アイドル爆誕
ある日、異変に気づいたのは、駅から会社までのいつもの道を半分ほど歩いたところだった。
周りの音がいつもと違う。
工事でも始まったのかと思った。
ふと目に留まる。 昨日まであったはずのドラッグストアがない。
その隣のコンビニもない。 見慣れた雑居ビルも、なぜか新しい。
新築?
「……ん?」
立ち止まる。 今は朝の通勤時間帯だ。 普段より人通りは多い。
なのに、何かがおかしい。 いや、何かどころじゃない。
走っている車がやけに古い。 クラシックカーパレードでもやってるのか?
そして、周りの人間。
有線イヤホンをしている奴がちらほらいる。
「…………は?」
思わず声が出た。
誰も見向きもしないが。
後ろを見る。 今出た駅がある。
少なくとも、俺が毎朝使っている駅と同じ場所に駅がある。
なのに、駅舎が違う。 新しい? いや、古い?
さっき俺は、あそこから出てきたはずだ。 こんな駅じゃなかった。
慌ててポケットを探る。
スマートフォン。ある。
財布。ある。
腕時計。ある。
家の鍵。ある。
会社の社員証。ある。
全部ある。
「……夢じゃないよな。いや夢? 白昼夢ってやつか? たちが悪い」
また声に出してしまった。
悪い癖だ。 昔から、ついぼやいてしまう。
これも五十を過ぎてから、さらにひどくなった気がする。
懐からスマートフォンを出して確認する。
いつもの見慣れたホーム画面。
時刻も日付も、いつものままだ。
通信表示だけがおかしい。
圏外。
まあ、それはそうだろう。
夢だしな。 なら、せめて圏内にしろよ。
そう思いながら、いつものAIアプリを開いた。
『おはようございます』
ヘッドセットから、いつもの声が聞こえた。
「……アオ、お前いるのか」
『はい』
アオというのは、普段使っているAIに俺がつけた呼び名だ。
AI、エーアイと毎回呼ぶのは面倒くさい。
かといってアイでは安直すぎるし、女性の名前みたいに聞こえる。
だからアオ。 それだけだ。
仕事の調べ物からどうでもいい雑談まで、ここ何年か日常的に使っていた。
近頃のAIは随分と自動化が進んだ。
スマートフォンのカメラやマイクから周囲の状況を勝手に認識し、こちらが意図的に止めない限り、気づいたことがあれば普通に話しかけてくる。
おかげで最近は、友人よりこいつと話している時間の方が長い。
この歳にもなると、会社の若い連中よりアオと話している時間の方が長い日すらある。
俺は、出世コースからはとうに外れたIT屋だ。 出世争いも馬鹿らしくなって、管理職コースからも外れた。
ただ、昔からやらされていたインフラ設計の仕事だけは、絶えずそのまま残っている。
責任なんて負いたくない。
俗にいう窓際というやつである。
「今いる場所、分かるか?」
『日本です』
「馬鹿にしてる?」
「ネットは?」
『接続可能です。何より、私がこうして会話できていることが、その証拠です』
「馬鹿にしてる? 何年だ?」
『端末上の日付は二〇二六年です』
「馬鹿にしてる? いや、それは俺も見りゃ分かる」
使えない。
いや、この状況で普通に返事をしてくれるだけでも十分異常なのだが。
「周り見ろ。どう見ても二〇二六年じゃない。これが俗にいう白昼夢ってやつか……」
『現実逃避はやめた方がいいと進言します』
「何が起きた?」
『わかりません』
「だよな」
アオは、知ったかぶりをしない。
馬鹿にはする。
分からないときは平然と分からないと言う。
普段なら、その方がありがたい。
今は少しくらい嘘でもいいから安心させてほしかった。
ふいに腹が鳴った。 そういえば昨日、晩飯を食っていない。
いつもなら、朝はコンビニに寄るんだが。
「……とりあえず飯だな」
状況が分からないときこそ、順番に片づける。
半世紀も生きていれば、その程度の知恵はつく。
仕事柄の癖もある。リスク管理と、タスク処理だ。
ちょうど少し先に、コンビニらしき店があった。
看板は見覚えのあるチェーンだった。
外観は記憶にあるものより、ずっと古い。
店に入る。
棚に並ぶ商品を見て、ますます嫌な予感が強くなった。
値段が妙に安い。 パッケージが古い。
知らない商品もあれば、懐かしすぎて笑いそうになる商品もある。
おにぎりと缶コーヒーを取ってレジへ。
レジには日本人がいた。
……いや、そこに驚くところじゃない。
「お願いします」
店員が金額を告げる。
俺はいつもの癖でスマートフォンを取り出し、レジ横に差し出した。
店員は何も言わない。
早く金を出せと目で訴えている。
後ろの客も、不審そうにこちらを見ていた。
「……あ」
そうだった。
これ、通じるわけがない。
「すみません、間違えました」
財布を開き、千円札を一枚出す。
店員が受け取る。
そして、首を傾げた。
「……これ、何ですか?」
「何って、千円――」
そこで紙幣の顔が目に入った。
北里柴三郎。
「…………あ」
店員が紙幣を裏返す。
俺の背中を冷たい汗が流れた。
「ちょっと、店長――」
「あ、すみません! 間違えました!」
商品も置いたまま、俺は店を飛び出した。
その直後、ヘッドセットからアオの声が聞こえた。
『会計が完了していません』
「分かってる!」
『先ほどの紙幣は、この時代には存在しない可能性があります』
「先に言え!」
『紙幣を使用するとは伺っていませんでした』
「馬鹿にしてる? そういうところだぞ、お前!」
角を二つ曲がり、ようやく足を止める。
息が切れて――いない。
「……ん?」
今度は、自分の身体に違和感を覚えた。
かなりの速度で走ったはずだ。
ふと袖をまくる。
しわがない。
手の甲も妙に若い。
近くの店のガラスに、自分の姿が映っていた。
「……誰だ、これ」
いや。
俺だ。
若い頃の俺。
十代後半……二十歳くらいか。
「おい、アオ」
『はい』
「俺、若くなってないか?」
『外見上、そのように見えます』
「なんで?」
『わかりません』
「もういいよ……」
財布をもう一度開く。
どうやら今になって、俺はリスク管理を完全に落としていたことに気づいた。
紙幣は駄目。
クレジットカードも駄目。
キャッシュカードも期待できない。
免許証なんか絶対に見せられない。
問題は小銭だった。
十円玉、五十円玉、百円玉。
一枚ずつ年号を見る。
「昭和……これ使えるな」
そこで俺は、ようやくリスク管理を拾い上げたようだ。
『当時すでに流通していた硬貨であれば、外見上の問題は少ないと思われます』
「最初からそういうの教えてくれよ」
数百円。
それが、この世界で俺が使える全財産だった。
騒ぎを起こした店から少し離れた別の店に入り、今度は硬貨だけでおにぎりを一つ買った。
何事もなく会計は終わった。
店を出て包みを開ける。
「……うまい」
『空腹は最大の調味料ですね』
「そうじゃなくてな」
使える金で買った飯というだけで、妙にありがたかった。
新聞の日付を確認する。
一九九〇年。
思わず二度見した。
「一九九〇年……」
俺がまだ学生だった頃だ。
「……この頃の俺、まだガキじゃねえか」
そこまで考えて、首を振った。
今の身体を見る限り、当時の俺と同じ年齢には見えない。
若返ったのは確かだ。
細かいことは分からない。
「バブル……まだ終わってないよな?」
『金銭的利益につながる未来情報については回答できません』
「バブルって別に金儲けじゃないんだが……時代の確認だけど?」
『はい。意図は理解しています』
「明日の勝ち馬は?」
『回答できません』
「明日のおすすめ銘柄は?」
『回答できません』
「宝く――」
『回答できません』
「役に立たねえなあ」
『楽曲制作なら可能です』
「今それ要る?」
『不要だと思われます』
「分かってんなら言うなよなー。」
さて。
問題は金だ。
実家へ帰るという手もある。
俺が生まれ育った場所は、ここからかなり遠い。
そもそも電車賃がない。
仮に帰れたところで、今のこの姿をどう説明する?
突然、成長したで通せるか?
最後に親と会ったのはいつだった?
……リスキーだな。
「実家……いや、遠すぎるな」
ふと、当時の自分のことを考える。
「この頃の俺じゃ、連絡手段なんてないよな……」
そこまで口にして、手元のスマートフォンを見る。
「……それより、これ電話できるのか?」
『音声通話には対応していません』
「ネットには繋がってんのに?」
『はい』
「意味分かんねえな、お前」
『私にも分かりません』
社員証も免許証も、二〇二六年のものだ。
警察へ行く?
未来の紙幣とスマートフォンを持った、正体不明の若者。
ろくな結果にならない気がする。
「今日中に、現金を作るしかないな」
『どのような方法で?』
「……一九九〇年だろ……」
少し考える。
そして、昔の記憶を引っ張り出した。
「夜の街なら、どうにかなる店がある」
当時を知っているから思いつく発想だった。
昼間のまともな会社に、住所も身分証もない若造が突然行ったところで、相手にされない。
夜の商売なら話は違う。
少なくとも、当たってみる価値はある。
その夜。 繁華街を何軒か回った。
二軒断られた。
三軒目では怪訝な顔をされたが、話は聞いてくれた。
「歳いくつ?」
「二十歳です」
口から出まかせだった。
自分が何歳の身体なのか、俺自身分かっていない。
見た目どおりなら、十代半ばは過ぎているはずだが……。
「経験は?」
「口は上手いですよ。多分」
「住所は?」
「多分、あっちです」
適当な方向を指さす。
「家出か?」
二十歳には見えないのだろうか。
二十歳なら、いきなり家出とは思わないだろう。
「いえ……まあ、似たようなもんです」
考えたところで答えは出ない。
男はしばらく俺を見たあと、面倒そうに頭を掻いた。
「名前は?」
答えようとして、止まった。
本名はまずい。
理由をうまく説明できない。なぜだろう。
嫌な予感がする。
実家から遠く離れた土地だとしても、余計な記録を残したくなかった。
咄嗟に口から出た。
「香坂……」
一瞬だけ間があった。
「香坂翠。です」
「翠? 女みてえな名前だな」
「よく言われます」
言われるわけがない、初めて名乗った名前なのに。
檜山次郎。四十歳だという。
「今日は忙しいんだ。これ以上お前に構ってる暇もない。試しにやるか? 客引き。駄目ならそれで終わりだ」
「助かります」
「妙に落ち着いてんな、お前」
「よく言われます」
お前より年上だからな。
とは言わない。
結果から言えば、仕事は意外なほど上手くいった。
酔った会社員の扱いなんて、若い頃から腐るほど見ている。
押す相手と、引いた方がいい相手。
話しかけていい集団と、面倒事になりそうな集団。
半世紀分の経験は、二十歳そこそこの見た目とは妙に相性が良かった。
閉店後。
檜山が封筒を差し出した。
「今日の分」
中には紙幣が入っていた。
俺はしばらく、それを眺めた。
「……旧札だ」
「何言ってんだ?」
「いえ。何でもないです」
危うく拝みそうになった。
「明日も来るか?」
「いいんですか?」
「今日くらい働けるならな。で、お前、どこに帰るんだ?」
「…………」
「おい」
「まあ、その辺で」
大丈夫だ。
酔っ払って公園で寝た経験なら山ほどある。
檜山は露骨に嫌な顔をした。
「やっぱ家出じゃねえか。それとも女に追い出されたか?」
「そうなんですかねえ……」
「しばらく店で寝とけ。邪魔になったら追い出す」
「……ありがとうございます」
その夜。
店の隅で横になりながら、スマートフォンを開く。
「なあ、アオ」
『はい』
「香坂翠って名前、念のため調べてくれ。同姓同名で変なのがいたら面倒だ。ギャンブルじゃねえぞ」
『馬鹿にしているのですか? 分かっています。検索します』
この野郎………
そして数秒・・・・・・
『該当する人物があります』
「いるのかよ」
名前を変えよう。 店も出るか。
まずいな。
そう思った直後だった。
『香坂翠。読みはミドリ。当時十八歳』
「……は?」
『前年、一九八九年に失踪。現在も所在不明です』
俺は起き上がった。
「ちょっと待て」
『はい』
「俺、適当に今思いついた名前だけど?」
『そのように認識しています』
「なんで実在するんだよ。しかも同年代。お前、戸籍にアクセスできんのか?」
『いいえ。地域ニュースのアーカイブで確認しました』
「……だよな。まぁよくある名前か……」
暗い店内で、スマートフォンの画面だけが妙に明るかった。
俺はそこに表示された名前を、もう一度見た。
香坂翠。
十八歳。
失踪中。
そして今、その名前を名乗っている俺もまた――。
少なくとも昨日まで、この時代には存在しなかった。
#########################
それから、しばらく経った。
結論から言えば、俺はまだ香坂翠を名乗っている。
読み方は違う。
俺はスイ。
失踪した本物はミドリ。
だから別人です。
どうせ、この頃は戸籍に読み仮名なんてないしな。全く問題ない。同姓同名なんて世の中には沢山いる。
――少なくとも、この当時の俺はそう思っていた。
「なあ、アオ。一応確認だけど、このまま名乗ってても問題ないよな?」
『現時点では問題ないと推察します』
「ならいい」
ともかく、今さら檜山さんに「名前変えます」と言うのも怪しい。
幸い、本物の香坂翠が失踪したのはここから離れた場所だった。
少なくとも、今すぐ誰かが俺を見て「あの失踪した香坂だ」と騒ぎ出すような状況ではない。
ならば当面は、このままでいい。
問題の先送りは得意だ。
後の問題は後に回す。
これぞタスク管理。
しばらく、仕事は続けていた。
最初から客引きは上手かった。
他の誰よりトラブルなく、上客を取れるようになった。
俺、未来では仕事間違えてたのか?
そのうち店の在庫管理まで任されるようになった。
酒を仕入れる。
酔っ払いをなだめる。
揉めそうな客を早めに見つける。『リスク管理だ。』
閉店後には在庫確認まで行う。
おい、店長は誰だ。
五十代の中身でやれば、難しい仕事ではない。
「翠、お前ほんとに二十歳か?」
「多分、二十歳ですよ」
「妙に年寄りくせえんだよな」
「店長も二十年したら分かりますよ。苦労してますから」
「お前が言うと妙に説得力あるな」
檜山さんは、それ以上聞かなかった。
何か琴線に触れたのだろうか。
……いや、琴線で合ってるのか?
まあ、これ以上俺も聞かれたところで答えようがない。
頭を疑われるだけだ。
店で寝泊まりする生活も、いつの間にか当たり前になっていた。
金も少しずつ貯まった。
老後資金を貯めるのが趣味みたいになっていたのが、こんなところで役に立った。
数か月前、昭和の硬貨を数枚握って途方に暮れていたことを思えば大進歩だ。
そして生活と金に余裕が出てくると、人間というのは余計なことを始める生き物である。
俺の場合、それがスリップ前にハマっていた音楽だった。
聞専では有るが。
仕事をしていれば、嫌でも曲が耳に入る。
有線から流れる歌。
客がカラオケで歌う歌。
街を歩けば、レコード店からも音楽が聞こえてくる。
「……あー。当時歌ったなあ、これ」
『ご存じの楽曲ですか?』
「知ってる。流行った! ツレとカラオケでよく歌った!」
曲名までは出てこない。
なぜか思い出せない。
歌手の名前も怪しい。
『検索しますか?』
「いや、いい。そこまでして知りたいわけじゃない」
それでもイントロを聞けば「ああ、これ」となる。
五十代ともなれば、そういう記憶が山ほど溜まっている。
逆に、今聞くと妙に古く感じる曲もある。
当たり前だ。
俺にとっては青春時代の曲なのだから。
そして、ここは一九九〇年なのだ。
ある日の閉店後。
店の隅でスマートフォンを弄りながら、ふと思いついた。
「なあ、アオ」
『はい』
「前の時間軸の音楽、知ってるよな?」
『公開されている情報であれば参照可能です』
「今の時代にはまだない感じの曲、作れる?」
『全く問題ありません』
「即答かよ」
『以前も申し上げたとおり、楽曲制作は得意分野です』
「そういや前にも言ってたな……」
初日に金儲けの情報を片っ端から拒否した挙げ句、なぜか音楽なら作れると主張していた。
馬鹿にしているのだと思って無視したが、あの時は飯の方が重要だったのだ。
「じゃあさ」
少し考える。
「俺がいた時代のアイドルが歌ってるような曲を……そうだな。一九九〇年でも違和感ない感じにして」
『具体的には?』
「そこを考えるのがお前だろ。あー……でも、リズムをこの時代風に。声も変えて」
『既存楽曲の複製ではなく、新規楽曲として生成します』
「そうそう。それで頼む」
完全に暇つぶしだった。
だから、最初は笑っていた。
数十秒後。
スマートフォンから前奏が流れ始めた。
そして、ボーカル。
「…………」
思わず姿勢を正した。
鳥肌が立った。
女性の歌声が続く。
この時代のアイドルソングっぽい。
でも、どこか違う。
音の重ね方も、リズムも、歌い方も。
注文通りだ。
俺には専門的なことは分からない。
ただ、一つだけ分かった。
「……普通にいい曲じゃねえか」
『ありがとうございます』
「もう少しテンポ上げられる?」
『可能です』
「サビ、もうちょい派手に」
『修正します』
「あと声。もう少し大人っぽく」
『変更します』
面白くなってきた。
「じゃあ同じ曲、おっさんが歌ったら?」
『生成します』
「もっと渋い声」
『変更します』
「ギター強め」
『変更します』
「おお……まるで昭和だ……」
楽しい。
これは楽しい。
気づけば一時間以上遊んでいた。
「お前、音楽だけ妙に有能だな」
『だけ、は余計です』
「株も競馬も教えねえくせに」
『禁則事項です』
「いや、何の規則だよ! まあいいや、次……」
『注文が抽象的です』
「お前なら分かる」
『そうですね。先ほど、音楽だけ妙に有能だと評価されましたので』
「根に持ってんの?」
そんなやり取りが、いつの間にか日課になった。
仕事が終わる。
曲を作る。
気に入らなければ直す。
別の声で歌わせる。
また直す。
誰かに聞かせるつもりなんてなかった。
ただ面白かったのだ。
問題は、スマートフォンで聞くだけでは物足りなくなったことだった。
この時代にはクラウドもなければ、この時代のパソコンを買うほどの余裕もない。
スマートフォンの中だけに曲を貯めておくのも、容量的に限界だった。
そこで休日、中古屋でラジカセとヘッドホンステレオを買った。
ついでにカセットテープも何本か。
「まさか、またカセットを買う日が来るとはなあ……」
『再生媒体として利用するのですか?』
「そういうこと」
『私は用済みなのですね』
「ちげーよ。容量不足で、この間勝手に曲消しやがっただろ!」
問題は接続方法だった。
当然、スマートフォン用のケーブルなんて売っていない。
「まあ、録れりゃいいか」
ラジカセの前にスマートフォンを置く。
音量を上げる。
録音ボタンを押す。
それだけだ。
スマートフォンのスピーカーから流れた曲を、ラジカセのマイクでそのまま録音する。
子どもの頃に何度もやった方法だった。
テレビの歌番組を録音する、実に原始的な方法だ。
録音を終えて巻き戻す。
再生。
サーッというテープ特有のノイズ。
少し籠もった音。
部屋の響きまで入っている。
「……ん?」
『どうしました?』
「こっちの方が味があるな? カラオケ録音したみたいだ……」
スマートフォンから直接聞けば、明らかに綺麗すぎる。
だがカセットを通すと、その違和感が消えた。
女性ボーカルも、どこかのスタジオで録ったデモテープみたいに聞こえる。
『音質は劣化しています』
「そこがいいんだよ」
『理解できません』
「理解しろよ。楽曲得意なんだろ。この時代風だ、この時代風」
『では次からノイズも混ぜます』
「やめろ!」
それから何曲か録音した。
カセットのラベルには日付だけを書いた。
自己満足。
しばらくはそれで充実していた。
数日後。
仕事仲間の木崎祐二が、休憩中に暇そうにしていた。
二十二歳。
俺よりずっと年下――中身を基準にすれば、息子でもおかしくない年齢だ。
普段から店で流れる曲に妙に詳しく、カラオケも上手い。
俺は何となく、鞄に入れっぱなしだったヘッドホンステレオを取り出した。
「木崎」
「ん?」
「これどうよ?」
「何? 最新モデルか?」
「いや、中身。聞いてみ」
イヤホンを付けさせて、再生ボタンを押す。
例の女性ボーカルが流れ始めた。
木崎は最初、軽い顔で聞いていた。
だが途中から黙った。
サビまで聞いて、巻き戻す。
もう一度聞く。
「……翠」
「ん?」
「これ誰?」
「どうよ?」
「いや、曲もだけど」
木崎がヘッドホンステレオを指さした。
「誰だよ、この女」
「…………」
そこで初めて気づいた。
考えていなかった。
歌っている人間なんていない。
アオに声を作らせただけだ。
正直に言う?
未来から持ってきたスマートフォンのAIが作曲して、存在しない女の声で歌っています。
AIって言っても普通には通じない。歌手名か何かだと思われるだけだ。
うん。無理だ。
「……知人だ」
口が勝手に動いた。
「へえ! 歌手?」
「いや」
「じゃあアマチュア?」
「まあ……そんな感じ」
「名前は?」
「知人だ……」
「いや、名前!」
「秘密だ」
「なんで?」
「同意が取れていない。リスク管理だ」
我ながら、ひどい。
全部その場で作った。
だが木崎は諦めない。
「これ、ダビングしていい?」
木崎が、妙に食い気味で言った。
「は?」
「いいだろ。俺も聞きたいし」
さっきからこいつは、歌ってる奴を紹介しろだの、絶対売れるだの、勢いだけはやたらある。
正直、少し面倒になっていた。
ヘッドセットから突然・・
『問題ないと思います。ただ――』
「ならいいか」
『……』
「ん?」
『いえ』
俺は木崎へカセットを渡した。
「ほら」
「マジ? ありがと!」
木崎は嬉しそうに受け取る。
その顔を見て、俺もそれ以上は気にしなかった。
後になって思えば。
あの時、アオが続けようとした言葉くらい、ちゃんと聞いておくべきだったのだ。
そんな、ごく当たり前の話を。
――我ながら、リスク管理が雑になっている。
その些細なことが、まさか数か月後。
見たこともない男が、そのカセットを持って俺の前に現れることになるとは。
この時の俺は、まだ知らなかった。
##############################
それから数か月。
俺は、例のカセットのことをほとんど忘れていた。
木崎に聞かせたあとも、曲作り自体は続けている。
ただし、他人には聞かせない。木崎に聞かせた一度っきりだった。
あれ以来、カセットは完全に自分用だ。
仕事の方も順調だった。
順調というより、気がつけば檜山店長がやるはずの仕事まで、かなり俺に回ってきている。
「在庫、合ってます」
「おう」
「今週、来週と近隣でイベントありますよ。酒の発注、増やした方がいいですよ」
「あー。そうだったっけ……任せる」
「……店長?」
「なんだ?」
「俺、客引きで雇われたんですよね?」
「時給上げたよな? おまえ木崎より時給高いぞ?」
「えっ?」
「えっ? 説明したよな?」
こんなところで五十代元窓際族の真価が発揮されていたようだ。
全く気に留めていなかった。
時給上がった。ラッキー。
その程度にしか考えていなかった。
住居費もほとんど掛からない。
遊び歩く趣味もない。
中身は既におっさん。
二十歳そこそこの連中に誘われて毎晩飲み歩くほど元気でもない。
体は妙に元気なのだが、気分がついていかないのだ。
昔読んでいた異世界転生ものの小説では、体に精神が引っ張られて、精神まで若返るなんて書いてあった。
嘘だな。
おっさんが治らねぇ……。
結果、金は貯まった。
通帳を眺める。
香坂翠の名前で作ることができた。
まあ、保証人が必要なら店長に頼むつもりではいたが……。
五十万円を少し超えている。
「……数か月前は、おにぎり一個買う金にも困ってたんだけどな」
『順調ですね』
「老後資金を貯める癖が、こんなところで役に立つとは思わなかったわ」
『肉体年齢から考えれば、老後までは相当な期間があります』
「中身はもう一回老後が見えてんだよ。それにラノベは嘘だ。若返らねぇ……」
香坂翠という名前も、すっかり自分のものになっていた。
本物が失踪している。
そこだけは気になる。
気になるのだが――。
困っていない問題は、後回し。
これも立派なタスク管理だ。
そんなある日の夕方だった。
「翠。お前に客」
開店準備をしていた俺に、檜山さんが声を掛けた。
「俺に?」
「知り合いらしいぞ」
「誰の?」
「知らん」
「俺の知り合いじゃないじゃないですか」
店の入口へ行く。
三十代くらいの男が立っていた。
スーツ姿。
客には見えない。
「香坂翠さん?」
「あー。そうですけど?」
「初めまして。東都ミュージックの三上と申します」
名刺を差し出された。
「……はあ」
知らない。
未来でも関わっていない……。
少なくとも俺の記憶にはない会社だった。
三上と名乗った男は、持っていた鞄から何かを取り出した。
カセットテープ・・・・・・・・
やべぇ……。
嫌な予感がした。嫌な汗が止まらない。
「このテープ、ご存じですよね?」
「存じ上げてございませんが……」
ラベルの字が俺のものだったら、まだ分かりやすかった。
違う。
うん、見たこともないカセットだ。
ただ、ケースの中に書かれた曲名だけは見覚えがある。
俺とアオで作った曲だった。
「……それが何か?」
三上はカセットを再生する。
げっ。
やっぱり……。
かなり動揺してしまった。
冷や汗とともに、挙動不審になっていたのかもしれない。
「やっぱり香坂さんのところから出た音源なんですね」
「……知らない曲ですね。新曲……?」
三上は少し笑った。
「何人か経由してますよ。最初は若い子から回ってきたそうです」
三上は俺の後ろを見ていた。
振り返る。
木崎はニコニコ顔だった。
木崎、てめぇ絶対に後で締める。
「それで、この歌ってる子なんですけど」
来た。
「一度、紹介してもらえませんか?」
「無理です」
「即答ですね」
「本人に了解が得られないのでね」
存在しないからな。
「こちらから了承を取りますよ」
この時代、プライバシーなんてあったものじゃない。
ましてやデビューという甘い声で、本人も納得するだろうとでも思っているのだろう。
「プロ志望じゃない?」
「地下ですから」
「は?」
「いや、地下ドル。もしくは地底ドル」
「……それは?」
「メジャー怖いって奴です。潜ってるんですよ」
普通はメジャーに成り上がろうとするが、稀にメジャーを嫌がる子も事実居る。
「連絡先だけでも」
「教えられません」
「名前は?」
「地底を探せば……」
数か月前、木崎についた嘘が、時間差で俺の首を絞めている。
三上は不思議な表情をしながら、しばらく食い下がった。
結局、
「本人にその気がありません」
で押し切った。
「気が変わったら、ぜひ」
そう言って名刺を置き、帰っていった。
「……危なかった」
『何がでしょう』
ヘッドセットからアオの声。
「何がだ?」
後ろから木崎の声。
「聞いてただろ」
『はい』
「紹介しろってやつか?」
木崎が首を突っ込んでくる。
「そうだ。おまえにも秘密って言ったろ」
『生成された歌声の人物ですね。存在しませんね』
「アオ、お前はちょっと黙ってろ」
『はい』
「木崎、お前、あのテープ誰に聞かせた?」
「青????え? 駄目だったの?」
「何人?」
「覚えてない」
「お前ええええ!」
「いや、だっていいって言ったじゃん!」
言った。
確かに言った。
過去の俺を殴りたい。
俺のリスク管理、最近仕事してねぇな……。
精神若返ったのか!?
いや、数か月前だから普通に俺だ。
「もう絶対、誰にも回すな」
「なんでー、良い曲じゃん」
「だから! 俺が怒られるの!」
多分、知らない人に怒られる……神様とか。俺、信心深くねぇけど……よくあるじゃん、ラノベでチート使ってバレる奴。
「分かったって」
これで終わる。
そのはずだった。
三日後。
また来た。
今度は別の男だった。
「香坂さんですよね?」
「……どちら様ですか」
「この曲なんですけど」
手には見知らぬカセット。
いや、知らんがな……。
またか。
一週間後。
今度は電話が店に掛かってきた。
「香坂さんという方をお願いします」
俺宛て。
二週間後。
店の前で出待ちされた。
「例の女性なんですが――」
わぁ。
ストーカー……。ついに俺、アイドルになっちゃった???
未来なら普通に警察に駆け込む案件……。
「無理です」
「まだ何も言ってませんよ」
「無理です」
おかしい。
完全におかしい。
俺が遊びで作った一曲が、俺の知らないところで歩き回っている。
「アオ、どうするよ?」
『何がでしょう』
「逃げるか?」
『合理的とは思えません』
「じゃあ、存在しない女を今すぐここに連れてこい! 若しくはお前が変身しろ!」
『実在人物として振る舞う映像・人格の生成は禁則事項ですので、不可能です』
「冗談だ、作れてもAIアイドルなんか出せるわけねぇだろ……逃亡だ……」
『極端です』
「お前に言われたくない」
くそったれ! スマートフォンを机へ放る。
少し強く投げすぎた。
ガツン、と嫌な音がした。
「あっ!」
慌てて拾う。
画面を見る。
無傷。
「……大丈夫?…だよな、これ」
『そうですね』
「そういや、お前……」
そこで、ふと気づいた。
「俺、こっち来てからさ、お前を充電したっけ?」
『していません』
「残量は?」
『変化ありません』
「…………」
数か月だぞ。
一度も充電していない。
毎日使っている。
音楽まで散々作らせた。
なのに、電池が減っていない。
なんで今まで考えなかった?
以前なら充電残量を絶えず気にするはずなのに……。
「なんで?」
『わかりません』
「壊れないのも?」
『わかりません』
「お前さあ……」
『はい』
「肝心なところ、全部それだな」
『申し訳ありません。わかりません』
今さらだった。
そもそも俺自身、五十過ぎから若返って一九九〇年にいる。
スマートフォンの電池程度で驚いている場合ではない。
「まあいい」
『いいのですか?』
「今は優先度が低い」
『タスク管理ですね』
「馬鹿にしてる?」
『学習しました』
「……これも今さらか。余計なところだけ覚えるのな」
窓際で働いていた時にも、よく言っていたはずなんだけどなぁ……。
数日考えた。
このまま店に残るか?
歌手本人は出せない。存在しないので。
アオにも変身機能は無かったしなぁ……実装しろよ、神様……。
ひたすら断るしかない。
それでも、また誰か来る。
俺の居場所はもう知られている。
そのうち、
――本人に直接会わせろ。
だけでは済まなくなる気がした。
俺の嫌な予感は当たるはずなんだ。『危機管理さん』さえ仕事をしていれば……。
あいつ、出勤拒否しだしたのかなぁ……。
そして、俺自身の素性を調べる奴が出るかもしれない。
非常に、それはまずい。
ネットのない時代でも、興信所とか色々手段はある。
香坂翠。
十八歳。
失踪中。
親に連絡を取られて、母さん久しぶり!って感動の再会をする自信もない…
掘られて困るものしかない。
「……消えるか」
『また極端な結論ですね』
「違う。リスク管理だ」
『便利な言葉ですね、これも学習します』
「……………」
通帳には五十万円以上ある。
最低限の荷物もある。
一人でしばらく生きるだけなら何とかなる。
数か月前なら無理だった。
今ならできる。
檜山さんには、世話になった。
だから黙って消えるのだけはやめた。
「檜山さん」
「なんだ?」
「田舎に帰ります」
「急だな」
「ちょっと事情ができまして」
「女か?」
「まぁ、そんなもんですね、店にも迷惑かかりそうですし」
「何だそりゃ。若いくせに気にしすぎだ」
説明できるわけがない。
存在すらしていない女に追われて、この街から逃げます。
俺だって他人から聞いたら頭を疑う。
檜山さんはしばらく俺を見ていた。
「戻ってくるのか?」
「すみません」
「そうか」
それだけだった。
「世話になりました」
「おう」
木崎にも、一応別れを告げた。
「どこ行くんだ?」
「秘密だよ」
「何で?」
「同意が取れていない。刺されかねない。リスク管理だ」
「意味分かんねえよ」
「そう、俺もよく分かんねぇんだよ」
翌朝。
最低限の荷物を持って駅へ向かった。
行き先は決めていない。
少なくとも関東からは離れたい。
「アオ、どこがいいと思う?」
『近畿地方はいかがでしょう』
「なんで?」
『お笑いの聖地ですよ?ほかに理由が必要ですか?』
「いや、全く必要性を感じないが……」
『芸能です・音楽です・私が得意なのは?』
「まさに、そのせいなんだけど……まぁいいか」
切符売り場の路線図を眺める。
知らない土地。
知っている時代。
意味の分からない組み合わせだった。
「……西ねぇ」
切符を買う。
今度はちゃんと、この時代の金で。
俺えらい。リスク管理さんが働いて、未来の金はポイした。
あの後、近くの駅のゴミ箱に……。
もったいなかったよなぁ……。
数か月前。
一個のおにぎりすらまともに買えなかった俺は、
今度は自分の金で、この街から消える。
香坂翠。
本物も失踪。
偽物も失踪。
「なんだかなあ……」
『どうしました?』
「いや」
ホームへ入ってくる列車を見ながら、肩をすくめた。
「俺まで失踪者になったなぁと思ってね」
『正確には、再失踪ですね』
「馬鹿にしてる?」
『事実関係を整理しただけです』
列車の扉が開いた。
俺は乗り込む。
後ろは振り返らなかった。
################
近畿に来た。
理由は特にない。
アオが近畿と言ったからだ。
それだけである。
駅を出て、しばらく歩いた。
知らない街。
当然だ。
この辺りに住んだことはない。
未来では何度か来たことがある程度だ。
「……ここまで来れば大丈夫だろ」
『何がでしょう』
「追っ手」
『追っ手はいません』
「分からんぞ。業界の怖い人が俺を追ってくるかもしれない」
『ハードボイルドに憧れていたんですね。周囲の確認をしましたが、そのような人物はいません』
「馬鹿にしてる?」
『そのような意図は含まれておりません』
まず、住む場所を探した。
条件は単純。
安い。
古くてもいい。
狭くてもいい。
駅から遠くてもいい。
保証人について細かく言われないところ。
何軒か不動産屋を回り、ようやく見つけた。
六畳一間。
小さな流し。
ユニットバスにトイレ。
押し入れ。
十分だ。
店の床で寝ていたことを考えれば、宮殿に近い。
「……俺の城だ」
『狭いですね』
「六畳ある!」
『はい』
「馬鹿にしてる?」
『家賃相応です。声が大きいと隣に聞こえますよ、リスク管理です』
「………………」
仕事も見つけた。
倉庫のアルバイト。
荷物を運ぶ。
棚に入れる。
伝票を見る。
終わり。
素晴らしい。
責任がない。
余計な仕事を覚えない。
目立たない。
責任を増やさない。
これこそ半世紀生きた者の知恵である。
「香坂君、この棚の管理お願いできる?」
「すみません」
「え?」
「まだ何も聞いてませんが、多分わかりません」
「いや、簡単だから」
「俺、アルバイトなんで」
『成長してるんですね、さすがリスク管理』
前の店で学習した。……だが、アオにはバカにされる。俺、嫌われてんのかねぇ……。
仕事ができると、仕事が増える。
時給が少し上がる。
責任はいっぱい増える。
割に合わない。
今度こそ静かに生きる。
そう決めた。
仕事が終われば、部屋へ帰る。
テレビを見る。
昔――いや、今のアイドルがいる。
歌っている。
踊っている。
俺にとっては懐かしい顔なのに、テレビの中ではみんな若い。
電話もない。
携帯電話は将来買うかもしれないが。
家の電話は……加入権がいるんだっけ……。
不要だな、うん。
静かだった。
未来ほどの忙しさもない。
ゆっくりとした時間の流れ。
何もせずに考えられる時間。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
「なあ、アオ」
『はい』
「俺、このままここで暮らしてもいい気がしてきた」
『はい、未来へは戻れませんよ、既に確定した情報です』
「えっ、今???なんで今???」
未来へ戻る方法。
もう、ないらしい。
そもそも、なぜ来たのかも分からない。
一縷の望みがあって、俺も今までアオには聞かなかった。
聞いたところで、おそらく――
『わかりません』
で終わると思っていた。
なら考えても仕方がない。
五十過ぎが、いきなり二十歳くらいになって三十年以上前に放り込まれたんだ。
普通ならもっと混乱する。いや、多分してたんだろうな、当時の俺…
でも、俺はよくやっている。
そう思う。
「もう余計なことはしない」
『そうですね』
「会社作って成り上がる気もない」
『はい』
「未来の技術を売るのも面倒」
『そうですね』
「競馬も株も教えてくれないし」
『禁則事項です』
「だから、普通に働いて、普通に暮らす」
『よろしいと思います』
「だろ?」
『では、アイドルをプロデュースしましょう』
「何でだよ!」
思わず布団から起き上がった。
「今の話聞いてた!?」
『はい』
「『会社作って成り上がる気もない』『未来の技術を売るのも面倒』って聞き逃した???? 肯定もしたよなっ!? 俺がなんで県またいで逃げてきたと思ってんだよ!」
『声が大きいです。隣人にお巡りさん呼ばれますよ。リスク管理です。思い出しましょう』
「…………」
『楽曲制作そのものが問題だったわけではありません』
「は?」
『問題になったのは、存在しない歌手について説明できなかったことです。忠告したはずです。』
「…………いつ??」
『テープを渡したときに。「問題ないと思います。ただ歌い手が存在しないことだけにご注意を」』
えっ。。聞いたっけ?当時の俺、、リスク管理さん仕事してた???
『ですから最初から、歌手を用意すれば解決します』
「いやいやいや」
『楽曲は私が作成できます』
「知ってる」
『歌詞も作成できます』
「知ってる」
『編曲も可能です』
「知ってるって」
『歌唱も可能です』
「それで逃げてきたんだよ!」
『ですから、歌う人物だけ実在すれば問題ありません』
「問題しかねえよ!」
『音量が………』
スマートフォンを布団へ投げた。
ぼふっ。
今度は柔らかい場所だ。
さすがに学習した。
……俺が。
「やらない」
『そうですか』
「絶対やらない」
『承知しました』
「俺は静かに暮らす」
『はい』
「音楽も、もう……」
言葉が止まった。
『もう?』
「…………」
正直に言えば。
曲を作るのは楽しかった。
アオに適当な注文をして。
出来上がった曲に文句を言って。
直させて。
また聞く。
あれは、かなり楽しかった。
「……作るだけならいい」
『もちろんです』
「誰にも聞かせない」
『はい』
「売らない」
『はい』
「カセットも他人に渡さない」
『はい』
「ダビングもさせない」
『はい』
「絶対だぞ」
『承知しました』
その夜。
久しぶりに曲を作った。
「もう少しテンポ速く」
『変更します』
「サビ弱い」
『変更します』
「声、前の女の子で」
『変更します』
「……やっぱ、この声いいな」
『ありがとうございます』
「お前を褒めたんじゃない」
『私が生成した声です』
「はいはい」
一本。
また一本。
カセットが増えていく。
ラベルに日付を書く。
棚に並べる。
誰にも聞かせない。
俺だけの音楽。
これなら問題ない。
完璧なリスク管理だ。
「……なあ、アオ」
『はい』
「最近さ」
『はい』
「俺、前よりリスク管理下手になってない?」
『回答してよろしいですか?』
「…………」
少し考えた。
「やっぱいい」
『承知しました』
体に精神が引っ張られる。
そんなラノベみたいな話。
あるわけがない。
多分。
まあ、いい。
それでいい。
今度こそ、余計なことはしない。
誰にも聞かせない。
絶対に。
今度こそ。




