古文書の毒
冬の朝、王立ラプラス魔導アカデミーは、薄っすらと降り積もった粉雪に包まれていた。
生徒会執務室。暖炉では魔導石がパチパチと心地よい音を立て、高価な香木が微かに燻っている。
だが、その静謐な空気は、副会長レイモンド・アシュクロフトが机に叩きつけた書類の音によって破られた。
「却下だ。……即座に、無慈悲に、論理的に、却下だ! セオドリック!」
レイモンドは、充血した瞳を剥き出しにして、向かいのデスクに座る男を睨みつけた。
そんな親友の怒声を、心地よい子守歌でも聴くかのように受け流すのは、生徒会長のセオドリック・フォン・ランカスターだ。
彼は手にした古い竹簡――東方の島国から流れてきたとされる禁書に近い古書――を、うっとりと眺めている。
「そう言わないでおくれ、レイ。まずは聞いてよ、この響きを。『雪月花の時、最も君を憶う』……。雪を愛で、月を仰ぎ、花と共に君を想う。なんと高潔で、効率的で、美しい三位一体だろう。僕は感動したよ。この学園には今、この精神が欠けている!」
「精神どころか、お前の頭には正気という言葉が欠けている。……いいか、今は二月だぞ。雪はいい。月も勝手に見ていろ。だが『花』はどうする! この極寒のラプラスで、生徒全員に配る生花をどこから調達するつもりだ!」
「レイ、君は相変わらず現実という名の泥に足を取られているね」
セオドリックは椅子から立ち上がると、窓の外に広がる銀世界の学園を、全能の神のような慈愛を込めて見渡した。
「冬に花が咲かないのなら、僕たちが咲かせればいい。僕の魔力と、君の精密な術式構成があれば、この学園を常春の楽園に書き換えることなど、造作もないはずだ」
「……本気で言っているのか。学園全域に広域気候維持術式を展開しながら、数千本の植物のバイタルを個別に管理しろと? 演算負荷で俺の脳が焼き切れるのが先か、魔導炉が爆発するのが先か、賭けてもいいぞ」
「ふふ、君の謙遜はいつ聞いても独創的だ。君ならできるさ。僕は信じている」
この男には、拒絶という概念が届かない。
レイモンドは絶望的な目眩を感じながら、助けを求めるように周囲を見渡した。執務室には、他の役員たちも揃っている。
「……予算はどうするんだ。花の生体輸送費だけで、今年度の図書予算が吹き飛ぶぞ! リヴェール、お前からも何か言ってやれ!」
庶務のリヴェールは、高級な羽ペンで何やら計算していたが、顔を上げると、眼鏡の奥のキラキラとした瞳をレイモンドに向けた。
「えっ、でも副会長! 会長が仰る『雪月花』、とってもロマンチックですよ! 異国の文化を取り入れるのは、次世代の外交感覚を養うのにも最適です。予算なら、ランカスター公爵家から『寄付』という名目で出せば、監査も通りやすいですし!」
「くっ……! お前に聞いたのが間違いだった……! ミレイ、お前は……!」
書紀のミレイもまた、書類を放り投げて椅子を回転させる。
「賛成です! 冬のイベントって、武闘祭か堅苦しい礼拝ばっかりで退屈だったんですよね。月明かりの下で花を愛でるなんて、女子生徒からの支持は間違いなく100%ですよ! 装飾は私たちが担当しますから!」
「装飾の問題ではない! 植物のバイタル管理が無謀だと言ってるんだ! 揃いも揃って、お前たちは俺を殺す気か!」
レイモンドは最後の望みをかけて、ちょうど執務室に顔を出した教員――アルフォンソ教授の袖を掴んだ。彼は魔導倫理の権威であり、無謀な魔力行使には厳しいはずだった。
「教授……! 止めてください。会長が、冬の学園を温室に変えて『雪月花の冬至祭』などという狂気じみた行事を強行しようとしています。これは魔導の私物化です、即刻禁止命令を……!」
アルフォンソ教授は眼鏡を押し上げ、セオドリックが広げている竹簡と、レイモンドの青ざめた顔を交互に見た。そして、愉快そうに口角を吊り上げた。
「……ほう。雪月花か。面白い。アシュクロフト君、若いうちの無理は買ってでもしろと言うだろう? 植物の強制開花と維持魔法の動的制御か……。これは素晴らしい卒業論文のデータになりそうだ。よし、許可しよう。ランカスター君、好きにやってくれたまえ」
「教授!!」
絶叫に近いレイモンドの声は、セオドリックの華やかな笑い声にかき消された。
「決まりだね。ありがとう、教授。さあレイ、そうと決まれば忙しくなるよ。大陸中から、冬の月光に映える『真紅の薔薇』と『純白の百合』を各三千本ずつ発注してくれ。もちろん、輸送中のしおれ一つ許さない。維持術式の構築は、今夜中に第一案を上げてもらえるかな?」
「………………」
レイモンドは、手に持っていた羽ペンを折った。
窓の外では、何も知らない生徒たちが、雪の中で「新しい行事」の噂に胸を躍らせている。その平和な光景の裏で、自分の寿命が確実に数週間分削り取られていく音が聞こえた。
セオドリックは、動けなくなったレイモンドの肩に優雅に手を置き、その耳元で毒のように甘い囁きを落とした。
「君の苦労は、すべて僕が知っている。世界で一番、僕が君を評価しているよ、レイ。……さあ、僕と一緒に、最高の冬を作ろうじゃないか」
レイモンド・アシュクロフトは、この時初めて、本当の「雪月花」とは、血を吐くような献身の上に咲く、残酷な幻覚であることを理解したのである。




