第30話 変わらないもの
年の瀬の風が、駅前のロータリーを吹き抜けていった。
小さな駅舎の自動改札を出ると、冷たい空気が肺の奥まで染み込んでくる。都会の冬とは質が違う。湿り気を含まない、乾いた寒さだった。
女性は駅前に停まっていたタクシーには目もくれず、記憶を頼りに歩き始めた。
四十代の半ばだろうか。紺色のウールコートに白いマフラーを巻き、小さなボストンバッグを片手に提げている。足元はヒールのないショートブーツで、長い距離を歩くことを最初から想定しているような出で立ちだった。
この町で生まれ、この町で育った。高校を出るまでの十八年間を過ごした場所だ。進学を機に都会へ出て、そのまま就職し、結婚し、子どもが生まれ、気がつけば故郷を離れてから二十年以上が経っていた。
実家には盆と正月に顔を出す程度で、それも年々間隔が空いていく。今年は母の体調が少し気になるという姉からの電話があり、年末の休みを使って帰ってきたのだった。
駅前の通りは、記憶の中の風景とほとんど変わっていなかった。金物屋の看板、郵便局の赤いポスト、角の理髪店の回転灯。変わったのは、通りを歩く人の数が目に見えて減ったことくらいだ。
実家に荷物を置き、母と姉と三人で昼食を済ませた後、彼女は散歩に出ると言って家を出た。
母は元気だった。電話で聞いていたほどの心配はなさそうで、安堵すると同時に、少し拍子抜けもした。姉と二人で台所に立つ母の後ろ姿は、記憶の中よりも小さくなっていたけれど、声の張りは昔と変わらなかった。
散歩と言ったのは嘘ではないが、目的がないわけでもなかった。
この町を歩くと、どうしても思い出す場所がある。高校生の頃に偶然見つけた、古い建物。あれが何だったのか、今でもときどき考えることがある。
当時の彼女は、受験勉強に追われる高校三年生だった。模試の結果が振るわず、志望校を下げるべきかどうかで毎日悩んでいた。塾の帰り道、いつもと違う道を歩いてみようと思い立ち、住宅街の裏手に入り込んだのがきっかけだった。
あの頃、この辺りはまだ田んぼと畑が広がっていたはずだ。今は真新しい戸建て住宅が規則正しく並んでいる。彼女は周囲の変貌ぶりに目を瞬かせながら、記憶の中の風景と目の前の現実を重ね合わせようとした。
田んぼの畦道を歩いていたら、草むらの向こうに古い建物が見えた。看板に「図書館」と書いてあった。こんな場所に図書館があるなんて知らなかった。中に入ると、本棚がたくさん並んでいて、埃っぽくて、薄暗くて、でも不思議と怖くはなかった。
そして、子猫がいた。
灰色と白のまだら模様の、小さな子猫。棚の下の隙間に丸くなっていて、彼女が近づくと顔を上げた。まだ幼くて、目の焦点が少し合っていないような、頼りない瞳をしていた。
彼女はその子猫のそばに座り込んで、どれくらいの時間をそこで過ごしただろう。三十分か、一時間か。子猫は彼女の指先の匂いを嗅ぎ、小さな舌でちょんと舐め、やがて彼女の手のひらの上で眠ってしまった。
あの時間だけ、模試の点数も志望校のことも、全部消えていた。
結局、彼女はその後一度だけあの場所を探しに行ったが、見つけられなかった。道を間違えたのか、記憶が曖昧だったのか。そのうちに受験が本格化し、合格し、引っ越しの準備に追われ、子猫のことは記憶の底に沈んでいった。
それから二十数年。
真新しい住宅街の中を歩きながら、彼女は自分でも半信半疑だった。あの建物がまだ残っているとは思えない。田んぼも畑もなくなり、一面が住宅地に変わっている。取り壊されていて当然だ。
ブロック塀の連続が、不意に途切れた。
彼女は足を止めた。
手入れのされていない枯れ草が広がる空き地。その奥に、黒ずんだ外壁と苔むした瓦屋根を持つ古い平屋が佇んでいる。軒下には、かすれた文字で「図書館」と記された木の看板。
あった。
周囲の風景は一変しているのに、この建物だけが、あの日のまま残っている。外壁の黒ずみ方も、瓦の苔の色も、看板の文字のかすれ具合も、記憶の中の姿とほとんど変わらないように見えた。二十数年という時間が、この場所だけを避けて通ったかのようだった。
彼女は枯れ草を踏んで建物に近づき、すりガラスの引き戸に手をかけた。重い摩擦音が鳴る。この音にも覚えがあった。
中からひんやりとした空気が流れ出してくる。古い紙とインク、乾いた埃の匂い。
一歩、足を踏み入れた。
薄暗い室内。床から天井の太い梁まで届く木製の本棚が、幾重にも連なっている。色褪せた布張りの本や分厚い事典がぎっしりと並ぶ光景。あの日と同じだった。本棚の配置も、埃の匂いも、空気の冷たさも。
彼女はゆっくりと本棚の間を歩いた。指先が棚板の縁に触れる。木の感触。埃の薄い層。高校生の自分が歩いた同じ通路を、四十代の自分が歩いている。足元の床板が、同じ場所で同じように軋んだ。
奥へ進んだ時、棚板の上で何かが動いた。
彼女は足を止め、目を凝らした。
三列目の棚の上に、猫が座っていた。
灰色と白のまだら模様。青みがかった灰色の瞳。香箱を組んだ姿勢で、彼女を静かに見下ろしている。
彼女の心臓が、一拍だけ強く打った。
あの子猫だ。
模様が同じだった。灰色の濃淡の入り方、白い部分の広がり方、額から鼻筋にかけての色の境目。二十数年前に手のひらの上で眠った、あの子猫と同じ模様だった。
しかし、同時に、違っていた。
あの時の子猫は、本当に小さかった。手のひらに収まるほどで、目の焦点も定まらず、歩くたびによろめいていた。今、棚の上に座っているこの猫は、あの頃よりもずっと大きい。体つきはしっかりとして、毛並みには艶があり、瞳は澄んで落ち着いている。
けれど、成猫ではなかった。
彼女は猫を何匹も見てきた。都会のマンションでは飼えなかったが、実家では昔から猫がいたし、友人の家にも猫がいる。成猫の体格、顔つき、佇まいは知っている。
棚の上にいるこの猫は、成猫の完成された体格には至っていなかった。顔にはまだ丸みが残り、四肢の比率にもわずかに子猫特有のアンバランスさがある。耳の大きさに対して顔がまだ少し小さい。生後一年前後の、子猫から成猫へ移り変わる途中の姿に見えた。
二十数年前に、生まれて間もない子猫だった。
今、目の前にいるのは、まだ成猫になりきっていない猫。
彼女は眉をひそめた。計算が合わない。あの時の子猫がまだ生きているなら、とうに老猫を通り越している。猫の寿命を考えれば、生きていること自体が奇跡に近い。まして、この若々しさはありえない。
では、別の猫なのか。あの子猫の子孫か何かが、同じ場所に住み着いているのか。模様が似ているだけで、血縁のある別の個体なのか。
それが一番合理的な説明だった。彼女は自分にそう言い聞かせた。
しかし、猫が彼女を見つめる目には、初めて会う相手に向ける警戒がなかった。かといって、人懐こい猫が誰にでも見せるような無防備な甘えもない。ただ、静かに、彼女の存在を認めている。あの日、手のひらの上で眠る前に彼女を見上げた、あの瞳と同じ質の視線だった。
彼女は棚の前にしゃがみ込んだ。猫との目線の高さが近くなる。
「……覚えてる?」
声に出してから、自分の言葉の馬鹿馬鹿しさに苦笑した。二十数年前の子猫が、高校生だった自分を覚えているはずがない。そもそも同じ猫であるはずがない。
猫は彼女の声に反応して、片耳だけをわずかに動かした。それ以外は微動だにしない。青灰色の瞳が、彼女の顔をじっと見つめている。
彼女はゆっくりと右手を差し出した。指先を猫の鼻先の少し手前で止める。
猫は首を伸ばし、指先の匂いを嗅いだ。ひげが指に触れる。冷たい鼻先が、一瞬だけ指の腹に当たった。
そして、小さな舌が、指先をちょんと舐めた。
彼女の喉の奥が、きゅっと詰まった。
あの日と同じだった。匂いを嗅いで、舐める。その順番も、舌の感触も。
猫はそれだけで満足したように顔を引き、再び香箱を組んだ姿勢に戻った。目を細め、ゆっくりと瞬きをする。
彼女はしばらくの間、しゃがんだまま動けなかった。
合理的な説明はいくらでもできる。別の猫だ。模様が似ているだけだ。猫が人の指を舐めるのは珍しいことではない。二十数年前の記憶は美化されていて、実際にはもっと違う猫だったのかもしれない。
全部、正しいのだろう。たぶん。
でも、この場所が二十数年前と変わらずにここにあること自体が、合理的な説明を拒んでいた。周囲の田んぼは住宅街に変わり、畦道はアスファルトに埋められ、風景は一変した。なのに、この建物だけが残っている。本棚の配置も、埃の匂いも、床板の軋みも、あの日のまま。
そして、灰色と白のまだら模様の猫が、同じ場所にいる。
彼女は立ち上がり、もう一度猫を見た。猫は目を閉じかけていた。彼女がいてもいなくても変わらない、穏やかな午後の眠りに沈もうとしている。
「元気でね」
彼女は小さく言って、来た道を引き返した。
引き戸を閉める時、重い摩擦音がまた鳴った。振り返ると、かすれた文字の看板が冬の弱い陽射しの中で静かに揺れている。
枯れ草の空き地を抜け、ブロック塀の並ぶ住宅街に戻ると、現実の時間が一気に押し寄せてきた。スマートフォンの画面には姉からのメッセージが入っている。「お餅つくから早めに帰ってきて」。
彼女は実家への道を歩きながら、さっきの猫のことを考えていた。
別の猫だ。そう結論づけるのが正しい。あの建物の近くで野良猫が繁殖していて、似た模様の子孫が代々住み着いているのだろう。古い建物は雨風をしのげるから、猫にとっては格好の住処だ。
それで説明はつく。
ただ、一つだけ、説明のつかないことがあった。
あの猫は、成猫ではなかった。
子猫でもなかった。子猫から成猫になる途中の、あの中間の姿のまま、止まっているように見えた。もし代替わりした別の猫なら、生後一年前後の個体がたまたまそこにいただけだ。来年また来れば、立派な成猫になっているだろう。
来年。
彼女は足を止めた。
来年また来てみよう、と思った。もしあの猫がまだあの姿のままだったら——。
その先は考えなかった。考えても仕方のないことだった。
冬の陽が傾き始めていた。実家の方角から、餅をつく杵の音が微かに聞こえてくる。彼女は歩調を速め、白いマフラーに顔を埋めた。
吐く息が白く、すぐに消えた。




