第15話 だいぼうけん
放課後のチャイムが鳴り終わってから一時間ほどが過ぎた頃だった。
傾き始めた秋の太陽が、住宅街の影を長く伸ばしている。乾いた風が吹き抜け、アスファルトの上に落ちた枯れ葉をカサカサと音を立てて転がしていった。
その音を追いかけるように、四組のスニーカーが不規則な足音を立てて細い路地を進んでいく。ランドセルを家に置いてきたばかりの、小学校低学年ほどの子供たちだった。
男の子が二人、女の子が二人。
先頭を歩く男の子は、まだ使う必要のないプラスチック製の懐中電灯を握り締めていた。少し肩をいからせて歩いている。
その後ろを歩くもう一人の男の子は、ズボンのポケットに両手を突っ込んでいた。周囲のブロック塀を蹴るふりをしながら、平気な顔を装っている。
女の子たちは後ろで手を繋いでいた。時折不安そうに顔を見合わせながら、ひそひそと声を潜めて言葉を交わしている。
「本当にここにあるの?」
「お兄ちゃんが言ってたもん。誰も住んでないのに、古い本がいっぱいあるお化け屋敷みたいな場所があるって」
「でも、ただの空き家じゃないの?」
「だから、それを確かめに行くんだろ」
強がるような男の子の声が、路地に反響して不自然に響く。
彼らはこの町に住んでいながら、この細い路地の奥に足を踏み入れるのは初めてだった。
普段の遊び場である公園や学校のグラウンドとは違う、得体の知れない静けさが漂っている。大人たちの目が行き届かない、世界の裏側を探検するような高揚感。そしてそれに勝る微かな恐怖。
肝試しというにはまだ明るすぎる時間帯だが、彼らの小さな胸の鼓動は確実に早まっていた。
路地の端には、名も知らぬ雑草が枯れかかった色で生い茂っている。彼らの短い歩幅では、その道は果てしなく続く迷宮の入り口のように感じられた。
曲がりくねった路地を何度か曲がると、両脇に迫っていた壁が途切れた。
そこだけが、周囲の風景から切り取られたように時間が止まっている。
色褪せた瓦屋根の平屋が、伸び放題の草木に半ば埋もれるようにして建っていた。外壁の板は黒ずみ、長い風雨に耐えてきたことを無言で物語っている。
入り口にはすりガラスのはめ込まれた古い引き戸があった。その上には「図書館」とだけ記されたかすれた木の看板が掲げられている。
子供たちは足を止め、その建物をじっと見上げた。
「図書館……?」
女の子の一人が、看板の文字を小さな声で読み上げる。
学校の図書室や、駅前にある近代的な市立図書館とは似ても似つかない姿だ。誰も出入りしている気配はなく、建物全体が深い沈黙に沈み込んでいる。
しかし、完全に打ち捨てられた廃墟特有の、腐敗したような荒んだ空気はない。ただそこにあるべくしてあるような、不思議な威厳が漂っていた。
先頭の男の子が、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
彼は握りしめていた懐中電灯のスイッチを意味もなくカチカチと押し、ゆっくりと引き戸に近づいていく。引き戸は完全に閉まりきっておらず、数センチの隙間が空いていた。そこから、ひんやりとした空気が外へ流れ出している。
男の子は隙間に指をかけ、恐る恐る力を込めた。
ギイッ、と、木の枠が擦れる低い音が響く。その音の大きさに驚き、四人はビクッと肩を揺らして一歩後ずさった。
しかし、中から何かが出てくる気配はない。
男の子は意を決して、さらに戸を横へ引いた。滑りの悪い敷居が抵抗したが、子供が通るには十分な幅が開く。すりガラスの向こう側に隠されていた空間が、彼らの目の前に姿を現した。
戸口から一歩足を踏み入れた瞬間、子供たちは外の世界の喧騒が完全に遮断されたことを悟った。遠くで聞こえていた車のエンジン音も、カラスの鳴き声も、ここには届かない。
代わりに彼らを包み込んだのは、古い紙とインクの匂い。そして長い時間をかけて積もった埃の匂いだ。
薄暗い室内には、床から天井まで届く木製の本棚が迷路のように立ち並んでいる。高い位置にある窓から差し込む秋の午後の光が、空気中を舞う細かな埃の粒を金色に照らし出していた。
「うわぁ……」
誰かの口から、感嘆とも溜め息ともつかない声が漏れた。
棚という棚に、無数の本が詰め込まれている。色褪せた布張りの表紙、金箔の文字が擦り切れた背表紙、分厚い革張りの本。中には和紙で装丁された和本のようなものも見え隠れしている。
彼らが学校で読むような、色鮮やかな絵本や児童書は一冊もない。
どれもひどく古く、そして難しそうな顔をして並んでいる。圧倒的な数の本たちが放つ静かな圧力が、子供たちの小さな体を上から押さえつけるようだった。
「誰もいないね……」
繋いだ手をさらに強く握り締めながら、女の子が囁く。その囁き声すらも本棚の隙間に吸い込まれ、不自然に大きく響いた。
床板を踏むスニーカーの音が、キュッ、キュッと鳴る。普段なら気にも留めないその足音が、ここではひどく耳障りな騒音に感じられた。
彼らは肩を寄せ合い、ひとつの塊のようにして本棚の間をゆっくりと進み始めた。
探検という目的はすでに薄れていた。ただこの異質な空間に飲み込まれないように必死だったのだ。
棚の角を曲がるたびに、新しい本棚の列が果てしなく続いているように錯覚する。どこからか視線を感じるような気がして、彼らは何度も振り返った。
その視線の正体は、彼らの頭上にあった。
奥から三列目、少し高めの本棚の上。
そこに、灰色と白のまだら模様を持つ一匹の子猫が香箱を組んで座っていた。
青みがかった灰色の瞳には、好奇心と、微かな野生の気配が宿っている。
子猫は子供たちが路地を歩いてくる足音から、すでにその存在に気づいていた。
引き戸が開く音も、おずおずと足を踏み入れる様子も、すべてこの高い場所から見下ろしている。
恐怖や警戒心はない。ただ、静寂に包まれた自分の縄張りを静かに観察しているだけだった。ひどく騒々しくて不器用な生き物たちが、そこへ迷い込んできたのだ。
子猫は青灰色の瞳を細め、下を通る四つの小さな頭の動きを追う。
彼らは時折、古い本に手を伸ばそうとする。しかし触れる直前でためらい、また手を引っ込める。何かに怯えているようでありながら、未知のものに対する興味を捨てきれない。
そのアンバランスな動きが、子猫には少し奇妙に映った。まるで、狩りの仕方をまだ知らない幼い獣たちのようだ。
スニーカーが床板を擦る音。
浅く早い呼吸の音。
衣服の布が擦れ合う音。
彼らが発するすべての音が、この図書館の静けさとは全く異質だ。
それでも、子猫は威嚇の声を上げなかった。逃げ出すこともせず、ただ棚の上でじっと息を潜めている。彼らがこの場所の秩序を壊すような真似をしない限り、干渉するつもりはなかったのだ。
子猫は前足を僅かに動かし、より下の様子が見えるように姿勢を微調整した。音を立てずに体重を移動させるその動きは、すでに野生の猫のしなやかさを備えていた。
子供たちは図書館の奥へと進むにつれ、言葉数を極端に減らしていった。
懐中電灯を持った男の子も、もはやスイッチをカチカチと鳴らす余裕はない。
周囲を取り囲む古い本たちが、無言で彼らに退出を促しているように感じ始めたのだ。
ここは自分たちの来るべき場所ではない。
遊び半分で足を踏み入れてはいけない、深く静かな領域だ。子供特有の鋭敏な感覚が、その事実を肌で感じ取っていた。
その時、最後尾を歩いていた女の子の足が、床から少し浮いていた古い板の端に引っかかった。
「あっ」
短い声とともに、彼女はバランスを崩して隣の本棚にドンと肩をぶつけた。
大きな音が室内に響き渡る。棚に並んでいた数冊の本がグラリと揺れ、パラパラと埃が舞い落ちた。
四人は一斉に息を飲み、その場に硬直した。
誰かが怒って出てくるのではないか。
お化けが正体を現すのではないか。
極限まで張り詰めていた緊張が、その音をきっかけに弾けそうになっていた。静まり返った空間で、全員が身をすくませて周囲を伺う。
そして、懐中電灯を持っていた男の子が、ふと視線を上へと向けた。
少し先の薄暗がり。
本棚の上から、二つの青灰色の光がじっとこちらを見下ろしている。
男の子はヒッと短く息を吸い込み、後ずさった。他の三人もその視線に気づき、男の子の背中に隠れるようにして固まる。
薄暗い空間で光るその目は、子供たちの目には未知の怪物のそれに見えたかもしれない。
しかし、目が慣れてくると、その光の周りに灰色と白のまだら模様の輪郭が浮かび上がってきた。
ピンと立った小さな耳と、長い髭。
「……猫?」
ズボンに手を入れていた男の子が、震える声で呟いた。
子猫は動かなかった。
毛を逆立てることもなく、鳴き声を上げることもなかった。ただ静かに、圧倒的な落ち着きをもって彼らを見つめ返している。その堂々とした佇まいは、ただの迷い猫のそれではない。
この古い建物の主として、侵入者たちの振る舞いを見定めているかのようだった。
「ただの猫だ……」
誰かが安堵の息を吐いた。
だが、恐怖が解けたわけではなかった。猫がいるという事実以上に、この空間に満ちている静寂が彼らを圧倒していた。本たちの重圧が、彼らの小さな許容量をとうに超えていたのだ。
ここにいてはいけない。
四人は無言のうちに同じ思いを共有した。
先頭の男の子がゆっくりと後ろに下がり始める。それにつられるように、他の三人も一歩、また一歩と後退していく。誰も背中を見せて逃げ出そうとはしなかった。
棚の上の青灰色の瞳から逃れるように、抜き足差し足で入り口へと向かう。
入り口の光が見えた瞬間、彼らの足取りは一気に速くなった。転がるようにして引き戸の隙間を抜け、外の世界へと飛び出す。
明るい秋の陽射しと、遠くで聞こえる車の音が、彼らを一気に現実へと引き戻した。
「なんだよ、ただの古い家じゃんか」
外に出た途端、男の子が強がった声を出した。しかし、その声は微かに上擦っており、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
女の子たちは何も言わず、ただ何度も頷きながら、足早に路地を戻り始めた。
四つのスニーカーの足音が、来た時よりもずっと急いだテンポで遠ざかっていく。
彼らが二度とこの場所を訪れることはないだろう。
今日の出来事は、ほんの少し背伸びをした秋の日の、小さな秘密の記憶として彼らの中に残るだけだ。
図書館には、再び絶対的な静寂が戻ってきた。
開け放たれた引き戸の隙間から冷たい風が入り込み、床の埃をさらっていく。
棚の上に座ったままの子猫は、足音が完全に消えるまで入り口の方向を見つめていた。
やがて、短く一度だけ欠伸をする。小さな牙が覗き、ピンク色の舌が丸まった。
騒がしい嵐のような時間は過ぎ去った。
子猫は前足を舐めて顔を洗い、再び香箱を組んで目を閉じる。
色褪せた背表紙たちも、何事もなかったかのように沈黙を保っている。瓦屋根の平屋は、夕暮れの光の中でゆっくりと影を濃くしていく。
古い紙の匂いと、淀んだような静けさ。
それがこの場所の、永遠に変わることのない日常だった。
(子猫的に)連続して嵐の襲来になったのは偶然です。




