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セオドリックの憂鬱


「会長、おはようございます!」

「ああ、おはよう」

「生徒会長、今日もいいお天気ですね」

「そうだね」


 季節は冬。

 王立ラプラス魔導アカデミーの朝、セオドリックは生徒会室へ向かっていた。

 ランカスター公爵家の嫡男であり、学園の生徒会長、セオドリック・フォン・ランカスター。


 彼は、寄せては返す波のような挨拶の群れを、完璧な微笑で受け流していた。

 それは彼にとって呼吸と同じ、生まれ持った正義ノブレス・オブリージュの体現だった。


 だが、生徒会室の重厚な扉を開け、その一番奥に視線を走らせた瞬間、彼の本能は警鐘を鳴らした。


「……セオドリック。今すぐ魔導特区の予算修正案を検分しろ。三箇所、構成に無駄があったから書き換えておいた」


 飛んできたのは、冷淡な声。

 彼は生徒会の副会長、レイモンド・アシュクロフトだ。

 書類の山に囲まれ、羽ペンを走らせるその姿は、一見すればいつも通りの有能な副会長。だがセオドリックの瞳は、彼の『崩壊の予兆』を捉えていた。


「おはよう、レイ。……顔色が悪いね」


 セオドリックは、レイモンドのデスクに歩み寄る。

 近くで見れば、その疲弊は一目瞭然だった。レイモンドの顔色は、不健康な青白さを帯びている。何より、隈が酷い。


「ただの寝不足だ。お前が夢想を垂れ流すたび、それを現実に繋ぎ合わせるための術式を組むのは俺なんだ。理解しているなら、さっさと座れ」

「理解しているとも。君がいなければ、僕の理想はただの砂上の楼閣だ」


 セオドリックは、レイモンドの手に握られた羽ペンを、優しく、けれど抗いようのない強さで取り上げた。

 レイモンドは、不愉快を剥き出しする。


「……何の真似だ」

「レイ。君は今すぐ鏡を見るべきだ。今の君は、アシュクロフト家の再興を語る賢者のそれじゃない。過労で倒れる一歩手前の、囚人の顔だよ」

「大げさだ。公爵家の連中は、他人の体調にまで首を突っ込むのか?」

「生徒会長として言っているんだ。僕のせいで君が倒れるのを黙って見過ごせるほど、薄情な人間じゃないからね」


 とはいえ、どれほど「休め」と言葉を尽くしても、レイモンドは仕事を手放さないだろう。

 彼は自分の価値を、実務をこなす量でしか測れないところがある。没落した家門の誇りを、自らの有能さで(あがな)おうとしているのだ。


(言葉では届かないか。ならば――)


「レイ、午後の予定をすべてキャンセルしてくれないか」

「はあ? 正気か。来期の奨学金枠の選定が――」

「それは僕がやる。あるいは他のメンバーに振り分ける。君に必要なのは書類のインクではなく、太陽の光と、良質な睡眠だ」


 セオドリックは、自分自身の正義に誓った。

 友人に休息を与えるためなら、僕はいくらでも非道な独裁者になろう。


「……勝手にしろ」


 レイモンドは不貞腐れたように予備のペンを掴み直したが、セオドリックにはその仕草さえ微笑ましく映った。


(大丈夫だよ。君が倒れる前に、僕が君を捕まえてあげるからね)


 セオドリックは、窓の外に輝く冬の太陽を見上げ、苛烈なまでの善意を燃え上がらせていた。




「――というわけで、明日から一週間、副会長を無職(・・)にする」


 レイモンドが資料室へ席を外したわずか数分の隙を突き、セオドリックは生徒会室の中央で、残されたメンバーたちに有無を言わせぬ声で告げた。

 室内に凍りついたような沈黙が流れ、書記の令嬢が、持っていた羊皮紙の束を床に散らす。


「か、会長……無職とは穏やかではありません。副会長がいなくなったら、この生徒会の事務処理能力は八割減……いえ、壊滅します!」

「分かっている。だからこそ、これは僕たち全員の試練なんだ」


 セオドリックは、作戦机(普段は会議用テーブルと呼ばれているもの)を拳で軽く叩いた。


「彼はアシュクロフトの誇りにかけて、この戦場から決して退かない。ならば、戦場そのものを消滅させるしかない。……いいかい、まず事務局に回っている全書類を回収しろ。レイモンドの机に届く前に、すべて僕の執務室か、あるいは君たちの分担へ振り分けるんだ。一通の報告書、一枚の領収書さえ、彼の目に触れさせてはならない」


 メンバーたちは、セオドリックの瞳に宿る狂気に圧倒されていた。


「次に、レイモンドが個人で保管している万年筆と予備の魔導インク。あれもすべて没収だ。彼の手を空にしろ。そうすれば、嫌でも休息するしかなくなるはずだ」

「で、でも……もし副会長が怒って、力ずくで仕事を取り戻しに来たら……」

「その時は、こう言うんだ。『会長から、副会長に負担をかけるなと厳命されています。僕たちが無能だと思われたくないんです』とね」


 セオドリックは、春の陽光のような、けれど背筋を凍らせるほど純粋な微笑を浮かべた。


「彼は、規律を破ることを何より嫌う。たとえ納得できずとも、指示は守るはずだ。……その律義さを、逆手に取る」


「……鬼だ」

 誰かが小さく呟いたが、セオドリックはそれを最高の賛辞として受け流した。

 さらに彼は、懐から一通の封書を取り出した。ランカスター公爵家の紋章が刻印された、特権の行使書だ。


「これを使って、彼の学生証の魔導認証を、明日から七日間、生徒会室および研究棟から一時的に抹消する。これで物理的にも魔導的にも、この戦場に入ることすら叶わなくなる」


 徹底している。あまりに徹底しすぎて、もはや追放だ。


 セオドリックは戻ってくるレイモンドの足音を聞き取り、素早くメンバーに散開の合図を送った。


「さあ、諸君。オペレーション・レストの開始だ。……レイに気取られるなよ。彼が明日、絶望という名の休息に安らげるように」


 扉が開く。

 戻ってきたレイモンドは、室内の妙にキビキビとした、そして自分から視線を逸らすメンバーたちの空気に眉を潜めた。


「……おい。何だ、この妙な緊張感は。またセオドリックがろくでもない理想(ゆめ)を語ったのか?」

「いいや、レイ。みんな、君の仕事ぶりに感銘を受けて、やる気に満ち溢れているだけだよ」

 セオドリックは、親友の肩に手を置き、その隈の深さを愛おしむように見つめた。


(明日には、君をこの地獄から救い出してあげるからね、レイ)


 レイモンドは背筋がゾワつくのを感じたが、まさか自分の全権限が剥奪される前兆であろうとは、知る由もなかった。



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