自己弾劾の地獄
それからのレイモンドは、まるで生きた心地がしなかった。
学園の喧騒が遠く、主を失った生徒会室の静寂だけが、毒のように彼の耳を侵食する。デスクに積まれた書類は、いつも通り完璧に整理されている。だが、それを検分し、不遜な笑みを浮かべて「さすがだね、レイ」と称賛する声は、どこにもない。
自室のベッドに横たわっても、意識は冴え渡る一方だった。
(……考えろ。論理的に、推論を立てるんだ)
レイモンドは暗闇の中で、天井を見つめたまま自らに命じた。
あいつは言った。――「まさか君が『い』」。
その一文字から始まる、俺への失望、あるいは絶望。
俺は、あいつに対して何を仕掛けた? 何を、見落とした?
【第1の仮説:不敬、あるいは不徳】
まず浮かんだのは、自らの不遜な態度だった。
(まさか君が……『居眠りをしていたなんて』。あるいは、『いびきをかいていたなんて』?)
だが、その思考は即座にレイモンド自身の手で握りつぶされる。
(……あり得ん。俺はアシュクロフトの血にかけて、職務中に意識を飛ばすような無様な真似は一度もしていない。俺の徹底した自己管理能力を、あいつが疑うはずがない。……却下だ)
ならば、言葉の暴力か。
(まさか君が……『異議を唱えるなんて』?)
……これも違う。俺はいつだって、あいつの独善的な正義に異議を唱え続けてきた。予算の修正、行事の無駄、あいつの甘すぎる性格――。その「拒絶」こそが、俺たちの関係の基盤だったはずだ。今さらあいつが、俺の反対意見に悲しむなど、論理的な矛盾を孕んでいる。
【第2の仮説:歪んだ情愛の露呈】
思考はさらに深淵へと滑り落ちる。レイモンドの頬を、冷たい汗が伝った。
(まさか君が……『色仕掛けなんて』……?)
その不快な単語が脳裏をよぎった瞬間、レイモンドは激しい嫌悪に襲われた。
(馬鹿な。俺があいつに、いつ、そんな真似をした? そもそも、あいつの周囲には、ランカスターの権力を狙う令嬢たちがいくらでもいる。この不愛想で隈の浮いた顔のどこに、誘惑の術式が介在する余地がある。……いや、待て)
思い出したのは、いつかの雨宿りの夜。あるいは、あの誕生日の夜。
セオドリックが、俺の顔を覗き込み、「君は美しい」と抜かした、あの狂気じみた視線。
(……まさか。俺の不愛想という仮面の下に、あいつを無自覚に誘惑し、その品性を汚そうとする『不実な心』があると、あいつは見抜いたのか……!?)
心臓の鼓動が早まる。もし、自分の存在そのものが、あいつの公爵家としての名誉を汚す毒だと判断されたのだとしたら。あの悲しげな顔は、俺という汚物を処分しなければならない、飼い主の悲しみだったのではないか。
【第3の仮説:存在論的な裏切り(異端)】
セオドリックが休暇を取って、五日目の夜。
レイモンドの思考は、ついに救いのない極地へと辿り着いていた。
(まさか君が……『いかさま』。……あるいは、『異端者』だったなんて)
呼吸が止まる。
没落したアシュクロフト家の再興。そのために、俺が密かに禁忌の魔導書を読み、あいつの知らないところで「力」を求めていること――。
あいつは、それを察知したのか?
公爵家の嫡男として、帝国の守護者として、セオドリックは「異端」を許すことはできない。たとえそれが、唯一無二の友人であったとしても。
あの時、ドアが閉まる寸前に見せた、あの聖母のような、痛ましいまでの慈愛。
あれは――死罪を宣告する直前の、最後の手向けだったのではないか。
「……そうか。そうだったのか、セオドリック」
レイモンドは、震える手で羽ペンを握った。
あいつは一週間、俺に「自首」の時間を与えたのだ。
俺が自らの罪を認め、アシュクロフトの再興という野心を捨て、あいつの温情に縋るか、あるいは静かに姿を消すか。その選択を、あいつは待っている。
机の上には、この数日の間に書き連ねた、数千字に及ぶ「身の潔白と、己の浅ましさへの告白」を綴った魔導羊皮紙が、山となって積み上がっていた。
文字は乱れ、行間には彼の焦燥と絶望が滲んでいる。
「……俺は、お前を裏切りたくなかった。……だが、俺という存在そのものが、お前にとっての『不浄』であるなら……」
そうして訪れた、七日目の朝。
一睡もせず、幽鬼のような形相になったレイモンド・アシュクロフトは、一通の厚い封書を抱え、生徒会室の扉の前に立っていた。
中には、彼の人生のすべてを否定し、すべての罪を認める(と彼が思い込んだ)「最終弁明書」が収められている。
扉の向こうから、聞き慣れた、眩しすぎるほどに明るい声が響いた。
「さあ、一週間ぶりの執務だ! 会いたかったよ、みんな!」
レイモンドは、覚悟を決めて扉を押し開けた。
そこには、一文字の「い」でレイモンドの人生を地獄に変えた男が、最高に晴れやかな笑顔で座っていた。




