蒼い輝きと、沈まない男 (後編)
「……泳げない、だと?」
レイモンドの口から、魂の抜けたような声が漏れた。
水位はすでに胸元を越え、波が打ち寄せるたびに、二人の身体は冷たい海水に翻弄される。
「ああ。ランカスターの教育方針は、常に『道を切り拓く側』であることだからね。水に身を任せて流されるという発想そのものが、僕の辞書にはなかったのさ。……というか、水が鼻に入るのは、美学に反するだろう?」
「お前の美学ごと沈んでしまえ、この浮世離れしたガラクタがッ!!」
レイモンドは、採取したばかりの蒼星石が入ったポーチを死守しつつ、迷わずセオドリックの首根っこを掴んだ。
普段のセオドリックなら、不敬だと一蹴しそうなその乱暴な接触。しかし今の彼は、まるで大型犬が飼い主に懐くかのように、素直にレイモンドに体重を預けてきた。
「……信じられん。本当に、筋肉の塊のように沈んでいくな、お前は……」
海水に浸かったセオドリックの身体は、驚くほど重かった。
魔導師としての膨大な魔力を内包する肉体は、高密度のエネルギー体に近い。それが「泳ぎ方を知らない」という一点において、これほどまでに厄介な重石に変わるとは。
「レイ、顔が怖いよ。もっとリラックスして、僕とのこの……『運命の漂流』を楽しまないかい?」
「黙れ! 息を止めろ、死ぬぞ!!」
ゴォォォォォ! と地響きのような音が洞窟内に響き渡る。
入り口を塞いでいた海水が、一気に押し寄せてくる合図だ。
レイモンドは、右腕をセオドリックの腰に回し、彼を自分に密着させるようにして強く抱き込んだ。
指輪を通じて、セオドリックの澎湃たる魔力が、レイモンドの右腕に熱く流れ込んでくる。
セオドリックがパニックを起こさず、魔力を安定させているおかげで、レイモンドは自身の肉体を強化し、無理やり二人分の浮力を捻出することができていた。
「……セオドリック。離すなよ、絶対に。お前を助けるために俺まで死ぬのは、計算に合わなすぎるからな」
「わかっているよ、レイ。……君が僕を離さない限り、僕がこの手を解くはずがないだろう?」
暗闇の中。水位が天井に達し、空気の逃げ場が消える直前。
セオドリックは、自分を抱きしめるレイモンドの、必死に歪められた横顔を、悲しいほどに美しいものを見るかのように見つめていた。
彼は知っていた。レイモンドは、どんなに毒づいても、結局は自分を捨てられない。その献身を、セオドリックは水の中という、最も逃げ場のない場所で味わい尽くしていた。
「――行くぞッ!!」
レイモンドは大きく息を吸い込むと、セオドリックを引き連れて、完全に水没した入り口へと飛び込んだ。
水中の世界は、暴力的なまでの青。
渦巻く海流の中で、レイモンドは必死に目を開け、外の光を目指して壁を蹴った。
左手で岩を掴み、指先から血が滲むのも構わず、沈もうとするセオドリックの体を強引に引き上げる。
その間も、腕の中のセオドリックは、驚くほど静かだった。
泡を吹いて暴れるどころか、彼はその碧い瞳で、水中に揺らめく光と、自分を必死に救おうとするレイモンドの姿を、まるで一幅の名画でも鑑賞するかのように、静かに見つめ続けていた。
(……この男、本当に……化け物か……っ!)
自分は肺が焼け付くような苦しみの中にいるというのに、腕の中の王者は、死の淵でさえも自分を観察している。
その異常な信頼が、恐怖を通り越して、レイモンドに「絶対に負けられない」という奇妙なプライドを植え付けていた。
光が、近づいてくる。
レイモンドは残ったすべての力を右腕に込め、セオドリックを抱えたまま、海面へと突き進んだ。
ザパァァァン! と、激しい水飛沫が上がった。
光の届かぬ暗黒の淵から、二つの影が弾け飛ぶようにして海面へ躍り出た。
一人は、肩で荒い息を吐き、必死に水を掻くレイモンド。そしてその右腕には、依然として石像のように動かぬまま、しかしどこか満足げな表情を浮かべたセオドリックがぶら下がっていた。
「……はぁ、……っ、死ぬかと……思った……!」
レイモンドは、朦朧とする意識の中で砂浜へと這い上がった。指先が砂を掴み、陸の感触を確かめた瞬間、彼は腕の中の重石を砂の上に無造作に放り出した。
「……ゴホッ、……おい、セオドリック! 生きているか、返事をしろ!」
砂浜に打ち上げられたセオドリックは、びしょ濡れのまま大の字になって動かない。はだけたシャツから覗く胸板は規則正しく上下しており、死んでいるようには見えないが――。
「……ああ、レイ。素晴らしい体験だったよ」
セオドリックが、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、先ほどまでの死闘などなかったかのように、一点の曇りもなく澄み渡っている。
「水の底で、君の鼓動だけが響いているのを聞いていた。……世界のすべてが消えて、僕と君の境界さえも曖昧になるような……。あれこそが、真の魔導的合一というものだね」
「……お前、……本当に、一回死んだ方がいいぞ」
レイモンドは、震える手でポーチの中の『蒼星石』が無事なことを確認すると、そのまま砂の上に倒れ込んだ。脱力。安堵。そして、何よりこの男への底知れぬ怒り。
そこへ、遠くから叫び声が聞こえてきた。
「会長ー! 副会長ー!!」
ミレイとリヴェール、そして生徒会の面々が、顔を真っ青にして駆け寄ってくる。
「お二人とも、急に姿を消したと思ったら、洞窟が水没したって聞いて……! ああっ、びしょ濡れじゃないですか!」
ミレイが半泣きでタオルを差し出す。庶務のリヴェールも、「まさか、お二人で無理な潜水調査を……?」と、眼鏡を曇らせながら心配そうに覗き込んできた。
セオドリックは、レイモンドの膝を枕にするような体勢のまま、駆けつけた一同に向けて、神々しいまでの微笑みを向けた。
「案ずるな、皆。……窮地に陥った僕を、我が不落の副会長が、その命を賭して救い出してくれたのだ。……見なさい、この逞しい右腕を。これこそが、僕たちの絆の証明だ」
「「…………おおおおお!!」」
ミレイたちの瞳が、感動にキラキラと輝き出した。
「やっぱり! 会長を救うために荒波に飛び込むなんて……! 副会長、あんなに海を嫌がっていたのに……愛ですね!」
「愛ですね!!」
「違う 誤解だ! 俺はただ、素材が、蒼星石が惜しかっただけで――」
レイモンドの必死の抗弁は、セオドリックがわざとらしく漏らした「……少し、冷えたかな。レイ、もう少し近くに来てくれないか」という甘い囁きにかき消された。
「ああ、もういい! 好きにしろ!」
レイモンドは自棄になり、差し出されたタオルをセオドリックの顔面に叩きつけた。
夕暮れ時。
蒼く輝く石を握りしめ、冷えた身体に夏の終わりの風を感じながら、レイモンドは悟った。
この男が「泳げない」ままでいる限り――あるいは、泳げないフリを続ける限り。
自分は一生、この王者を抱えて、泥水の中も、光の海も、泳ぎ続けなければならないのだと。
「……川も海も、もう二度と行かないからな。いいか、絶対にだぞ」
不機嫌に言い捨てるレイモンドの横で、セオドリックはクスクスと、幸福な笑い声を上げ続けていた。
To be continued.




