第17話 より小さきものへ
冷たい北風が、住宅街の細い路地を静かに吹き抜けていく。乾いたアスファルトの上を、茶色く縮れた落ち葉がからからと音を立てて転がっていった。
厚手のウールコートを着込んだ若い母親は、その落ち葉の動きをぼんやりと目で追いながら、ゆっくりとした歩調で歩いていた。
彼女の胸元には、抱っこ紐にすっぽりと包まれた赤ん坊がいる。
モコモコとしたフリース素材のカバーから覗く小さな頭には、淡い水色のニット帽が被せられていた。
母親が歩くたびに、赤ん坊の体は規則的なリズムで小さく揺れる。スゥ、スゥ、という静かで無防備な寝息が、コートの襟元から白く細い湯気となって立ち上っていた。
母親は両手で抱っこ紐の底をそっと支え、赤ん坊の重みと温もりを胸全体で感じている。日差しの温もりを求めて家を出たものの、冬の午後の太陽はすでに傾き始め、街の輪郭に長い影を落とし始めていた。
目的地のない散歩だった。
赤ん坊の機嫌が良い間に少しだけ外の空気を吸い、また家に戻る。それが最近の彼女の、単調だがささやかな日課になっている。
見慣れない角を曲がると、両脇に迫っていた真新しいブロック塀が不意に途切れた。そこに、周囲の近代的な住宅とは明らかに異質な、古い建物がひっそりと佇んでいた。
色褪せた瓦屋根の平屋だった。外壁の板は長い年月を経て黒ずみ、深い木目を浮き上がらせている。手入れのされていない庭先には、枯れ草が風に揺れていた。
正面の入り口には、木枠にすりガラスがはめ込まれた古い引き戸がある。そのすぐ上の軒下に、「図書館」とだけ記されたかすれた木の看板が掲げられていた。
母親は足を止め、その建物をじっと見上げた。個人の邸宅にしては不思議な造りであり、公的な施設にしてはあまりにも古く、そして静かすぎる。
看板の文字を心の中で静かに読み上げる。
図書館。
その響きだけで、彼女の胸の奥で何かが小さく跳ねた。
彼女は幼い頃から、紙の匂いと活字の並ぶ空間を深く愛していた。休日のたびに市立図書館へ通い、棚から棚へと渡り歩いては、見知らぬ世界へ没入する時間を何よりも大切にしていた。
大人になってからも、古書店を見つければ必ず立ち寄り、背表紙の並びを眺めるだけで満たされた気持ちになったものだ。
しかし、赤ん坊が生まれてからは、そのような場所へはすっかり足が遠のいていた。静寂が求められる空間は、いつ泣き出すかわからない小さな命を抱えた身には、あまりにもハードルが高すぎる。
最後に本棚の間に立ったのがいつだったか、彼女はもう正確には思い出せなかった。目の前にあるこの古い建物は、彼女が知っているどの図書館とも違う。それでも、ほんの数センチだけ開いた引き戸の隙間から、確かにあの匂いが漂ってきていた。
乾燥した古い紙の匂い。
年月を経て少し甘みを帯びたインクの匂い。
そして、静かに積もった埃の匂い。
それは、彼女の記憶の中にある最も安心できる場所の匂いだった。
母親は無意識のうちに、引き戸へと向かって数歩だけ足を踏み出していた。枯れ草を踏む靴音が、静かな空間に微かに響く。
中はどうなっているのだろう。
どんな本が並んでいるのだろう。
引き戸のすりガラス越しには、ただぼんやりとした薄暗い空間が広がっているだけで、中の様子は全く窺い知れない。
ほんの少しだけ、この隙間から中を覗き込んでみたい。あわよくば、一歩だけ中に入って、本棚の空気を胸いっぱいに吸い込みたい。
彼女は息を潜め、さらに引き戸へと近づいた。すりガラスの木枠に手を伸ばしかけた、その時だった。
胸元で、小さな身じろぎがあった。それまで一定だった赤ん坊の寝息がふいに止まり、フリース素材のカバーがもぞもぞと動く。
母親の足がぴたりと止まった。
赤ん坊の顔を覗き込むと、水色のニット帽の下で、小さな眉間がギュッと寄せられている。閉じていたまぶたがピクピクと痙攣するように動き、薄く開いた口から「ふぇっ」という微かな声が漏れた。
母親は慌てて木枠から手を引っ込め、抱っこ紐を支える手に力を入れた。歩くリズムが途絶えたことで、赤ん坊が目を覚ましてしまったのだ。冷たい風が頬を撫でたことも、不機嫌の原因かもしれない。
「ごめんね、寒かったね」
母親は小さな声で囁き、体を左右にゆっくりと揺らし始めた。しかし、一度破られた眠りの心地よさは、そう簡単には戻ってこない。赤ん坊の眉間はさらに深くシワを刻み、小さな口が大きく開かれた。
「あぁーっ、ふぇえぇぇん!」
澄んだ冬の空気を震わせるような、甲高く大きな泣き声が上がった。それは、この古い平屋を取り巻く深い静寂を、容赦なく切り裂く音だった。
母親はびくっと肩をすくめ、血の気が引くのを感じた。
ここは図書館だ。
ただでさえ静けさが絶対のルールである空間の、まさに目の前である。
しかも、この建物は不気味なほどに静まり返っており、人の気配すらしない。そんな場所で、赤ん坊の全力の泣き声はあまりにも響きすぎた。
「しーっ、大丈夫よ、よしよし」
母親は焦った声で赤ん坊をあやしながら、建物から距離を取ろうと後退りする。
しかし、赤ん坊は一度泣きスイッチが入ってしまうと、すぐには止まらない。小さな両手をジタバタと動かし、顔を真っ赤にして泣き叫び続ける。
コートの中で赤ん坊の体温が急激に上がり、母親の胸元にじんわりと汗が滲む。
周囲の住宅の窓が開いて、誰かが顔を出すのではないか。あるいは、この静かな図書館の中から、誰かが顔をしかめて出てくるのではないか。
母親の心臓は早鐘のように打ち、焦燥感が全身を駆け巡った。
やはり、自分のような人間がここに来るべきではなかったのだ。本のある静かな空間を求めることすら、今の自分には許されない贅沢なのだ。
彼女は泣き叫ぶ赤ん坊の背中を一定のリズムでトントンと叩きながら、深くうつむいた。
早くここから立ち去らなければ。そう思いながらも、焦りで足がもつれ、うまく歩き出すことができない。
その頃、薄暗い図書館の内部では。
迷路のように入り組んだ本棚の奥で、灰色と白のまだら模様を持つ子猫が、ふと耳をそばだてていた。
冷たい床板の上で香箱を組んでいた体を、ゆっくりと解く。
引き戸の向こう側から、聞いたことのない奇妙な音が響いてきたのだ。
それは風の音でもなく、時折通り過ぎる車のエンジン音でもない。高く、不規則で、切羽詰まったような響きを持った音だった。
子猫は青みがかった灰色の瞳を少しだけ見開き、入り口の方向をじっと見つめた。恐怖や警戒の感情はない。ただ、自分の静かな縄張りに届いた新しい刺激に対する、純粋な好奇心だった。
子猫は音もなく立ち上がり、しなやかな足取りで通路の中央へと歩み出た。肉球が古い床板に触れる音すら一切立てず、本棚の間を滑るように進んでいく。色褪せた背表紙たちが並ぶ棚の角をいくつも曲がり、入り口の明るい空間へと近づく。すりガラスのはめ込まれた引き戸は、外の風を入れるために数センチだけ開け放たれていた。
子猫はその隙間のすぐ手前で立ち止まり、冷たい外気に鼻先を向けた。
外では、母親が必死に体を揺らし続けていた。
「ほーら、お散歩楽しいね、あっちに行こうね」
声を裏返らせながら、どうにかして赤ん坊の意識を別のものへ向けようと試みる。
しかし赤ん坊は目を固く閉じたまま、涙をぽろぽろとこぼして泣き続けている。母親は大きなため息をつき、建物のすりガラスに視線を落とした。本当に申し訳ない。心の中で誰に向かってともなく謝罪する。
その時だった。
母親の胸元で暴れていた赤ん坊の動きが、ふと止まった。大きく開かれていた口が半開きになり、泣き声がピタリと途切れる。ヒッ、と短く息を吸い込む音だけが残り、周囲に再び冬の静寂が舞い戻った。
母親は驚いて赤ん坊の顔を見た。赤ん坊の涙で濡れた丸い瞳は、真っ直ぐにある一点を見つめていた。
それは、引き戸の数センチの隙間だった。母親も釣られるようにして、その隙間へ視線を移す。
薄暗い建物の内側。床すれすれの低い位置に、二つの小さな光があった。青みがかった灰色の瞳が、隙間からこちらをじっと見つめ返している。灰色と白のまだら模様の顔が、木枠の陰から半分だけ覗いていた。
子猫だった。
ピンと立った小さな耳と、頬の横で微かに揺れる長い髭。
子猫は鳴き声を上げることもなく、ただ静かに、泣き止んだ小さな生き物を観察していた。赤ん坊の丸い瞳と、子猫の青灰色の瞳が、ガラスの隙間を挟んで完全に交差している。
赤ん坊は瞬きも忘れ、口を半開きにしたまま、その見知らぬ生き物に釘付けになっていた。先ほどまでの癇癪が嘘のように、その体からは一切の力が抜け落ちている。小さな手がカバーの中から這い出し、空を切るようにして隙間の方へ伸ばされた。
「あ……っ」
赤ん坊の口から、泣き声ではない、小さくかすれた声が漏れる。
それは、新しい発見に対する純粋な驚きの声だった。
子猫は逃げることもなく、その小さな手の動きをじっと見つめていた。自分に向けられた敵意のない視線を、野生の勘で正確に受け止めている。
ほんの数秒間の、絶対的な沈黙。
風の音すら遠のいたような、魔法のような時間がそこにあった。古い紙と埃の匂いが、開いた隙間から静かに流れ出し、母子を優しく包み込んでいる。
やがて子猫は、一度だけゆっくりと瞬きをした。
そして、鼻先を少しだけ木枠にこすりつけると、そのまま音もなく身を翻し、薄暗い本棚の奥へと姿を消していった。床板を擦る音すらせず、まるで最初から幻であったかのような滑らかな退場だった。隙間の向こうには、再びただの暗がりだけが残された。
赤ん坊は伸ばしていた手をゆっくりと下ろし、不思議そうに瞬きをした。そして、母親の顔を見上げて、へへっ、と短く笑った。頬にはまだ涙の跡が光っているが、その表情はすでに完全に落ち着きを取り戻している。
母親は、胸の奥で張り詰めていた糸が、静かにほどけていくのを感じた。
「……猫さん、いたね」
母親は小さな声で囁き、赤ん坊の背中を優しく撫でた。赤ん坊は満足そうに目を細め、再び母親の胸元へと小さな頭を預ける。
母親は深く息を吐き出し、改めて目の前の古い建物を仰ぎ見た。
かすれた木の看板。
色褪せた瓦屋根。
すりガラスの引き戸。
中に入ることはできなかった。背表紙の並びを見ることも、棚の間の空気を吸い込むことも叶わなかった。
それでも、彼女の心の中には、不思議なほどの満ち足りた感覚が広がっていた。
拒絶されたわけではなかったのだと、そう思えた。今はまだ、この静寂の中に足を踏み入れる時期ではないだけなのだ。
いつか、この子がもう少し大きくなって、静かに絵本をめくれるようになったら。その時こそは、二人でこの引き戸を開けてみよう。
母親は誰に向かってともなく、小さく一度だけ会釈をした。
冷たい風が再び吹き抜け、足元の落ち葉を遠くへ運んでいく。母親は抱っこ紐の位置を直し、ゆっくりと踵を返した。スニーカーが枯れ草を踏む音が、静かな路地に響く。来た時よりも少しだけ軽やかな足取りで、彼女は元の住宅街へと戻っていく。コートの中で、赤ん坊は再び静かな寝息を立て始めていた。
足音が完全に路地の奥へと消え去った後。図書館には、底なしの静寂が再び訪れた。瓦屋根の平屋は、冬の傾きかけた日差しを受けながら、ただ無言でそこに立ち続けている。
迷路のような本棚の奥深く。
少しだけ空いた本と本の隙間で、灰色と白のまだら模様の子猫が香箱を組んでいた。青灰色の瞳はすでに閉じられ、静かな呼吸だけが繰り返されている。
古い紙とインクの匂いが澱む空間で、時間は再び、ゆっくりと止まったように流れ始めていた。




