レイモンドの遁走(後編)
レイモンドは、学園の北側にある旧校舎の裏庭へと逃げ込んでいた。
(……ここで、地面に図形でも描いて魔導演算をしてやる)
だが、レイモンドが手近な枝を拾い上げ、地面に円を描こうとした、その時。
「あ、見ーっけ! 副会長、こんなところにいた!」
鼓膜を突き刺すような、弾けるように明るい声。
レイモンドの肩が、雷撃魔法を受けたかのように跳ね上がった。
振り返ると、そこにはセオドリックを信奉する生徒会書記の令嬢・ミレイと、騎士科の陽気な男子学生数名が、眩しい笑顔を湛えて立っていた。
「……何の用だ。俺は今、忙しい」
「嘘おっしゃい! 会長から『副会長は今、手持ち無沙汰で寂死しかけているから、みんなで構ってあげてくれ』って頼まれているんですよ!」
レイモンドは絶句した。寂死などという、自分とは星の裏側ほども縁遠い概念を押し付けられ、激しい眩暈を覚える。
「さあ副会長、今から騎士科の親睦テニス大会なんです。副会長の魔導精密操作があれば、絶対面白いラリーになりますよ!」
「断る。俺は、運動など……」
「いいからいいから! ほら、ラケット貸してあげて!」
拒絶の言葉を吐き出す前に、レイモンドの手には軽量化魔法が施された最新式のラケットが握らされていた。
騎士科の学生たちが、親愛の情を込めて彼の背中をバンバンと叩く。その一撃ごとに、精神力が削り取られていく。
「……やめろ、触るな。俺は行かないと言って――」
「あ、そうだ。テニスの後は、女子部特製のハーブティー・パーティーもありますよ! 会長が最高級の茶葉を差し入れてくださったんです。『副会長を最高の香りで包んであげてくれ』って!」
まさに完璧な包囲網だった。
彼らが向けてくるのは、一点の曇りもない好意だ。だからこそ、レイモンドは彼らを追い払うことができない。
善意を向けられ、それに答えられない自分こそが悪であるかのような錯覚。それは、常に正しくあろうとする彼にとって、耐え難い苦痛だった。
「……っ、先に行け。後で……後で行く」
「本当ですか? 約束ですよ! 逃げたら会長に報告しちゃいますからね!」
嵐のような一団が去り、ようやく静寂が戻る。
だが、心は穏やかではなかった。学園のどこへ行っても、善意の監視役が潜んでいる。
食堂に行けば健康食を押し付けられ、中庭に行けば談笑の輪に引きずり込まれた。
「……あいつ、俺を殺す気か?」
これは休息などではない。逃げ場のない殲滅戦だ。
ならば、やるべきことは一つ。
敵の本陣――あの青白い封印に守られたデスクを奪還し、安息を取り戻す。
レイモンドの瞳に、かつての魔導具製作の名門・アシュクロフト家としての、執念深い火が灯った。
深夜。時計塔の鐘が二度、静まり返った学園に響いた。
レイモンドは、生徒会室の前に立っていた。日中は善意の嵐に揉み倒され、精神はすでに限界だったが、だからこそ、彼は渇望していた。
あの使い込まれたデスク、インクの染み、そして解くべき難解な数式。それだけが、彼がレイモンド・アシュクロフトであることを証明してくれる。
レイモンドは、昼間のうちに盗み取った魔導認証のバイパス・コードを指先に編み上げた。
カチリ、と小さな音がして、堅牢な扉が静かに開く。
月光だけが差し込む、誰もいない生徒会室。
そこには、昼間と変わらず青白い障壁に守られたデスクがあった。
レイモンドは忍び足で近づき、その障壁の術式構造を解析し始める。
(……多重構成か。だが、論理の穴はある。ここをこうして、魔力を逆流させれば――)
レイモンドの指先が、障壁の核心に触れた、その瞬間だった。
「――お疲れ様、レイ」
背後から響いた、あまりに穏やかで、聞き慣れた声。
全身に、氷水を浴びせられたような戦慄が走った。
振り返ると、本を片手に、ソファーに深く腰掛けるセオドリックの姿があった。
いつからそこにいたのか。月光を浴びる碧眼が、不気味なほど美しく輝いている。
「セオドリック……! なぜ、ここに……っ!」
「君が来ると思っていたからさ。一日の終わりに、君が最も安心できる場所へ戻ってくることを、僕は疑っていなかった」
セオドリックは立ち上がり、レイモンドへ歩み寄る。
レイモンドは慌てて解析を解こうとしたが、障壁は突然、その性質を変えた。
青白い光が淡い桃色へと変化し、暴力的なまでに心地よい、甘い香りが漂い始める。
「な……なんだ、この術式は……! 解除できない……っ!」
「安らぎの繭。触れた者の魔力を逆流し、深い眠りへと誘う……解除不可能な術式だよ」
「貴様……最初から、これを狙って……!」
レイモンドの膝が、がくりと折れた。
身体が羽毛のように軽くなり、瞼は重く垂れ下がる。
セオドリックの仕掛けた最後の罠――それは、仕事を取り戻そうとするレイモンドの執念を、そのまま眠りへのエネルギーに変換する、狡猾な愛だった。
「……もう戦わなくていいんだよ、レイ」
セオドリックの腕が、レイモンドの身体を受け止めた。
レイモンドは、力なく声を振り絞る。
「……ふざけるな。……俺は、まだ……」
「おやすみ、僕の誇り高い守護者。次に目が覚めたら……今より少しだけ、世界が明るく見えるはずだよ」
その囁きを最後に、レイモンドの意識は闇の底へと沈んでいった。




