第25話 小さな恩返し
雲の切れ間から差し込む淡い光が、真新しい住宅街の無機質なアスファルトを白く照らし出していた。
規則正しく立ち並ぶ真新しい戸建て住宅の間を、一人の小さな女の子が小走りで通り抜けていく。彼女の視線は、周囲の似たようなブロック塀の連続を注意深くスキャンしていた。
彼女がこの迷路のような区画に足を踏み入れるのは、これが初めてではない。
以前、偶然に見つけたあの不思議な場所。時間が完全に止まってしまったかのような古い建物と、そこで出会った青灰色の瞳を持つ子猫の姿が、彼女の小さな胸の奥にずっと焼き付いて離れなかったのだ。
もう一度あの静けさに触れてみたい。あの美しい子猫が、今日も古い本の上で静かに眠っているのか確かめたい。そんな純粋な思いだけが、彼女の小さな両足を動かしていた。
やがて、彼女の記憶にある通り、真新しいブロック塀が不自然に途切れる場所が現れた。そこだけが周囲の近代的な風景から完全に切り取られ、手入れのされていない枯れ草が風に揺れる空き地となっている。
そしてその奥に、黒ずんだ外壁の板と苔むした瓦屋根を持つ、古い平屋が静かに佇んでいた。
入り口の軒下には、かすれた文字で「図書館」と記された木の看板が掲げられている。女の子はほっと息を吐き出し、枯れ草を踏みしめながら引き戸へと近づいていった。
木枠にすりガラスがはめ込まれた古い引き戸に小さな両手をかけ、体重をかけて横へスライドさせる。ギイッと低い摩擦音が鳴り、中からひんやりとした空気が流れ出してきた。
外の喧騒がふっと途絶え、古い紙とインク、そして長い時間をかけて積もった乾いた埃の匂いが彼女を優しく包み込む。彼女はそっと中へ入り、背後の引き戸を閉めた。
床から高い天井の太い梁まで届く木製の本棚が、幾重にも連なって迷路のように立ち並ぶ薄暗い室内。そこには、以前と全く変わらない絶対的な静寂が澱のように沈み込んでいた。
女の子は足音を殺しながら、色褪せた布張りの小説や金箔の擦り切れた分厚い事典が並ぶ本棚の間をゆっくりと進んでいく。
どこかにあの子猫がいないかと、高い棚板の上や暗がりを探しながら歩を進めていたその時だった。
少し低めの棚板の上に、周囲の整然とした静けさとは明らかに異質な、乱れた光景が広がっているのを彼女は見つけた。
そこには、ひどく古い装丁の一冊の本があった。しかし、それは周囲の本のように静かに眠っている状態ではなかった。
乾燥してひび割れていたはずの革の表紙は、何かの強い力で乱暴に引き裂かれ、中の黄ばんだページが波打つように露出し、数枚は無惨にも破れ散って床板にまで落ちている。そしてその周囲には、漆黒の大きな鳥の羽が数枚、まるで暴力の痕跡を示すかのように散らばっていた。
何十年も、あるいはそれ以上の長い間、誰にも触れられずに守られてきた静寂と形が、物理的に破壊されてしまっている。
女の子は息を呑み、その痛々しい姿に思わず駆け寄った。小さな手で破れたページを拾い上げ、元の場所に戻そうとするが、繊維がちぎれた古い紙はどうやっても元通りにはならない。
自宅の絵本が破れた時なら、セロハンテープでペタペタと貼って直してしまうところだ。しかし、この図書館に満ちている重厚な時間と、この本の放つ圧倒的な古さが、直感的に彼女に告げていた。
そんな子供騙しの方法で修復しようとすれば、この本をさらに取り返しのつかない状態に壊してしまうだろう、と。
どうすればいいのか分からず、女の子が泣き出しそうな顔で立ち尽くしていると、頭上から微かな気配を感じた。見上げると、奥から三列目の少し高い棚板の上に、灰色と白のまだら模様を持つ子猫が静かに座っていた。青みがかった灰色の瞳が、悲惨な状態の本と女の子を交互に見つめている。
子猫は鳴き声を上げることもなく、ただそこに佇み、静かに事の成り行きを見守っているようだった。その超然とした静かな視線に背中を押されるように、女の子の心に一つの決意が浮かんだ。
大人の力を借りなければならない。
自分が困った時、お父さんやお母さんはよく「役場に相談してくる」と言って家を出ていく。あそこに行けば、どんな難しい問題でも解決してくれる大人がいるはずだ。
女の子は散らばったページをできるだけ丁寧に本の上に重ね直すと、子猫に向かって「待っててね」と小さく呟き、図書館を飛び出した。
真新しい住宅街を抜け、駅の反対側にある町役場まで、女の子は息を切らして走り続けた。
自動ドアを抜けると、そこは図書館の静寂とは対極にある、蛍光灯の眩しい光と無数の話し声、そして絶え間ない足音が交差する現実世界だった。
彼女は総合案内のカウンターに背伸びをしてしがみつき、困惑する職員に向かって必死に説明を始めた。
古い図書館があること。
そこでとても古い革の本が鳥の羽と一緒に破れてしまっていること。
セロハンテープでは直してはいけない気がすること。
断片的な彼女の言葉は、要領を得ない子供の空想話として片付けられそうになっていた。しかし、その時、書類の束を抱えてカウンターの後ろを通りかかった一人の女性職員が足を止めた。
彼女は以前、この役場の仕事の合間に、偶然あの図書館へと足を踏み入れたことのある女性だった。
学生時代に苦労して司書資格を取得したものの、結局は専門職に就くことができず、日々の雑務に追われて本への情熱を失いかけていた彼女。
あの瓦屋根の平屋で見つけた、膨大な蔵書と絶対的な静寂、そして古い本の上で眠る子猫の姿は、彼女の心の奥底に眠っていた本への愛情を確かに呼び覚ましてくれていた。
女性職員は案内係の制止を遮り、女の子と同じ目の高さになるように膝をついた。
「その図書館、黒い木の壁で、入り口にすりガラスの引き戸があるところかな?かすれた字の看板がかかってる?」
女性の問いかけに、女の子は目を輝かせて大きく頷いた。
女性はすぐに上司に短い休憩を取る旨を伝え、女の子の手を引いて役場を飛び出した。あの奇跡のように保存された空間で、本が破壊されている。司書資格を持つ者として、そしてあの静寂に救われた一人の人間として、見過ごすことはできなかった。
二人が住宅街の空き地を抜け、図書館の引き戸を開けた時、女性は再びその圧倒的な匂いと静けさに包み込まれた。何度来ても、ここは外の現実世界から完全に切り離された異界だ。
女の子に手を引かれ、迷路のような本棚の奥へと進む。そして、低めの棚板の上に平積みされた、あの破れた本を目の当たりにした。
女性は小さく息を呑み、床板に膝をついた。ひび割れた革の表紙は無惨に裂け、古い接着剤の粉が散乱している。散らばった黒い羽から察するに、窓から迷い込んだカラスか何かが暴れたのだろう。
女性は持参した白い手袋をはめ、極めて慎重な手つきで破れたページや表紙の断面を確認し始めた。紙の繊維の劣化具合、装丁に使われている糸と糊の状態。彼女の顔には、役場の窓口で見せるような愛想のいい笑顔はなく、専門家としての真剣な表情が浮かんでいた。
少し高い棚板の上では、灰色と白の子猫が香箱を組み、二人の人間の様子を静かに見下ろしている。青灰色の瞳は、以前女性が訪れた時と同じように、底知れぬ深さを湛えていた。
女の子は不安そうに女性の顔を覗き込み、「直せる?」と小さな声で尋ねた。女性はしばらくの間、沈黙したまま本の断面を見つめていたが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「ごめんね。お姉さんでは、これを直すことはできないの」
その言葉に、女の子の表情がくしゃりと歪む。女性は慌てて女の子の両肩を優しく包み込み、言葉を続けた。
「直したくないんじゃないの。私たちがいつも使っているような、破れたページを直すためのテープや糊もあるんだけどね。
でも、この本はあまりにも古くて珍しいものなの。紙なんかの材料も、ずっとずっと大昔のものかもしれない。今ある道具を使っても、かえって本の怪我が大きくなってしまうことがあるのよ。
それに、お姉さんは本を並べたり、お客さんの欲しい本を探すことはできる。だけど、この本の怪我を、お医者さんのように治すことはできないの」
女性の丁寧な説明に、女の子はテープで直さなくてよかったと安堵しつつも、やはり悲しそうな視線を本へと向けた。
このまま放置すれば、空気に触れた断面から劣化はさらに進み、いずれこの本は完全に崩れ去ってしまうだろう。この図書館が持つ不変の法則が、一羽の鳥の侵入によって致命的に壊されてしまったのだ。
女性は手袋を外し、女の子の目を見つめてしっかりと頷いた。
「でも、諦めるわけじゃないわ。世の中には、こういう古い本を直せる『修繕業』という本のお医者さんがいるの。正しい直し方を知っていて、昔と同じ材料を使って、本をもう一度元気にしてくれる魔法使いみたいな人たち。
私が必ず、その専門の人を探して連絡をとってみる。この本を元に戻す方法を、絶対に見つけるから。それまで、少しだけ待っていてくれる?」
その力強い約束の言葉に、女の子の顔にようやくパッと明るい光が戻った。彼女は嬉しそうに何度も頷き、もう一度破れた本を優しく見つめた。
女性も立ち上がり、ふと見上げた棚の上の子猫と視線を交わす。子猫は頬の長い髭を微かに震わせ、ゆっくりと一度だけ瞬きをした。それはまるで、彼女の提案に対する静かなる承認のようでもあった。
二人は散らばっていた黒い羽だけを拾い集め、本にはそれ以上触れずに、来た時と同じように足音を殺して入り口へと向かった。
すりガラスの引き戸を開けると、外はすでに夕暮れ時を迎えようとしていた。冷たい風が頬を撫で、遠くで夕飯の匂いが漂い始めている。
引き戸をしっかりと閉めると、図書館は再び完全な沈黙の中に沈んでいった。本を直すための具体的な方法はこれから探さなければならない。しかし、二人の心の中には確かな希望が灯っていた。
女の子と女性は、真新しいアスファルトの道を役場の方角へと並んで歩き出す。彼女たちが去った後の図書館では、かすれた文字の木の看板が微かな風に揺れている。
迷路のような本棚の奥深くでは、音のなくなった静謐の中、灰色と白の子猫が再び深い眠りにつこうとしていた。
2話ちゃんが再登場。カラスの話の続きで、彼女に活躍してもらうことにしました。
12話さんはいつもお疲れ様です感。




