欠落した「い」の宣告
これはまだ、波乱の建国祭が起きる前の話。
それは、王立ラプラス魔導アカデミーを赤銅色の夕闇が包み込もうとしていた、ある放課後のことだった。
生徒会執務室。窓の外から注ぐ、沈みかけた太陽の光が、大理石の床に歴代会長たちの肖像画の影を長く延ばしている。
その静寂を、羽ペンの走る乾いた音だけが刻んでいた。
「……以上だ。魔導特区の予算配分修正、および次期記念祭の警備計画予備案。目を通しておけ、セオドリック」
レイモンド・アシュクロフトは、整えられた書類の束をデスクの主へと差し出した。
没落したアシュクロフト家の再興という重荷を背負う彼は、その実務能力において、学園内で右に出る者はいない。
だが、書類を受け取るはずの主――セオドリック・フォン・ランカスターは、動かなかった。
「……セオドリック?」
レイモンドが怪訝そうに顔を上げた。
学園の太陽、次期宰相の椅子を約束された至高の貴公子。いつもなら、向けられた毒舌さえも「君の熱心さには恐れ入るよ」と眩しい微笑みに変換してみせる男が、今はただ、黙ってレイモンドを見つめていた。
その碧眼には、見たこともないような深い陰が差している。
絶望。悲嘆。あるいは、取り返しのつかない過ちを犯した愛児を見つめる親のような、慈愛を孕んだ痛ましさ。
「……ああ、僕はとても悲しいよ、レイ」
セオドリックの声は、低く、湿っていた。
彼は椅子の背からゆっくりと身体を起こし、一歩、レイモンドへと歩み寄る。その動作一つに、普段の不遜な自信は影を潜め、代わりに耐え難い孤独が滲み出ていた。
「まさか君が……『い』――」
――バァンッ!!
刹那、執務室の重厚な扉が、暴力的なまでの勢いで開け放たれた。
「会長! 緊急事態です! 会議棟で魔導炉の共振事故が――今すぐ学園長がお呼びです!!」
乱入してきたのは、血相を変えた運営委員の生徒だった。
扉が壁に激突した轟音。そして駆け込んできた生徒の絶叫。
それらの騒音が、セオドリックが紡いだはずの「い」に続く数文字を、完璧に、冷酷に、この世界からかき消した。
「……っ」
セオドリックは、言葉を遮られたことに苛立つ様子も見せなかった。
ただ、去り際に一度だけ、絞り出すような視線をレイモンドへ向けた。その瞳は、言葉の続きを語る代わりに、何かを決定的に諦めたような、聖母の如き悲しみを湛えていた。
「……。……あとのことは任せたよ、レイ」
それだけを残し、セオドリックは背を向けた。運営委員に急かされ、廊下へと消えていく金色の背中。
静寂が、戻ってきた。
先ほどよりも濃くなった夕闇の中で、レイモンドは差し出したままの書類を手に、石像のように固まっていた。
「……は?」
レイモンドの喉から、掠れた声が漏れる。
まさか君が、「い」。
あいつは今、何と言おうとした?
あんな、世界の終わりを嘆くような顔をして。あんな、裏切られた聖者のような瞳をして。
あのセオドリック・フォン・ランカスターを、あそこまで悲痛な面持ちにさせる事象など、この世にどれほど存在する?
『い』。
レイモンドの脳内で、論理回路が猛烈な勢いで回転を始める。
セオドリックと出会い、無理やり生徒会に入れられてから約一年。あいつに望まれるまま、あるいは自分の望むがまま、馬車馬のごとく働いてきた。
その歴史の中で、自分はあいつの地雷を、決定的な一線を、踏み抜いたとでもいうのか。
「……ふざけるな。意味がわからん」
自分に言い聞かせるように毒づいたが、指先が微かに震えているのを隠せなかった。
セオドリックは、くだらない冗談で人を翻弄することはあっても、あんな「真剣な悲しみ」を演技で出せる男ではない。あれは、本物の絶望だった。
明日だ。
明日になれば、あいつはまた不遜な笑顔で現れる。その時に、あの言葉の続きを問い詰めてやればいい。
レイモンドは、自分の中の動揺を「論理的ではない」と切り捨て、逃げるように執務室を後にした。
それが、十日間に及ぶ長い迷宮への、最初の一歩だとも知らずに。




