レイモンドの遁走(前編)
翌朝。レイモンドは重い瞼を擦りながら、生徒会室の前に立った。
鞄の中には、昨晩寮で書き上げた『魔法回路の負荷分散に関する意見書』が入っている。セオドリックに休めと言われたからこそ、彼は逆に、自分が不可欠であることを証明しなければならなかった。
没落したアシュクロフトの名を背負う彼にとって、無能は死よりも恐ろしい。
だが、彼が学生証をドアの魔導認証にかざした瞬間。
ピーッという、聞いたこともない無機質なエラー音が廊下に響き渡った。
「……は?」
レイモンドは眉を寄せ、もう一度試す。エラー。三度目。やはりエラー。
認証ランプは、深紅に点灯したままだ。
「おい、冗談だろ……回路の故障か?」
苛立ちまぎれに呟いた、その時。
内側から、カチャリと、物理的な鍵が外される音がした。ゆっくりと開いた扉の向こう――神々しいまでの朝日を纏って立っていたのは、セオドリックだった。
「おはよう、レイ。いい朝だね」
「セオドリック……認証が壊れてるぞ。すぐに直せ」
言いながら、脇をすり抜けようとする。だが、先を塞がれた。
「いいや、故障じゃない。僕が学園長に頼んで、君の権限を一時停止したんだ」
「……あ?」
数秒、思考がフリーズした。
それでも無理やり押し入ると、そこは、自分の知る生徒会室ではなかった。
膨大な書類が積まれていた聖域には、一枚の紙も、一本のペンもない。どころか、デスク全体が青白い魔導障壁に包まれており、指一本触れられない。
「な……なんだ、これは」
「見ての通り、封印だよ」
セオドリックは、言葉を失うレイモンドの両肩を掴んだ。
「レイ。今日から一週間、君は生徒会に関わるすべての業務、およびこの部屋への立ち入りを禁ずる」
「何を、勝手な……! 予算案も、回路設計も、俺がいなきゃ――」
「すべて僕と、他のメンバーに分散した。君が心配している滞りは一切起きない。君がいなくとも円滑に回る、という事実を見せつけるのは少々忍びないが……すべては、君を休ませるためだ」
セオドリックの瞳には、絶望的なまでの正義が満ちている。
「君は自由だ、レイ。これは生徒会長命令であり、公爵家の特権行使であり……何より、君の友人としての僕のわがままだ」
「ふざけるな! 仕事を奪われて、どこに自由があるというんだ!」
「外にあるのさ。冬の澄んだ空気、温かいココア、そして心ゆくまでの眠り……。さあ、レイ。今日から一週間、君はただの学生だ。僕が用意した最高の休暇スケジュールを楽しんでくるといい」
セオドリックは、レイモンドの鞄から意見書を抜き取ると、それを読まずに脇に置いた。代わりに、一枚の羊皮紙をレイモンドの胸に押し付ける。
「まずは図書館に行くといい。君のために特別席を用意しておいた。もちろん、勉強は禁止だ。読むのは娯楽小説か、旅行記だけ。……さあ、行ってらっしゃい。君が二度と、そんな酷い隈を作って僕の前に現れないことを願っているよ」
「……ッ、セオドリック、貴様……!」
彼の怒号は、セオドリックの輝くような微笑みにかき消された。
こうして、死よりも苦痛な強制休暇の幕が、切って落とされたのである。
生徒会室を追い出されたレイモンドは、冬の冷たい風が吹き抜ける回廊を、あてもなく彷徨っていた。
「休暇スケジュール」と書かれた羊皮紙が、死刑宣告のように重い。
(……狂っている。あの男は、完全に正気を失っている)
レイモンドは何度も振り返り、堅牢な扉の向こう側を睨みつけた。
仕事を奪われることが、これほどまでに心許ないとは思わなかった。家門が潰れた時、自分に残されたのは、有能であることという誇りだけ。その証明の場を、無慈悲にも奪い取られた。
仕方なく、彼は慣れ親しんだ図書館へと向かった。セオドリックに見出される前、毎日のように潜んでいた場所だ。
「……失礼する。奥の席は」
カウンターの司書に声をかける。すると、返ってきたのは慈母のような微笑だった。
「ああ、副会長。会長から伺っておりますわ。今日は『特別リラックス席』をご用意しております。一番日当たりの良い、特製のカウチソファがある席です」
「……何?」
「それから、こちらが会長から預かっている『休暇用読書リスト』です。魔導物理学や歴史書は貸し出し禁止と言われていますので、こちらの『南国料理の探求』か『子犬と歩む世界旅行』からお選びください」
目の前が真っ暗になる。
(あいつが言っていたのは、このことか……!)
促されるまま指定の席へ向かうと、そこはいわゆる、陽だまりの特等席だった。クッションは不気味なほど柔らかく、まるで、底なし沼に引きずり込まれるようだ。
「……こんなところで、本なんて読めるか」
本を開くふりをして、魔導演算のメモを取り出そうとする。だが、指先が触れたのは空っぽのポケットだった。
予備のペンも、計算用の羊皮紙も、昨日のうちにすべて没収されていたことを、今さらながらに思い出した。
手持ち無沙汰という名の拷問。
周囲の学生たちが「あの副会長が昼寝をしている」と、物珍しそうに視線を送ってくる(ような気がする)。
没落して以降、自分を憐れんだ群衆の視線が、今の晒し者状態に重なり、胃をギリギリと締め付けた。
(落ち着け……。あいつの目が届かない場所が、必ずあるはずだ)
レイモンドは、カウチから転げ落ちるように立ち上がると、図書館を飛び出した。




