「ほら!」


 鏡の背中をぽんと押してやる。前に進ませるために、変らせるために、己の“諦観”のために。


「あの!」

「はひぃ!」


 寝起きの所為か紫闇は唐突な声に思考がついていかず、脊髄反射で声を返したはいいが、語尾が変な風に引き攣った返事になった。


「ちょっとお時間よろしいでしょうか!」

「え、あ、うん。……春華? これは……」

「いいから、いってらっしゃい」


 春華は送り出しながら、ぎこちない二人の後ろ姿を見る。何故か不思議な気持ちだった。胸が締め付けられ、遡る想いが溢れた。

 二人が向かったのは公園だろう。そこは小さい頃遊んでいた場所であり、色々なことが起こった懐かしいと思えるところ。

「────あたしも子どもの頃から何にも変らないなぁ……根性が無いところは特に、ね」




         §




 公園に辿り着いた二人の間に、少し重い空気が流れ沈黙が空間を支配していた。

 先にそれを破ったのは紫闇だった。

 ふと、彼女のことを思い出したのだ。あの時も、こんな風に俯いていなかったかと、そして紫闇は手に持っていた────


「君は確か、傘を貸した子だよね?」

「……はい、そうです」


 何処か寂しそうに軒下で雨から身を守るようにしていた。通りがかったのは偶然で、その日はゲームの発売日。早々に学校を抜けだして買い物に行く途中の出来事。

 本来学校がある時間に生徒がいることは在り得ないと思われる。紫闇のようにしていれば別だが、そんな人間は稀である。

 今回見たのは同じ学校の制服を着た女子で、しかも身体が震えていた。初見では何をしているのか判らなかったが、雨が止むのを待っているようにも見えた。

 財布の中身を考えて、バスで店に行くつもりはなかったのだが、やむをえず持っていた傘をその人に渡した。

 目を丸くした女子は「あっ」と一言漏らしただけだったが、恥ずかしさがあったのでそそくさと近場のバス停に走っていった。

 そんな日常の過去。

 だがそれは鏡にとって心に残り続け、忘れることの出来ない大切な思い出だった。

 今まで男性から声を掛けてもらうことも無く、むしろ自分から避けていた。そんな鏡に唯一優しくしてくれた人、紫闇。

 募る想い。胸が締め付けられ、考えることがそれしかなくなった。何も手につかず紫闇のことばかり思考していた。だけど気づいてしまった。想いを馳せているだけでは、現実は変らないと。どうすればいいのかと思う。

 答えは簡単だった。気持ちを本人に告げれば良いのだ。それは、とても自分では出来ないことだと思うけれど、それでもそうすることでこのモヤモヤが変われば良いと願った。

 結果は春華への相談と言う形。 

 暫くの沈黙の後、


「それで、俺に何の用かな?」


 鏡の胸中は沸き起こる心臓の音で満たされていた。ドキドキと、心音が耳に届き顔を沸騰させる。そして、目を閉じ、想いを口にした。


「…………あの時から、私、……神無月くんのことが好きになっちゃったんだ」


 この状況、流石の紫闇も判らないはずは無かった。


「……うん」

「私と、付き合ってください!」


 真っ直ぐで素直な気持ち、嘘偽りの無い純粋な。沈黙はこういったとき物凄く言いえぬ辛いものがある。

 判らない、それだけで不安で仕方ない。鏡の心臓が爆発しそうだった。何も考えることが出来ない不安の中で、希望を夢見たいと祈る。

 回答が来る数瞬前、いつの間にか閉じていた目蓋を開くと、真剣に悩んでくれている紫闇の姿が瞳に映った。それだけで何故か満足していることに気がついた。自分の為に悩んでくれている、優しい人なのだと。


「ごめんね。俺には好きな人がいるから────諦められない人が」


 回答を口にされた。


「そう、なんだ……。それは水無月さんですか?」


 結果は出たが気になってしまった。二人の仲は客観的に見るだけで羨ましく自然で、きっと意中の人は春華なのだろうと思ってしまったから。


「春華? いや、違うよ。────昔の、初恋さ」

「初恋……」

「うん、実らないっていうけどね。俺は信じていたい、せめて再会するまでは────」


 紫闇は何処か遠い目をしながら、鏡に言葉を送った。

 そして、告白は実りを告げずただ砕けた。それでも鏡は変われたと、そう思いながら帰路につこうとする。それを見て紫闇は送ると言ったが、


「優しくしすぎると、勘違いする人がきっと私以外にもいますよ」


 と、寂しげな笑顔と言葉を残し、申し出を断った。

 時が進み春華は、ボーっと二人の帰りを待っていると、戻ってきたのは紫闇一人だった。


「霜月さんは?」

「一人で帰ったよ」


 紫闇は何処か寂しそうではあった。

 結果はなんとなくであるが春華にも予想が出来ていた。付き合いの長さもあるが、理由も知っていた。


「そう……。紫闇はまだ?」

「あぁ、まだ好きだ」


 この問答も必要だった。これで気持ちが変わっていないのだと理解した。


「……解った、じゃあね」

「おう。またな、春華」


 結論を知って、嫌悪感が自らを苛めた。


(あたしは、何をしているんだろう。ずるいな、他人に任せて自分はただ見てるだけなんだもん。臆病で卑怯、気持ちに嘘を吐けないくせに、言う勇気もなくて関係も壊したくないんだもんな。はぁ……)




         §




 目を瞑り、過去に思考を馳せ自己嫌悪していると、肩に手を触れられる感覚が意識を引き戻した。


「寝てたのか? 春華」


 紫闇が戦場から帰還したようだ。


「寝てないよ。ただ、ちょっと────。それよりちゃんと焼きそばパン、手に入れてこれたの?」

「ほれ、これでいいだろう? ついでに途中の自販機でミルクティー買っておいたぞ。昔から好きだったよな」

「お、流石だね。ありがと」


(やっぱり、こういうところは相変わらず優しいんだね)


「ん、どうかしたか?」


 春華が一瞬塞ぎ込んだのを見逃さなかった。


「な、なんでもないよ。ほら、座りなよ」


 ベンチの真ん中で陣取っていた春華が右の方にずれ、左に紫闇が腰掛ける形になった。


「じゃあ食うか。いただきま~す」

「うん。いただきます」


 二人は黙々と焼きそばパンを咀嚼する。

 会話は無かった。お腹が空いていたのか、或いは話し難い何かがあったのか、もともと食事時は会話が無いのか、さて。


「ごちそーさん。ふぅ、流石売れ行きナンバーワン、値段と質が見合ってないね。旨すぎ」

「早いよ紫闇。あたし、まだ半分しか食べてないのに」

「いや、ほら腹減ってたから」

「そうかなぁ? 昔から早くなかった?」

「ん~まぁ、春華よりは早かった気がするな」

「ふふ。そうだね。────ねぇ、今度、二人で遊ばない?」


 それは、自らが変化するための第一歩。

 人は同じ処にいる事は出来ず、変わることで未来に繋げる。そのために踏み出すのは必要なこと。

 半年前の“あの日”以降、春華は紫闇とあまり会わないようにしていた。

 だが今回、不運という幸運に出会い、財布を拾った。これは人生の転機なのかも知れない。

 心はいつまでも美化し思い出を組上げる。募るのは寂しく切ない欠片の破片。片思いの心。叶う事は無いのだと知りながら、それでも消すことの出来ない想い。

 今こうしているだけでも幸せなのに、それをも凌駕し、手に入れ、自分だけを見てもらいたいのだ。わがままなのは理解していたが、押さえが利かなくなった。

 一度は、出来たかもしれない。またこうしていることが何物にも代え難いと理解しなければ。


「ん、そうだな最近引きこもってばっかりだし、何処か行くか?」


 肯定の意思を回答に示した。迷いなど無く、ただ純粋に楽しもうと、久しく会っていなかった幼馴染みの願いを叶える事にした。


「────え」


 その申し出は春華にとって嬉しいことだったが、すんなりと良い返事をもらえると思っていなかったので、すぐに返す言葉が思いつかず、ただ声を漏らすに留まった。


「何だ? そっちから誘っといて、その反応はさ」

「え、あぁ、ごめんごめん。じゃあさ、いつにしようか?」

「そうだなぁ。親父のバイトが明日、明後日にあるから、日曜の昼からなら良いぞ?」

「うん、解った。あたしもその日で大丈夫だよ」


 結論が出たところで、五時限目の鐘の音がスピーカーから流れた。


「予鈴か、日が近くなったら連絡入れるけど、それでいいか?」

「うん。そうだね、大丈夫」

「んじゃ、またな」

「またね」

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