気泡の絶えるとき
梢を吹き渡る風が、幾分やわらいできた。ゆっくり流れる雲を透かして灼光が形を現し、雲の裾が白金のように輝いている。岬の烏帽子岩が強い光に照らされて、濡れたように輝いた。薄墨のテーブルクロスを引き剥がすように、木々の緑が鮮やかさを増した。
機材をまとめた浜にも、慈母の日差しが降り注いできた。下げ止まっていた潮が、上げに転ずる時刻である。まだ肌寒さを感じる風に鳥肌を立てながら、俺は波打ち際でスーツを濡らした。
ヒャーと情けない声をあげて袖を通したとき、石川はパウダーをスーツにふりかけていた。
「この軟弱者が。粉なんか使うなよ、濡らせばいいだろう。一瞬だけなんだぞ、冷たいのは」
憎まれ口をたたいてやったが、石川は頓着することなく粉をふっていた。そして、いともドレッシーに袖を通してしまった。しかし、粉が多すぎたのか、歌舞伎役者のように真っ白になっている。
「悪いな、体が弱いのでな」年中日焼けしている顔に、白い歯をこぼした。
俺が石川とバディを組むようになって足掛け四年。海中散歩を趣味とする俺達は、遅咲きの桜を海の上から眺めるのを年中行事としている。つまり、今日が今年の初潜りというわけで、場所もきまってこの海岸だ。
「ゲージは?」奴が俺の装備の点検にかかった。
バルブをゆっくり開くと奴が手にしたゲージが百五十キロの目盛を指した。パージボタンを軽く一押しして空気が出ることを確認し、軽く一度吸ってみる。冷たく乾いた空気が流れこんできた。OKサインを出してバルブを閉じた。こんどは俺が奴のゲージを確認を確認する。念のために、安全弁のロッドが上がっていることも確認した。
手を高く差し出した奴が、バルブを閉じた。きちんと空気か供給されているということだ。
そろそろ行くかとどちらともなく誘い合い、オレンジジュースの残りを咽に流し込む。すっかり馴染んだウェイトを腰に巻き、二人して立ち上がった。
今の主流はカラフルなジャージスーツに移っているが、俺も石川も昔ながらのツルツルスキンスーツを愛用している。金がないということもある。が、それよりも、いかにもベテランっぽく見られるから手放せないでいる。
ハーネスを掴んで水辺へ移動した。重いタンクを提げて砂地を移動するのが一番疲れる。腰には重りを括りつけてあるのだし、片手には足ひれやマスク、それにカメラを持っていて、とてもアンバランスだ。よたよた歩く姿は、さぞ滑稽に映ることだろう。
それでも、静かな入り江は陽を反射してキラキラ跳ねているし、どこで啼いているのかウグイスの声も聞こえる。
波打ち際にタンクを立てた俺は、海面に目を凝らして浮遊物を探した。
藻や小さなゴミの動きを見て、離岸流をさがすのだ。石川もそれらしいものを求めてうろうろ歩き回っていた。
沖合いから水が押し寄せるように、押された水が沖へ逃げて行くところがあって、それはあたかも道のようになっている。それを上手く利用しない手はない。強い流れに乗れば、ほとんど足を蹴らずに沖へ出てゆくことができ、流れに逆らえば沖に出るだけでバテてしまう。石川が見つけた流れは、機材を置いたところから五十㍍ほど離れていた。
あらためてタンクを据えた俺は、静かにバルブを全開にした。そして一回転ばかり戻しておいた。
波に洗われたマウスピースを咥えると、冷たい空気が流れてきた。
沖に背を向けて腰をおろし、足ひれをつけた。ぺペッとマスクに唾を吐きかる、曇り止めだ。そうしておいてはじめてタンクを背負った。バックルを留め、ベストが八割がた膨らむまで息を吹き入れた。タンクから延びるホースがベストと繋がっているのを確認し、最後にカメラのストラップを手首に巻きつけた。
準備はどうだと石川をうかがうと、OKサインを出している。
俺もOKサインを出してマスクを当た。
先行しろと石川が身振りで示している。潜水経験の長い石川からすれば、俺などはまだヒヨッコなのだろう。きっと今日もサポートに回るつもりらしい。陸に上がるとだらしない男だが、水の中では頼もしい相棒だ。
立ち上がろうかと一瞬迷う。まだ膝ほどの深さもないのだから、もう少し深みから水に入りたい。だけど、立ち上がるのは想像以上に億劫な作業なのだ。こんなつまらないことに迷うから、いつまでたっても素人だと馬鹿にされるのだが、このまま水に入ったら後でどんなにからかわれるかわかったものではない。だが無理して立ち上がる必要はなかろうと、腰を下ろしたまま沖に背を向けた。
波が寄せるのに合わせて後へいざる。二度も足を屈伸させると、胸のあたりまで水に沈んだ。もう大丈夫だろうと背を倒すと、すでに底を切っている。俺はゆっくり足を蹴り、適当なところでクルッと腹這いになった。シュノーケルに入った水を噴出して左横をうかがうと、つかず離れず石川がついている。眩い陽光を浴びた砂の、風紋のような縞模様に直角になるよう、進む向きを確かめる。が、それは見る間に深みに落ち込み、色を失っていった。
続いて現れたのは、水底から延びるアマモだ。黒味がかった岩から、スーッと水面に立ち上り、黒い葉をゆらしていた。
ゆっくり、歩くくらいの速さで、俺はまっすぐに沖を目指した。沖出しの流れはありがたいもので、苦もなく俺たちを沖合いに運んでくれる。どうせどっちへ流されているのか見当がつかないので、俺は陸を振り返ることはせずに流れに乗っていた。
キックを重く感じたところが、つまりは離岸流の終点ということだ。俺はそこで陸を振り返り、目印にするつもりの自動車を探した。案の定、行きたいのとは反対側に流されている。俺は石川の肩を一つ叩き、方向を変えた。
自動車を基点に、機材が一線上に並ぶ場所まで移動したら、こんどは岬の突端を捉える。遙か遠くに赤白に塗った高い煙突があるのだが、それは岬の突端より少し右側に寄っていた。
山立てといって、目標物のない海で現在地を知る方法だ。漁師はそうして位置を確認するのだが、俺たちにとっても大切な作業だ。船に乗っていればいざしらず、水面から頭しか出せない俺たちは、何かの拍子で離れ離れになった時、互いを発見することが困難なのだ。だから、こうして基準点を決めておけば、万一の時には合流できるというものだ。
岬の右手でキラッと光を跳ね返すのは、道路を行き交う自動車のガラスだろう。その跳ね返しの上に点々と白いぶちがある。季節遅れの山桜だ。船で出れば見える景色だが、水面から見上げるなど、簡単にできはすまい。考えるだに、とても贅沢な光景だ。
一瞬見とれていると、肩を叩かれた。石川が潜ろうと合図をしている。おおげさに頷いた俺はレギュレターを咥えると、ベストの排気ボタンを頭上にさし上げた。
小さく切り取られた視界の中で、水面が上昇してゆく。イワシかアジの稚魚だろうか、透き通った小肴が水面を跳ねるのが見えた。水面のすぐ下にも小魚がキラキラと銀鱗を光らせ、ベストから排出された細かな気泡がそれらを包み込んでいた。
ガラスコップのように無色だった周囲が、徐々に青ざめてゆく。息を止め、吸って止め、吐いてまた止める。一息ごとに周囲から華やかさが奪われてゆく。聞こえる音は、ホースを流れる空気に音と、ゴボゴボうるさい排気の音だけ。これが海の中だ。
沈降速度が鈍くなり、やがて沈まなくなった。これで俺はスーパーマンに変身したわけだ。前後左右、上へも下へも自由に動くことができる万能人間だ。陸の上にいたのでは、とてもできないことが容易にできる。その気分は最高だ。左後ろの石川を振り返り、大げさな身振りで海底を示す。と、石川は親指を下へ向けて了解した合図をよこし、大きくお辞儀をした。手の一掻きがそれを助け、逆とんぼりになった。
急降下。そうだ、俺は今、山の頂上からふもとへ降りようとしている。赤味がうすれ、青だけが強調される世界を目指している。
水深二十m。少しづつ陽射しが届かなくなってきた。そこが海底になっていた。
水面を振り仰いでみると、天頂が白く輝いて見えた。まるで映画館の暗幕から光がさしこんでくるようだ。周囲は藍から水色へとグラデーションがかかっていて、その中を、大小の気泡がゆらめきながら昇ってゆく。特別な魚に出会わなくても、それだけで水底に潜る価値があると、いつも俺は思う。
この近くに特徴的な岩があるはずだ。畳二枚くらいの平べったい岩がベランダのように張り出している。そこからまた落ち込み、その下には教室くらいの広さの窪地があるはずだ。俺たちの行こうとしているのは、そこだ。
登山家が喜びそうな岩壁があり、その表面にはびっしりと藻が生えていた。
潮時の影響だろうか、真っ直ぐ進むつもりがフラフラ蛇行してしまう。海面よりも流れが強いのかもしれなかった。
岩壁の藻を棲みかにしている小魚や海老の類、イソギンチャクや貝の姿も多い。それを狙って集まってくる大きな魚もそこにはいた。
岩壁の端のほうに、枯れ木が大きく枝を広げていた。土色をしたそれは差し渡しが一mほどあり、びっしりと絡み合った枝が網目をつくっている。潮に煽られてゆらゆらしているそれは、イソバナ。まるで大きな団扇のようだが、枝サンゴの仲間だ。これだけ大きなイソバナには滅多にお目にかかることができないと石川が太鼓判をおした、俺の宝物でもある。シーズン幕開けの花見というのは実はこれを見ることで、初潜りの挨拶という意味が含まれている。
いささか乱暴な見方ではあるが、イソバナはフォッサマグナを境界線として西の海に分布する。ひょっとすると、日本列島誕生の起源を、このイソバナが知っているかもしれない。時折り俺は、そんなことを考えたりもする。
さて、せっかく間近にその姿を拝んだのだから、本当の姿を見せてもらおう。土色にくすんでいては勿体無いと、俺は投光器のスイッチを押した。
直進性の弱い赤色成分は、水中で簡単に拡散してしまう。それに反して、青い色ほど遠くまで届く性質がある。二十mの深さともなれば、太陽光の青味成分すら届きにくくなり、透明度も加わって夕暮れのような薄暗さだ。しかし、ライトをあてるだけで本来の色が復活する。イソバナであれ、藻やイソギンチャクであれ、それは同じだ。
白い光が太い棒となって照らした先に、団扇を何枚も重ね合わせたような形をした群体が朱色の姿を現した。薄茶に麩をまぶしたような岩壁には紫色をしたウニが永い針を蠢かせ、ガザミ(ワタリガニ)の幼生がチョロチョロと這っている。チリのように漂うプランクトンは、潮に流されてユラユラしていた。
もうこれ以上成長しないのだろうか、それとも成長途上なのだろうか。いずれにせよ、相手は人間が出現するずっと昔から存在するのだから、俺が見届けることなどできはしない。俺は、小さな岩を足で挟みつけてカメラを構えた。潮に流されまいと足をふんばり、体が静止する一瞬を狙ってシャッターを切る。夕暮れのような海中にパッと閃光が瞬いた。
何枚か撮りはしたが、フレーム一杯の写真を撮るには近づかねばならない。しかし体を支えるのに都合の良い岩が見当たらない。さてどうしようと考えていると、トントンと石川が肩を叩いた。カメラをかざし、自分に手を当てて、舞台の裾を指差している。どうやら興味を惹く被写体があるようだ。が、もう少しイソバナを撮りたい俺は、OKサインを送ったすぐ後に、自分はもう少しイソバナを撮るとサインを送る。すると石川は、わかったと大きく頷いて、離れいった。奴の吸気音が、意外に近く感じられた。
イソバナを撮り終えた俺は、イソギンチャクの中に隠れクマノミを見つけ、夢中になって撮っていた。夢中になると妙に時間が短く感じられる。ふと気付くと、すでに潜水を開始して二十分ほどたっていた。俺のタンクは容量が十四ℓだ。百五十気圧の空気を充填してあるから、全部で二千百ℓの空気を背負ってきた。潜水を開始して二十分。肺活量五千の俺だが、なにも毎回深呼吸をするわけではなく、半分くらいしか吸い込んでいない。毎分六回しか息継ぎをしないのだから、およそ十五ℓが毎分消費量だ。ただしそれは水面でのことだ。深さ二十mといえばニ気圧。それに大気圧を足して、今は三気圧の空気を吸っている。つまり、毎分四十五ℓの消費だ。二十分の潜水で九百ℓを消費した計算になる。ゲージを見ると、残圧が八十五気圧ほどになっていた。緊急用の保険を除いたら、使えるのは四十五気圧ほど。そろそろ帰るのが賢明だろう。そう思って近くを見回したのだが石川の姿が見当たらない。まさか自分だけで帰ることはあるまいと水面に目を向けても、それらしいシルエットは皆無だった。
何かに夢中になってやがるなとイソバナのところに戻ってみたが、そこにも奴はいなかった。いいかげんにしないと、帰りの空気が心細くなってしまうので、気が気ではない。俺は、腿にぶら下げておいたナイフを抜き取り、タンクに打ちつけた。
カンカンカンカンとけたたましい音がする。暫く間をおいて同じことを繰り返した。
水中では見通しが利かないのだが、音は異常に伝わる。緊急合図は音にかぎる。
カン、カンと応答があった。どこから聞こえるのだろうと目を凝らしていると、ボコッと気泡が浮き上がってきた。そうだった、石川は棚の下を指差していたことを今になって思い出した。
教室ほどの床面は、崖から突き出た庇のようだ。その下におりると、潮がきつく、水温も急に下がった。気泡をたどってみると、網に絡まって身動きできなくなっている石川がいた。
俺は大急ぎで石川の横へ行き、タンクに絡みついた網を外しにかかった。ところが、せっかく外した網が潮でまきあがり、また絡みつく。こんなことをしていたのでは埒が開かないので切断を始めたのだが、ナイフを使わねばならない場面を経験していない俺は、買ったままのナイフを使っていた。つまり、切れ味の鈍い役立たずだったというわけだ。それに、俺のナイフには鋸刃がついていないので、砥いであったとしても、あまり切れなかっただろう。網の糸は意外に丈夫で、切るのに梃子摺った。
網にからまっただけであれば、石川なら一旦タンクを外して取り除くぐらいはしてのける。冷静になればそれくらいわかるはずだが、そう考えられないほど俺は冷静さを失っていた。
ふと我に返り奴のゲージを見てみると、残量が五十気圧くらいに減っている。僅かとはいえ五mほど深いところにいたのだから多く消費しているのはわかる。が、異常に残量が少なくなっていた。
網を外したから、このまま水面に戻ろうと合図をすると、奴は自分の足を指差した。
投げ出されているように見えた左足が、岩壁の隙間に嵌まり込んでいる。網で身動きがとれないところに潮の流れが重なって、岩の割れ目に食い込んでしまったようだ。
俺は、持っていたものをウェイトベルトに括り付け、奴の足を外しにかかった。足さえ外れれば、一目散に浮上すれば良いのだ。しかし、かなり強く食い込んでいるとみえ、少々のことでは外れそうにない。しかも、足を動かそうとすると、奴は大量の泡を吹き出した。
足首がだめなら、膝を持ち上げてみようと位置を変える。そのとき、どうやら足ひれで奴のマスクを跳ね飛ばしてしまったようだ。
奴を発見して五分以上経過した。もうタンク残量が僅かなはずだ。
手荒だろうが、障害が残ろうが、今度こそ外してやる。そう思って足元へ回りかけると、奴の吸気の音が小さくなった。慌てて戻り、リザーブバルブのロッドを引く。するとまた小気味の良い音で空気を送り出すのが聞こえた。
浮上途中に奴のタンクは空になった。こんな時のために備え付けた予備のマウスピースを咥えさせ、ゲージのホースを握らせる。
浮上した俺はシュノーケルを咥え、奴のハーネスを掴んだ。
離岸流や接岸流は刻々と位置を変えるものだ。うまくそれに乗ることができれば幸いだが、とにかく陸を目指して泳ぐしかない。それにしても、たった一人の人間を牽くだけでも大変な労力が必要なことを俺は思い知らされた。
眼下に風紋のような縞模様が見えてきた。それは厭になるほどゆっくりと眼下を横切ってゆく。しかし、その色が白く光るようになると、丸太のようにパンパンになっていた腿が元気をぶりかえした。
もう指先に砂粒を感じる深さになった。やった、這える深さまで戻った。
だが、洗面器でさえ溺れることを考えたら
のっぺりしていた水底に砂粒がはっきり見分けられるようになった瞬間、マスクが砂粒をかきわけるようにして止まった。ガラスにへばりついた砂粒が異様に大きく見える。
ヘトヘトで立ち上がれない二人は、タンクという甲羅を背負った亀になっていた。波に洗われるまま荒い息をついている俺の前にニュッと手の平が差し出された。
「マスクとシュノーケルを弁償しろ」
突っ伏したままの石川が考えられないことを言った。助けてもらってそれかと唖然とする。どう返してやろうかと考えをめぐらした末に、俺も手をつきつけてやった。
「なんだ、一円もないじゃないか」
「空気代、たんまり払え」
ぼそっと言い返して石川を見ると、奴もこっちをうかがっている。そして、二人して笑い出した。
笑って笑って、腹がよじれるほど笑った末に気付いてしまったのだ。
駐車場へ戻る階段を、奴を背負って上がれるだろうかと。
鉛のように疲れてはいるが、まだ休めなさそうだ。
花見の季節になると思い出す出来事である。