銀の迷宮
屋外に出たレイモンドが目にしたのは、学園が始まって以来の、文字通り魔法的な大混乱だった。
「あったぞ! 噴水の底に銀の反応だ! 水操作を貸せ!」
「屋根の上のカラスが銀の指輪を咥えているかもしれない! 誰か浮遊魔法を!」
リヴェールの放送は、真面目な生徒たちに会長への忠誠という名の大義名分を与えていた。
視界の端々で、探索用の使い魔である梟や蝙蝠が乱舞し、校舎の壁には透視魔法の術式展開を示す淡い燐光がいくつも張り付いている。本来、研究や訓練のために使われるべき神秘が、今は「一本の指輪」という獲物を求めて暴走していた。
「……最悪だ」
レイモンドは、右腕に溜まった不快な汗を拭いながら毒づいた。
彼の持つ銀の共鳴は、周囲で発動する探査魔法の残滓を拾い、壊れた楽器のように不協和音を奏で続けている。
「ピーッ、ガガッ、ピーーッ!!」
「煩い! 黙れこのガラクタ! ……セオドリック、午前中のお前の足取りを思い出せ。会議、予算折衝、そして視察……少なくとも十箇所は回ったはずだ。まずはテニスコートへ行くぞ」
「おやおや、レイ。僕のスケジュールを完璧に把握しているなんて、愛だね」
「……ストーカー対策だ。さっさと歩け」
二人は、熱狂する生徒たちの波をかき分け、最初の目的地であるテニスコートへと滑り込んだ。
そこでは、数人のテニス部員たちが、コートの審判台の上で身を乗り出し、屋根の隙間を覗き込んでいた。
「あ! 副会長! あの梁の影、鳥の巣あたりに銀色の――」
一人の部員が、勢い余って身を乗り出しすぎた。
刹那、足場が滑る。重力軽減の術式を編む間もなく、彼の身体は数メートルの高さから、硬いコートへと真っ逆さまに落ちる――。
「……っ、危ない!」
レイモンドは反射的に右手を突き出した。
頭の中に刻み込まれた浮遊の最適化術式が、回路を通って発動しようとする。
だが。
(……あ…………)
右腕は、ただの肉の塊だった。
熱い拍動も、奔るマナの感覚もない。突き出した指先からは火花一つ散らず、レイモンドはただ、無力に空を掴んだ。
――墜落の衝撃音が響く、その一瞬前。
セオドリックが、レイモンドの肩越しに、無造作に左手を一振りした。
詠唱も、予備動作もない。
ただそこにあった空気が、一瞬で巨大な不可視のクッションへと変質し、落下した部員の身体を優しく受け止めた。
「怪我はないかい? 少しばかり、僕への忠誠が過ぎたようだね」
セオドリックの声はどこまでも涼やかだった。
助けられた部員が涙ながらに感謝する中、レイモンドは突き出したままの自分の右手を、屈辱に震えながら見つめていた。
「……すまない。……俺が魔法を使えていれば、お前の手を煩わせるまでもなかった」
絞り出すような謝罪。だが、セオドリックはそれを聞き届けると、レイモンドの右手の甲に、自身の温かい掌を重ねた。
「謝る必要はないよ、レイ。君が今、魔法を使えないのは僕のせいだからね」
その言葉は、優しさという皮を被った断定だった。
君を不自由にしたのは僕。
君から力を奪ったのも僕。
だから、君が僕に依存するのは当然の理なのだと、セオドリックの瞳が囁いている。
「……行こう。次は温室だ。……あそこには、お前が残した残骸がまだあるはずだ」
レイモンドはセオドリックの手を振り払い、足早に歩き出した。
辿り着いた温室は、熱狂の渦というよりは、奇妙な熱病に侵されているようだった。
園芸部員たちは、指輪探しを後回しにして、中央に鎮座する稀少種の植物『月光草』を呆然と見上げていた。
本来なら夜にしか咲かないその花が、真昼の太陽の下で、狂おしいほど鮮やかに開花していたからだ。
「……セオドリック。お前、午前中に何を教えた」
レイモンドは、温室の制御盤に接続し、走る術式を解析した。
そこにあったのは、かつてレイモンドが部員たちに教えた「緻密で繊細な魔力循環理論」ではない。
その理論を土台にしつつ、核心部分を強引なまでの出力で書き換えた、セオドリック独自の「暴力的なまでの生命賛歌」だった。
「少しだけ、彼らの可能性に水をやっただけだよ。君がいつも隣で僕に注いでくれる、その知識のお裾分けさ」
「……お前という男は。……俺が心血注いで組んだ安全装置を、こうも簡単に……!」
レイモンドは毒づいたが、解析を進めるほどに、その術式が、破綻ではなく進化であることに気づいてしまう。
自分が守りに徹するあまり見逃していた、植物の根源的な渇望を、セオドリックは一瞬の直感で見抜き、満たしてしまったのだ。
「……悪くない。……俺の教え方が、慎重すぎただけか」
認めざるを得ない敗北。
レイモンドは、探知機を握りしめ、自分だけが置き去りにされているような、奇妙な焦燥感に囚われた。
「――ピーッ!!!!!」
その時、探知機が今までにない、耳を突き刺すような鋭い音を立てた。
反応は、温室のさらに奥。
学園の最も古いエリア――巨大な馬術競技場と、セオドリックの愛馬が待つ厩舎の方角だ。
「……最大出力だ。今度こそ、間違いなく本物がそこにいる」
「いい顔だね、レイ。……さあ、僕らの冒険のクライマックスだ。厩舎へ行こう」
レイモンドは、右腕の冷たさを忘れるほどに、その反応の主へと吸い寄せられていった。




