海に沈んでいる梅
梅の花は桜より先に咲いて先に落ちる、梅は春の訪れを告げて春本番のメインの座は桜に譲る、桜は皆見てくれる一番の華だけど梅はおじいちゃんおばあちゃんしか見てくれない。そんなイメージ。
私の名前はそんな梅で始まる、梅雨。まんま文字通りツユって読む。これもジメジメしていて、夏休み前の嫌な季節なイメージがある。あまり好きになれない。
しかも梅の花言葉は高潔、上品、あでやかさとか、ただの高校生でどこにでもいる私にはあまりそぐわない、むしろ白々しく思えるような花言葉でよけいに嫌いになった。
私は今、部活に入ってない。夏休みに入る前にどこかに入りたい気はするけど、私の後を追って入ってくる桜があるからもう部活に入る気はない、夏休みは家でダラダラ過ごしつつ時々クラスの文化祭の手伝いをすると決めた。
桜はまんま名前も桜で、そのままサクラと読む。なんだか知らないけど私に妙に懐いてて金魚の糞みたいにいつもいつも付きまとってくる。私が陸上部に入れば陸上部に、合唱部に入れば合唱部に、どこに行ってもジャンルを問わずついてくる、そして全て私よりいい成績を出す。私はいつも二番手に甘んじる。
小さい頃からそうだ、勉強でも運動でも図工や何かに至るまで私は桜に勝てず一番になれない。後から始めて私をいつも抜いて行く、体験入部で私が行くと次の日には来る。そして抜く。
頑張って張り合ってみたこともあったけど結局勝てたことは無くて、ずっと二番でいるのは辛いから来たら逃げることに決めた。高校もわざと一つレベルを下げた、勉強はどこでもやろうと思えばできるし自分より頭の良い桜が二つもレベルを下げるとは思わなかったからそうしたけれど家に近いところを選んだのが災いしてまた桜と同じ高校になった。
入学して三ヶ月弱、すでに疲れた。私は努力しただけあってどっちかと言えば頭もいいしどれか一つだけでも勝とうと必死だったからその分の貯金があって、少し頑張ったぐらいの人よりもよっぽど何でもできた。だから何部に入ってもそれなりに期待の目で見られた、でも桜が来るとそれが全部桜に行く。そして私が抜けると桜も抜けて、私は色んな部活を引っ掻き回していた。
六月上旬に一度呼び出しを受けた、先輩達の態度があなたのせいで変わったと言われた。そこにいたのは私に向けられていた期待の目が元々向けられていた相手で、私がその期待の目を奪い、さらにそれが桜に行って、もはや期待されなくなったのだと。だったら努力すればいいのに、私や桜に勝ちたいと努力すればそれなりの結果はついてくるだろうに、そう思ったけれど実際に悪いことをしたと思ったから素直に謝った、そして自分からどこかに体験入部に行くのをやめた。
でも私が自分から行かなくても意外と誘われることは多かった。言われた次の日、来週試合があるから助けて欲しいとソフトボール部に呼ばれた。練習しておかないとチームプレイは合わせられないしルールも覚えないといけないから一週間以上前からの合流なのだと思っていたけどすぐに別の理由があったと知った。
目当ては私についてくる桜だった。私が考えた意図も勿論あったみたいだけどそれでも私はチームプレイのスポーツで二、三年を差し置いて即レギュラーになれる程運動神経はよくない、私を誘った子は本当に期待の新人で二、三年差し置いてレギュラーだったけど私は代走要員。まぁそれでもベース間をただ走るだけなら先輩達にも負けなくて役に立てるかなと思って嬉しかった、だけど桜が追いかけて来た時の態度を見て私はおまけに過ぎないのだと知って嫌になった。
その子曰く、すでに広まっていた桜の噂にその子は何とか連れて来て入部させたいとお願いされたらしい。それで試合にレギュラーとして参加させてレギュラーなんだからやめられると困るとごねようとしていたらしい。せめて素直に言ってくれればよかった、私だってそう言ってくれたなら期待しなかった。
約束だから試合まで入るけど試合が終わったらやめるからとその子と桜に言ったら今度は桜が先にやめた、試合の前にやめた。
だって梅雨ちゃんやめるならいる意味ないからと言った桜は何も悪いことは無い、私と違って桜は試合までいることを頼まれていない、約束も何もしていない。
試合の日まで、私は約束だからとできる限りのことをした。その部活に私より足が速い人はいなかったから足の速さを活かせるようにベースの走り方を覚えて、バントのやり方を覚えて、守備の仕方を覚えて、たまたま不調だった先輩の代わりにレギュラーに割り込んだ。一年で一番活躍しなきゃと思った。
試合の日、セーフティーバントで出塁した、盗塁も決めた、守備もうまくやった、セーフティスクイズで一点取ったり、初心者にしては化け物みたいな活躍をしたと思う。でも観客席で私の応援をする桜を見ているとイライラして仕方が無くて最後の打席は空振り三振して逆転のチャンスを潰して終わった。
あそこは打ってくれなきゃ助っ人の意味が無いねとか言ってた本来私が入った場所にいる筈だった先輩の言葉に私は怒りをぶちまけたくなった。
その日のスコアは二対三、内私の得点は一点で味方のエラーで取られた点が二点。なんで私が責められる、桜が抜けたからその分の責任は十分果たしただろう、塁に出たのは先輩達でスクイズは誰でもよかったと言われた、でもあの時私以外だったら一塁でアウトになってスリーアウトで終わっていただろうに、桜だったら打っていたかもしれないから? だから私は評価されないのか? そもそも助っ人を頼まなきゃいけない時点でどうなんだ?
結局思ったことをぶちまけた。三打席二安打、打率六割、両方バントとは言え十分すぎるだろうと。他の奴等はどうだったと、四番は四三振でエラーは全体で五回、負けたのは単純にチームが弱いからだと。その場で用意していた退部届を出した、どうせ私は桜のオマケ、思ったより使えればいいと思っていた程度だろうにと思ったからそうした。
私はかなりヒステリックだったとわかってる、チャンスを潰したのは確かにそうだし、たとえ誰だったとしても同じことを言われたはずだし、ふざけての一言だったし、桜でも打てていたかはわからないし、桜のことをそこまで皆は気にしてない、桜もいてくれたらよかったのに程度、やめることを言ったのは誘ってくれた子だけだから私にも期待していてくれただろう、ましてやチームが弱いだなんて暴言を吐いて、私は本当に酷いことをした。
なんでヒステリックになったかって桜がまるで私に譲ったように思えたからだ。譲られて、それでも私は助っ人としてチームを勝たせられなくて、例え桜が欲しかったからといっても頼まれたのは私だったのに、責任を果たせなくて悔しかったからそのストレスをぶちまけた。それだけだ、身勝手で気持ち悪くて、自分の中に何か黒いものが渦巻いているようで吐きそうだ。
そんな私を昨日、小学校と中学校が一緒だった水野先輩が美術部に誘ってくれた。とりあえず考えてみますと言ったものの入る気はやっぱりなかった、競うものじゃなくても私のまねをして、そして上を行くだろう桜と一緒だと劣等感を抱かざるを得ない。
帰り道でその店に目が惹かれたのはその看板の文字がとても綺麗だったからだ。店の外観自体はあまり綺麗じゃないのに何故かその文字だけは綺麗に見えて、少し覗いてみようと思った。窓が一つも無かったので扉を開けて少しだけ視線を中に走らせてみる。
青い光で照らされた室内には水槽がズラリと並び、そこの幾つかにだけなんとも奇妙な魚が入ってる。ハイギョらしい魚の鱗の幾つかが何かの花に差し変わっていて、これまた鱗の幾つかが蔦に差し変わっていて、蔦から鬱蒼と生えた葉っぱもあってまるで翼が生えているように見えるピラニアだったり、というかその二つだけしか埋まって無かった。
でも、その二つ、ピラニアの方もいいけれど特にハイギョは何か控えめな美しさがあってなんと言うか親近感を覚えられる、魚なのに。なんでだろう、知りたい、どうして、そう思っていたらつい、覗いていただけの筈が足が入ってしまい、顔が入ってしまい、そして扉の影にいた人と目が合った。
にっこりと笑うシルクハットの中性的な人、服装は奇妙でスーツの上から白衣を着ている。ただ妙に似合っていてこの不思議な空間にはとても相応しいように思える。
とりあえずこの状況ではここから逃げることもできないし、変な人だけど悪い人には見えないし怪しい店ではあるけれど商店街には防犯カメラがいっぱいあるからこの店に入ったことはわかるだろうし大丈夫だと思う。
「さぁどうぞ、座って聞いてくれるかな」
水槽に囲まれるような位置に置かれた椅子にそっと手で誘導される。
「ここは幻創水族館、幻を創る水族館、幻で創られた水族館」
座った後ろから肩に手を置いた中性的な人がそう呟く。表情を伺おうと後ろを向こうとしても何故か体が動かない、指先をピクリと動かすこともできないし視線は空の水槽の一つに固定されている。
「観照していくといいよ、君の中にいる愛しい魚の姿をね」
ずぶりっ。
「ぅあ?」
粘っこい水に何かを入れたみたいな音がして意思と関係なく間抜けな声が口から漏れる。
「大きい気持ちは色々な形を作るんだよ、例えばそれはそこのハイギョのように大きな魚の姿だったり」
一瞬で涙がだばっと流れて口からも筆舌しがたい音が漏れて頭の中が桜のことやソフトボールの大会の直後のことで一杯になって怒りだしたくて泣きたくて、視界はフラッシュバックしたものでちかちかして、動かないと思っていた手を無理やり動かして爪が食い込むのも構わず思いっきり頭を掻き毟った。
「君のように、自分自身すらも飲みこむ」
ちかちかした視界が元に戻ると部屋の中は水でいっぱいになっていて床にも壁にも天井にもイソギンチャクがびっしりと囲むように生えていた。何故かはわからないけどそのイソギンチャク達が怖くて仕方が無くて、手足を竦めた。
「大半のイソギンチャクは有毒、でもその程度は差が広くてウメボシイソギンチャクなんかは刺されてもほとんど人間に影響は無い、余程肌が弱かったりしない限りはね」
梅、その言葉に私はびくりと反応してしまう。梅はやっぱり弱いのかと、遠回しに馬鹿にされているような気がして、ほらそれだよと指差された小さな赤いイソギンチャクを私は一目見て顔を歪めた。
「でも小さな魚にとってはみんな十分すぎる毒で人間でもいくつもいくつも刺されたら危ないかもしれない、君も早く治療した方がいいかもしれないね」
ふと自分の姿を見て愕然とした。足が無い、代わりにあるのは鱗に包まれた生臭そうな魚の体、その模様は狙ったように赤やピンクや白が散らばっていて綺麗だと思う以上に梅の花が咲いているように見えてその鱗を引き剥がしたくなった。
「見るのは腕だよ?」
腕を見れば何かに刺されたような傷がいくつもあった、でもそれ以上にひっかき傷が多く、大きく痛々しい。刺されたような傷はイソギンチャクに刺されたものだとしても引っ掻かれたような傷はなんだ。
「それぞれのイソギンチャクは何かを表している、その何かを良く見てごらん」
何かって何だと思いながら一番大きなイソギンチャクへと視線を向ける。触手部分がうねうねと私の視線に反応するかのように開く、中はテレビの画面のようになっていて、自分がソフト部の先輩にキレた様子が映っている。
別のイソギンチャクを見るとまた別の様子、桜に陸上であっさりと負けたことや勉強の成績が桜に初めて劣ったこと、先にやっていたことがことごとく抜かされていく様子、そして努力してもそれを抜かせない不甲斐なく情けなく惨めで脆弱な私。泣くこともできずただただ言葉も発せず、お母さんやお父さんの前でもそんなことおくびにも出さず、ただ見えないところでうずくまって自分の肩を抱いている矮小な私。見ているだけで手は肩を抱き、爪が皮膚に食い込む。
うねうねと動く触手は私を絡め取って責め立てようとしているみたいで、私を何かに縛り付けようとしているみたいで、怖く怖くて怖くて怖くて頭の中がいっぱいになった。
次は一番にならなきゃ、一番でいなくちゃ、その状態をキープしなくちゃ、そうじゃなきゃいけない。一番でなくちゃ私は――
――ふと気づく、一番でないと私はどうなる。
一番でないと、なんでダメなんだっけ?
駄目な理由はなんなんだっけ?
そう思ったら音が消えた、イソギンチャクが全てただのイソギンチャクになった。
「イソギンチャクは毒を持ってからめ取って食べるもの、だけじゃない。他の生物との共生関係もある、特に有名なのはこの子かな」
意識の外にいた中性的な人が私の前で私の手にそっと手を重ねて、開くとそこには小さな橙に白の縞模様の魚がいた、確かカクレクマノミとかいう魚だ。桜が一緒に見ようと借りてきたDVDに出ているのを見た。
「カクレクマノミはイソギンチャクの毒に耐性があって隠れ家として使う、普通と真逆の関係を築いている種なんだよ」
ちなみに実を言うと某映画に出ているのはカクレクマノミじゃなくてクラウンフィッシュっていう微妙に違う種なんだよ、まぁどっちもイソギンチャクの毒に耐性があって隠れ家として使うことには変わりないんだけどね、と中性的な人は笑って、私もつられて少しだけ笑う。
「他に共生する子達と言ったらこの子達が好まれるね」
カクレクマノミが私の掌から泳ぎ去ったすぐ後、中性的な人はそう言ってそっと私の視界をてのひらで塞ぐ。反射的にそれを退けると中性的な人の姿はそこになくて、正面の壁に手の先にイソギンチャクを付けた小さな蟹がいた。
「キンチャクガニって言ってね、少し話題にもなった子なんだけど。鋏でイソギンチャクを掴んで応援するように振る習性がある、威嚇行動だけどね」
スッと手を伸ばすとキンチャクガニがその指を伝って私の腕を昇ってくる。そしてかなりイソギンチャクに近い位置にいることに気づいて、あれだけ怖かったイソギンチャクが怖くなくなった自分を知る。
「実はここに出てくる生き物というのは自分自身を投影したものが一つだけであることが多い、だけど君はそれが無い。だから君自身がそうやって姿を変えている」
自分の姿を見下ろす、相変わらず下半身は魚のままで私は人魚のようになっているだろう、上半身制服だからファンタジー感は微妙だけど。人魚になっているのは私なわけだし桜だったらと思いたくなる。
そして、この姿について言われたのだろうと考える、普通は投影できるのだと、でも私は投影していないと、ということはと考えると一気に恥ずかしくなった。投影できないのは想像力が足りないか、もしくは自分が何にも例えられ無いような特別なものだと思っているか、高校生にもなって中二病みたいなことになっているみたいでものすごい恥ずかしい。
では、何なら自分を投影できるのだろうと思う。イソギンチャクは、私の嫌な記憶の投影だ、だけど私はそれを無害にできるかわからない。カクレクマノミやキンチャクガニに投影できるようには思えない。
ふと、視界に入ったのはさっき紹介されたのにまともに見ようとしなかったウメボシイソギンチャク。これはさっきも開いていなかったような気がする。毒性は人に害を与えるには弱いらしい、でも少し怖いので胸ポケットに入っていたボールペンでつついて見る。
ふわりと開いた触手の内から梅の花がスプリンクラーのように吐き出される。これはなんの嫌がらせだろうと思ったが不思議と嫌じゃない自分もいる。
「梅の花は桜より先に春を教えてくれる、冬を開拓するかのように咲く梅の花を見ればみんな春に心を寄せる。梅は長い長い冬の眠りから覚める道しるべ、一つの希望なのかもしれない」
中世的な人はそう言い、見るようにと大きく手を広げる。あたりを見渡せばそこにある光景はさっきまでとは明らかに違う、梅の花が散っているからかとても暖かいように思える。確かに梅の花のおかげで空気が変わった。
「また来てごらん、次に会う時にはきっと桜よりも美しい水槽を観れるだろうから」
額にカクレクマノミが触れたと思ったその瞬間、私の意識はプツリと途切れた。
足の感覚がある、目の前には幻創水族館。看板はさっき来る前に見た時よりも何故か物足りなく見える。何が起きたのかこの扉を開けばわかるのだろう、でも見に行く気になれない。まだ何も変えられていない、あれが私自身だと言うならば変わらなければ桜より美しい水槽は見れない。
まずは誘われた美術部に入ろう、そこで何をするかはわからないけどイソギンチャクのようにもう動かない。桜から逃げるのはもうやめる、絶対に桜に勝たなきゃいけないわけじゃない。
積もりに積もった雪のように固まってしまった自分自身を開拓する。今までと変わることはやめないだけ、逃げないだけ、順番で自分を見るんじゃなくて自分自身をちゃんと見るだけ。
私は変われる、あの小さなウメボシイソギンチャクが一気にあの空間を塗り替えたように。
「よしっ」
踵を返して向かうは美術室、善は急げだ。