それでも生きている
「田辺、正直、もうお前のミスはカバーできない」
そう上司から言われた田辺は、顔を青くしてひたすら下を向いていた。
「仕事は遅いしミスも多い。しかも一向に能力の向上は見られない。なあ、そんなお前を二年近くも雇ってくれていたこの会社に少しでも恩を感じるなら、どうすればいいか解るだろう?」
田辺はギュッと拳を握り、ゆっくりと、頷いた。
田辺は茫然として公園のベンチに座っていた。もはや毎日着る必要のなくなったスーツを身に纏い、朝っぱらからベンチに座る姿は、道行く学生やサラリーマン達に田辺の身に何が起こったのか容易に想像させるだろう。それでも、田辺はそこに座っていた。ワンルームの狭い我が家があるアパートの近くでそんな姿を晒す恥よりも、ショックの方が大きかったのだ。
「俺、なんにもできねぇなぁ」
ククッと引き攣るように咽喉を鳴らして自嘲する。もともと、田辺という男は馬鹿な男だった。高卒で、しかも出た高校もバカ校だと有名で、当時はそれでも楽しければいいじゃないかと、開き直っていた田辺だが、今はそんなバカばかりしていた自分が悔しくてたまらない。もし、もっと真面目に学業というものに取り組んでいたならば、こんな使えない人間にはなっていなかったかもしれない。そんなふうに考えて、田辺はまた自嘲する。……例え学業に真面目に取り組み、いい意味で有名な学校に入って大学にも入っていたとしても、結局仕事が出来ないのは変わらなかったかもしれない。なんたって自分は最低の出来そこないなのだ。ミスばかりして、それを減らそうと慎重に仕事をすれば遅く、結局周りの仕事を増やす。そんなんだから陰で「死んでくれればいいのに……」などと言われるのだ。
……陰での言葉ながら田辺に聞こえるように紡がれる言葉は、田辺を焦らせミスを誘発し、また著しく気力を奪って作業の遅延をもたらす、田辺を自分自身が信じられない、自分の価値を見失ったネガティブな男へと教育していたのだが、そんなことを当事者達は気付かなかったし、田辺以外にとっては大した問題ではないだろう。
「なんで、なんで俺はこんなんなんだ! なんで普通のことが出来ないんだよ!」
出来て当然なことだと大半の人間が思うことが出来ない。会社の人々が定めた普通というラインに田辺は立てなかった。だから、田辺は自分を蔑む。出来ない自分が悔しくて、出来る誰かが羨ましくて、でも、目を逸らす器用さなど持ち合わしていなく、行き場のない気持ちは内に溜まり、中から田辺を傷つけた。
「俺は、なんで、生きているんだ。産まれてしまったんだ。産まれたことすらなくなればいいのに」
会社で言われた「死んでくれればいいのに……」という言葉が田辺に重くのしかかる。それに抵抗する言葉を、田辺は思いつかなかった。その言葉から自分を守る権利など、とうに取り上げられていた。
ふと、田辺の頭に上司の言葉が思い出される。
「恩を感じるなら……か、うん、そうだ。どうすればいいのか、俺は解っているじゃないか」
繋げてはいけない言葉を繋げ、田辺はふらふらと歩き出す。
自分に残された自分という生き物の後始末、自分の人生への責任の取り方、それは死しかない。……追い詰められ精神的に疲労していた田辺が導き出せた答えはそれだけだった。
手頃な建物に入り、その屋上から見下ろした地上は、十分な高さがあるように見えた。通りに人気もないし、もし一度死に損なってもまた上って落ちればいい。そう考え、田辺は身を乗り出す。死の恐怖は生の恐怖に負け、田辺を止めることはしない。
しかし、思わぬものが田辺の動きを止めた。
「あ……」
ポケットの中で振動するそれは、流行りからは随分遅れた曲を鳴らす。心が疲れ果てて以来、田辺と同じく時を止めた着メロ設定の曲が、二つ折りの古い携帯から流れていた。
「高校の奴か……?」
理由はともかく長い期間親しんだ設定だ。流れる音は滅多に掛かってこない類の着メロだが、ある程度の検討は付いた。
何も知らず楽しんでいた高校時代。その時代の友人からの珍しい電話。無視してもいい、どうせ田辺は死ぬのだから、今更人との繋がりなどいらないのだ。そう思いながらも、駄目な自分を知らない、純粋に楽しいことだけを一緒に追える友の電話は田辺を動かし、携帯を手に取らせた。
『田辺、久しぶり』
「ああ、久しぶり。……どうしたんだ幹坂、電話なんて本当に久しぶりじゃないか」
『ん、ああ、メールにしようかと思ったんだけど、なんとなくな。今仕事か?』
一瞬田辺の息が詰まる。もしも、現状を話したら、この友人はどんな反応をするのだろうか? 会社の同僚のように軽蔑するのか? もう、友人ではなくなるかもしれない。そう思うと恐くて、田辺は「いや、今は大丈夫だ」と、言葉を少なくして応えた。
『そうか、大丈夫ならいいんだけどさ、もし都合悪かったらいってくれよ。俺、結構自由な時間がある仕事だから、あんまり他のちゃんとした仕事ってよくわかんねぇんだ』
その言葉に田辺は友人の仕事について思い出す。確か電気屋だったか? 建築現場に入り込んでの作業をしているとか聞いた気がした。
『今日電話したのはさ、高校の仲の良かった奴だけ集めて同窓会しようって話になったからなんだ。同窓会なら、お前がいなくちゃ始まらないってみんな言ってた。田辺は最近忙しいみたいだけど、みんな田辺のスケジュールに合わすからさ、しようぜ、同窓会』
ここ一年以上、田辺は友人達と会ってはいなかった。今の自分を見られるのが恥ずかしくて、上手くいっている友人の姿を見るのが悔しくて、誘われてもなにかと理由を付けて断っていたのだ。
友人に今の姿を見せられる訳ない。
断ろう、どうせ田辺は死ぬのだから、同窓会になどいけないのだ。だが、田辺が口を開く前に、電話越しの友人は再びしゃべりだした。
『なあ、実はさ……』
少し低くなった声で、友人は溜めを作り思い切ったように言葉を続ける。
『俺、仕事しているみたいに話したけど、本当は会社、辞めさせられたんだ』
「え?」
思いもしない言葉に田辺は息を飲む。
『いまは仕事見つけられるまで、日雇いの派遣してるんだ。……なっさけないよなぁ』
笑いながらそう語る友人は、今一体どんな顔をしているのだろう。隠せない声の震えが、電話越しでも田辺に伝わってきた。
「幹坂……」
『悪い、こんな話突然されても困るよな。でもさ、今度の同窓会で俺、そういうことひっくるめてお前に愚痴りたいんだ。なんかさ、お前なら馬鹿にしないで聞いてくれる。そんな気がした』
馬鹿になんかするはずない。辞めさせられても頑張っている友人は自分よりもずっと立派に田辺は感じられたのだ。馬鹿にされるなら自分のほうだ。
『なあ、田辺、同窓会来いよ』
ふと、この友人は自分の現状を薄々解っているのではないかと、田辺は感じる。だからこそ、友人は自分について話し、そして、田辺に約束を取り付けようとしているのではないかと……。だとすれば、だとすればこの友人は、何も出来ない田辺を、クズのようになってしまった田辺を、まだ、友という価値ある存在として見ているのか? そう考えた田辺の頬には、熱い何かが流れていた。
「俺も、俺も話したいことがあるんだ。なあ、軽蔑しないで聞いてくれるか?」
友人は『ああ』という一声で応えてくれた。
友人からの同窓会の誘いを受けてから二年。田辺はとある工場で正社員として働いていた。給料の割にやることが多く大変な仕事で、毎年耐えられずに止める人間が後を絶たない、そんな仕事だが田辺は必死に働いた。どんなに怒鳴られ、貶されようと、ただ地道に仕事を熟す。ミスは仕事で取り返すと行動で示し、ただただ無心に働いた。昔ならば早々に根を上げていただろうが、愚痴を言い合い分かりあえる友のお陰か、田辺は何とか続けることが出来た。
そうして頑張っていたある日、一人で昼食を取っている田辺に缶コーヒーを渡し、その目の前に座る男が一人。その人物に田辺は驚き目を見開いた。男は田辺の直属の上司、工場長といわれる地位の人間で、毎日のように田辺を叱り、怒鳴りつけていた男だった。
「お前、良く頑張ってるよ」
工場長は弁当を広げるとぶっきらぼうにそう言った。
「お前を初めて見たときはさ、体力も根性も無い奴だと思ったが、違ったな。根性だけはしっかりあるよ、体力も、大分ついてきた」
田辺は目を白黒させて工場長の言葉を聞く、この男が人を褒める姿など、初めて見たのだ。
「あ~、でだ。何を言いたいのかと言うとな」
工場長もこんな風に人を褒めるのには馴れていないのだろう。少し照れたように頭をガシガシ掻くと、田辺を真っ直ぐ見据えた。
「俺は今度総工場長になるんだ。この工場だけでなく、全部の工場を取り仕切ることになる。そうなると、この工場をまとめる工場長は誰がやるって話になんだろ。俺はそれにお前を推したい。お前の働きや仕事への姿勢は見てきたからな」
その言葉を田辺が飲み込むのには時間が掛かった。しかし、一度飲み込むとそれは田辺の中に急速に広がり、表し難い感情で心を満たす。
「おいおい、なに泣いてんだ馬鹿! いい歳こいて泣くなよな!」
ぎょっとした顔でそう叫ぶ工場長の言葉に、田辺は自分が涙を流しているのだと初めて気が付いた。だがそんなことよりも言わなくてはいけない言葉がある。
「場長……、ありがとうございます!」
「……まあ、ここで終わりじゃあねぇからな。これからも頑張れや……」
一度終わらせようとした。全てを投げ出そうとした。でもそれでも、それでも田辺は今、生きている。
どこででも優秀な人はいない、どこででも駄目な人もいない。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。