すれ違う盤面
翌朝、レイモンド・アシュクロフトは、いつになく鋭い足取りで学園の回廊を歩いていた。
寝不足だった。昨夜、目を閉じるたびに、あの夕闇の中のセオドリックの顔が、網膜の裏側に焼き付いた「呪い」のように浮かび上がってきたからだ。
(……一言、問い詰めれば済む話だ)
そう自分に言い聞かせ、彼は生徒会執務室へと向かう。いつも通り、始業の一時間前。
生徒会室で主君を待つ時間は、彼にとって「自身の完璧さ」を確認するための儀式でもあった。
だが、その日の予定は、登校直後に現れた一人の老教師によって、無残にも引き裂かれた。
「ああ、アシュクロフト君。ちょうど良かった。学園長から預かっている、古い魔導回路の鑑定作業だがね……急遽、今日中に資料をまとめてほしいそうだ」
「……失礼ですが、それは来週の期限だったはずです。今日は生徒会の業務が――」
「いやあ、政府の監査が入ることになってね。君の緻密な鑑定眼が必要なんだ。頼むよ、特待生の君にしかできない仕事だ」
『特待生』。
その言葉は、没落貴族である彼にとって、絶対的な権力と同じだった。
結局、レイモンドが埃臭い鑑定室から解放されたのは、日がとっぷりと暮れた後だった。
セオドリックが待つはずの生徒会室に駆け込んだ時、そこには消えかかった魔導灯の残光と、冷めきった紅茶の香りが漂っているだけだった。
(……今日が無理なら、明日がある。あいつが俺を避ける理由など、何一つないのだから)
そう、二日目の朝までは、まだ理性で抑え込めていた。
だがその日、セオドリックは生徒会室に現れず、一時間目の講義を終えたレイモンドがセオドリックの教室を訪れた時、事態は不穏な色を帯び始める。
「え? 会長なら、さっき急な呼び出しがあって会議棟へ行ったよ」
教室内で談笑していた学生たちが、眩しいものを見るような目で答える。
レイモンドは眉を潜めた。
「会議棟だと? 今日の予定に、そんなものはなかったはずだ」
「さあ……でも、すごく真面目な顔をしてたよ。……あ、もしかして、副会長も知らないような『重大なこと』だったりして?」
学生たちの悪意のない言葉が、レイモンドの胸に小さな杭を打ち込む。
俺が、知らないこと。
あのセオドリックが、俺を通さずに動くなど、この一年間一度としてなかったはずだ。
「……そうか。失礼した」
レイモンドは踵を返し、今度は会議棟へと向かった。
だが、そこでも「つい数分前に、別の棟へ移動されましたよ」という事務的な回答が繰り返される。
まるで、学園という巨大な魔導回路そのものが、レイモンドをセオドリックから遠ざけるために組み替えられているかのような、奇妙な感覚。
結局、その日もセオドリックには会えず仕舞いだった。
三日目の昼。レイモンドは学園の中庭で、生徒会庶務のリヴェールを捕まえた。
「おい、リヴェール、セオドリックはどこだ。一昨日から全く捕まらん。奴に渡さなければならない急ぎの書類があるんだ」
「あれ? 副会長。……聞いてないんですか?」
リヴェールは、不思議そうに首を傾げた。その瞳に浮かんでいるのは、憐憫に近い驚きだった。
「会長なら今日からお休みですよ。『高位貴族会議』への出席のために、一週間の休暇届が出ています。今頃はもう、ランカスター家の馬車の中じゃないかな」
「……一週間、だと?」
レイモンドの思考が、一瞬だけ停止した。
「ええ。本当に何も聞いてないんですか? 珍しいですね。あの会長が、副会長に何も言わずに行くなんて」
レイモンドの瞼が、ピクリと震えた。
何も言わずに。一週間の不在。
そして、あの別れ際の「い」から始まる、未完の断罪。
(……あいつは、あの日。俺に『最後通告』を済ませたつもりだったのか?)
『い』――。
もし、その続きが「暇を出す」だったとしたら。
あるいは、「い」から始まる、もっと残酷な絶縁の言葉だったとしたら。
セオドリックは、答える機会さえ与えずに、レイモンドをこの学園に残して立ち去った。それは、完璧なまでの拒絶に他ならない。
周囲の学生たちが、楽しげに昼食の相談をしながら通り過ぎていく。その色彩豊かな日常の中で、レイモンド・アシュクロフトという存在だけが、モノクロームの孤独に切り取られていた。
「……ふざけるな。……ふざけるな、セオドリック……!!」
誰にも聞こえない声で、彼は絞り出すように呟いた。
俺は、あいつに何をした。
俺の何が、あいつをあそこまで絶望させた。
問いは、風に消えた。
レイモンドは一人、主を失った生徒会室へ向かう。そこにあるはずの矛盾を、自分の命を削ってでも暴き出すために。




