暴走する理想
これは、あの嵐のような「生徒会ストライキ」が起こる、少し前の物語。
晩秋の冷たい雨が、いつしか湿った雪へと姿を変え、学園の石畳を白く染め始めていた頃のことだ。
放課後の第六実習棟――通称『創造の揺り籠』の熱気は、外の寒さを寄せ付けなかった。
セオドリック・フォン・ランカスターは、馴染み深いラボの重い扉を、いつもと変わらぬ優雅な動作で押し開けた。
立ち並ぶフラスコ、魔導回路の焦げた匂い、そして山積みの古書。その雑多な空間の奥で、こちらを振り返りもせずにペンを走らせる、一人の背中がある。
「やあ、レイ。今日も熱心だね。君の勤勉さには、未来の我が国の官僚たちも見習わせたいほどだよ」
セオドリックは、陽光のような微笑みを浮かべながら歩み寄った。
制服のジャケットを完璧に着こなし、乱れのない足取りで進むその姿は、確かに次期宰相としての品格に満ちている。
だが、その脇に抱えられていたのは、およそ優雅さとは無縁な、おぞましいほど複雑な術式が書き殴られた、ぶ厚い設計図だった。
「……何の用だ。お前が一人でここに来る時は、碌なことがない」
レイモンド・アシュクロフトは、不機嫌を隠そうともせずに筆を止めた。
隈の浮いた瞳がセオドリックを射抜くが、セオドリックはその拒絶さえも、親しい友人からの挨拶として心地よく受け流す。
「ひどいな。僕は君に、春の魔導技術発表会のための、素晴らしいアイデアを持ってきたんだ。名付けて『ランカスター式・広域多層防御結界陣』。……これを見てくれ」
机の上に広げられた紙面。そこには、常人の魔導師なら見ただけで眩暈を起こすような、狂気的な密度の多重回路が描かれていた。
防御の網を幾層にも重ねつつ、受けた攻撃を吸収して自身の魔力へと変換する……。理論上は不落の城塞だが、実用化するには、計算の不整合が多すぎて、起動した瞬間に術者が自爆しかねない代物だ。
「……お前、馬鹿なのか? こんなもの、魔力の流れが少しでもズレれば、ラボごと木っ端微塵だぞ」
レイモンドの罵倒に近い指摘。だが、セオドリックはそれを待っていたかのように、瞳を輝かせた。
「だからこそ君が必要なんだ。僕がどれほど壮大な夢想を語っても、それを現実に繋ぎ止める錨がなければ意味がない。そして、その錨となれるのは、世界中でレイ、君だけだ」
セオドリックは、まるで宝物を差し出すような手つきで、レイモンドの肩を優しく叩いた。
その顔は、慈悲深い聖者のようでもあり、あるいは自分の理想を叶えるための唯一の理解者を逃がさない、冷徹な政治家のようでもあった。
「君という精密な制御装置がなければ、僕の魔力はただの破壊の嵐だ。……ねえ、レイ。僕の隣で、この『不可能』を、僕たち二人の『必然』に変えてくれないかな?」
――数日後。
ラボの中央、円形の実験台には、セオドリックが持ち込んだ設計図を元に急造された、魔導核の試作機が置かれていた。
レイモンドは、深夜の静寂の中で幾度も計算を重ね、セオドリックの無茶な理想を、かろうじて現実的な数式へと翻訳し終えていた。
「いいか、セオドリック。俺が第一層の展開を合図したら、魔力を流し込め。ただし、お前の出力は高すぎる。蛇口を全開にするなよ。……俺の術式を信じて、少しずつ、糸を引くようにだ」
レイモンドは、ペンを杖に持ち替え、実験台の縁を固く握りしめた。
その顔は、極度の集中と、ある種の興奮に上気している。
「分かっているよ。君の指揮に従うのは、僕にとって最高の悦びだからね」
セオドリックが、魔導核にそっと手をかざした。
彼が指先に意識を向けた瞬間、ラボの空気が震えた。次期宰相として研鑽を積んできた、公爵家嫡男の圧倒的な魔力量。それは、不用意に解放すれば周囲の物質を物理的に押し潰すほどの圧力を持っていた。
「……展開!」
レイモンドの鋭い声。
青白い光が、魔導核から幾何学模様を描いて広がっていく。
セオドリックは、その光の道筋へ、慎重に、しかし力強く魔力を流し込んだ。
その瞬間だった。
二人の間に、目に見えない繋がりが生じた。
セオドリックの魔力は、本来なら制御不能な奔流だ。だが、レイモンドが構築した術式の網を通過するたび、それは驚くほど純度の高い、守護の力へと磨き上げられていく。
レイモンドの指先が、空中に浮かぶ数式を、ピアノの鍵盤を弾くように叩く。
セオドリックの魔力が、その指先の動きに、驚くほど正確に追従していく。
(……ああ。これだ)
セオドリックは、深い陶酔を覚えた。
自分の内側に渦巻く巨大な力。それを完全に理解し、正しく導き、形にしてくれるのは、この世界にレイモンド・アシュクロフトしかいない。
他の誰かが隣に立てば、この魔力の奔流に飲み込まれ、たちまち命を落とすだろう。
だが、レイモンドだけは、不敵な笑みさえ浮かべて、その暴風を乗りこなしている。
「セオドリック、出力を三割上げろ! 第二層を重ねるぞ!」
「了解だ、レイ! ……さあ、僕たちの理想の輝きを見せてくれ!」
ラボ全体を、まばゆい黄金の光が包み込んだ。
多層に重なった結界が、複雑な和音を奏でるように共鳴し、完璧な立方体となって空中に固定される。
かつて誰も成し得なかった、攻防一体の魔導回路が完成した瞬間だった。
二人の呼吸が重なり、魔力が溶け合う。
レイモンドは、自分の能力がセオドリックの力によって何倍にも増幅された万能感に。
セオドリックは、自分の理想がレイモンドの知性によって、現実となった充足感に、興奮を禁じ得なかった。
光の残滓が舞う中、二人は肩で息をしながら、完成した魔導具を見つめる。
「やったね、レイ」
「……ああ」
レイモンドの唇が、無意識のうちに勝利の笑みを刻んだ。
セオドリックは、それを見逃さなかった。
(そうだ、レイ。君のその誇らしげな顔こそが、僕がこの国で最も守りたいものなんだ。……やはり、君を僕の隣から離してはならない。絶対にね)
黄金の光が収束し、ラボに再び薄暗い静寂が戻ってきた。
中心に鎮座する魔導核は、二人の魔力が馴染んだ証として、心臓の鼓動のような淡い明滅を繰り返している。
「……ふぅ。……どうだった、俺の術式は」
レイモンドは実験台に手をつき、荒い息を吐きながら、不敵な、しかしどこか満足げな笑みを浮かべた。
だが、その限界は近かった。精密すぎる制御は、彼の精神と魔力を極限まで削っていたのだ。
膝の力が抜け、崩れ落ちそうになったその身体を、温かな、しかし力強い腕が支えた。
「見事だったよ、レイ。……君は、僕が夢見た以上の景色を、この手に届けてくれた」
セオドリックの声は、いつもの朗々とした響きではなく、吐息のような熱を帯びていた。
彼は、支えたレイモンドの身体を離そうとしなかった。それどころか、その肩に顔を埋めるようにして、深く、深く安堵の息をつく。
「……おい。離せ、暑苦しい」
「少しだけ、このままでいさせてくれ。……こんなに心が昂ぶったのは、生まれて初めてなんだ」
セオドリックの言葉に嘘はなかった。
彼は未来の宰相として、常に与える側であり導く側だった。だが今、この瞬間だけは、レイモンドという存在に自分のすべてを預け、支えられている実感を噛み締めている。
「……勝手にしろ。俺はもう、指一本動かす気力もない」
毒づきながらも、レイモンドは抵抗するのをやめた。
セオドリックから伝わる体温と、かすかな魔力の残滓が、不思議と不快ではなかったからだ。むしろ、自分がいなければ、この完璧な男は完成しないのだという自負が、レイモンドの胸を満たしていた。
やがて、極限の疲労に耐えかねたレイモンドの意識が、微睡みの中に沈み始める。
セオドリックは、腕の中で眠りに落ちた友人を、割れ物を扱うような手つきでソファーへと運び、自分もその隣に腰を下ろした。
窓の外では、夜明け前の蒼い光が世界を塗り替えようとしている。
セオドリックは、眠るレイモンドの、白く長い指先をじっと見つめた。
(この指が、僕の暴風を鎮め、この知性が、僕の孤独を埋めてくれる。……やはり、僕が君を独占するのは、もはや権利ではなく義務だ)
セオドリックは、眠るレイモンドには聞こえないほど小さな声で、慈しむように呟いた。
「おやすみ、僕の『錨』。……君が僕を支えてくれるなら、僕は君のために、どんな理想郷でも作ってみせるよ」
その瞳に宿ったのは、信頼よりも、もっと深く、暗く、それでいてこの上なく純粋な、独占という名の慈愛だった。




