やどりぎ
「黒主、覚悟!」
盃を捧げもってきた少女が、着物の合わせ目から、匕首を取り出した。
やれやれ、まったく――
黒主のまわりできゃあと叫ぶ侍り女たちとは対照的に、流は落ち着いていた。
暗殺者は十三ほどか。将来の華やかな美貌をうかがわせる端正な顔立ちで、藍色の瞳は激しい感情に燃え立ち、どうかすると、見る者をその感情の渦に引きこんでしまいそうな苛烈さをそなえている。
だが、流はその目を冷静に観察し、まったく、もっと人のいないときにやればいいものを、と刃に黒塗りの盆をぶつけた。漆がけずれ、木肌がのぞく。
「お手柄だ、流」
盆のうしろで、射干玉の黒髪をうるさげにかきあげ、黒主がいった。頭蓋の酒盃をあおったあと、めんどうくさそうに配下に目配せする。丹塗りの柱の影から剣を提げ、男たちが飛び出てきた。
失敗に放心していた暗殺者は、はじかれたように立ち上がり、宴の間を見回した。だが、逃げおおせるだけの時間がないことを悟ると、自分の首に刃をあてた。流は盆で少女の膝裏を打ち、それを阻止する。床に尻もちをついた少女は、視線で流を射た。
「何をする!」
「死ぬのはもう少し後にしてください。――血の入った酒はまずいんです」
「私はかまわないが?」
付け足された言葉に、黒主は楽しげに笑った。流は否定も賛同もしなかった。玻璃の高杯から干しぶどうをつかみとって、一粒一粒咀嚼しながら、男たちが少女の細い身体をしばる騒ぎをながめていた。まるで十間はなれた場所から鑑賞しているような態度で、ながめていた。
「どうします、黒主様」
「好きにしろ」
男たちが興奮で高ぶっているのを見て取って、黒主は飼い犬に餌を投げ与えるように、彼らがのぞむ言葉を投げ与えた。宴の日に運悪く守衛を命じられた男たちは、見目良い少女に歓喜した。
少女はがむしゃらに抵抗し、黒主をにらみつけ、舌を噛もうとうつむいた。だが、後一歩のところで男たちに猿ぐつわを噛まされて、いっそう黒主をにらんだ。
男たちははやくも、雪もおよばぬほど白い四肢に好色な視線を注ぎ、少女は恥辱に顔を赤くした。しばられ、自由に動かない腕の代わりに、足を泳がす。陶磁の酒つぼが倒れ、黒主の着物をぬらした。黒主は眉をひそめ、かたわらの鉄剣に手をのばす。少女を連れて行こうとしていた男たちは、主人の気が変わったことを察して手を止めた。少女も顔を、白くした。
流は脇息にもたれかかり、けだるげに口を噛みあわせながら、冷めた声で少女にいう。
「どうなってもいいと思ってやったんでしょう。どうにでもされてきなさい」
少女は流をねめつけた。灰の奥に消えそうだった怒りを爆発させ、心にねむる憎悪という憎悪を流にぶつけた。しかし、流はやはり遠景をのぞむような顔つきで、乾いた果実を噛んでいた。感情も何もない表情でいたが、ただ一度だけ、不快げな視線を男たちに投げかけた。男たちはそれに触発されて、嫌がる少女を引き連れ下がっていった。
「流」
黒主の呼びかけに、流は眼をあわせることなく、はい、と応じた。礼を欠いた態度に侍り女たちは怒りをあらわにしたが、黒主は意に介さず、金であまれた豪奢な円座から動き、しなだれかかるようにして、流をうしろから抱きしめた。黒髪が肩から流れ落ち、流の銀の髪とまじりあい、赤い毛氈の上に世にも稀な川を作った。侍り女たちは憤怒に嫉妬をまじらせる。
「愛しい流。この世で唯一、私の意に添わぬ人間。なぜあれを逃がした?」
甘い甘い声。低く、思考を侵すささやき声。しかし、流は遠くを見る眼をして、そのささやきに反応しない。また干しぶどうを一つかみ、つかみとって、口に運ぶ。
夜が更け、男女の入りまじる無礼講の宴は、原始的な欲望を内包して熱気をおびていた。座敷のそばのかがり火は、燃え尽きることなどかまわぬように、木を食らいながら激しく燃え、淫らな様相を照らし出していた。流は月日で薄らいだ紫絹を思わせる眼にそれらを映し、一粒二粒、干からびた果実を噛んだ。
「逃がしたなんて、なぜそんなことをお思いになるのです? 我が主」
流はやっと黒主をふりかえった。簪から垂れ下がる翡翠に瑪瑙、白珠が触れ合って、かすかな音を立てた。黒主が、草を食む草食獣のようにおとなしく、流の手から果実を食んでいたのは玉響の間。触れるほど近く、流の耳に唇を近づけ、いたぶるように問いかける。
「おまえは私の怒りに気づいていなかったと言い張るか?」
流は答えない。何のことかとそ知らぬ顔で、黒主を見返している。黒主は口をあけずにくつくつ笑い、盃を差し出した。頭蓋で作られた盃は、やけにちいさく、子供のものだとすぐ知れる。
「飲め。さっきの褒美だ」
指にこぼれるほど注がれた酒を、流はためらいも見せず、一息に飲み干した。侍り女たちは、黒主には愛想を浮かべて笑っていたが、流には、地を這う芋虫を見るような眼を、遠慮なく向けた。
「おまえに、さっきの女の血が入った酒を飲ませてやろう。うれしいか?」
「光栄です、我が主」
「では、今から、私に無礼を働いたあれを殺して、その頭蓋に血を注ぎ、もってこい」
黒主は鉄剣を引き寄せ、流の身体の前で鞘から引き抜いた。あと数寸で首に触れるほど、刃は流に近い。磨き抜かれた刀身に、流の硬い表情が映った。しかしそれは、やがて息で曇って見えなくなった。
「――主がそれを望まれるのでしたら、喜んでそういたしましょう」
流が平然と請け負うと、黒主は笑った。憫笑を浮かべた。剣を鞘に収め、流の身体を強く抱き、熱く、酒気を帯びた吐息を吹きかけた。
「愛しい流。卑しく愚かで小賢しく。今夜はおまえで勘弁してやろう」
流の朱金の帯を解きながら、黒主はその首筋に顔を埋めた。
草木もねむる刻限に、流は眼を覚ました。火はとうに燃えつき、清廉な月と星の影が、雑然とした座敷に降り注いでいた。
黒主はすぐそばで寝息を立てていた。侍り女はいない。流は折り重なる衣をのけて身を起こし、大きく息を吐いたあと、そばに控えていた端女に水を要求した。冷たい液体がのどを通ると、流はかすかに身体をふるわせ、いっそうだるそうにした。
器を返し、視線を落とす。黒主は相変わらず規則正しい寝息を立てていたが、安心しきっていないことは、手に剣を握っていることで知れた。
いつであろうと、誰と共にあろうと、黒主は剣を手放さない。つねに警戒することなど不可能なはずだが、幾度刺客を差し向けられようと黒主は死なず、この乱世を生き抜いていた。それゆえ、黒主はねむらぬ不死の化け物と称される。
流は不死身と呼ばれる男と、その手に握られた剣を見やった。そっと手をのばし、布のまかれた柄に触れる。黒主の起きないことを確認すると、流は柄をつかんだ。端女が事態の異常に気づき、悲鳴を上げたその瞬間、剣を抜き、逆手にふり下ろす。
「――つまみにでもするか」
間近で流が白刃をにぎっていることに、黒主はみじんも動揺を見せなかった。身じろぎ、首と胴にわかたれた毒蛇をにぎる。流は床から剣を引き抜き、鞘にしまい、そうですねと返事をした。手近にあった着物を羽織ると、適当に帯を結び、立ち上がる。
「下がるのか?」
「あなたと一緒にいては、命がいくつあっても足りませんから」
「よくいう。私とともにいながら十数年生きておいて」
黒主があくびをして眼を閉じ、好きにしろと手をふると、流は一礼して座敷を出た。
青ざめた簀子縁には、一つ二つ、枯れ葉が落ちていた。銀糸のきらめく衣を引きずり、乱れた髪を手櫛でいいかげんに梳きながら、流は縁をすすむ。足の腱を切られているために、歩みはいびつで、つたない。階に座り、半分舟をこぎながら警備をつとめていた男が、流の放恣な姿にはっと眼を開いたが、主人の一番の寵姫と気づくと、深く腰を折った。
黒主に正室はいない。両の手では足りぬほどの側女がいるだけだ。その中で、黒主の寝室にもっとも近い部屋を、流が得ている。
側女にとって、主人に近い部屋は至上の一室だが、黒主の屋敷ではだれもその部屋をのぞまない。頼めば黒主はその部屋を与えてくれる。しかし、与えられた女は、翌朝をかならず死体となってむかえる。黒主は、死体も片付けぬうちから、流をまたその部屋に呼ぶ。それが何度も繰り返されるうち、その部屋を欲しがる者はいなくなった。
――安心したか?
いつだったか、死体となった女の髪を梳きながら質問してきた黒主の姿を、流は思い出す。美しい女だった。朱色の着物もかすむ輝かしい美貌の持ち主で、美貌を誇り、高慢にふるまうその態度すらも魅力になる、そんな女だった。
あの時、どう答えたかを流は覚えていない。ええ、だったか、べつに、だったか、無言だったか、判然としない。
流が記憶しているのは、黒主のいうとおり、自分が女に地位を奪われることを恐れていたということ、それを黒主に悟られぬよう隠し、部屋を去るときも戻るときも顔色一つ変えないでいたということ、そして黒主は、そのすべてを見透かし、なけなしの自尊心を守ろうとする自分を嘲り笑っていたということだ。
かぐわしい香、うるわしい宝飾、つややかな絹布、物にあふれ、奢侈をきわめた部屋へ帰り、流は口元をおさえた。こらえようとしたのは束の間、唾壺の上にかがみこみ、食べたものもろとも、飲んだ酒を吐き出す。盃の感触をぬぐいさるように、唇を強くぬぐって、流は寝台に身を投げ出した。
黒主が流にのぞむのは、知恵でも美貌でも才気でもない。服従だ。しかし、心酔することをのぞんでいるわけではない。諦念ものぞんでいない。抵抗し、屈服する、その姿こそを黒主は要求していた。
黒主にとって、流は限りない支配欲を一時的に満たすための道具だった。抵抗をやめたが最後、黒主は流に興味を失い、丸太のように切り捨て、新しいものを探すだろう。すべてを支配したいという思いが、同時に支配できないものをもとめるのだった。
寝台は真新しい藺草のにおいがした。
流は寝返りを打ち、先ほどの少女のことを思い出す。流はあまり他人を気にかけないようにしているのだが、黒主に仕えるようになったのが、ちょうどあの少女と同じぐらいの年だった。これからどうするのかが、気にかかった。
黒主が気まぐれなのは、いつものこと。ある日、屋敷の宴は飽き飽きだと、野外の酒宴を所望して、部下をひきつれ木々の色づく秋の野山へ繰り出した。
山の木々は散りかけて、樹上はさみしく、樹下ははなやか。金と朱と、色あざやかな葉が一面に敷きつめられ、まばゆく明るい。冬を前にした秋は、地に落ちる寸前の果実のように、真紅に熟れていた。
満足に歩けない流は、馬を下りると、黒主に抱かれた。流は地面を歩かない。外に出ると、流は宙に浮く花で、黒主にずっと抱き上げられている。
流は血を吸ったように赤いもみじをながめていたが、あとにつづく端女の最後に、見慣れぬ顔があることに気がついた。慣れない様子で柳行李を背負うその姿は、数日前に、黒主を殺しにきた少女だった。
「仕えることにしたとさ、誠心誠意」
流の視線に気がついて、黒主は愉快そうに事情を明かした。時折こちらをうかがう少女の目から闘志が消えていないことは、すぐにわかる。
「威勢がよくて、おまえで遊ぶよりもおもしろそうだ」
黒主は嗜虐たっぷりにいい、休憩のため、流を隆々としたけやきの根におろした。ついでに、わざわざ少女を呼びよせ、流の見張りをいいつける。流は幹にもたれてため息をつき、少女は憤りをかくして、流に頭を垂れた。
「死ぬまであきらめる気はないのですか?」
「……あたりまえ」
少女は流をにらみつけた。流は身体を幹にあずけて、少女を観察する。
「黒主を殺すことこそが、私ののぞみ。私の悲願。それ以外に興味はない」
赤く染まったもみじを背に、少女は心を燃え立たせ、流は頭上の、華々しく色づき散りゆく葉たちを仰ぎ見た。
群雄割拠、戦乱は多くの傑物を生み出し、今世は絢爛な錦絵のよう。自尊、愛情、忠義、欲望、それぞれが自分の生きどころを見つけ、そして、散っていく。この少女もそうだった。この錦絵を背景に凛と立つこの少女もまた、仇に心をつくしている。
「……なぜですか。あなたは一度、死ぬ覚悟で黒主を襲った。けれども、生き永らえた。その命を、なぜまた無駄にするのです」
「私に逃げろというか」
「逃げることも、勇気ではありませんか」
「私はあなたと、ちがう」
少女は立ち上がり、大きなけやきにもたれかかる流を見下ろした。
「私は屈従したりしない。富にも恐怖にも、屈したりはしない。あの不死の化け物を、倒してみせる」
はらりと一葉、もみじが落ちて、落ち葉の群れにくわわった。ここらは赤く染まる葉が多いのか、地面は赤い樹葉で埋めつくされ、血を撒いたようだった。流は腕を垂れ、落ち葉に手をひたした。二藍色の衣が、赤にきわだつ。かきまわすと、甘い腐臭がわずかに香った。
「――もみじを」
「なに?」
「もみじを一つ、とっていただけませんか? あの枝先の、もみじを」
流の指差すもみじは高く、木にのぼらなければ届かぬ場所にある。少女は不満げに眉をしかめ、それに従った。
「これか」
「いいえ、もっと上の、枝先にあるものを」
不服そうにしながらも、少女は上へ上へと木をのぼり、とくに赤い葉に、指先をふるわせながら、手をつきだした。
「――あ」
ちぎったその瞬間、もみじの細い枝は折れ、少女はまっさかさまに、赤い落葉の待つ地面へ落下した。おくれて、少女のつんだ赤い葉が、流の足元に舞い落ちた。
流は少女のつんだ落ち葉をひろい、しばしながめて、そっとふところにしまった。時機をみはからったように黒主がもどってきて、少女の死体を一瞥し、声を出さずに笑った。
「しょせん、葉は葉だ」
それだけ言い捨て、戦乱が生み出した子は、戦乱の悲劇が生み出した子から眼をはなした。
「私を殺したいか?」
「――ええ。とても」
何度目かわからない問いに流が答えると、黒主は笑いを深くした。
「助けておいて、殺すか。おまえはつくづく絶望を見せたい――いや、見たい性格らしいな」
「どうせ私は、あなたの元でしか、生きていけませんから」
流は不自由な片足をゆらし、葉が一枚、また一枚と落ちて作られた赤い海をながめた。深いため息が、もれる。しかし、ため息はその一息で止まる。
屋敷の外は、飢えを満たして刃を逃れ、生きるに生きる、過酷な日々。足の不自由な流が切り捨てられるのは必然だ。
流は嘆かない。それは非情でも、無情でも、なんでもない。摂理というもの。争いの絶えないこの時世では、弱いものは切り捨てられていく。ならば弱いものは切り捨てられぬよう知恵をしぼり、策を張りめぐらし、つねに神経を研ぎ澄ましていなければならない。
「だからおまえは、おまえを害するものと、私を害するものを排除する、と。おまえほど、ねむっているときも敏感なものはいないだろうよ」
黒主は己の剣を流にほうり、流を抱きあげた。剣をなげられた方は、やや眼をみはる。
「私はおまえをまったく信頼していない」
「では、なぜ、剣を?」
「だからこそだ。おまえは私を殺さない。少なくとも、この戦乱の世が終わるまでは」
黒主は誰にむかってなのか、一笑した。
「したたかなやつめ。この地獄の季節が終わるのを待っているのだろう? 強者と強者が殺しあい、潰しあい、死の静寂が大地を支配するそのときを。だからそれまで、おまえは私を殺さんさ」
流は剣のつばを押し、刃のきらめきを確認すると、また鞘に収めた。黒主の首に腕をまわし、落ちないように、すがりつく。
「最後に笑うのはおまえというわけか」
「……さあ。でも、戦乱が終わっても、私はあなたに頼らなければ、生きていけません。私は冬の寒さにも弱いのですから」
「そうだろうな」
二人は太く荒々しいけやきを、見上げた。茶色い葉の中に、こんもりと、まるく緑が密集している部分があった。
緑の枯れる冬の期に、光を浴びて花咲かせ、実をつけ殖えて、富み栄える。木々に住みつき生い茂り、大地に根づかず宙に浮く。寒期の緑、宙の花、しかし宿主なくしてありはせず、宿主とともに生き永らう。他と同じく何かに拠って、一人生きゆくその木の名、寄生木と、人はいう。
二人はけやきから視線をはずした。
黒主は流を冷笑し、流も黒主を冷笑した。
「しっかり主を守るんだな、愛しい流」
「ええ、我が主」
愛も恩も情も、忠義も信頼も妥協もなく、流は黒主の剣を抱き、黒主は流を抱いた。歩み寄ることも、寄り添うこともないが、二人はそれでも、共にいる。木とやどりぎのように。