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第三王女の婚約

作者: MIRICO
掲載日:2026/02/13

「好きです。お付き合いしてくれませんか?」

 花束を差し出してきた男性を前にして、エリアーヌは目を瞬かせた。


 王宮から程近い森の先にある、子供たちのための施設に手伝いに来ていたところ、見知らぬ男性に声をかけられた。

 服装からして平民。おそらく平民でも商人やそれなりにお金のある者だろう。

 その男が、いかにも平民の服装をして子供達と遊んでいる、エリアーヌに告白をしてきた。


「あの、聞こえていますか?」

「え? ええ。聞こえています」


 子供たちに囲まれながら、エリアーヌはすっと立ち上がった。シワになったスカートを直し、男をまっすぐに見つめる。

 さてどう答えようかと算段する前に、施設の院長が割って入った。


「リカードさん、こちらは第三王女、エリアーヌ様ですよ」

「えっ!? 第三王女って、まさか、あの……?」


 男はポカンと口を開けてから、すぐにその口を手で覆う。さすがにその後は口にできなかったようだ。 

 院長の睨みに体を竦めると、リカードは平謝りをして逃げていった。


「申し訳ありません。エリアーヌ様。最近よく子供たちに贈り物をよこすと思っていたら、下心があったようです。男性には気を付けていたのですが」

「気にしないで。院長」

「平民のような格好をしているんですもの、仕方ありませんわ」


 エリアーヌの後ろで、メイドのボニーが口を挟む。

 いつの間にか馬車で迎えにきていたボニーは、硬そうな黒髪を払いながら、さっさと乗ってください、と一言言うと、面倒そうな顔を隠しもせず、先に馬車へ戻っていく。

 その様を見て、院長が眉間に皺を寄せた。エリアーヌはボニーを気にせず、ふわりと笑う。


「それでは、院長。また、お会いしましょうね。子供たちも、よろしくね」

「ええ、ええ。どうか、お気を付けて」


 祈るように見送ってくれる院長と子供たちに手を振って、馬車に乗り込むと、ボニーがだるそうにして迎えた。ため息をついてから右の口端を上げる。嫌味を言う前の、ボニーの癖だ。


「よく飽きずに通いますよね。いっそ、一緒に住んだらいかがですか? 平民と結婚するとか。さっきの男には逃げられたみたいですけれど、平民と結婚して平民になるって手もありますよ? エリアーヌ様は顔だけはいいから、また誰か告白してくれるかもしれませんし」


 一国の王女に言う話ではないが、ボニーは気にもしない。エリアーヌが答えずにいると、ふん、と鼻を鳴らした。


「さっきは平民。前は、子供に告白されていましたよね。何歳年下か知りませんけれど、生意気そうだった、あの子供と結婚されたらいかがですか? どっちにしろ、平民ですけれど」


 エリアーヌが黙っていれば、ボニーは面倒臭くなったのか、もう一度鼻を鳴らして口を閉じた。やっと静かになった馬車の中で、エリアーヌは窓の外を見つめる。森の中を走る馬車は、時折ひっかかる石を気にして、スピードを緩めた。


 丁度この辺りだった。子供がふらりと現れたのは。


 子供は道に倒れて、そのまま気を失ってしまった。どれだけさまよっていたのか、満足な食事をしていなかったのだろう。サイズの合っていない、黒く汚れたシャツとズボンを履き、顔や腕は傷だらけで、いかにも訳ありだった。

 急いで施設に連れて行き医者を呼び、治療をしてもらったが、目を覚ました男の子はすさんだ顔をしながら、エリアーヌを睨み付けた。


 男の子の名前は、リオ。

 家を追い出され誰も頼る者がおらず、森の中をさまよっていたという。

 森で食べられる物を見つけ、なんとか生き延びていたが、ついに力尽きて倒れたのだ。


 行く当てもないため、リオは施設で過ごすことになった。年齢はわからない。身長から十歳前後と思われるが、本人が年齢を知らなかった。


 リオは太陽のような金髪と、冷たい湖の底のような紺碧の瞳を持ち、聡明で利発そうな雰囲気があった。

 施設では子供たちに交じることなく、遠巻きにして読書をするのが常だ。部屋の窓際で、外の木の根元で、リオは静かに座って、魔法の本などを眺めていた。


 大人しい子供というより、年不相応な落ち着きを持っていた子供だ。澄ました顔で本を読み、周囲を相手にしないような、人を寄せ付けない子供。

 時折訪れる貴婦人や令嬢に笑顔を見せつつも、子供たちに物を与えながら、かわいそうと言う女性たちを蔑んでいるように見えた。


 けれど、エリアーヌが子供たちと一緒に遊び、勉強を教える様を見て、リオは一層不快そうな顔をした。


『なぜ、慈善事業らしく、物を与えるだけにしないのか?』 


 むしろそんなことに疑問を持つことに驚いた。だから言ったのだ、『憐れむだけが良いことなのか?』と。

 施してそれで終わりならば、子供たちに会う必要などない。ただ物を贈れば良いだけなのだから。けれどエリアーヌは違う。子供たちの未来のために、学びを与えたいのだと。


『ずっと同じ場所にいるのではないのよ。先を見据えて、進まなければならないのだから』


 その答えにリオが何を思ったのかはわからない。けれど、その日からリオはエリアーヌの手伝いをするようになった。

 そうして、彼を助けて一年後、そのリオから、真剣な告白を受けた。


『私と結婚してくれませんか?』


 十歳前後の姿でも、エリアーヌはその告白に心が温かくなるのを感じた。だから、こう答えたのだ。


『あなたが大きくなれたとき、その告白をもう一度聞かせてくれるかしら』


 エリアーヌの返事に、うやうやしく首を垂れたリオ。

 しかし、リオはもういない。

 彼が施設から出て行って、また一年。彼と出会ってから、二年の月日が流れていた。





「あら、エリアーヌ、素敵なお召し物ですこと。パーティにもそのような格好で出席するつもりかしら?」

「そんな格好で出かけるとは、恥ずかしいと思わないのか? まさか、その姿で王女などと口にしているのではあるまいな?」


 声をかけてきたのは、兄のヘンリッキと、二番目の姉ジュリエッタだ。

 部屋に戻る途中、ほとんど顔を合わせることのない二人がエリアーヌを見つけて、すぐに罵ってくる。

 これから夜会にでも出席するのだろうか。装いが派手だ。いや、この人たちはいつもどこかしらのパーティや夜会に出席している。普段通りだろう。


 相変わらずこの二人も変わらないのだなと思いながら、エリアーヌは無表情のまま彼らを見つめた。

 エリアーヌが黙っていると、ヘンリッキが苛立たしげにして、目を眇めた。


「何か言ったらどうだ?」

「私の行うことに、そんなに興味がおありだとは思いもしませんでしたわ」

「ふんっ。存在感の薄いお前のことなど、誰も興味など持たんだろうな。だが、明日はパーティが行われる。そのような恥ずかしい格好で現れたりするなよ!」

「ふふ、お姉様のお下がりのドレスが届いているはずよ。ちゃんといらっしゃいな」


 そのような格好と言いながら、お下がりのドレスを着てこいとは。矛盾しすぎだろう。

 一番上の姉アンゲリカは、エリアーヌより身長が高い。サイズが違うのだから、サイズの合った平民の格好の方が、まだ良い気がする。


「二度とそんなみすぼらしい格好でうろつくな」

「ほんと、恥ずかしいわ。こんなのが妹なんてね」


 ヘンリッキとジュリエッタは言いたいことだけ言って、通り過ぎていった。

 彼らの罵りはいつものことだ。エリアーヌの何が憎いのか、顔を見るだけで何かしら言ってくる。

 幼い頃は傷付き、腹も立てていたが、今はもうなんの気持ちも起きない。彼らはああいうもので、あれ以外になれないのだ。そう割り切らなければ、やっていけない。


 部屋に戻れば、言われた通り、アンゲリカから荷物が届いていた。


「お優しいお姉様ですね。普段のみずぼらしい格好を哀れに思い、送ってくださったのでしょう。まあ、ずいぶんと、懐かしいドレスですこと」


 ボニーは荷物を開いて、ドレスをわざわざ見せてくれる。

 懐かしいというのは、流行の懐かしさを言っていた。何年も前にはやったドレスで、鈴蘭の花弁のように盛り上がって膨らんだスカートが特徴だ。最近は生地の重ねでボリュームを出すのが主流である。

 もしエリアーヌがそのドレスを着てパーティに出席すれば、笑いものになるのが想像できた。


 ボニーは嬉しそうに荷物を衣装部屋に持っていく。衣装部屋と言っても、エリアーヌが持っている衣装などたかが知れていて、数えるくらいのドレスがあるだけ。その内の数着は平民の服で、外出するときに使った。

 その平民の服を脱いで、普段の衣装に着替える。その衣装も、何年もずっと着ているドレスだった。


 ヘンリッキの言う通り、なんとみすぼらしい。衣装のせいだけではない。この王宮にいるせいで、心までみすぼらしくなっていく。


 ベルジュロン王国。魔導武器を駆使して周囲の国々を蹴散らし、国土を広げ、祖父の代で唯一の大国となった。当時開発された魔法と武器を合体させた魔導武器は、圧倒的強さを持っていたからだ。

 僻地にあった小国のサンテール王国は武力に屈し、娘を差し出した。当時まだ十歳だったエリアーヌの母親は、人質として王子に嫁がされた。しかしその後、すぐに滅ぼされる。魔導武器を作るための魔石が多く産出される土地だったからだ。


 母親の嘆きはいかほどだっただろう。

 人質にもならず、王宮で一人。王子の妻でありながら、何の価値もない者として放置された。

 だが、母親が滅ぼされた国の王女であると忘れ去られた頃、王となった王子は、なぜかその王女を思い出し、触手を伸ばしたのである。

 そうして生まれたのがエリアーヌだった。


 母親は自国を滅ぼした憎き男の子供を産んだことで、一気に体を弱らせて、あっという間に死んでしまった。

 残ったエリアーヌがどんな立場に立たされたか、誰でも想像できるだろう。

 価値のない、第三王女。頼る国も人もいない。ただ第三王女という立場だけは残って、後ろ指を差されながら生きてきた。





「あら、起きてたんですか? 王より朝食をご一緒にすると連絡がありました。さっさと着替えてください」


 普段ならこの時間に来ないボニーが、朝早く部屋にやって来て、そんなことを言う。

 ボニーはいそいそとドレスを放り、髪を結うために櫛を探す。メイドが櫛を探すなど、聞いたこともない。引き出しの中にしまってあることに気付いて、それを手に持ち、エリアーヌの髪をとかしはじめた。

 力強く動かすので、櫛の先が地肌に刺さって、頭皮ごと削られるような気分になってくる。


「痛いわ。もう十分よ」

「あら、そうですか? まあ、好きにしてください」


 そうやって櫛を放り投げてくる。この態度はいつものことだ。王女を王女とも思っていない。

 髪を抜かれるよりましだと、エリアーヌは自分で髪をとかした。

 ボニーは気にもしないと、鼻歌を歌い始める。

 ボニーの態度は、年々悪くなっていた。メイドの仕事を何だと思っているのか。一度聞いてみたいものだ。


 それにしても、王はなぜ朝食を一緒にしようなどと言い出したのか。そちらの方が気になる。

 エリアーヌがパーティに出席することはほとんどない。前に出席したのはいつだったか。今回はジュリエッタの結婚が決まったため行われるが、一番上の姉であるアンゲリカの結婚パーティには呼ばれなかった。それなのに、朝食まで同じにするとは。

 気分が悪い。


(碌なことではないわね。今日はやることがあるというのに)


 呼び出しに少なからず思い当たることがあって、エリアーヌは仕方なしに部屋から出ることにした。





 エリアーヌが朝食に顔を出すと、既に席にいたヘンリッキとジュリエッタがじろりとこちらを睨んだ。


「ダサい格好」


 ボソリと言われた言葉に、後ろにいたボニーが吹き出す。ヘンリッキがジュリエッタを睨んだが、ジュリエッタは鼻で笑うだけだ。


「その衣装はどうにかならなかったのか?」

「持っているものが少ないので」

「町に出ているのならば、それなりのドレスを店で購入したらどうだ」

「どなたが購入するのですか?」

「お前に賄われている費用で購入すれば良いだろう」

「私に賄われている費用があるとは存じませんでした」


 言い返せば、ヘンリッキがグッと口を噤む。

 エリアーヌにどれだけの予算が割り当てられているのか、ヘンリッキは知っているだろうに。忘れられた第三王女に与えられる費用など、雀の涙だ。


 エリアーヌは日陰の子。

 王だけでなく、城の者たちですらエリアーヌを透明人間のように扱っている。誰も彼も助けずにいるのに、どうやって本物の王女になるのだろう。


 ヘンリッキはエリアーヌに王族の矜持を持てと言う。だが、どうにもできないとわかっているため、憐れむふりをする。ふりだけだ。ヘンリッキは、王に盾突く勇気を持っていない、ただの臆病者だから、建前だけは一丁前に言葉に出す。


(何もする気はないくせに)


 そんな兄の言葉は聞く耳を持たない。ただただバカにするだけしかできない、ジュリエッタの言葉もだが。


 王がやってきて、ヘンリッキとジュリエッタが立ち上がる。エリアーヌも立ち上がり、上辺だけの礼をとる。

 こう見ると、エリアーヌは王や兄姉たちと血が繋がっているように見えなかった。

 王は真っ黒な髪で、髭まで濃い黒だ。全員母親が違うため、ヘンリッキは金。ジュリエッタは濃い赤色。嫁いでここにはいないアンゲリカは濃い茶色。三人三様の髪色だ。ただ、瞳の色は皆同じで、淡褐色である。


 違うのはエリアーヌだけ。皆が癖のある髪に比べて、真っ直ぐな髪。色は淡い水色。瞳の色は月白色をしていた。母親と同じで、この地ではとても珍しい色である。母親の出身が雪国で、ほとんど雪に埋もれている土地だからか、色素がとても薄かった。


 似ていないというだけで、こんなに嬉しくなってくる。昔は皆と違うことが辛くて悲しかったのに。

 エリアーヌが家族の誰にも似ていないから、皆にいじめられていると思っていたからだ。


(バカみたいだこと)


 同じ髪色だろうが目の色だろうが、エリアーヌの立場は変わらないのに。


 無言のまま着席してから運ばれてきた食事に、エリアーヌは目を眇めた。

 毎朝エリアーヌに運ばれてくる食事は、パンと冷え切った具のないスープのみ。ボニーがわざと冷やしてくるのか、それしか出てこない。昼食は時折忘れ去られ、夜はそれに肉がつくかつかないか。


 しかし目の前にある食事は違い、何種類かのパン、湯気の立った汁だけではないスープにサラダ、鴨肉のソテー、それ以外にも皿が運ばれて、まるで夕食、それこそパーティのような豪華な食事だった。


 子供の頃はそこまで質素な食事ではなかった。当時、面倒を見てくれていた乳母がまともだったからだ。

 冷遇される末娘を見かねて、乳母は力を尽くしてくれた。

 隣国のレヴィーナ公国出身の乳母は、魔法に秀でており、教師のいないエリアーヌに魔法の概念を教えてくれた。レヴィーナ公国は特に魔法を重要視している国だ。乳母は幼いエリアーヌに才能があると、年齢以上の学びを教えてくれた。


 そのせいで乳母は、第三王女に過分な真似だと追い出されてしまったが。

 代わりにやってきたボニーのおかげで、過分だったエリアーヌの待遇は、底辺を目指し始める。




「今日の午後、ジュリエッタの結婚パーティがある」


 食事も半ばを過ぎた頃、やっと王が口を開いた。無言のまま終わるわけがないと、皆が顔を上げる。

 王が視線を合わせたのは、エリアーヌだ。


「お前も出席しろ」

「なぜでしょうか」

「姉の結婚パーティだ」

「アンゲリカお姉様の結婚パーティには出席しませんでしたが」


 反論すると、王は持っていたグラスを机に叩き付けた。入っていたワインが飛び出して、テーブルクロスを赤く染める。


「明日はお前の婚約も発表する。黙って出席しろ」

「私にはすでに婚約者がおりますが?」

「ぷはっ。いつの話してるのよ」


 ジュリエッタが口を挟むと、王はギロリとジュリエッタを睨んだ。その睨みに震えるように、ジュリエッタは体を縮こませて口を閉じる。


「あんな婚約など、白紙に決まっているだろう。第一公子は行方不明。それから連絡などない。公妃が婚約を打診してきたのも、第一公子に後ろ盾が欲しかったからだ。公妃はよほど我が国の力が欲しかったのだろう。それも無駄に終わったが。とにかく、お前の婚約発表は今日の午後に行われる。いいな!」


 返事も待たずに王は部屋を出ていく。気配が遠のいて、ジュリエッタがやっと言葉が発せると、大きく吹き出した。


「あんたが婚約者に思いを馳せていたとは知らなかったわ。顔は良かったわよね。ちょっと線が細すぎるのが気になったけれど」

「結婚パーティを行う者が、何を世迷言を」

「いやねえ。綺麗な男を愛でるくらいいいじゃない。お兄様は神経質なのよ。私が愛人にしてやっても良かったのよ? でも、公妃が直々に第三王女が良いと言うから、お父様がお前にやったのよ。それさえなければ、私がもらったのに」


 人の婚約者に、何を言っているのだろうか。

 ジュリエッタは下卑た笑いを見せる。ヘンリッキは気が合わないようで、嫌悪感をむき出しにした。


「まあ、婚約が決まってすぐ逃げ出した公子ですものね。あんたにはお似合いだったのでしょうけれど」

「イニャス殿下は襲撃に遭い、行方がわからないだけです。逃げ出したのではありません」

「同じでしょう? 後継者争いに負けたのだから」

「ジュリエッタの言う通りだ。婚約を打診してきて、こちらが受ければすぐに行方不明になった。断りを入れていなかったこちらも悪いが、……そこまで問題ではなかったからな」


 ヘンリッキは目を逸らしながらそんなことを言う。

 王女の婚約が放置されて問題ではなかったとは、よく言えたものだ。


 レヴィーナ公国。魔法師を多く輩出する国で、乳母の生まれ故郷だ。

 隣国とはいえ、遠い先にある小さな国で、高い山脈が連なる広大な土地に隔たれていた。行き来には大きく迂回しなければならないため、ほとんど交流がない。

 だがそのおかげで、この国の襲撃を受けなかった。小さいながら生き延びた公国。


 そんな国からの婚約打診。王は興味もなく、存在を忘れていた第三王女の婚約に、了解を示した。

 公国との婚約は、本人たちの対面もなく書類のみで進められた。

 婚約が締結し、さて、いつ会う日を決めるかなどの話し合いの場を設けようとする直前、それは起きた。

 婚約相手のイニャス公子が、行方不明になったのである。

 婚約した途端、相手が行方不明。これほど失笑を誘うものはない。

 エリアーヌはイニャス公子に逃げられたのではと、国中の笑いものにされたのである。


 イニャス公子は、馬車での移動中事故に遭い、行方がわからなくなった。そういう話だったが、実のところ、後継者争いによる襲撃に遭い、行方を絶ったのだ。

 公国には公妃と第二妃がおり、イニャス公子を襲ったのは、第二妃によるものではないかということだった。

 公妃はエリアーヌを手に入れて後ろ盾を得ようとしたが、それが逆に第二妃を焦らせたのではないか、そんな話が耳に入った。


 とにもかくにも、イニャス公子は行方がわからない。しかし王はそれに興味がなく、結果、婚約者は行方不明のまま、長い年月が経過したわけである。


「お前に婚約を申し込んだ男がいるのだから、そちらを優先すればいいだけのこと。公国の婚約など、時効だ」

「オルヴォ・メリカントは、王と年も変わらぬ方よ。良かったわね。親子のように接してくれるかもしれないわ」

「お前のような王女でも娶りたいと言ってくれているのだ。王の命令通り、婚約発表を静かに聞いていれば良い」

「四回目の結婚だけれど、とってもお金持ちよ。素敵なドレスを贈ってくれるわ。平民の格好をして、こそこそ出かける必要もなくなる。あ、三回離婚したのは女のせいよ。安心して。言う通りにしないからと、ちょっと暴力を振るったら、死んだり自殺したりしたらしいけど」

「ジュリエッタ!」

「王女に暴力なんて振るったりしないわよ。多分?」

「とにかく、お前は言う通りにすればいいだけだ。午後は必ず出席しろ」


 ヘンリッキは言い切って部屋を出ていく。その後ろを、笑いながらジュリエッタがついていった。控えていたメイドたちも笑いが堪えきれないと、さえずるように笑う。

 エリアーヌはドレスを握りしめながら立ち上がる。部屋を出ると、その笑い声が響き渡るのが聞こえた。





「エリアーヌ様が公国の公子との婚約をお望みとは知りませんでしたー。あんな小国の公子。あ、いえ、山奥の田舎の国。ま、どっちも同じですね。逃げた男と、そんなに結婚したかったんですか? でも良かったじゃないですか。メリカント様はすっごくお金持ちですから」

「ボニー、ドレスを出してちょうだい」

「はあい。……なーんだ、乗り気なんじゃないの」


 小声で言ったつもりだろうが、ボニーの声はエリアーヌの耳にしっかり届く。ボニーは鼻歌を歌いながら、衣装部屋に入っていった。


「本当に婚約に興味がないのね」


 エリアーヌはぽそりと呟く。むしろ、興味などあるわけがないと言わんばかりだった。

 イニャス公子との婚約は破棄されていない。王は小国との婚約など契約にもならないと思っているのだろう。婚約契約書は、魔法のかけられた誓約書でもあったというのに。


 魔導武器に長けた国となってから、この国で魔法を学ぶ機会は減った。魔導武器の前身である魔導具があれば、魔法を覚える必要がないからだ。魔導具を作る者が魔法を覚えればいい。そんな考えも、魔導具による自己製作が可能になって、さらに加速した。


 だからと言って、誓約の重みも考えぬようになったのかと思うと、呆れしかない。

 契約書の誓約によっては、エリアーヌの命が危うくなったかもしれないのに。


 あの契約書にそのような誓約はないが、公妃の脅しのような誓約が課されていた。王はエリアーヌを片付けられると思って、頓着していなかったようだが。


「さあ、さっさと着替えてください。午後のパーティと言っても、すぐに始まりますからね」


 ボニーがやっとドレスを運んできて、着るように催促してきた。


「ドレスをいただいたからって、美しく着飾れるとは限らないですよね。いくら私の腕が良くても、飾りなどは何もないし。適当にリボンでも結べばいいかしら?」


 ボニーが持ってきたのはドレスと靴だけだ。髪飾りも宝石も何もない。


 姉のアンゲリカはエリアーヌがドレスを買えないとわかっていて、古いドレス一式を送ってきていた。ドレスを送ってきたのは一度や二度ではない。そこには彼女の嫌味が存分に入っていて、古くても良いだろうという嘲りと、その一式を売れば新しいドレスが買えるだろうという、施しの意味があった。


 本人から聞いたのだから間違いない。

 お前がかわいそうだから、それらを送ってやるのだと。


 慈悲を与えてエリアーヌが泣いて喜ぶのを見たいのか、それに酔っているだけなのか、アンゲリカは酔狂な真似をするのが好きなのだ。ドレスはかなり古いため、王女が着れば恥でしかない。アンゲリカからすれば屈辱的な贈り物だ。

 あんなもので喜ぶ、愚かなエリアーヌ。その構図がたまらないのだろう。


 しかし、嫁いだとはいえ、第一王女の持ち物だ。型落ちでも十分な金額になる。金銭感覚の狂った王女のなすことは、メイドには理解できないだろう。エリアーヌにも理解できない。

 だから、ドレスと靴だけという揃わない一式は、アンゲリカの主義に反するのだ。


「聞いてます? いくら私でも、リボンだけでは美しく飾れないですよ」

「なら、やらなくていいわ」

「じゃあ、もういっそ、髪など結わずにするってことですね」

「やらなくていいと言っているのよ。ボニー、お前はクビよ」

「は? 何言ってるんですか?」

「無能なメイドはいらないと言っているのよ」

「な、何を言って、」

「用無しは出て行けと言っているの」


 エリアーヌが立ち上がり、扉を指差すと、ボニーの顔はみるみるうちに真っ赤になった。

 本気で出て行けと言われたことに、やっと気付いたのだ。


「エリアーヌ様にそんな権限はありませんよ。私がいなければ、何もできないくせに。このことは王に知らせます!」

「知らせるといいわ。アンゲリカお姉様からいただいた品を盗んだとして、クビになったとね」

「え、何を……?」

「気付かないと思っていたの? 今もポケットに入っているのでしょう。宝石を売っている場所も知っているわ。何のために、私が一人になる時間を得ていたと思っているの?」


 その言葉に、ボニーは一瞬で血の気の引いた顔になった。

 一人になる時間。それは子供たちのための施設に滞在する時間だ。


 エリアーヌが施設にいる間は自由にしていい。それを鵜呑みにしたボニーは、エリアーヌのいない間、好き勝手をしていた。結果、ボニーが多額の金を手にしていたことがわかった。


「店の者はお前をよく覚えているでしょう。王女の持ち物など、調べればすぐにわかるのよ。アンゲリカお姉様はどう思うかしら。妹に送っていた宝石を、メイドがくすねて売っていた。ああ、ヘンリッキお兄様にも伝えておかないと。ヘンリッキお兄様は、意外と不正が嫌いなタチだから」

「お、お許しください! 私は、エリアーヌ様にお返しするつもりで!」

「お返しするつもりで? アンゲリカお姉様の髪飾りを売って、私にリボンでも買ってくれたの? 優しい子なのかしら? それを判断するのは、ヘンリッキお兄様にお願いしておくわね」

「エリアーヌ様、お許しください! お許しください!!」

「いいから、部屋を出ていってちょうだい。お前の声を聞いていると頭が痛くなるわ」

「エリアーヌ様!」

「出て行けと言っているのよ!」


 エリアーヌの怒鳴り声に、ボニーは涙を流しながら、ふらついたまま部屋を出ていった。扉を開けっぱなしにしていくあたり、ボニーである。

 出て行けと言っているのだから、さっさと出て行けばいいものを。


 エリアーヌは窓を開けた。窓の外は森のように木々が茂っており、王女の部屋から見る眺めではなかった。それでもこの景色が気に入っている。

 それを眺めてからドレスを着て、慣れた手つきで髪を結うと、後頭部にまとめてリボンで結んだ。適当な化粧でもそれなりに見えるものだ。顔が良いというのも、得かもしれない。


 邪魔なボニーは出て行った。だがまだやることは残っている。





 パーティには多くの貴族たちが集まっていた。

 その中でエリアーヌの顔を知っている者はどれほどいるだろう。警備の兵士に何度か止められたため、王宮の中でもほとんどの者がエリアーヌの顔を知らないのがわかる。


「何、あの格好」

「いつのドレスを着ているのかしら。どこの令嬢?」


 そんな声が届くので、多くの者が知らないと思った方が良さそうだ。なにせ前回人々の前に姿を現したのがいつだったか、エリアーヌも覚えていない。

 ジュリエッタの結婚祝いのパーティということで、広間の豪華さは目が痛くなるほどだった。それに集まる者たちも派手さは負けていない。女性たちのドレスや装飾品は、総合で幾らの価値があるだろう。


 この国は大国になって、一極集中型になった。

 富は王宮に集まり、都に権力者が集まった。多くの貴族がこぞって都に建物を建てる。誰もが王に近い場所にいようと、躍起になった。


 大国であるが故に、国内で全てが回り、外交なども必要ない。王が興味あるのは、この王宮が潤うことだけ。一部が潤い、遠い田舎の領地などはその恩恵を得られない。

 それがわかりやすいほどわかるパーティだ。


「エリアーヌ? まあずいぶんと、目立っているみたいねえ」


 嘲るような声が届いて、エリアーヌは振り向いた。一番上の姉、アンゲリカだ。ヘンリッキとジュリエッタもいる。


「お久しぶりです。アンゲリカお姉様」

「ドレスは、だぶついているようだけれど。貧相な体だから、私のでは合わなかったみたいね」

「でも、とっても目立っているわ。いいじゃない。ねえ、お兄様」

「飾りくらい着けてこれなかったのか? いつも装飾がなさすぎだろう。それくらい渡してやらなかったのか?」

「ネックレスもイヤリングもあげたわよ。お好みじゃなかったかしら?」

「着け方、知らないんじゃないの?」


 一通り三人の罵りを聞いてから、エリアーヌはこてりと首を傾げて見せる。


「ネックレスとイヤリングですか。何のことでしょう?」

「何って、一緒に送っているはずよ。お前には余りあるものを送ってやったのに、気に入らないなら気に入らないって言えばいいじゃない」


 言ったら文句ばかりと言うくせに。それは口から出さないように閉じていると、ヘンリッキが疑わしげな視線を向けてきた。

 ヘンリッキは、エリアーヌに関しては除き、不正を嫌う。だからすぐに気付いたのだろう。贈られた物は、ドレスと靴だけだったのか? と問うてくれた。


「ええ。ボニーが渡してくれたのはこのドレスと、靴だけですわ。髪飾りも何もないからと、リボンで結んでくれました」

「ボニーはどこにいる?」

「さあ? 着替えを終えたら、忙しそうに部屋を出ていったきりです。あの子はいつも忙しいようで、私の側にはほとんどいませんから」


 アンゲリカとヘンリッキは顔を見合わせた。

 妹を卑下するのは良いが、アンゲリカの贈った物を盗むのは良くないらしい。ヘンリッキがすぐに兵士を呼び、ボニーを捕えるように命令した。アンゲリカが眉を逆立てて、今までの宝石も盗まれているのではと、爪を噛む。


 ボニーに奪われるのが想定できていなかったのだろうか。

 予算がほとんど回ってこないエリアーヌについているメイドだ。給料などかなり少ないに違いない。だがエリアーヌの側にいる。他の者たちはさっさといなくなっているのに。

 それを考えたら、何を望んでいるかくらいわかるだろう。


 ヘンリッキがエリアーヌを睨むと、なぜかエリアーヌを咎めてきた。


「どうして言わなかったのだ」

「どうしてと言われましても、ボニーがそんなことをするとは思わなかったので」

「馬鹿者が。そんなだから、そのような衣装でこんなところに来れるのだ」


 ヘンリッキは苛立たしげに言ってくる。それを右から左に聞いて、エリアーヌは困ったような表情を続けた。

 ボニーを訴えるなど、いつでもできた。それをしなかったのは、ボニーは都合が良かったからだ。


 乳母がいなくなって、エリアーヌの生活は様変わりした。

 乳母の手助けによって、まともな生活が送れていたのだ。いなくなればエリアーヌの何もかもが放置される。


 やってきたボニーは、まずエリアーヌに割り当てられたお金から手を付け始めた。

 まだ幼い子供のエリアーヌにはわからなかった。エリアーヌが悪い子だから食事が少なくなり、着る服もなくなるのだと言われ続けていたのだから。

 ひもじくても、着る物がなくても、お風呂に入れてもらえなくても、エリアーヌがどう対抗するというのだろう。エリアーヌには乳母しかおらず、その乳母がいなくなれば、ボニーしかいないのだから。


 もしも、部屋に閉じ込められていれば、エリアーヌが置かれていた状況はそのままだっただろう。

 だから、放置してくれたボニーには感謝している。

 自由があったおかげで、他の兄姉がどんな生活をしているのか、エリアーヌの立場がどのように扱われているのか、気付くことができたのだから。


 今頃王宮を出ていて、持っていた宝石を売っている頃だろう。逃げ切るには早めの行動が必要だ。とはいえ、町を出る前に捕まるだろうが。

 余罪も多いため、ボニーは死刑になるだろう。アンゲリカの物を売った罪は重い。

 エリアーヌにとって、どうでも良いことだが。


 そうこうしている間に王がやってきて、ジュリエッタの相手とジュリエッタが舞台に上がった。結婚の祝いの言葉は儀礼的で、王はさほど興味なさそうだった。

 この国は大きくなりすぎて、都に全てが集まっている状態だ。王族の結婚相手に外部の者は選ばれない。王の見知った部下の息子。当たり前すぎて、目新しいものはない。だから王も当然と思っているのだろう。


 エリアーヌの婚約相手が外部の者になったのは、王がエリアーヌのことを忘れていたからだ。公妃からの婚約打診がなければ、エリアーヌは思い出されなかった。


「ここで、もう一つ発表がある。第三王女のエリアーヌの婚約が決まった」


 王の言葉に、貴族たちがざわついた。第三王女がまだいたのかという顔だ。そして、その第三王女がどこにいるのか、周囲を見回す。


 オルヴォ・メリカントが、エリアーヌの前にやってきた。

 髪の毛が薄いので、王より年上に見える。身長は高いが、丸々太った牛のようだった。


「エリアーヌ様、お手をどうぞ」


 メリカントは脂っこい顔をして、ニヤニヤと笑いながらエリアーヌに手を伸ばしてくる。

 その姿を見て、やっと周囲がエリアーヌを確認した。あれは王女だったのか、という声と、久しぶりに見たからわからなかった、という声。それから、あんな王女をもらってでも、メリカントは王族に取り入りたかったのか、という声が聞こえた。


「エリアーヌ様?」


 片膝を軽く折って手を伸ばしてきているので、メリカントは体重を支えきれないのか、膝がガクガク震え出している。さっさと手を取れと言わんばかりに、エリアーヌを睨み付けた。

 周囲がシンと静まり返り、舞台にいる王の顔が怒りの形相になっていくのが見えた。


「エリアーヌ、何をしている!」


 とうとう耐え切れないと、王が声を上げた。その声にエリアーヌは顔を上げると、静かな笑みを浮かべる。

 それで手を取ると思ったのだろう。メリカントが安堵の表情を浮かべるのを見下ろして、エリアーヌは、ふふと笑った。


「お断りしますわ」


 その言葉に周囲がざわめいた。メリカントが一瞬で顔を真っ赤にさせる。


「何ですと!? あなたに拒否権などありませんぞ!」

「私には婚約者がおります。その方以外と結婚するつもりはございません。契約は誓約であり、破れば多大な損害を生むでしょう」

「エリアーヌ。ふざけたことを申すな! いつまで同じことを言う気だ。あの婚約は公子が行方不明になった時点で、無効だ!」

「まあ、王はお忘れでしょうか? あの誓約の内容を。理由を伴わない破棄を行った場合、土地の一部を割譲すること。公国の公妃が出した条件を破れば、この国は一部の土地を公国に明け渡すことになってしまいます」

「ぬ、そういう誓約はあったな。だが、公子の行方がわからないのだから、むしろ誓約で公国の土地が手に入るはずだ」

「その通りです。ですが、ここで誓約を破れば、この国は公国の半分ほどの土地を、公国に渡すことになってしまいます」


 公妃が条件にしてまで欲しがったのは、この国のとある土地だった。そこは荒地で、特に何かが出るわけでもない。公国が利益になると言ったら、山脈を迂回せずにこの国へ入れるということだけ。この国への繋がりが欲しかったのだろうと思う程度。この国にそこまでの影響はない。


 代わりに、その土地を対象とするならば、公国も同じ広さを差し出す必要があった。

 誓約は交換条件だ。公国が誓約を破れば、公国の半分の土地が手に入る。王は戦いもせずに公国の半分が手に入れられる。

 この国が婚約を先に破棄すれば、公国に荒野を渡すことになった。


「ふむ」


 王は少し考えるふうな仕草をした。婚約するはずのメリカントが慌てて立ち上がる。


「お待ちください、王。公子が行方不明なのですから、そのような誓約はあちらが破ったことになるのではないですか。公国が理由で婚約は破棄になるはずです。そうであれば、公国の半分は我が国の物になります。その暁にはエリアーヌ様は自由になり、私の妻となる。それで問題はないではないですか」

「その通りだ。公国の公子との婚約は、すでに無効だろう。エリアーヌの婚約は破棄。お前はメリカントと婚約するのだ」

「それでよろしいのですね?」


 エリアーヌは問うた。


「当然だ。公国の公子との婚約は無効。エリアーヌはメリカントと婚約する!」


 王の宣言に、エリアーヌはニヤリとした。

 ボッ、とエリアーヌの前で、紙のようなものが弾けて燃えた。


「婚約は一方的に破棄され、誓約が破られました。これにより、この国の一部は公国の物となります」


 エリアーヌが伸ばした手の中に、一枚の立体的な地図が象られる。この国の土地だった場所の色が変わり、公国と同じ色になる。この国の物だった土地が、公国の土地に変わったのだ。


「どうなっている? どういうことだ、エリアーヌ!」

「どういうことも何も、公国は婚約を破棄しておりません。公子が行方不明でも、死亡していません。魔法のかけられた契約書が消滅していないのですから、契約は受理されたままです。そして、理由を伴わない破棄を行った場合、婚約は強行される。それもお忘れでしたか? ああ、王は第三王女などどうでも良かったのですから、誓約書もまともに確認されなかったのでしょうね。私がその誓約書を確認した際は、面白いことが記されていると思ったのですが」


 王は目を見開きながら宰相に顔を向けた。宰相は口を開け閉めして、別の者に視線を向ける。

 つまり、誰もがまともに誓約書を読んでいなかったのだ。読んでいたとしても、こちらから婚約を破棄するつもりがなかったので、気にも止めていなかったのだろう。


 婚約契約書はエリアーヌが持っていた。王はサインをして、宰相に渡し、話を聞いたエリアーヌが欲しがったため、エリアーヌに渡された。

 だから、皆がその契約を過去のものとして忘れてしまった。

 その程度の存在である、第三王女。その立場に感謝するときが来るとは。


 公国の判断なく婚約破棄になるには、イニャスが死亡しなければならない。そのときは、契約書に不備があるとして、魔法の契約書は燃えて消えているだろう。だがそうなることはなかった。

 契約は無効ではない。


(バカね。公国を下に見ているから、そんなことになるのよ)


 だが、もう遅い。婚約を一方的に破棄したため、土地は公国の物になり、エリアーヌの婚約は破棄できぬ契約と変わった。

 エリアーヌの左薬指に、婚約の記しの線が浮かび上がる。


「これで私とイニャス殿下の婚約は、破棄できぬものとなりました。では、私はここで失礼します。もう二度とここに戻ることはないでしょう。皆様、ごきげんよう」


 瞬間、バシンと広間の光が一斉に消えた。外は明るいはずなのに、広間は真っ暗闇に包まれて、悲鳴が上がる。


「何をしている! 明かりを灯せ!」


 ヘンリッキが叫び、王の怒鳴り声が耳に届いたが、それを背にして、エリアーヌは走り出していた。





「はは、あはは!」


 暗くなって、彼らの顔が見られなかったのが残念だ。魔導具に頼っているから、灯りが消えただけで右往左往する。その滑稽な姿を見たかったのに。

 大国に胡坐をかき、他国を侮り、魔導具に頼ったまま、魔法を忘れた末路だ。


 エリアーヌは自分の部屋に戻り、クローゼットに隠してあったメイド服に着替えた。それから、母親の遺品である、自分の瞳と同じ色の宝石がついたネックレスを首にかけた。

 手荷物は鞄一つ。中には着替えとお金。あとは自分だけ。ここは三階だが、目の前にある大木の枝に足を伸ばせば、簡単に降りることができる。登ることは難しくとも、降りることは可能だ。


 どうでもいい第三王女の部屋の庭園が、どうでもいい状態になっていることに感謝したい。

 森のようになっている庭園。それがエリアーヌの助けになる。


 施設の皆に別れは言った。

 旅立つためのお金も集めて渡した。

 彼らも今頃、公国に向かっている。


 今までなんのために、ボニーを自由にさせていたのか。エリアーヌが自由を得るためだ。

 施設に行きながら、いつも逃亡の手立てを考えていた。


 王は富の一極集中型を甘く見ている。地方を顧みず、僻地を領地とする者たちを軽んじすぎた。この国は大国だが、だだっ広い土地があるだけで、国としての機能は落ち始めている。賄賂が横行し、金ばかりを求める王に嫌気をさしている者たちは多い。


 そして、王族が毎日のパーティや夜会に明け暮れている中、他国では魔法の研究が進んでいた。

 古き時代は強大な牙を持つ大国だっただろう。だが今や、腑抜けた老犬にすぎない。


 公国が、なぜ第三王女などを公子の婚約相手に選んだのか。

 エリアーヌが虐げられていると知っていたからだ。王国を恨むエリアーヌを手に入れて、公子の立場を揺るぎないものにするつもりだったからだ。


 それはつまり、この国を奪うための布石として、必要なコマだと考えていた。使えなければ捨てればいいだけ。使えれば公国のためになる。

 後ろ盾などと驕った考えを持っているから、穿った見方しかできないのだ。

 侮られているとわかっているから、誓約を用いた。その理由を考えない王だと、逆に侮られていたのに。


「エリアーヌ!」


 エリアーヌがテラスの柵に足を乗せた時、呼ぶ声が聞こえた。

 金髪の男が、両手を伸ばして待っている。それを見て、エリアーヌは顔を歪ませた。


「飛び降りろ!」


 男に言われるまま、エリアーヌはテラスから飛び降りた。

 光がエリアーヌを包み、体重がなくなったようにふわりと浮いて降りていく。その体を男が受け止めて、エリアーヌは筋肉質な腕に抱かれた。


「元気だったか?」

「ええ、とても元気よ。あなたは、身長が伸びているわね」

「約束通り、子供ではなくなったからな」


 見覚えのある顔でも、全然違う。十歳くらいの男の子が、一年でここまで大人になるだろうか。

 目の前にいる男は、エリアーヌより年上に見える。その理由も、男が姿を消す前に聞いていた。


「遅くなった」

「丁度良かったわ」


 手を繋いで、男とエリアーヌは走り出す。男は魔法で警備の魔導武器を封じた。あんなもの、場所がわかれば簡単に封じられると言って。


 エリアーヌを抱き上げて柵を越えると、男は繋がれていた馬に跨った。二人を乗せた馬は裏道を走り、森へ入る。途中馬車が待っていて、それに乗り換えた。

 あっという間のこと。馬車は検問を通り抜けて、何もないように走っていく。

 名のある貴族の紋章でも入れておけば、何も調べられない。この国はそんな国だ。


「もう大丈夫だ」


 男の言葉に、緊張していた体から力が抜けた。

 それを対面で見つめられて、つい笑みが溢れる。

 ただ格好がメイドの服で、それだけは後悔した。再開したときくらい、綺麗なドレスを着たかったのに。


「大丈夫か? 怪我でもしたか?」

「ううん。大きくなったな、って思って」

「元からこの大きさだよ」

「そう? 前はとても可愛かったわ。いつも不貞腐れていて」


 エリアーヌがからかうと、男は肩を竦めた。実際不貞腐れていたので、言い返せないようだ。


「ずっと、イライラしていたからな。どうやって、元の姿に戻ればいいのかと」

「公国に公子が戻ってきたという話は、こちらには未だ届いていないわ」

「大国は公国の話なんて耳にしようとしないからな」


 男はニヤリと笑う。


 イニャス・リオール・レヴィーナ。公国の第一公子。

 リオことイニャスは、第二妃の策略により襲撃に遭い、子供の姿になってしまった。公国から離れ大国に逃げたのは、子供の姿で狙われたら対抗できないと考えたからだ。


 イニャスは姿を戻すために、大国へ留まった。婚約者であるエリアーヌを頼ったのだ。偶然出会ったエリアーヌに保護され、施設で暮らすことになったが、当初イニャスはエリアーヌを警戒していた。助けを求めたとはいえ、エリアーヌの境遇を知っていたからだ。


 もしも王を恨むことのない、縋るしか脳のない王女であれば、逆に危険になる。王に知られることで、人質に取られることを心配していた。

 だが、イニャスはエリアーヌにすべてを打ち明けた。エリアーヌがただ虐げられているだけの王女ではないと気付いたからだ。


 イニャスを保護してから一年の間、彼は子供にされた魔法をどうにかして解こうとしていた。第二妃の呪いのような魔法は解くには時間がかかり、エリアーヌも王宮で古びた魔法の本をあさった。ときに信用のおける商人を使い、古書を探させたりもした。


 その甲斐あって、解除の目処が立ち、イニャスは国に戻ることにした。

 そのときに約束してくれたのだ。必ず公国の後継者の座を勝ち取ると。

 そして、必ずエリアーヌを迎えにくると。


「迎えに来るのが遅くなって、すまない」

「とってもいいタイミングだったわ。丁度私も出るところだったの」


 イニャスの再度の謝罪に、エリアーヌは冗談混じりで笑った。

 イニャスとの婚約が進むまで、あの王宮で耐えるつもりだった。

 何もなければ、存在の薄い第三王女のまま、施設を行き来する生活を行なっていただろう。


 エリアーヌは普段、情報を集めるために、メイドの姿で王宮内をうろついていた。ボニーは本当に仕事をしない。だから、エリアーヌは王宮内でも自由に動けた。

 ジュリエッタの結婚パーティについても、それで知っていた。そして、エリアーヌの婚約話があることも耳にしていた。それがいつ行われるのかはわからなかったが、願ったり叶ったりだった。婚約破棄の誓約を発動させた方が、エリアーヌには都合がいい。


 だから、婚約を確実にした後の、王宮脱出の計画を考えた。イニャスが間に合わないのならば、先に公国に入り待つことも厭わない。そう思っていたから。

 一人で公国に向かう。その予定だった。


(入れ替わりにならなくて良かった。せっかく来てくれたのに、私が先に出ていたらと思うと)


 お互い、密に連絡ができるわけではない。手紙のやり取りなどはなかった。

 エリアーヌができることは、ただひたすら待つこと。公国のために情報を集めること。

 苦しさはなかった。必ず迎えに来てくれると信じていたから。


「エリアーヌ、もう一度申し込ませてくれ」


 イニャスはエリアーヌの手にそっと触れると、床に膝を突いて顔を上げた。

 前にも見た顔だ。真剣で、けれど少しだけ頬が強張って、薄紅色が乗っている。

 子供の姿だったイニャスは、エリアーヌをまっすぐに見つめた。

 今も同じ。エリアーヌを見て離さない。


「私と、結婚してくれませんか?」

「––もちろんよ、イニャス!」


 伸ばされた腕に応えて、エリアーヌはイニャスを抱きしめた。

 イニャスだけが、エリアーヌを見て、エリアーヌを必要としてくれた。

 誰にも必要とされず蔑まれ、第三王女という名ばかりの立場を嘲笑う者に囲まれていたエリアーヌを。


「あのような誓約が、こんなふうに役立つとは思わなかった」

「でも、そのおかげで助かったわ」


 契約書の誓約は、公妃ではなくイニャスの計画だった。王国の一部を手に入れて、魔石を奪う。エリアーヌはただのおまけだったかもしれないが、それでもいい。

 打算のある婚約を、本気の告白に変えてくれたのだから。


 やっとこの国から抜け出せる。エリアーヌを必要として、外へ出してくれるのだ。

 それを叶えてくれたイニャスに、感謝しかない。


「あの土地も、必ず……」


 小さくつぶやいて、エリアーヌはイニャスに抱きしめられたまま、瞼を下ろした。

 


  ◇   ◇   ◇



「エリアーヌ、ここにいたのか」


 イニャスの声に、エリアーヌは振り向いた。


 震えるほど凍える寒さに、イニャスが上質な毛皮のマフラーを巻いてくれる。

 城の屋上から景色を眺めながら、エリアーヌは喉の奥まで凍ってしまいそうな空気を吸い込んだ。


 あの土地、母親の生まれた、サンテール王国。滅ぼされた国。

 城はそのままだが、趣味の悪いタペストリーや成金趣味の調度品が部屋を占領していた。

 母親が王女であった頃の面影はない。だが、見たことも会ったこともない祖父母の絵が、倉庫で眠っていた。母親の子供の頃の姿と共に。


 イニャスは荒地を手にすると、あっという間にこの土地を攻めた。まさか公国が攻めてくるとは思っていなかったか、管理していた者たちは瞬く間に降伏し、この城は陥落した。

 誓約で奪った土地は、エリアーヌの母親の国に隣接していた。僻地にあるその土地を奪うために、わざわざ荒野を欲しがったなど、王は想像していなかった。


 魔石が掘られる採掘所も占拠できた。

 この場所から魔石の供給が止まれば、魔導武器の製造も難しくなり、そのうち製作ができなくなるだろう。

 魔石の供給がゼロになるわけではないが、製造量は確実に落ちるはずだ。


 時代は常に変化しつつある。

 大国が胡坐をかいている間に、他国は新しい魔法を開発していった。

 魔法が魔導武器の下であるという時代は終わり、今や魔導武器より魔法の方が強力なのだと、王は気付いていなかったのだ。


「エリアーヌ、雪が降ってきた。中に入ろう。風邪を引いてしまう……」


 イニャスが促しながら、エリアーヌを見つめた。


「どうかした?」

「いや、雪の女神のように見えたから」


 急に何を言い出すのか。エリアーヌが頬を赤く染めると、イニャスはゆるりと微笑んで、エリアーヌの髪についた雪を、なでるようにして払った。


「本当だよ。私の美しい女神。君ほど、この土地に似合う者はいない」


 この土地、母親の故郷。エリアーヌのルーツである、冷たい雪国。

 風が吹いて、雪が舞い、イニャスは飛ばされないようにエリアーヌを抱きしめる。

 その暖かさに、涙しそうになった。


 エリアーヌは、母親の国を取り戻せれば、それで良かった。

 だが、他の者たちはどうだろう。あの国は多くの者たちを蹂躙してきた。魔導武器を製作するための魔石を、その採掘される土地を、公国が奪った。今後、あの国はどんな影響を受けるだろうか。


 先の戦いで周囲の国々を黙らせた大国はもうない。昔の土地を奪い返そうと、虎視眈々と狙っている者たちが周囲にいるのだと、気付いているだろうか。

 大国が崩れるのはすぐではない。だが、その足音が近付いていることを、彼らは知らぬままでいるのだろう。


「母を死なせた罪は、必ず償うことになるでしょう」


 罰を下すのは、エリアーヌだけではないのだから。

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