逆転無罪と犬の断罪
その朝、生徒会執務室の重厚な扉を押し開けたレイモンドの手は、死者のように冷え切っていた。
一週間という時間は、有能な副会長の精神を摩耗させるには十分すぎた。隈は色濃く、頬は痩け、瞳には悟りに近い虚無が宿っている。
彼は、脇に抱えた一通の分厚い封書を、自らの遺書であるかのように強く抱きしめていた。
中には、彼がこの一週間、不眠不休で書き連ねた「身の潔白と自己弾劾」が詰まっている。
自分は没落貴族の野心に燃える異端者ではないこと、そして同時に、主君であるセオドリックを無自覚に軽んじていた自らの傲慢さを、数千の語彙を尽くして認め、謝罪する内容だ。
(……これで、終わりだ。あいつが俺をどう裁こうと、文句はない)
レイモンドが室内へ足を踏み入れると、そこには以前と変わらぬ、眩いばかりの陽光が満ちていた。
そして、デスクに座る黄金の主――セオドリック・フォン・ランカスターが、弾かれたように顔を上げた。
「やあ、レイ! 会いたかったよ。こんなに長く君の顔を見られないなんて、僕の心はまるで砂漠のようだった!」
セオドリックは椅子を蹴らんばかりの勢いで立ち上がり、大股でレイモンドへと歩み寄る。その顔に浮かんでいるのは、十日前の絶望など微塵も感じさせない、一点の曇りもない歓喜の笑顔だった。
「…………」
レイモンドは絶句した。そのあまりの温度差に、脳内の論理回路が火花を散らす。
十日前、自分を焼き続けたあの「悲劇の聖母」のような表情はどこへ行った。こいつは、俺を死罪に問うつもりではなかったのか?
「セオドリック……お前……」
「おや、どうしたんだい? そんな死者のような顔をして。……ああ、そうか。僕がいない間、一人で生徒会の仕事を切り盛りさせてしまったからね。済まない、これからは僕が君の時間をすべて買い取って償うよ」
「……黙れ。そんなことはどうでもいい」
レイモンドは震える手で、懐の封書を突き出した。
「これを受け取れ。……お前が言おうとした『い』の続き……俺が考え得るすべての可能性に対する、俺の回答だ。俺は、お前を裏切った覚えはないが、もし俺の存在そのものがお前の『異端』だと言うなら、この首、好きに撥ねるがいい!」
決死の覚悟。プライドを捨て去った、没落貴族の最後の絶叫。
だが、セオドリックは封書を受け取ろうともせず、不思議そうに小首を傾げた。
「『い』……? いったい何の話だい?」
「忘れたとは言わせないぞ! お前は言ったはずだ! 俺に向かって、『まさか君が、い――』と! この世の終わりを見たような顔で!」
セオドリックは、瞬きを一つした。
数秒考えて、合点がいったように「ああ!」と声を上げる。そして、再びあの――レイモンドが死ぬほど恐れた、ひどく感傷的で、悲しげな表情を作ってみせた。
「そうだよ、レイ。本当に、僕は悲しかったんだ。まさか君が……あんなにも犬好きだったなんてね」
「………………は?」
レイモンドの思考が、完全に停止した。
今、何と言った。イヌズキ?
異端でも、いかさまでも、色仕掛けでもなく……犬?
「僕は見てしまったんだ。君が慈愛に満ちた瞳で、路地裏の薄汚れた仔犬に自分の昼食を分け与えているのを。……ショックだったよ。君が僕に見せるのは、いつだって冷たい拒絶の視線だけなのに。あんな獣に、聖者のような微笑みを向けるなんて……僕は、自分が飼い主として失格だと言われたような気分になったんだ」
セオドリックは、大真面目に、心底傷ついた様子で胸に手を当てた。
「だから僕はあの日、君に絶望したんだよ。……どうして僕の前でも、あの『犬に向けるような顔』をしてくれないのかとね。それを考え始めたら、もう一刻も早く君を独占したくなって……急いで家の用事を済ませてきたのさ。……ねえ、レイ。今からでも遅くない。僕にも『お座り』くらい命じてくれないかい?」
静寂が、生徒会室を支配した。
窓の外では、小鳥が呑気に囀っている。
レイモンドの手元には、一週間かけて書き連ねた「命懸けの自白書」が、無残なほどに厚い束となって握られていた。
居眠り。いびき。異議。いかさま。色仕掛け。異端者。
そんな物騒な言葉を並べ立て、学園中を血眼で走り回り、己の全存在を否定しかけた、地獄のような七日――いや、十日間。
そのすべての原因が。
あの日、腹を空かせた仔犬に、余ったサンドイッチの端を一切れ投げ与えたこと。
ただ、それだけだった。
「……セオドリック・フォン・ランカスター」
「なんだい、レイ? おお、その殺意に満ちた瞳……やはり、君はこうでなくては!」
「お前は………………一回、死んでこいッ!!!」
レイモンドが渾身の力で投げつけた「最終弁明書」の束は、セオドリックの鼻先を掠め、虚しく床に散らばった。
【判決】
被告人:レイモンド・アシュクロフト。
罪状:自意識過剰、およびセオドリックの「い」という一文字に、勝手に救済と絶望を見出した罪。
刑罰:この後、セオドリックに「犬の散歩」ならぬ「学園内デート」を、日没まで付き合わされる刑。
かくして、レイモンドの「逆転無罪」は成立した。
もっとも、彼にとっては、有罪判決で首を撥ねられた方が、まだ救いがあったかもしれないが。
「さあ、行こうか、僕の可愛い副会長。……ああ、その顔だ。その『この世のすべてを呪うような顔』が、僕には何よりの御馳走だよ」
「…………もういい。……好きにしろ」
レイモンドの掠れた呻きは、主君の朗らかな笑い声にかき消され、今日も生徒会室の天井へと吸い込まれていった。
To Be Continued.




