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あの花の向こうにいる君へ

作者: 伊生 蕗

本作品はフィクションです。

現実に存在する組織・団体名・個人名・病名とは何ら関わりを示すものではありません。


軽くもなく重くもない読み物になっております。

精神的負担を感じられた方は読了を避け、お控え願えますよう申し上げます。


また、一人称変更についてはリスクを承知の上、意図的に主人公とヒロインの会話分の混同を避ける目的、一人称変更による感じ方の効果を操作する目的、の二点から行っております。

これに嫌悪感を示される方もお気をつけ下さい。

「綺麗だ……。今年も見れて良かった。本当に……」

 ようやく今年の春もやって来た。そう、思った。中庭の花壇には多様な花の芽が出ていると、看護士から聞かされたのが思った理由の一つ目だ。

 そして、この窓から唯一眺められる切り取られた箱庭の景色の中、遠くの公園に鮮やかな桜色が並び始めていて、自身の目で確かめたのが二つ目。

 少しの肌寒さは気にもならず、私はまともに動くのが辛くなった体を持ち上げた。その際に上を向いたことを後悔する。

 こうして起き上がる時に、嫌が応にも見える白けたタイル板の天井、ベッドの周りに付けられた真っ白のカーテン、それらは気分を辟易へきえきさせる効果しか持ち得ない。折角の美しい桜が台無しになってしまった。

 かれこれ二十年もの病院暮らしだ。ここに長くいる理由は、原因不明の病が私を蝕んでいるから、とのことだった。現代医学の粋を集めてまでも、高名な医者たちが直ちに分からないと首を振った。時間が経てば、いずれ分かるのかも知れないが、治療法をこの体で確かめる日は恐らく来ないだろう。

 私という殻から解放される時まで、この限られた世界の景色以外を目の当たりにすることは二度とないのだと、数年前から気づいている。

 闘病してまで見なければならぬものは、それなりに見てきたはずだった。が、本当に見たいものは見れていない。見れるかすら判らない。

 だから半分は諦めていた。

 なのに、今年の桜は堪らなく愛しく綺麗で、淡々と諦観に伏し切れないのだ。

 人を魅了する艶やかな美しさが、心に引っ掛かったままの少女を彷彿とさせた。

 ああ、私はまだ――愛する彼女に何一つ伝えられていない。

「六十年前もこんなに綺麗な桜が咲いていたね。ほのか……」

 とても美しかったと記憶している少女の名を呼び、視線で桜を撫ぜた。



――六十年前――

 俺の夢は幼い頃から変わらず、画家になりたいというもので、高等学校まで公園のお気に入りの大きな桜の下でひたすらに絵を描き、絵描きの道を志していた。

 特にそこに決めていた大きな理由は、桜がとても美しかったからという安易なもの。人間の少女が儚げに笑っているような不思議な印象にいつしか(とりこ)になっていたからだ。

 気づけば桜に聞かせるように、学校でのことや将来の夢、日常の些細なことまでを話すようになり、公園を利用する人たちに白い目で見られることさえあった。

 思い入れが強くなればなるほど、桜の木を愛しいと感じた。そうして俺の中では確かな存在となり、画家になれたら彼女に報告するというのも一つの夢になった。

 しかし、戦後復興を急ぐ中で安易な道ではない。余りに険しいその(しるべ)を追うことは、母を泣かせ、父との仲違いを加速させた。

 結局、親の期待に応える形で高等学校を出て、大手紡績会社へ入社という平坦な道を選び、取引先を周りへこへこするのが俺の日課になった。

 そんな折、一つの契機は訪れる。

 上司のツテで知り合った骨董商が青空絵画教室をやらないかと持ちかけて来たのだ。これからの時代は、芸術を志すものが多くなるから、芸術学校は注目を浴びるだろう。という甘言にも似た誘いだったのを覚えている。

 騙された気持ちで話に乗り、年配や子供達を対象とした教室を公園の一角で開き副業とした。誰かに絵を教えながら、自身も絵の腕をあげられるとの目論見も少しあったが、何より現在の仕事をしながらでいい、というのが意思を固めさせる一番のきっかけとなった。

 とはいえ、二束のわらじというのは困難を極める。仕事が寝る時間へ食い込み始めると、体は次第に疲弊(ひへい)していった。

 そして、少しくらいなら。と、怠惰(たいだ)を律し忘れ、慢心を止められなくなる頃には、人間として何かが欠如していた。

「まずい……後五分か……」

 俺は無我夢中で、公園に続く桜並木を体力の続く限り疾駆している。

急ぐのには理由があった。

 自社に懇意にしてくれている取引先の社長が絵に興味を持っているとして、彼の絵画教室への入会と引き換えに一層の愛顧を賜る機会を得た。

 社長は衣沼誠(きぬぬませい)という名前で、名前の通りの誠実な人だった。こちらがへつらう立場であるのに対し、普通入会者と同じく入会金を払って入ってきたのだ。

 最そう頭が上がらなかったが、平等に他の生徒と同じ扱いをするようにと、釘まで刺されてしまった程の高尚な人格者でもある。

 今、その衣沼氏の参加する第二回目の絵画教室に遅刻しそうになっていた。講師が遅刻するのはもっての外。何より、会社の運命をも背負っているので気が気ではない。

「これで遅刻なんてしたら、完全にクビは免れないな……。いつから俺はこんなに責任感のない男に成り下がったんだよ……」

 愚痴っている場合でないのは分かっているのだが、卑下しなければ自身を保てずに現実逃避しそうだった。

 残り二分。ラストスパートである遊歩道と車道を横切れば公園に続く階段がある。そこで足を取られなければ、ギリギリで間に合うかも知れない。

 そう思った刹那、並木を横切る形で人影が現れた。一気に詰めようとして早めた足だ。取り急いで速度を緩めても、慣性の法則がたたらを踏ませた。

「うわ!? 危ない! ……避けてッ!!」

「えっ!? ……ぁ、きゃっ!?」

 人影は薄桃色地に白花柄の着物、濃赤袴、茶の編み上げブーツといった女学生の格好をした茶色の髪の人形のような少女だった。芸術家の性か、一瞬でそんな情報が頭に入ってきたが、悠長に考えにあげている場合ではない。

 突然の急ブレーキは余り意味を成さない。まず、間違いなく少女を巻き込むのは必至だ。彼女に接触した瞬間に、抱き寄せて自分を下敷きにする機転を利かせるが、咄嗟のことだったからか、敏捷には反応しきれず足首を捻ってバランスを崩した。

 もう時間切れ、だ。どの道、間に合ったところでギリギリでは心象など望むべくもないが。

 それならば未来のない俺自信よりも、この少女を助けて正解だったろう。俺が走っていたせいで巻き込まれたこの子は被害者でもある。

 背中から地面に落ちて起こった強烈な衝撃は脳に到達し、軽い脳震盪を起こした。と、同時に画材の入ったバックを手放してしまい道具が散らばる。

「……ぐっ!」

「あ……ぅ、……あぁ!! ご、ごめんなさい!?」

 少女の方に大きな衝撃はなかったのか、すぐに身を起こした彼女は慌てたように声を発した。

「本当にごめんなさい!! きちんと周りを見ていなくて……」

「ああ。いや、大したことはありません……。それに貴女がそれを言っちゃいけない。俺が自分のことに急いて、往来で止まろうとしなかったが悪いのだから」

「そんなことは……、つい目的地が近くて逸った心を抑えなかった私にも責任があるのですし……」

 少女が首を振って否定し、悲しげな表情を見せるのがどうにも遣りづらい。彼女の言う通りに責任があったにしても、ほんの一部だ。この状況なら九割方の非は俺にある。

「では、九割が俺で、一割が貴女のお互い様ということで……次から互いに気をつけましょう」

 全くお互い様でない申し出に不思議そうな顔をした少女だったが、すぐに落ち着いた表情になり頷きはしないものの、俺の上から離れた。

「それより、急場とはいえ抱き止めてしまって申し訳ないことをしました。未婚の婦女子に触れてしまうなど言語道断……ああ、それと怪我は、御座いませんか?」

 抱いたという言葉の辺りで視線を逸らした少女の顔に少し赤みが帯びた。

「いいえ。あなたが抱きとめてくださったお陰で傷一つないのですよ? 少し恥ずかしいですし、びっくりしましたけれど、守って頂いたのに文句を言うなんて、それこそ言語道断です」

「そうですか……。それならいいのですが。……ぃつッ!」

 確かに少女は目だった外傷は見た感じになかった。俺にもなかったが、起き上がった瞬間に肩と足に痛みが走る。視界も少しだけ揺らいだ。

 肩の方は打ち身だろうし、不幸中の幸いにも筆を握る方でない。が、足は捻ってしまったらしい。捻挫というほど酷くはなさそうだが、歩けるまでに時間がかかりそうではある。

 そんな俺の反応を見て、緩ませたかと思った彼女の表情は途端に険しいものに変わった。

「もしや……、あなたがお怪我を!? ど、どこかで手当てをしませんと……!」

 慌てる彼女に制止の手をいれた。

「いや、血が流れているような気配もないし、ただの打ち身でしょう。足も少しすれば歩けるはず。……これから仕事がありますので、穴が空けられません。終わってから病院にでも行けば大丈夫ですので、ご心配なさらずに」

「ですが……」

 俺は痛みで引き攣りながらも笑顔を浮かべた。

 少女は心配そうだったが、散在した道具の中の絵筆に視線を留め拾い上げると、道路の反対側に視線を移した。

 彼女のしなやかで細く美しい指が公園の中を示し、疑問符と一緒に首を僅かに傾けた。

 釣られてそちらを見てしまう。もちろん、見ている対象は公園でなく少女の綺麗な指先なのだが。

「もしかして仕事というのは、そこの公園で開いてらっしゃる絵画教室のことでしょうか?」

 意外な反応だった。

 というのも、言葉遣いからしていいところのお嬢様だろう彼女が、青空教室を知っているのは不自然極まりない。どこだかの令嬢が絵画を学びたければ、高尚な画家を屋敷に招くのが通例というものである。

 富豪の娘の制服がセーラーでないのが不思議ではあるにしても、着物が好きなのだろうと思えば不適当ではないし、気品を醸す所作は彼女が上流の身だと示唆している。

 気にはなったが、余り間を空けてはいらぬ不信感を与えると思い、俺は上ずった声を絞り出した。

「え、ええ……。そ、そこの講師でして、とはいっても俺しかおりませんし、責任者でもありますが……」

「そうなのですか? なんという偶然なのでしょうか!」

「ぐ、偶然……?」

「わたくし、本日入会を申し込みに参りました。嵯峨野ほのか、と申します。父の知人の骨董屋さんから蒼海雪永あおみゆきなが先生は素晴らしい絵描きだとお聞きして、是非とも学びたいと思って来たのです」

 入会という言葉に、生徒が増えたという純粋な嬉しさが先にやってきて、名前の方に突っ込む余裕がなかった。

 だが、骨董屋を反芻し遅れて驚きが到達した。恐らく俺の青空教室のスポンサーのあの骨董商で間違いないだろう。この辺りでは、骨董品を扱う店はそこしかない。

 胡散臭いと思っていたが、富豪との繋がりがあるのであれば、それなりの安心感を得られる。 知った偶然は、それほど悪いものではない。

 それに俺も男だ。可愛らしい少女とお近づきになれるのも決して悪い話しではない。しかも、教室に入会ということは彼女と顔を合わせる機会も増える。

 かなり動機が不純だが、美しい少女を前に心乱さずにいられる紳士はいないものと思いたい。かたや令嬢で、かたや絵描きの卵では色気づいた話には、まずならないだろうが。

「そういうことなら、入会を受理させて頂きます。……改めまして、蒼海雪永です。よろしく、嵯峨野さがのほのかさん」

「はい、よろしくお願いいたします」

 俺は快諾した。先に思った男らしい情からのものばかりではない。

 このほのかという少女の絵筆を見たときの双眸の輝き具合が、そのまま絵に対する想いの強さになっていると思ったからだった。

 それが何に由来するものであっても、瞳から得られる憧憬どうけいに誠実さがこもっている限り、彼女は絵を大事にできる人間だと思えた。

 だから、自分の散らばった道具の中から、今朝下ろしたてた絵筆と木炭を手に取ると差し出す。

「え、あの……?」

「まだ道具がないでしょう? 絵筆は絵描きの命。これから一緒に絵の道を志すからには、貴女に必要なものです。俺の命のおすそ分けでは心許ないですが、是非に」

 一瞬、面食らった様子を見せた彼女は、すぐに表情を真綿のように柔らかなものにした。

「いいえ。そんなことないです。とても心強くて……本当に嬉しい。ありがとうございます……。これは私の宝物になります」

 受け取った彼女は紙に包んだ木炭と絵筆を胸元で嬉しそうに抱き、頭を左に揺らして表情を満面の笑顔で彩った。

 宝物とまで言われれば、こちらまで照れてしまう。心の奥が満たされて温かい不思議な感覚に見舞われた。

 どこかで感じたことがあるようなそれに、言葉が詰まって出てこなくなった。頬を掻いて笑い返すより他の反応はできそうにもない。

「どうか、されましたか?」

「あ、いや。何でも……」

 余り世間に触れていないだろうこの反応、やはりこれは彼女が深窓に育ったことを有に語っている。語るより易しか。

 お嬢様がお付を連れずに何故こんなところにいるのか、という素朴な疑問は起こるが、人を疑うことを知らなさそうなこの笑顔に、他意があるとする不遜な計らいは今の俺に出来そうもない。

 そんな風に色々を考えつつ、何と切り出していいか迷っている男を前にして、沈黙に耐えられなくなったらしい彼女は小さな声で新たな会話の口火を切った。

「あの、……よろしければ、ほのかとお呼びください。敬語もなくて結構ですから」

 会ってまもなく唐突にもそう言われてしまえば、俺の口から出たのは当然の返答だった。

「呼び捨て、ですか?」

「たった今より、講師と生徒ですから。先生が生徒に敬称や敬語なんて変ですよ?」

 言われて見れば、そうかも知れない。彼女がいかな家の出であっても、教師が家柄で生徒を評価してはいけない。

「じゃあ、ほのか。ビシバシ教えるからついてきてくれよ?」

「はい、先生」

 俺の講師ぶった一言に、二度目の彼女によく似合う美しい笑顔が灯された。

「後、肩を貸してもらえないかな? 大したことないみたいだけど、すぐに歩けそうにないんだ」

「はい。こんな頼りない肩でもよろしければ使ってください」

 彼女の卑下には首を左右に動かし否定の意を込める。

「頼りないなんてとんでもないな。人生初の肩を借りる女性が、ほのかで男心が揺れてしまうよ。罪作りな素敵な肩の間違いだ」

「もう、先生ったら……。会って間もない青い娘を、そんな風に甘い一言で誘うのが流儀なのですか?」

 少しだけ演技がかった素振りで顔をフイっと背けたほのかのわざとらしい怒り顔さえ、優雅な仕草にしか見えない。

 俺の心に余裕なんてあるはずもないが、彼女の声に答えた笑顔は少しおどけていて、続いた科白だけがかろうじて真剣さを滲ませた。

「まさか。こんなことを言うのは君が初めてだよ。自分でも信じられない。絵だけに向き合って生きて来たのに。……嘘偽りなく、ほのかの中に潜む豊麗に捕らわれた。君に逢ったことは良い意味での俺の運の尽きさ。……向き合って君の笑顔を見ていたい。多分これは絵描きのひらめきなんだろうな」

「お上手ですね。でも、こんなにも私が幸せな気持ちになるのは、先生流に言えば、先生の中に潜む優しさに捕らわれたからなんですね……?」

 そう言って、ほのかは赤ら顔で三度目の笑顔を見せた。

 花は何度も見ていると美しさを感じにくくなると言うけれど、彼女の笑顔には見る回数を重ねるほど惹き付けられる何かがあった。

「そう、なるかな……」

 胸の中で早鐘が打ち踊るのは、美しいと称された数多を見てきた中でも、それらのすべてに勝る最上の笑顔を感じ取ったからか。

 天使の微笑み。そう名づけられるならば一番合点がいってしまうほどの輝きを彼女は放っている。このとき、理解した。

 ほのかの笑顔に、彼女に一目惚れをしたのだ――俺は深い恋に、落ちてしまった。



 いつも大きな桜の樹の下が教室だった。ちょうど季節なこともあり、綺麗に桃色づいている。

 今日はこの桜を描くことになっており、すでに教室の場所には年配者と子供たちが集まって談笑していた。

 そして、無論のこと衣沼氏もいる。怒っているかと思いきや、むしろ足を挫いてほのかに支えられる俺のところに慌てて駆け寄って来た。

「先生! 大丈夫ですかな!? 何があったのです!」

「あ、はは……。足を挫いてしまいまして」

「私の不注意で衝突しそうになって、先生は私を助けてこのような……」

「あ、いやいや。俺の責任の方が大きく……」

「なんと……。なんという! 先生の婦女子を守る紳士たる行動だけでも素晴らしいのに、男女の庇いあう姿! この衣沼、胸が熱くなります! 久方ぶりだ!」

 何やら衣沼氏が感動してしまった。これでは事実を言い出せない。

「先生は、噂に聞く素敵な方でした。身を挺してまで、私の下敷きになってくださって……」

 ほのかまでが持ち上げ始める。さすがに背中がかゆくなってきて、全てをあらいざらい吐露したい気分だ。

 それにしても事実無根であるとはいえ、手放しで褒められることがこんなにも嬉しいことだとは知らなかった。身に余る光栄すぎて、俺の器では受け取りきれそうにないけれど。

「ところで、重くはなかったですか?」

「え、いやいや! 何を言うんだ。羽のようだったよ……?」

 突然の質問で狼狽した俺は、無難を通り越した言葉を選んでしまった気がする。

 ただ、あながち間違いでもない。気にする余裕がなかったのを差し引いても、よく思い出すと確かに軽かったのだ。羽は言い過ぎたかも知れなくても。

 ほのかが眉を潜め半眼で口をぷくっと尖らせているので、やはり言葉は正しくないらしいが。婦女子と会話を交わすことが少ないせいで選択肢がほぼないのも祟っている。

「もうっ、先生あんまりです! それでは、逆に嘘みたい。本当は重かった、と言っているようなものですよ……?」

「ええっ!?」

 俺たちのやり取りを見ていた衣沼氏は、立派な顎鬚を触りながら朗らかに笑った。

「おやおや、先生も隅に置けませんな。まるで痴話喧嘩のようですぞ」

『なっ!?』

 俺とほのかは声を合わせてから続いて顔を見合わせ、紅潮させ同時に俯いた。

 けれど、すぐに顔を上げた俺は口を開く。

「困ったな、ハハ……。衣沼さんは冗談がお好きで。……彼女は、今日から入ってくれる受講生なんですよ。痴話喧嘩とか、俺はいいですけど彼女に失礼かと」

「そんなことは……ないですけど……」

「へ?」

 頬を赤らめたままで、ポソリと否定した彼女に視線を移すと、すぐに慌てた顔でハッとしながら首を振った。

「な、なんでもありませんっ。もう……小父様は……。あんまり私たちをからかわないでください」

「すまないね。ほのかちゃんが、ベッピンさんなもんだから先生なら相手にピッタリだと思って、ついつい……」

「もう、また……!」

「いやぁ、本当にすまない! 悪気はないんだよ」

 随分と親しそうな二人のやり取りに眼を点にするしかなかった。

衣沼氏の冗談は、俺にとっては嬉しくないと言えば大きな嘘になる程のものだったが、今は疑問の方が勝っている。

「二人はお知り合い、で……?」

 疑問に返答したのは、ほのかだった。

「はい。父が古美術を扱う仕事をしていて、小父様が趣味で始めた事業も古美術つながりですから古くから交流があって、私が絵を学びたいと言い出したら小父様が、骨董屋さんを紹介してくださり、それで先生を知りました」

「なるほど、そうだったんだ……」

 これで謎が解けた。彼女の家がどこかは分からないが、公園の近くの車道までは側用人が同行したのだろう。直前で一人だったのは、信頼の置ける衣沼氏がいれば、安全と踏んでのことに違いない。それにしたって無用心には変わりはないのだが。

「先生ーお絵かきまだー?」

 話して込んでいてうっかりしていた。そうだ、俺は遅刻していたのだ。

 講師の大遅刻を許して貰えるとは思えないが、素直に謝罪するしかない。

 二人の間を縫って出ると、俺は頭を下げた。

「皆さん、申し訳ありません。時間に遅れ……」

「何を言ってるんです、先生? 今しがた九時になったばかりですぞ? わっはっは」

 衣沼氏はおかしなことを言いながら大笑いして背中をバンバンと叩いてきた。

 打ち身の肩に響いて痛かったが、痛みよりもむしろ気になったのは時間だった。

 会社から借りている腕時計を見やれば、教室の開始時刻だった朝の九時を大きく越え、長針は十五分を差していた。昨日の夜にラジオ放送で、腕時計も目覚まし時計も秒単位まで正確に合わせたから間違いはないはず。だったのに、何故だ?

 俺が不思議がっていると、衣沼氏は時計を覗き込んで来た。

「先生の時計までズレている。ワシの時計は時計屋が合わせているので正確ですぞ。……皆、腕時計を持っていないというので、代わりに時間を見ておりましたが、先生の時計までこれなら持って来た甲斐があったというもの」

 衣沼氏は時計を自慢するような人柄でないと俺は知っている。仮に自慢だったとして、こうまでわざとらしくする必要もない――皆に聞こえるようにわざと言っている?

 そう思ったところで、服の裾をちょいちょいと引っ張られた。傍らに視線を移すと、ほのかは懐から出した懐中時計を俺に見せた。九時を回っている。俺の時計と、そう大差ない時刻だった。

「小父様は昔から、ああいう人です。人の不幸を食べてしまわれるのです」

 ほのかの微笑みと意味深な科白の中から、衣沼氏の行動の意味を汲み取れた。

 自ずと気づくことではあったろうが、彼の善良さに糊付けされた思いやりや親切心にまで気が回ったのは彼女を通したからこそ、だ。

 衣沼氏は俺の遅刻をなかったことにするために、わざわざ自らの自慢のフリをして、時計のない人たちに偽りの時間を教えていたのだろう。嘘も方便というやつだ。

 涙が出そうになった。改めて衣沼氏の温かさと心の恰幅の良さを知り、身の上だけを恐れ、自分のことしか考えられなかったことを恥じた。

 そして、それは彼女がいたから気づけたと言って言い過ぎじゃない。俺にとって、ほのかはあらゆる面で必要な存在だと直感した。

「衣沼さん……、ありがとうございます」

 俺は深く頭を下げた。この行動は、彼の言う時間を信じた他の生徒たちには不思議に映ったことだろう。

「何のことです。早く来過ぎてしまったことは迷惑になっても、感謝されることはありませんが、はて? しかし、感謝は嬉しいもの。ありがたく頂きましょう。返却はできませんぞ? わははっ」

 残りの表しきれない深い謝意は心で表し、首を縦に流した。それに対し、衣沼氏は満足した表情で生徒達の元へ戻った。

 俺も続いて教卓、といってもただの丸太の机があるだけの場所に向かおうとした背中を、ほのかは振り向かせようとしたのか、少し触れた。

 肩越しに振り向くと彼女は赤らめ顔で見上げてきた。

「蒼海先生……、痴話喧嘩もいいと仰ったのは……、その。本当ですか?」

 問われて今更に自分の発言を思い返し顔が紅潮し始める。確かに俺はそんなことを言った。

 まさか今頃になって突っ込まれるとも思わず、言ったこと自体を失念していた。

 しかし、ほのかの表情や言葉尻の調子を窺うに、不埒な発言を咎める類のものではないのが分かり、別の意味合いを考えてみた結果、一つの結論に行き着いた。

 決して打算の腹積もりで言うわけではない。心から想うことではあるが、この場面では彼女を喜ばせるためだけに選んだ言葉に聞こえるかも知れない。

 だが、それでも言い。どうしても伝えて置きたいのだから。

「本当も何も、心のままに言ったよ」

「それは……それって、あの……?」

「絵描きとして、君に出会わせてくれた神に感謝したい。もし、叶うなら近い内に君の笑顔を描き留めて置きたいと思うほど。それから、こんな答えじゃつまらないかも知れないけど、痴話喧嘩以上に、もっと色んな場面を作りたい。一人の男としても、これが運命の出会いであって欲しいと思うんだ。……会ったばかりの男にこんなことを言われたら気持ち悪いだろうけれどね?」

 色々な感情にめっぽう強いと思っていた俺の頬は熱くなっていた。照れている。

 この少女の前では、それなりという言葉を核に打ち立ててきた感情のハリボテなど何の意味も成さないのが判った。

 それほど魅力的で、適度に持ち得てきた価値観は見事に転覆してしまった。

 どう見繕っても告白としか言いようのないこれに、ほのかは至福と形容して相違のない笑顔を赤面した顔に浮かべ答えた。

「気持ち悪いと思いません。だって私は……、蒼海先生がたくさん篭った絵にもっと前から触れていますから、会ったばかりではありませんし。それに、先生にそんな風に言われるのは、とても嬉しいという方が優先されますから……」

 ほのかの俯いてもじもじする姿を見て、胸の奥が激しく鼓動した。これが噂の心奪われるというものなのか。

 ずっと盗られていたかったが、彼女の言葉の中で気になった部分を、恨めしい口が無意識になぞってしまった。

「俺の絵に、前から……?」

 驚きの顔を浮かばせた彼女は、何事もなかったように手を左右に揺らす。

「あ、いえ……。ほ、ほら子供達が待っていますよ。さ、参りましょう?」

「え。あ、ああ……?」

 ほのかは先の言葉を濁し真っ赤な顔をさらに蒸気させた後、俺の手を引いて小走りで席へ向かう。先に着いていた衣沼氏や子供たちに、なぜか俺たちは拍手で迎えられたが、どのように思われていても、彼女との繋がりが増し加わるのは嬉しかった。

 気づけば肩も足も痛みが引いている。彼女に触れられてからだ。そういうことにしていたい。

 それだけ彼女が俺にとって大きな存在であり、運命の人だと思いたかった。



 それから一週間に二度の絵画教室は、冴えない生活の中のオアシスになった。

 女神のように人生に光明(こうみょう)を施してくれるほのか、父親のように優しく見守ってくれる衣沼氏、二人の存在は諦め掛けていた画家への道を再燃させるきっかけになっていった。

 いつしか、ほのかとは教室が終わった後、監視付きではあったものの一緒の時間を過ごすことも多くなった。

 そんな中、彼女との未来を真剣に考えたいと思うようになり、夢とは別に何がなんでも画家を目指す必要に駆られた。努力で才を開花させられたなら、彼女の横に立つ機会も必ず巡って来るに違いない。そうも思った。

 毎日仕事を終え、帰宅するなりカンバスに向かう。睡眠時間を削って描き続け、出来上がった作品は骨董商の知り合いだという絵画商のところへ持ち込んだ。

 いずれ誰かの目に留まると信じて、ひたすら邁進して二ヶ月が過ぎた頃、一本の電話が入った。俺の作品<神の卵>が、フランスの画家協会エベル・セッヴォーレの協会員ジョセルの目に留まったという知らせだった。

 ジョセルは海外を周って画家として高い資質を持つ人を集め、誰の心にも残るだろう作品を多く後世に伝えて行くために活動している、と大きな志を語った。彼自身も画家であり、俺にも画家の将来を担って欲しいと持ちかけて来た。

 断る理由はなかった。今の仕事よりも確実に稼げる可能性がある。憂いがあるとすれば、ほのかとの関係のことくらいだ。出来ることならば、彼女の両親に会って正式な交際を認めて貰い、フランスに彼女と共に渡りたい。

 どんな逆境があったとしても、彼女を必ず守ってみせるという若い力に触発されて、俺は半ば怖いものがなくなりつつあった。彼女の両親とも上手にやれば会話の機会があると、思ってもいたのだが。

 しかし、運命とは残酷なものだ。ジョセルとの話も纏まり、ほのかの両親と対話する機会が訪れようとしていたときのことだった。

 彼女の両親との話し合いに力を貸してくれた最大の功労者である衣沼氏が急逝した。

 そして、彼がいなくなってから、驚くべきことを知った。

 ほのかに俺の噂を教えており、教室の講師職を持ちかけて来た骨董商と、その知り合いの絵画商、他にも多くの古美術に関わる商人たちの後ろ盾が衣沼氏だった、と。

 つまり、俺の絵を早くから評価していたのが衣沼氏だったということになる。彼はもっと前から俺を知り、敢えて何も知らない振りを通していた。無償の親切ばかりが人を成長させるものではないのだと、彼なりの教えだろう。

 最初から計算されていたような整然とした流れを知り、ジョセルに偶然だったのだろうかと愚痴った俺に、彼の口は予想外の回答を返してきた。彼が作品に感銘を受けたことは自身のものだったが、俺の作品を一度見て欲しいと要請してきたのは衣沼氏だったと。

 衣沼氏は骨董品や外国絵画で富を築いた経歴がある為、フランスの画家とも交流があったことは想像に難くない。ほのかの父親にも融資をし、大会社に成長させていたのだそうだ。

 教室の終了後、ほのかの口からも幾らかを聞かされ、耳を疑うばかりだった。

「小父様は、私が絵を好きなことを知り、注目している未来の画家だと言って先生の絵を紹介してくれたんです」

「やっぱり、衣沼氏は最初、から……」

「変に思われないように骨董屋さんを出しましたが、それよりも以前に小父様の導きで私は先生の絵に恋をしていました」

「じゃあ、もっと前から、っていうのは……」

 ほのかの告白に問い返すと、彼女は深く頷いて見せた。

 俺は、この子にどうしようもなく惚れている。ほのかもまた、好意を持ってくれているものだと感じてはいた。けれど、そう導いたのが衣沼氏だったということに、口を閉じるのも忘れ呆然とした。

 が、誰の思惑が絡んでいようといまいと、いかなる流れが作られてしまっていようと、この想いは俺のものであって、嘘偽りもなければ前提に異論など唱えるつもりもない。

 もう、抑えきるのがやっとなほどに彼女を愛しているからだ。ゆえに見つけたいものがあった。

「俺の絵を、そんなにも……?」

「優しさと、自由な心。そして慈しみ、色んなものが込められていたから、としか言い様がないです。……あ、ですが画風とか繊細な色使いだって好きです。だから、ここにいます。近くで見ていたかったから」

 発された言葉の中に、俺の探し物はちゃんと隠れていた。

 自由、それはずっと求めてきたものだ。絵の中に表し、誰かに共感してもらいたかったもの。 それに気づいてくれていた。彼女に向ける答えを、限定する必要はもうない。

「そう言われると照れるな」

「先生の絵に焦がれた私なんかの為に、小父様が用意したこの舞台は迷惑じゃありませんでしたか……?」

「普通なら、計らいに驚愕する。でも、衣沼氏の先見性、心の広さ、言葉を尽くしただけで表現できない特質、何もかもに感服してるから、それすらその一部になった。まぁ、ちゃんと驚きはしたけど」

 俺は静かに声のトーンを落とすと目を閉じ、すぐに目を開いた。

「……それにね。天使のような女の子に出会わせてくれたことが偶然でなくたって構わない。感謝したい存在が、神でなく衣沼氏だった。これを浪漫でなくてなんだと言うんだろう。って」

 俺の言葉を聞いて真っ赤になったほのかは、頬を隠すように両手で顔を覆い、焦げ茶の長い髪を揺らして愛らしい反応を見せる。

 この姿を見て芳しさに浸る時間はそう長く続かない。この関係に必要だった衣沼氏がいなくなったことで、何かがひび割れていくだろうことは、重々に承知している。

 だからと言って、順応するつもりもない。今が流れに抗がえる最良の時。

「先生と、もっと長く……一緒にいたかったです」

「やっぱり、そうか……。昔から、俺の勘はいらないことばかり当たるんだ」

「……今日まで、ありがとうございました」

「…………」

「理由は、聞かないのですか?」

「聞いて俺がどう思うか。と、それを君にわざわざ負わせるのは紳士的じゃない」

 ほのかは少し微笑み、小さく。本当に小さく頷いた。

「先生は、思った通りの優しい人です。……これで、安心して離れられます」

「一応、聞かせてくれ……。このままではいられない、のか?」

「それが、運命ですから。私が先生といたいと思って、その我侭を先生に背負ってもらうのは、淑女的じゃないんです」

「それは覚悟の上だと、俺が言っても……?」

「だからです。小父様と先生の優しさに甘えて、立ち向かうことを忘れて、それで誰かを踏み台にして授かった明日に笑顔を向ける自信がありません」

「なら……」

 次の言葉を言おうとした俺の唇に細くしなやかな指が当てられた。初めて心を奪われた白い指先が、今度は離別を示そうとしている。

 この現実に堪らなく心を掻き毟られた。

「これでいいんです。お互い、甘い夢を見ていました。小父様という神様が与えてくださった小さな奇跡を体験していたんです」

 俺に覚悟があるように、彼女にも覚悟がある。

 そういうことなら、俺が出来るのは彼女の覚悟を尊重しながらも、同じ未来を進めるよう物事に自分の意思を絡めて修正することだけだ。

 そう思い、イーゼルの上にカンバスを乗せ、立ち上がった。

「分かったよ……。じゃあ、これが最後だというのなら……、君の絵を描かせて欲しい」

 申し出に一度は驚いたほのかだったが、わずかな間を置いて薄く微笑み頷いた。

 木炭を手にして書き始めた俺に、彼女は一呼吸置くと、一つだけ質問する。

「もし、恋に落ちた二人の敢えが無き運命を変える手段があって、それが酷く曖昧(あいまい)な道でも、抗った先の二人の道が再び織りあえるなら、先生はどうしますか?」

 変わった質問だったが、心に(うずたか)く積もろうとしている切なに抵抗するための答えは考えるまでもなく決まっている。

「その手段を使うよ? ……俺は運命に否定的じゃない。運命の人と出会えた奇跡だって、運命のくれたプレゼントだろう? そう教えてくれのは、君の存在だったんだから」

 カンバスに手を走らせ、しばらくしてから白い部分が多く残った板の上に視線を落とし、俺は告げた。

「違う明日を手繰り寄せて見せる。君を翻弄する運命の波から助けて見せるから、待っていて欲しい」

 視線を上げると、ほのかの驚いた顔には一筋の涙が伝った。

「その時に、この絵と一緒に言いたい言葉がある。受け取ってくれないか?」

「はい……。はい、待っています。いつまでも……」

 その日、彼女はずっと、輝いていた。



 後日、上司の計らいで衣沼氏の墓前に参列することを許された俺は、彼を支え続けたという衣沼夫人と部下に話を聞く機会を得た。おおむね、ほのかの言っていたことで間違いがなかったが、彼女の知らない身内にのみ伝わっている内容もあった。

 中でも衣沼氏が生きている間にほのかが恋を実らせた場合、彼の支援のもと彼女が愛する人と結婚することが約束されていたというものに驚かされた。

 なぜ衣沼氏が、ほのかの為にそこまで政略結婚を防ごうとしていたかは、彼が心にしまったまま他界して分からず仕舞いと言われたが、夫人は漠然と何かを察している表情に見えた。

 衣沼氏が亡くなり状況が一変し、ほのかが去った理由も知ることが出来た。彼には実子がいず、養子がいるにはいたが、正統な後継者ではないとのことで彼の弟に会社が継承されてしまったからだ。

 理不尽な話と言える。妻子がいて、遺言があったとしても、血の繋がりがなければ無意味なものにされてしまう時代だ。正統な血縁者に全て相続されてしまう。血の繋がりなんか、本質的な物事の前に何の効力も持たないものだと言うのに。

 結果的に衣沼氏を継いだ弟は、ほのかの父親の会社への融資を打ち切り、経営の窮地に立たされた彼女の父は、大会社の子息との縁談を泣く泣く進め、花嫁修業のために絵画教室を続けられなくなったということだった。

 彼女に理由を聞いていなくて正解だ。後ろめたさを背負わせることになっていたのは間違いない。

 そうして可能な限りの情報を集めた俺は、彼らの力とジョセルの力を借りて、衣沼氏の人柄で世話になっていたであろう外国の画家や古美術商に、ほのかの父の会社を助けて欲しいと何百通という手紙を送った。

 それに呼応してくれたのは、フランスやイギリスの画家や協会だった。

 だが、一ヶ月弱を経て支援が可能になった頃にはすでに遅く、ほのかの縁談は断りきれないところまで進み、まもなく彼女は望まぬ相手と結婚した。

 彼女の父親の会社はしばらくして持ち直したものの、彼女自身を救うことは叶わず、俺は失意のどん底に落ちた。

 何らかの手立てを打とうと考える内に二週間が過ぎ、ほのかの養母であるという女性が俺の前に現れた時、彼女に何が起こったのかを不思議と理解していた。

 ほのかの最後の手紙という封筒を手渡され、新婚旅行先の断崖で結婚相手の抱擁と口付けを拒んだ際、バランスを崩し滑落して亡くなったと聞かされた。

 信じられなかった。人が良さそうで、誰かを騙してきたことなどないだろう澄んだ瞳の彼女の義母を疑うつもりもない。でも、信じたくなかった。

 だが、口だけのものならそう思えたのにも関わらず、綺麗だと思った彼女の茶色の髪の一部と大事にしていた懐中時計、俺があげた絵筆と木炭を同時に受け取った時、否定し続けた感情は大きな濁流に飲まれるように消えていった。

 そして、本当に絶望を感じた時の人間の頭が真っ白になるという話が本当なのだと理解した。

唇が、全身が震え、立っていることもままならなくなり、体と心が剥離する錯覚と共に崩れ落ちて、目頭から血が出るかと思うほど泣いた。

 何度も、何度も、ほのかの名前を連呼し泣き叫んだ。

 彼女と二度と逢えないなら、生きていても仕方がない。命を絶って傍に行きたい。けれど、死することで彼女を完全に忘れてしまうことも辛く、記憶の中の彼女に生きろと強く繰り返され、ついに死ぬことは叶わなかった。

 それが人間の防衛本能の見せる幻だと分かっていながら抗えず、彼女の一部だった髪を握り締め愛惜する内に自分の殻に鎖し籠もっていた。

 出来ることならもう一度、彼女の眩しいほどの笑顔を絵にし永遠に残したかった。なのに、最初で最後に描いた彼女の絵は、悲しさを押し隠すため纏った別れ際の無理する笑顔の一枚だけだ。

 この世との(つが)りすら断てず、無気力に生きる人形に成り果てた俺は、一週間が過ぎた頃、ようやく手紙に手をつけ開封した。



――蒼海雪永様へ


 親愛なる蒼海雪永先生。

ご壮健でいらっしゃいますか? お体に差し障りのないことをお祈りして止みません。

 余りにも辛くて手が震えてしまって、文面の見づらいことをお(ゆる)しください。

 このお手紙を先生が読んでいる頃には、私はこの世にいないことと思います。もし、また再会できていたら、この手紙は私の手で火をつけていたでしょうから。

 こうなったのは、先生を誘惑してしまった私に罰が当たったからでしょうか。


 父のために嫁ぎましたが、私のこの心も体も、先生と話し、触れ合い、励ましあう為に持って産まれたもの。心にもない方のために捧げるものは何一つありません。

 先生の絵に触れたときから、永劫に私の魂はあなたの中にずっと捕らわれています。

 それでも残酷な運命は私と先生を織り合わせてはくれませんでしたね。

 私に最後に出来る抵抗はこんなものしかありませんでした。幾度と考え直してみても、最後に行き着くのは、あなたに捧げたかった純潔を最後まで守り通すこと、ただそれだけ。

 本当にごめんなさい。お待ちしていると申し上げて置いて、このようなことに及んでしまって、心からお詫びいたします。

 先生はきっと、許してはくださらないでしょうね。

 でも、この想いを、気持ちを、穢されたくなかった。例え、先生の心に触れたくて近づいた愚かな私が既に汚れていたのだとしても、この想いだけは綺麗だと信じたかったのです。

 ほのかの最初で最後の我侭を、どうか。どうか、お許し下さい。

 重たいものを背負わせるようなことをして、本当にごめんなさい――



 俺は嗚咽を上げて泣いた。

 これ以上ないくらいに泣き腫らしたはずの目は、痛みを無視して号泣させた。

 何故? どうして? どうしようもなかった? どうにもならなかった?

 そんな意味のない疑問符を繰り返し頭に浮かべながら、俺が本当に求めていたものの狭間で揺れ続けた。

 嘘だ、どうにかできたじゃないか? 絵描きの卵だから何だ?

 そう自分を責める声が内から聞こえてくる。考える必要などなかった。足がある。大事な人のために走っていけたじゃないか、と。身分や世間体を気にして、彼女を一人にしたのは他でもない弱い俺だった。

 自分が怖かったんじゃないのか。自分の大事さが勝っていたんじゃないのか。救われようとして、彼女の純粋な気持ちを利用していた背徳者だ。

 本当に心から愛していて、今なら走っていける。そう解ったところで、もうあの子はどこにもいない。

 拳を柱に打ち付けた。絵など描けなくなっても構わない。彼女が戻って来ないのは、自身のせいだ。こんな腕が、この体が、心が、彼女を傷つけた。

 そう思いながら何度も拳を叩き付ける。

 好きだったのに。愛していたのに。この腕だけが、想いだけが彼女を救えただろうに、立場に踊らされた不甲斐なさが憎かった。



 泣くのと、拳を叩き付けることを繰り返し、気づいた時には辺りは夜の海にどっぷりと浸かっていた。

 血塗れになった拳と、ヒビの入った柱とを交互に眺め、俺はやっと溢れ出ていた涙を止めることを覚えた。

 握り締めて血に濡れ、くしゃくしゃになってしまった手紙を額に当て初めて、一枚目に張り付いた二枚目があることに気づいた。

 文面の歪みと、ところどころ便箋がよれ張り付いていたのは、綴るときに彼女が泣いていて、涙を吸っていたからだとそのときやっと知ることが出来た。



――先生は、奇跡をお信じになられますか?

 私のことを少しだけ書かせてください。

突然でにわかに信じがたいことと思いますが、私は人ではありません。

 ずっと昔、先生の幼かった頃より、桜の木の下で絵を描き続ける先生を見てきました。

 私は人の肉体を持って生まれた花の霊、父と母の本当の娘でもありません。

 実の母には捨てられ、小父様に拾われて、今の父と母に託された私は、肉体のないときから見てきたあなたのことを思い出し、ずっと探していました。

 そして、出会うことが出来た。先生の絵を見たときに、探していたあの人だと直感したのです。

 それからの私は、小父様の助けを借りて必死に父と母を説得し、先生と会って一緒の時間を過ごすためだけに生きて来ました。

 こんな私でも、先生は素敵だと仰ってくれましたよね。短い間でしたけど、一緒にいられて充実していました。本当に後悔なんてないほど。

 肉体がなくなっても、霊に戻って先生を見守っています。

 喋ることはできませんが、ずっと……。


 いつか今よりも、もっと自由になった頃、先生のもとに笑顔で帰ってきたいです。

 だから絵を描き続けて頂けませんか?

 私の大好きだった蒼海先生の絵を、桜の木の下で描き続けて欲しいのです。傍で見ていたいから。

 それ意外には何も望みません。どうか、お願いします。

 本当は最初に書くつもりだったのが最後になってしまいました。

 蒼海先生のことを敬愛していました。人としても、男性としても。

 大好きです。愛しています。今も変わらず、永遠に。

 蒼海先生ならきっと、きっと大丈夫ですよね?

 信じています。それから、ちゃんと傍で見ていますから、絵を止めたら祟りますよ?

 いつかまた、出会ったあの日と同じくらい一番の桜が咲く頃に、お会いできることを願っています。

嵯峨野ほのか――



 手紙を額に当て、血塗れの手を見て握った。まだ描けそうだった。いや、描かなければいけない。そう、強く思った。

 こんな腕でも、今から向き合ってもまだ遅くないのなら、もう一度だけ最初から歩き直したい。

 今度は彼女をきちんと笑わせられるように、寂しい思いをさせないように、一人で闘わせないように、しっかり向き合おうと心に誓った。

「君が帰って来るまで描くことに決めたよ……。いつか会えるなら多分、頑張れると思う。正直、信じがたいけど、考えてみれば君は最初から信じられない素敵な女性だった。ちょっとした延長線でしかない。奇跡を信じるよ。だから、また傍で笑ってくれるか……?」

 振り返って問いかける。姿は見えなくても、そこに彼女がいるような気がしたからだ。

 そんな俺の肩に手が置かれ、後ろから抱きしめられたように温かくなった。これも気のせいだろうけれど、それでも頑張れる気がした。



 五年が経ち、俺はジョセルたちと名を連ねる画家になった。

 さらに二十年後、衣沼氏の子息の継いだ衣沼コーポレートグループの援助を受け、一翼として蒼海芸術学院の創立者となる。

 衣沼グループが様々なビジネスに手を出し成功を収め、本来のビジネスである骨董や外国絵画の扱いは次第に置いて行かれていたが、子息の計らいで衣沼氏の後を継ぐことも許された。

 自らの義理の息子に学院を譲ると、ジョセルたちとの繋がりを活かして外国絵画や古美術の買い付けをし、国内に持ち込んで美術館などで広く展開した。

 これは学院経営に携わり絵から離れつつあった俺への転機となり、フィールドはまた絵の世界へと着実に戻っていった。

 仕事を手がける一方で自らの絵画展を企画し、常に絵の世界から離れることがないようにもした。

 絵が好きからというだけでは出来ない。

俺を突き動かしていたのは、他ならぬあの日の彼女の手紙だった。

 いつかまた会えると、彼女が帰ってくるという現実的でないことを手放しで信じているのは変なのかもしれない。けれど、一心に彼女を想うことで逢えるという奇跡が起こるなら、どんな逆境も潜り抜けられそうだった。

 それに、そうして彼女を忘れないことが、自分の絵に対する向き合い方を見失わないでいられる。この事実を誰かが耳に入れて、蔑んだとしても俺は頑なに信じ続けるのだろう。

「もう、少しかな? 随分歩いたんだけどな。あと何歩、いや何十、何百歩進めば、君の隣に並べるだろうか……?」

 ひたすら絵を描き続けることが、彼女を裏切ったことへの贖罪になると考えたが。

 一生程度でそれを清算できるとも思っていない。

 もしも、出来なければ彼女に会うことも叶わない。懐から封筒を取り出すと、じっと見つめ額に当てる。

「今なら、何だって描けるはずなんだよ。だけど、どうしても一つだけ描けないものがあった。最初に見た君のあの神々しい笑顔だけが、どうしても、表せないんだ……」

 そう呟いたところで、ブラウン管のテレビを切ったときのような光の線が走ると、目の前が暗転し唐突に意識は途切れた。

 次に目覚めた場所が、薬品の匂いのする集中治療室だったことを薄っすらとだけ覚えている。



「もうそろそろ、見ていられないだろうな。あんな桜は……」

 ゴボっと(むせ)た口を手で覆うと、手と寝間着の袖口にべっとりと粘性のある鮮血が付着した。

 これが私の病の正体だ。病名は慢性血液粘固化病と言った。人の血はもともと粘性があるし、生活習慣病などでも変化するが、私の血液に至っては何もせずともそれが何倍にもなっているらしい。最近になって判った病気だということだ。

 発症例は人によって様々で、後天性常染色体異常の可能性を指摘されているが、これまでの循環器疾患に用いられた薬で症状を緩和させることは出来ても、治癒は不可能だった。

 二十年前に倒れたときから点滴と服薬で血液を溶かしてきたが、歳を経るごとに進行する速度は速まり、現在は危険な域に達している。

 自分で解っていた。死期が近い、ということが。

「少し寝ようかな……」

 もう横向きになることさえ出来なくなり、仰向けが固定の不自由な体が少し恨めしい。

 目を開けたときの白い天井を絶対に見なくてはならないのは辛いものだ。

 そう思って目を閉じ、体から力を抜いた時、耳に鈴の音のようなものが届いた。

「……が……さ、ん……」

 うとうとしかけたところに聞こえて来た透き通る少女の声はどこかで聞き覚えのあるものだった。

 目を開くと、映りこんだのは忌々しいタイル板ではなかった。

 水色の小花の着物に青の袴姿で、焦げ茶の長い髪を揺らして微笑む可愛らしい少女が覗き込んでいる。

「君、は……。ほのか……?」

「はい……」

 本物であってくれれば嬉しい。と、そんなはずがない幻だ。の相反する二つがせめぎ合う。次いで、何故ここに。や、奇跡が起こったのか。という、幾つもの考えも混ざりごった煮の様相を(てい)した。

 当然如く、確認の一言は滑り出した。

「本当にほのか、なのか……?」

「はい。本当にここにいます……」

「私の都合のいい夢か、もしくは……死に瀕して幻覚を見ているんじゃないのか……?」

 そう発言した私の手をほのかは強く握った。温かく華奢で白い指先、目で追ってしまったあの日の彼女の指に違いなかった。

「最近の幻は感触までリアル、なのか……?」

「先生は、そんな意地悪を言う人でしたか? 本当にここにいます。二歳くらい若くなってしまいましたし、ちょっと身長が低くて顔も幼くなってますけど、ほのかです。……先生のよく知る、先生を好きな私です」

 笑った彼女の顔を見て、私の目尻から熱いものが溢れ出した。無意識のはずのそれは勢いを増して、泣こうとする意思とは完全に別物のところから出ていた。

「ほのか……。ああ、そうか……。奇跡、なんだな……? 逢いたかった……。助けられなくてごめん……。本当に、すまなかった……」

 口をつく言葉も納得や謝罪や喜び、収拾のつかない状態だった。

「いいえ……。気にしてなんて、いません。こうして帰って来るのを待っててくれたじゃないですか……」

 そこで言葉を切ると彼女は少し間を置いてから、また強く手を握った。

「よく、頑張りました……。雪永さんは、とても偉い人です。さすが、私の大好きな人」

「違う……、違うんだよ……っ! 君に逢いたくて、ここまで来れただけで……。私の力なんて一つたりともない。君の手紙があったから、だから来れた」

 強く否定したそれを彼女は優しく包み込んでくれた。

「それでも、雪永さんの強く思う力です。だって、雪永さんの目には、桜がずっと映っていたじゃないですか……?」

 涙が止まらなかった。止め方も分からなくなった。

 彼女の言葉を噛み締めるたびに新たな涙が溢れ出て、否定しようとした心が押し流されるのが分かった。

「そうか、ありがとう……。けど、桜が君だと思えたからなのもある」

 今のこの目の前の彼女は、ほのかを語る死神か何かだったのだとしても今更に不思議さはないし、受けいられる。私にとっては、ほのかである時点で天使なのだから。

 彼女の姿の何ものかに命をとられるのならば、それほど安心できることもない。

「そうだ……、あの教室の最後の日に描いた君の絵を贈りたい。受け取って、くれないか?」

 ベッドの脇を指差すと、そこにあるイーゼルに近づき、ほのかは掛けてあった布を取った。

 中には桜の木をバックに微笑んだ姿で、時の止まった彼女がいた。

「私はこんなにも綺麗でしたか……?」

 苦笑いをするほのかに、首を左右に動かした。

「まだまだ……。私の腕じゃあ、君の美しさは表しきれてない。もっと、君は綺麗なんだから」

「何年経っても、お上手ですね。……この絵、私が頂いてもいいんですよね。帰って来たときの約束ですから」

 その科白を聞いて私は無理矢理に体を起こして身を乗り出した。

「約束って言ったね……。あれは二人だけの約束だったのに……」

 きょとんとした目を向け、すぐに頬を膨らませた彼女は、私の頬を緩くつねった。

「酷い、まだ信じてらっしゃらなかったんですか。先生はあの日に言えなかったことをいってくださるんですよね。……それが嬉しくて手紙に書きましたのに。先生のところに帰ります。って……!?」

 ほのかの言葉の最後が終わると同時に手を引き、彼女を抱きしめた。柔らかく小さい肩、薄っすらと香る桜の匂い、白い肌。まごうことなき彼女そのものだった。

「好きだ! 愛してる! 君をこうして、抱きしめたかった……。不埒な男だと思われてもいい。君が、大切なんだ。……もう、どこにも行くな。傍で笑っていて欲しい!」

 私の学生のような告白に彼女は我慢していたらしい涙を溢れさせた。

「好きな人に、そんなこと思うわけ、ないでしょう……? それに、先生よりもっと前から……ずっと大好きだったんですから、どこにも行けませんよ……」

「ありがとう……。それから結婚して、くれないか」

 聞いたほのかは、止まらない雫を指で吹いてクスクスと声を立てて笑った。

「あら……。先生ったら相変わらず、ひどい人です。私より年上のお子さんの母になれとおっしゃるんですか?」

「子とはいっても養子。君以上の人に巡り会えなかった……。すべて見ていて知ってるだろうに、ほのかも意外と意地悪なんだな」

「先生の真似です」

「なるほど? それなら納得だ」

 少し彼女に合わせて笑ってから、再び私は真面目な顔で口にした。

「結婚して欲しいんだ」

「はい。喜んで……」

 彼女の幸せそうな笑顔に、満たされたのも束の間だった。

「これでもう何も……ぐっ!?」

「先生!?」

 ほのかを離して口を押えると私は咳き込み、さきほどよりも大量の血を吐いた。

 彼女に会えたことで安心し、気力で持っていた体に終わりが来たということか。

 別に、これはこれでいい。彼女に逢えずに死ぬ覚悟も当に出来ていたくらいだ。

 死の今際(いまわ)にあって、一目でも彼女に会え、謝罪が出来て、愛していることを告げ、プロポーズまでできた。心残りはない。後は、彼女に最後のプレゼントをするまで体が保ってくれればいいだけだ。

「大丈夫だよ……。それより、最後にもう一つ、受け取って欲しいものがある」

 サイドボックスの引き出しからベルベット生地の青い小箱を取り出し、開いてマリッジリングを取り出す。

 彼女のイニシャルの彫られたそれを震える手で持ち上げた。

「こんな形でごめんな……」

「そんなこと……」

 血のついていない方の手で、彼女の左の薬指に指輪を通し終えると、私はゆっくりと仰向けにベッドに転がった。息が荒くなってきていた。

「先生……?」

「もう夫婦なんだ……。名前で、呼んでくれないか……?」

「はい、雪永さん……。何度でも呼びます。呼んで見せます。だから……」

 薬指を見せて覗き込んだほのかの顔を見て安堵した。夢でも幻でもない。

 見上げたときの、景色の中心に彼女がいるのは唯一の慰めだった。心細くもない。

 彼女の眼からは再び涙が毀れ、頬を伝い落ちた雫は私の顔を濡らした。

 泣きたくても、私の眼はもう涙を出そうともしなかった。単に、愛する人に見守られている幸せが泣くことを要していないだけかもしれなかったが。

「雪永さん……、こんなの、ダメです。あなたにはまだ、たくさん仕事があるんですから、まだ休むのは早いです……」

「例え、ば……?」

「私をいっぱい描いて欲しいです。一緒に二人でお買い物もして、ご飯を向かい合って食べて、雪永さんの優しい手で頭を撫でてもらって……それから、それから……っ」

「何言ってるんだ……? それは仕事じゃない……。実現しようとした……、理想の生活そのもので」

「雪……永さ、ん……っ」

 ほのかの止まらなくなった涙が私の首筋を何度も濡らし、次第に嗚咽に変わった。

 その切なさが痛いほどよく分かる。何も出来ずに彼女を失った時の私にそっくりだった。

 けれど、一度は死んだはずの彼女が今ここで泣いているのだ。幻想でも、まやかしでもなく。

 これが奇跡だというのなら、もう一度だけ起こって欲しい。彼女の悲しみがこれで最後になるように、強く願った。

 手を伸ばし彼女の頭に触れ、しわくちゃの痩せ細った指先で綺麗な髪を撫でた。

「奇跡を、信じないか……?」

 びっくりした顔で静止した彼女は一呼吸を置くと深く首を縦に振った。

「私たちの出会いも、奇跡です、ね……。私が人間で生まれたことも、今ここにいることも、雪永さんの手が頭の上にあること……全部……っ」

 私は寝て動かし辛い首の代わりに彼女の手を強く握ることでそれに応えた。

「奇跡はまたやってくる……。一度目は君の誕生、二度目はこの再会、三度目は……」

 直後、私の視界は揺らぎ手から力が抜けるのを感じた。

 そうだ、奇跡はある。協会に所属していた時に聞いた、ある画家の話だ。画家は貴族の娘に恋をしていた。戦争の巻き添えで先立った娘に未練を抱き、絵を描き続ける強い想いでそれを呼び起こした。

 そして――ある場所で再会する。

 私とほのかに似ている。その奇跡を私たちが証明しているのなら、彼らのその後も証明できる。

「雪永、さん……?」

「ほのか、君を……一人にしない。だから必ず、帰ると約束する。君の傍が、私の居場所だから……」

 そう言い終えると同時に、目と顔以外の体の活動は全て終わったようだった。残った首から上も、そう長くはもたないだろう。

「分かり、ました……。ゆっくり、休んでください。起きたらきっと、慌しい毎日が待っています。だから今は……今だけ……っ」

 彼女の泣き声にまみれ絞り出す声は、悲しみを呼び起こすはずなのに、安息を与える鎮魂歌(レクイエム)としての役割も果たした。忘却に沈む意識を特別優しく見送ってくれるかのように。

 消え行く意識の中で、好きだった桜の木と、幹に座り泣いている少女が浮かんだ。

 私はほのかそっくりの彼女の頭に手を置いて撫でると、ある画家が発したという一言を零したところで完全に途絶えた。

『エーメリージュで逢おう……』



「蒼海さんの心肺停止しました!」

「本人は、延命を望んでいなかったな……。午後三時三十四分二十七秒。黙祷を……」

 医師と看護士たちの懸命な処置は功を成さず、蒼海雪永の肉体は息を引き取った。

 やや置いて、看護士の一人が病室の扉を開いて入って来る。

 その顔には困惑が張り付けられていた。

「院長!」

「何だね……。患者が亡くなられたところだ。静かにしなさい」

「も、申し訳ありません……。数分前、受付に蒼海さんの家族と名乗る男性と女性が現れて、各方面への連絡は自分達でする、と言ってきまして……」

「家族? 彼の家族は養子が一人いるだけのはずだ。新手の詐欺にしては病院に来るのも変だな……。二人の特徴は?」

 看護士は一度遺体に視線を移すと息を呑んだ。

「男性の方は蒼海さんの若い頃にそっくりな二十代前半くらいの、顔立ちのハッキリした黒髪の青年で……。女性の方は十六、七歳くらい、薄水色の着物に青の袴姿。昔の女学生のような茶色の長い髪の少女でした……」

 聞いた医師は腕組をすると嘆息した。

「遺体にそっくりな青年と、彼の描いた絵の中の少女……? 狐に摘ままれたような話だ」

「応接室で待って頂いていますが、どう致しますか?」

 医師は少し考えた後、首を縦に振った。

「行かなくてはならないな。万が一のこともある」

 退室する間際、医師は肩越しに遺体を一瞥した。

「幸せそうに微笑んだ遺体か……。こうなることを望んでいたかのような安らかな表情だ。……医者として、そんな風に思うようになっては危険だが」

 看護士が後片付けをする様に背を向けて扉は閉じられた。

 その様子を眺めていた私も、出口へ向かいながら、後ろにいる少女に向けて小さく呟きを投げかける。

「こうなることを望んだ、か。確かに今の私は幸せで望んだとおりになった。これを奇跡と呼んでも語弊ないんだろうな」

「人の数多ある奇跡の中の一つです」

 そう言われて、肩越しに振り向き頷いた。

「今は確実に信じられる。だから、そうだ。ただいま……、ほのか?」

「はい、お帰りなさい。雪永さん。……でも、幼くして連れ去られて戸籍も抹消された双子の弟は無理があります」

 彼女の悪戯っぽい笑顔に苦笑で応え、扉に手を掛けて引きあけた。

「なら、逃げよう。どうせ、私たちはここでは稀薄な存在なのだから」

「じゃあ一体どうして、こんなことを……?」

「ちょっとした悪戯かな」

 それを聞いたほのかは口を尖らせて怒った表情を見せる。

 本当に奇跡が起こったのかを確かめたかった。そんなことを口にしてしまえば、この瞬間が壊れてしまいそうで、出たのは咄嗟の嘘。

「もう、雪永さん! 怒りますよ?」

「ははは、勘弁勘弁」

 彼女が手を伸ばそうとするのを身軽に交わして外へ出た。

 点滴スタンドを持った患者に衝突しそうになるのを体を捻って避けると、何事もなかったように患者は去った。

 出会う人にすれ違っても、気に止められることはない。触れられはするものの、強く願わないと人に認識されることはまずない薄い存在になった。

 だが、それもいい。

 傍に彼女がいれば、他には何も要らない。この瞬間が溶けない雪のように淡く末永く続いてくれるのならば。

「ほのか、……君を愛している」

 ついてくる足を止めてポカンとした彼女は数秒して首を傾け、顔を赤らめて笑った。

「私も雪永さんが大好きです。愛しています。産まれる前から、そして今この瞬間、これからも永劫に……」

 その一言で満足感があった。天使の微笑みが灯っていたから。

 恐らく奇跡は気まぐれだ。一瞬一瞬に気を抜けないが、私はそれでも信じているのだろう。

 彼女が傍で教えてくれる限り……。

 ご一読くださりありがとう御座いました。


 本文中でざっと匂わせた『エーメリージュ』や『ある画家の話』は、現在設定を煮詰めている『エーメリージュ解き忘れの都』という長編タイトルに登場する内容です。

 いつかお披露目する長編の方にも、この二人が登場の予定で、そこでエーメリージュが何なのか、ある画家は誰で何したのかが明かされる予定です。

 そのため、この短編タイトルでは謎を振りまくだけ振りまいて終わらせていますが、実は気力が続かなかっただけで、改稿することがあれば解説を挟む可能性があります。


 とはいえ、意外とシリアスが向いてないんだ。と知ってしまったのもあって、改稿はどう転ぶか分かりません。

 読んで頂き、気に入って頂けたいないでしょうがが稀にいらっしゃるようでしたら、乞うご期待くださらないでください。

 そんなわけで、この終わらせ方には賛否両論あるかと思いますが、読了後の後味が悪いのは仕様とお考え頂ければ幸いです。


 ちなみに作中に登場する病名は架空のものです。

 検索すれば分かってしまう話ですが、オリジナルだと名言して置かないと、あると思って使用した人に色々迷惑が掛かってしまう可能性があるため申し上げます。

 どうでもいいですが、富士見文庫換算原稿枚数にして約55ページ相当の作品になっています。

 の割に内容が薄いのは、とあるソーシャルのサークル活動で書いた趣味文に補足やら描写を詰め込んで、ライトノベルモドキにしたためと言い訳しておきます。

 読んで頂いた方に、読みごたえのないこと平にお詫び申し上げます。

 

 それでは、この辺りで失礼を致します。

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